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zoom RSS 呉竹文庫 熊田源太郎

<<   作成日時 : 2014/05/16 03:12   >>

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手取川の河口にある美川湊は古くから漁業や北前船の中継地として栄えた町です。

美川町(現・白山市美川地内)は手取川の両岸にあるのですが、北隣の松任側から美川町を南北につなぐ美川大橋を渡ってすぐに左折して、手取川の導水路になる熊田川沿いの高台を登った場所に呉竹文庫があります。
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ちなみに、この導水路の熊田川はサケが遡上することで知られています。毎年一万匹超の鮭が遡上しており、日本海側では最南端の遡上地と云われているそうです。
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その高台にあるのが「呉竹文庫」です。入口は狭いですが、駐車場は広く停め易いです。

駐車場にはこんな記念碑があります。上杉謙信軍と織田軍の戦った手取川合戦の碑です。
手取川合戦に関しては信長公記や長家家譜などに書かれているくらいで、詳細な記述書や図解があるわけではないのですが、合戦地は水島の記述からフィッシュランドのある手取川橋辺りからこの美川河口ではないかと云われています。
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手取川合戦とは。。。七尾城攻防戦に端を発します。能登国守の畠山家は永禄九年の変以降衰退を極め、畠山の当主を若年の春王丸が継いだ頃には、七尾城内は大きく二つの派閥に分かれていました。それが温井・遊佐氏と長氏でした。こういう内憂の際に外部の勢力に頼ることは国を滅亡させることになるのですが、この両者はそれをやってしまいます。前者は上杉謙信を頼り、後者は織田信長を頼ったわけです。
前者の要請を受けた上杉軍は七尾城を囲みます。ここで後者の長氏は一族の長連竜を織田軍の援軍要請に派遣します。これに応えた織田信長は元々上杉謙信を最強の敵とみており、柴田勝家を主将とする北部方面軍に加えて遊軍の丹羽長秀軍や中国方面軍の羽柴秀吉軍を派遣します。
ところが、その間に城内の疫病発生で城主の春王丸が病死、ここで温井・遊佐氏は内乱を起こして上杉軍を引き込みあえなく七尾城は落城します。抵抗勢力の長一族は皆殺しの憂き目にあいます。
七尾城を落とした謙信軍は織田軍を迎撃するために松任城まで南下します。
織田軍は手取川を越えた水島に進出していました。しかし、このときまで七尾城陥落や謙信の南下の情報が入っていなかったようで暗中模索の状態。これには一向宗門徒が謙信軍に味方恭順したためと云われています。この混乱状態で羽柴秀吉が作戦方針の仲たがいで帰国するなど、士気の低下が著しく落ちていました。そこへいきなり上杉軍が現れたため撤退を決断、手取川の渡河に掛かります。そこに上杉軍が襲い掛かったのが手取川合戦です。
織田軍は戦死2000、手取川での溺死者1000を数えました。圧倒的な上杉軍の勝利ですが、掃討戦は行わなかったため、織田軍の撤退で終了したとされています。

合戦の詳細が解らないため、個人としては手取川橋と手取川大橋の間、後世の芭蕉の渡しがあったあたりだと思うんですが。実際にこの場所が合戦地かと云われれば疑問の多いところですが、合戦の碑は作ったもの勝ちということで旧美川町が作ったみたいですね。一応は遠望の地と入ってるのが味噌ですかね。

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肝心な呉竹文庫に話は戻ります。

美川湊は江戸期には本吉町と呼ばれ、良質な漁港・北前船の寄港地として栄え、加賀藩の奉行所も置かれていました。明治初期には半年間と期間は短いですが県庁も置かれた地です。
北前船船主の熊田家も現在の湊町辺りに拠点を持ち、代々回漕業や鉱山業を営み県下有数の大地主として財を成していました。
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その熊田家から分家した熊田源太郎(初代)は別名・熊源と呼ばれ本家をしのぐ家業を作り上げていました。
その熊田家に明治19年(1886年)に生まれたのが二代目・源太郎(幼名・源一郎)。呉竹文庫の創設者はこの二代目・熊田源太郎になります。
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二代・熊田源太郎の略歴ですが。。
元々、向学心が強く、本が大好きな少年として育っていました。当然ながら、裕福な家庭に育ち将来の当主として、東京や関西に遊学して将来を磨くことをj自他共に共に考えていたと思います。
ところが若干17歳の時に初代が急死、いきなり当主の座に就くことになり、家業を継ぐことになってしまいます。天性の商才があったのか更に事業を多角化して、倉庫業・運送業・銀行・北海道農場経営など広い分野で活躍します。全国的にもその商才と財力は知られており、自分の所有地だけで美川から鶴来(現在の白山市の東西端)まで歩けるほどの大地主でもありました。先日落書き事件でニュースになりましたが、京都東本願寺の玄関門は明治44年熊田源太郎が寄贈したものです。
他にも教育面にも情熱が高く、湊小学校の設立に関わっています。
明治以降、船舶の発達で大型化が進むと水深の浅い美川湊は寂れ、多くの船頭が職にあぶれる事態に対して、日就会という船員・住民の教育組織を作り、洋式船舶の船長・航海士を多く輩出しています。ちなみに太平洋戦争時、貨物船・輸送船の船長・航海士は日就会及び美川出身者が多く存在しました。
大正12年(1923年)湊村(現・美川湊町)村長を4年間勤め、昭和9年(1934年)7月の手取川大洪水の際には地元からの要望で村長に再任、病身を押して復興に尽力しましたが、翌年力尽きたように49歳の生涯を閉じています。
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江戸期に活躍した旧加賀藩や大聖寺藩で活躍した旧北前船船主たちの中では、名前は以外に知られていませんが、石川県の企業勃興の基礎はこの熊田源太郎の功績と云っても過言ではありません。

