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zoom RSS 椿原天満宮(椿原山砦跡)

<<   作成日時 : 2013/12/11 18:43   >>

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先日、南米から戻った家ニスタさんのブログを読んでいたら、久しぶりのお城巡りをされていました。
昔の古城巡りですから、薮の中になっていたり、城の敷地や構造を利用して神社やお寺に変わっているものもあり大苦戦したようです。
僕も城跡巡りは嫌いじゃないですから、幾つかまわっているのですが、やはり寺社や薮の中はよくあります。中には古墳を利用して造られた城もあり、古墳調査と保存で城の遺構が解り難いものまであります。

しばらく、お城巡りをしていなかったんですが、一番最近、行ったというか立ち寄ったのが、この椿原山砦跡。
現在は椿原天満宮になっているところです。
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前田家の加賀藩時代には、金沢の町と城の鎮護と防衛拠点として、正式な神官だけが常駐している神社が五つ存在しました。金沢城を囲むように存在したこれらの神社は、宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮

それぞれが浅野川や犀川、卯辰山や小立野台地と云った重要拠点に配置されているのですが、地図で見ると五芒星の形に配されているようにも見えます。現在も金沢五社巡りとして、神社愛好家や観光客に人気のコースになっています。

それぞれを簡単に紹介すると、、、、
★宇多須神社(江戸期は卯辰八幡宮)・・・金沢城から北東の東山茶屋街を入った所にある神社。東に卯辰山、南に浅野川がある要衝です。また、加賀藩の武家屋敷が多く存在した場所です。この神社は金沢城からは鬼門に当たるのですが、幕府に隠れて藩祖・前田利家を神霊として祀っていたことで知られます。
元は近くから発掘された卯と辰の文様のある古鏡から卯辰神を祀ったのが始まりでしたが、前田利家死後に利家を卯辰八幡と称し、卯辰八幡宮として江戸期を通じて、前田家の祈祷所として藩社としていました。加賀藩では最重要神社で藩士が禄高によって祭祀料を負担していました。
明治になって尾山神社が造られて前田利家の神霊は遷座し、神社名も現在の宇多須神社になっています。
2/3の節分には東茶屋の芸妓衆が舞いを奉納し、福豆を振舞うことで人気があります。

★小坂神社(江戸期は春日社)・・・金沢城の北に位置し、越中からの北国街道と小原道の分岐点に位置する神社です。元々は春日大社の荘園内にあった春日神社として北方の取り纏めの神社でしたが、一向一揆で焼失したものを加賀藩が春日社として再興したものです。明治期になって小坂神社と改めました。
江戸期には珠姫の病気平癒の祈願が行われたことや、痘塚が作られるなど、病平癒の社として現在も地元の信仰を集めています。

★安江八幡宮(金沢水天宮)・・・金沢城から北西に位置します。金沢港や河北からはここを経由することになります。元々は武蔵・高岡町に跨った場所にあり、金沢一の社域を誇っていました。慶長年間(1596〜1615年)に現在地に移されました。この安江には刀工などの鍛冶職人が多く住んでいた地区で、この神社で水火の伝授を行ったことから「鍛冶八幡」とも呼ばれています。
今年、新幹線開業のPRに、ゆるキャラの「ひゃくまんさん」が登場しましたが、モデルは「加賀起き上がり」と呼ばれる金沢名産の人形なんですが、この人形は応神天皇の産着姿が原型で箪笥に入れておくと衣服に困らないと云われています。この神社の主祭神は応神天皇で、「加賀起き上がり」の起源はこの神社と云われています。

★加賀・金沢神明宮・・・金沢城の南に位置し、犀川に掛かり加賀・松任・鶴来からの主要入り口となる犀川大橋のたもとで、城から観ると犀川の対岸となる場所にあります。
別名は祓宮(はらいのみや)。この名は江戸期、正月などに金沢城内で使われた注連縄などを寺社奉行立ち合いで、境内で祓い燃やすのが慣例となっていたためです。この行事が金沢の左義長の起源と云われています。
また、春(5/15〜17)・秋(10/15〜17)に行われる「あぶりもち神事」は食べるお守りとして、金沢の風物詩の一つになっています。
今年公開の上戸彩・高良健吾主演の「武士の献立」の前作となる「武士の家計簿」で、堺雅人・仲間由紀恵が演じた猪山家はこの神社の氏子でした。お宮参りなど家の祭礼の記録が神社に残っているそうです。映画でも境内での屋台風景などが描かれていました。
金沢三文豪の一人・室生犀星が子供・学生時代を過ごした雨宝院が側にあり、子供時代の遊び場になっていたそうです。また同じく詩人として人気のある中原中也も5歳から2年間をこの神社の近くで過ごしており、境内で観た軽業興行の思い出を「山羊の歌」の3番目に入っている「サーカス」という作品の題材としています。