このように家業と湊村に尽くした人生になっていますが、元々遊学の志が高く、知識への欲求が強い人物だったようです。それが本の虫という世界にいざなったようです。
自分の蔵書を大正4年から一般に開放していましたが、大正11年(1922年)、財団法人呉竹文庫という私設図書館を設立。地元住民他に開放しています。これが現在の呉竹文庫に受け継がれます。

呉竹文庫蔵書目録の自序にこう記述しているそうです。
「私が若年の時、父を失い、周囲の事情のため郷里を離れて遊学することを阻止せられました。しかし、知識欲をいかにしても制することができないので、いたずらに諸書を購求して乱読し、わずかに慰めておりました。これが私の蔵書の起因であります。。。。。しかし事業経営に読書の時間が減殺され、有用の書籍も場所塞ぎの無用物と何ら撰ぶところがないので友人に話して閲読を勧めました。」

熊田源太郎の蔵書は13836冊。一部抜けたものもあるみたいなので、20000は下らなかったのではないかと思われます。その種類も叢書・辞書、宗教・哲学・教育、法律・政治、産業、理学・工学、医学、美術・諸芸・武技、文学・語学、歴史・地誌など多岐にわたり、ほとんどが初版本であり全集であるのが特徴です。また当時のベストセラーの文学小説も集めています。
宗教本を見れば解りますが、源太郎は熱心な真宗教徒ですが、他宗の教本まで集めています。それが日本の宗教だけではなくキリスト・イスラム・はてはヒンズーなど。。。政治本も民主・社会は当たり前で果てはヒトラー関連まであります。
他人のことはとやかく言えないほど僕も乱読の部類の人間ですが、やはり多少の好き嫌いはありますから集めた本は偏るのですが、源太郎の蔵書は本当にまんべんなく広く深くなっています。

呉竹文庫の庭園の一隅に熊田源太郎の銅像がありますが、本を開いて持った姿ですが、本人の言葉が刻まれています。「私は紙魚(しみ)になりたい
紙魚は家庭内に発生して、書物や障子・襖を食べる害虫と云われています。読書家を本の虫と云いますが、この本の虫が紙魚のことです。源太郎は一生を本の間に挟まって過ごす紙魚のように、本を読むだけの生活を送ることに憧れていたようです。その気持ち、本を読むのが好きな僕にも少し解るような気がします。そう過ごせれば幸せなんですが、なかなか日常の暮らしや仕事に追われると難しいですねえ。
子供の頃はいくら本が好きでも、時間が豊富にあっても自分で好きなだけ本を購入できる人はいません。長じて収入を得て、自分の趣味に自由に購入できるようになりますが、糧を維持したり、職務に従事すると自由な時間が減ってしまいますから。。。現代の子供たちを観ると、ゲームやTVなどの媒体に時間を割かれていますが、文字を推敲したり、読み返すという行為は読解力・知識力はもちろん、応用や実行に繋がりますから、読むという行為は子供時代から続けて欲しいものです。

呉竹文庫は戦前まで地域教育振興・文化活動の場として役割を果たしていましたが、戦後、休館状態に陥ります。通常ならここで散逸することが多いのですが、蔵書や収集品は大切に保管されていました。平成2年(1990年)に美川町(現・白山市)が運営の主体となって現在に至っています。現在は図書館というより博物館的要素が強い施設になっています。
戦後の混乱期に蔵書や収集品の散逸を防ぎ、現代に繋げた功績は源太郎の後妻・昭子によるところが大きいと云えます。熊田昭子は東京麹町の旧子爵家生まれで、女子学習院(現・学習院女子大学)で詩人・歌人・書家として名高い尾上柴舟(おのえさいしゅう)に師事した文学才女でした。歳は源太郎の3歳下ですが、共に再婚で結婚生活は僅かに3年半でした。源太郎の死後は双方の連れ子を育てるとともに、源太郎の蔵書や収蔵品の保護管理に努めたそうです。いや〜〜、自分の趣味を理解してくれる嫁さんを持つと幸せですね。。
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呉竹文庫の建物ですが、
源太郎一家は大正期から金沢市池田町に居住していたため、昭和3.4年(1928〜9年)改めて母屋を別宅として建てたものです。完成当時はあくまで別宅で明治期に使われた北前船主らしい広壮な旧本宅屋敷と三つの蔵が道路に沿ってあったそうです。現在1階展示室に使われている蔵はその一つだそうです。古風な造りで柿葺天井を持つ茶室(呉竹庵)も移築保存されています。
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特筆されるのは、もちろん一階書庫と二階の書斎です。書斎の横の資料整理室(入室禁止)を含め対をなすものです。土蔵造りでどちらも入口は重厚な観音開きになっています。特に2階書斎入口の扉の装飾は豪勢で美術的な物です。(館内の写真はフラッシュやライトなしで露出を上げているので不鮮明ですが。。)
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書庫内の蔵書は現代の図書館と同じ分類方法で分けられていますが、この十進分類法は今でこそ当たり前のように思われますが、当時この法式を採っていた図書館は山口・京都・金沢・新潟くらいしかありませんでした。
たぶん本好きの源太郎は金沢の石川県立図書館(現・本多町在)を参考にしたのではないかと思われます。
図書館に行くと書籍にラベルが貼ってあって、大概3ケタの数字が書かれているあれです。例えば214は2(歴史)1(日本史)4(北陸)で北陸の歴史になるわけです。
余談ですが、石川県が初めて作った県立図書館は、加賀藩前田家の収蔵書架を中心に約3万冊で始められていますが、個人の収蔵書庫が1万冊以上で同じ方式を使ったのは特筆されるものだと思います。
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書庫内は本を無断で手に取ることや触るのはは禁止ですが、書名を観ると文学は著名な作者ばかり、国内外にはこだわりがないようです。中高校時代の国語の教科書に出て来る作者の本が多く、しかも初版本が多いんだそうです。更に「大日本仏教全書」は厚い本151巻全巻揃っていたり。。ここに居ると僕も本の紙魚になりたい
ちなみに書籍の閲覧や内容撮影は事務所に申請すれば出来るそうです。入口の知的なお姉さんに聞いてください。。

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2階の書斎の内装は豪華なものです。天上はドーム状になり実際より高い感覚に感じられます。中央に錨模様の装飾、四隅に茗荷の家紋。特に家紋は金箔張りの大きなものです。絨毯は赤。一つ一つを観ると豪華な物ですが、全体として居心地の良い雰囲気です。
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この書斎にある書籍は明治後期の刊行書籍で、夏目漱石・正岡子規・有島武郎・森鴎外などの非売品全集が納められています。高価な物では当時の価格で1冊30円を超すものもあるそうです。ちなみに現代の価格に直すと60万円超。ひえ〜〜〜本一冊が確かに表装も素晴らしいものばかりってことは、一全集が1000万超しちゃうのもあるってこと
滅多に2000円以上の本を買わない僕って。。。。

その他、源太郎が収集した美術品や資料が土蔵を利用した展示室で公開展示されています。

10以上ある各居間も落ち着いた雰囲気ですが、その多さや広さには驚かされます。
書斎と同じく全体は落ち着いて見えますが、そこかしこに贅沢な飾りや工夫が凝らされています。2階の客間となる菊の間の欄間や襖の意匠は豪華で目を惹くものです。特に源太郎が家にいる時、一番好んだ白樺の間には白樺の樹皮をそのまま利用した床柱があったりします。この白樺の間と柿葺廊下と竹材天井を持つ茶室(呉竹庵)は必見です。
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呉竹文庫の入館料は、手取川の対岸にある「石川ルーツ交流館」との共通券で300円です。

熊田源太郎は49歳と若い生涯でしたが、湊村や事業に精力を尽くし、本を愛した人生を過ごした熊田源太郎の墓は、呉竹文庫から南西にある湊保育園の側の小山(粟田山)の上に、町を見下ろすようにあります。
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旅行日 2014.04.18 05.11

呉竹文庫
                                熊田源太郎墓所






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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
おっ、手取川の合戦が行われた場所ですか。
ちょっと行ってみたい気にさせられますね。
でもどこだかはっきりしないんじゃ、行っても雰囲気はつかめないですかね。
関ヶ原や長篠・設楽ヶ原の合戦の跡地は、行っても面白いんですが。
家ニスタ
2014/05/18 22:27
残ってる文書が負けた織田家や長家にしかないので、あまり詳細が解らないんですね
でも、国道8号線が渡る手取川大橋から東側が有力です。現代は上流の砂防ダムなどで水量調整がされてるんで水量は多くないですが、川は幅の広さは撤退には絶対不利の大きさです^^この記念碑はちょっと場所的に問題が多いみたい。
つとつと
2014/05/19 03:04

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