そして今回訪れたのが。。。
★椿原天満宮・・・社伝や神社庁の社殿説明では、永仁5年(1297年)に国守・富樫義親が、北野天満宮から丹波屋敷と呼ばれる自分の屋敷のある山崎の地に勧請したのが始まりとされています。その後、観応年間(1350〜1351年)に一向宗によって田井村に遷座していました。その後、菅原道真を祖先と称する加賀前田家によって、祈願所・金沢城の鎮守として現在地に移されたとなっています。
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(ただ、この説明書きには矛盾が多いんですが、そもそも富樫氏の丹波屋敷の所在が不明ということ。富樫氏は鎌倉期は不遇で国守にはなっておらず、守護に復帰したのは建武2年(1335年)で鎌倉幕府が滅亡した後ということ。更に観応年間ではまだ一向宗の勢力は加賀に根を張っておらず、神社を移すなどという実力はありませんでした。田井村は現在の田井町に名が継がれていますが、当時の田井村は浅野川と犀川の間と現在よりも広大な地域でした。現在地移転前の神社位置がハッキリしません。加賀藩が現在地に移して以降の歴史ははっきりしていますが、他の金沢五社とは違って江戸期より以前の歴史がハッキリしません。)
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しかし、江戸期にあっては、前田家の祖先神として崇敬を受け、祈願所と金沢城の鎮護の地となっていました。また金沢五社の筆頭に格付けされ、金沢の神社の総触頭となって、金沢の神社のトップの位置にありました。
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昭和期までは小立野台地の石引から若松・鈴見方向に向かう際は、この神社を巻き込むような急坂と細道を抜けていましたが交通量も賑やかでした、平成に入って金沢美大前の直線トンネルが出来てからはそちらに交通経路が移り、神社を通る車は極端に少なくなり、静かな社壕になっています。

天満宮と云えば梅を連想するのですが、この神社は名前の通り、古くから椿が名物の神社で10月から3月にかけて、何種類もの椿が花を咲かせています。特に1〜3月が最盛期です。
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この椿原天満宮が当地に遷座する以前、この地は椿原山と呼ばれていました。
現在もそうですが、県道27号線の経路を観ると解りますが、越中の福光・城端から医王山系を抜けて天神町を宿場として、椿原山を経由して小立野台地に登り、金沢市街に至る福光街道が古くから存在しました。そのためこの椿原山は若松側からは金沢に至る最後の要衝であり、金沢側からは最後の防衛拠点になる要衝でした。

戦国時代、加賀の国は一向宗の勢力圏でした。その本拠も現在の金沢城にあった尾山御坊になっていたと広く伝わっていますが、一向宗全盛時代の前後半は、中身が大きく違っています。

一向一揆時代の加賀の模様も不明な部分が多く、尾山御坊の正式な場所の確定は出来ていません。ただ現在の金沢城内もしくはその周辺ではなかったかと推定されています。天正8年(1580年)尾山御坊を占領し、金沢城を築いたのは佐久間盛政であり、そのあとを受けたのが前田利家ですが、両者が金沢城や金沢の町を整備する際、敵対勢力の一向宗の本拠ともいえる尾山御坊は徹底的に破壊し、痕跡を消してしまっていますから。。現在でも、御堂の場所は金沢城本丸、二の丸、兼六園など諸説紛々です。

尾山御坊が造られたと云われるのが天文15年(1546年)。その前にあった一向宗内の争いだった大小一揆(1531年)までは、一向宗の運営は若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺の三か寺共同統治でした。
ところが藤島超勝寺(福井市)を先方とする本願寺と先の三か寺の間で争いが起こり、能登畠山・越前朝倉の大名を巻き込んだ抗争が起こり(大小一揆、享禄の錯乱)、本願寺側の勝利により本願寺の直接統治に変わったわけです。

天満宮石段の説明書きにある椿原山砦を築いて駐屯していた洲崎兵庫は三か寺側の人でしたから、洲崎家本家の勢力はそこで衰えています。ですから、前半期は洲崎兵庫が本泉寺側として出城となっていたと思われます。その後は尾山御坊が本拠地となり、逆に尾山御坊の出城としての要素が強まり、越中勢力や本泉寺への警戒、越後上杉軍の侵攻の警戒としての要素が強まったようです。石段側にある狼煙の松が尾山御坊への合図場所と伝わっています。
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現在は高い建物に邪魔をされていますが、金沢城の石川門が真東に観られるという高位置のため、金沢城時代も防衛拠点として重要視されたと思われます。
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砦の遺構は観ても不明なのですが本殿の辺りが廓に当たったようです。石段横の社務所広場や本殿のある場所などを観ると、地形を利用して要害だったであろうと想像できます。拝殿への長い石段の勾配、拝殿裏の本殿の位置など勾配が急なことがわかります。
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ちなみに椿原山砦を築いて駐屯したという洲崎兵庫について調べてみたのですが。。。これがなかなか難しかったというのが正直なところ。。。

洲崎兵庫の出身は近江の馬原(現・近江八幡)だと思われます。
衰亡しかけていた真宗の第八代法主を継いだばかり(1457年)の蓮如は、更に延暦寺からの迫害を受け、近江を転々としていたのですが、その際に援助をしてくれたのが堅田本福寺などでしたが、ここで蓮如と洲崎兵庫の出会いがあったようです。その後、延暦寺との和解、三井寺からの保護の元に近江の拠点となる顕証寺を建立して(1468年)、親鸞の祖像を安置して長男・実如に顕証寺を任せ、布教拡大と拠点作りに北陸へ向かったのですが、この旅程に同行して加賀に移住したようです。
1471年、北陸布教の拠点となる吉崎御坊を創建したのですが、この創建時の人名帳に側近の従者として洲崎兵庫の次男・為信(洲崎兵庫を継ぎ、僧名は慶覚(きょうかく))の名が載っており、元近江の住人と記されています。
その後は洲崎兵庫の名で伝わるのは。。
1488年、加賀守護・富樫政親の籠る高尾城攻めには大将格として主力を率いて前線に立っています。この頃に、椿原山砦が築かれたようです。
1531年、大小一揆(享禄の乱)では本泉寺側として戦い、本願寺に従属、洲崎本家衰弱
1550年、越中国境の松根城を整備して初代城主となる。能登畠山家の内紛に介入、七尾城下まで進出
1577年、加賀侵攻の上杉謙信軍を倶利伽羅峠で防戦しましたが敗走(この時、討死という資料もあります。)
その後、米泉に草庵を結んで退隠、蓮如から貰った仏像と蓮如の書を本尊としています。。洲崎兵庫の別名は泉入道というように、米泉・西泉・泉野と跨って領地としていたことからのようです。
この草庵はその後は慶覚寺(きょうかくじ)となり、江戸期(1664年)に現在地の幸町に移って現代に残っています。

上記のように、洲崎兵庫の略歴は年を見る通り、130年もあります。とてもではありませんが、一人とは考えられず、親子関係や一族関係によって襲名したものとは思いますが、諱は為信以外は史上に出てきません。
加賀一向宗の歴史は蓮如一門の変遷はわかりますが、一向宗関連の遺構や伝承の研究が遅れているのは否めません。

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椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。
こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓がある経王寺があります。

小説や講談ではおどろおどろしい筋立てで、真如院(お貞の方)・大槻伝蔵・浅尾・前田利和などは極悪人や妖術使いにされています。しかし、後年の研究で藩政改革の革新派と保守派の抗争による犠牲者だとされています。

加賀騒動前後の保守派の代表・前田直躬の弾劾状が、長町の前田土佐ノ守資料館に展示されています。その激しさの一部が解ります。最終的に保守派が勝利したわけですが、改革推進を進め、それなりの成果を上げていた大槻伝蔵を除去したため、加賀藩はこれ以降幕末まで財政逼迫に苦しむことになります。

史実としては大槻伝蔵は五箇山の流刑地で自殺(墓所は能登の妙成寺)、真如院は金谷屋敷(現・尾山神社)で縊死(絞殺と云われています。墓所は経王寺)、浅尾は獄死(真如院と同じ経王寺でしたが、今は大学病院の下で不明)、前田利和と八十五郎は共に幽閉生活の末、20代で病死(共に天徳院に葬られました。)

昭和になってからですが、二人の密通の皆無と無実が証明されました。それまで利和と弟・八十五郎は天徳院の墓所に葬られてはいたのですが、前田家の供養・法要には加えられていませんでした。改めて序列に加えられて野田山に改葬され地位復権しています。

加賀騒動はまた機会があったら書いてみたいです。大槻伝蔵に関するものは意外にあっちこっちに点在していますから。。ちなみに旧県庁の椎の木迎賓館の正面玄関にある椎の大木は大槻伝蔵の屋敷にあったものを移植したものです。元々は中央公園の四校の辺りが大槻伝蔵の屋敷があった場所です。


旅行日 2013.08.06










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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
拙ブログを紹介していただき、ありがとうございます。
椿原山砦、なかなか興味ぶかいですね。
石段の急なところに、城跡の面影がのこっているかと。
平城などでは、その後の開発でまったく跡形もなくなっている城もありますから、神社として形だけでもたどれるぶん、まだいいかもしれません。
家ニスタ
2013/12/11 22:30
家ニスタさん
神社になっているのと、明治になって火災に遭っている為、砦跡の痕跡があまり目立ちません。
石段から本殿の距離を考えると、ある程度の規模はあったようです。
本殿は江戸期の石垣に囲まれていますが、見ただけなら城跡みたいに見えますが、曲輪が本殿の辺りみたいです。
昔から六曲りとも呼ばれる福光街道の急坂・急カーブに位置する場所はなかなかの立地です。
ブログアップが遅れてすみませんでした。
つとつと
2013/12/12 16:48
なかなか見ごたえのありそうな神社ですね 何度か金沢方面に入っているのですが、つとつと三の記事観ていると、私はいつの同じところをぐるぐる回っているような気が・・・ 次回行くときは。しっかり記事チェックしていこうと思います
たくさんのコメントありがとう
出雲さん 拝んできましたよ 横から>^_^<  ここも長〜い行列が出来てました
行列がなければ見過ごしていたまもぉ〜 (^_-)
がにちゃん
2013/12/17 14:42

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