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zoom RSS 傅泉寺(でんせんじ、大野弁吉墓所) 〜 大野日吉神社(大野弁吉居宅跡)

<<   作成日時 : 2015/03/06 12:37   >>

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金石・大野地区の有名人と云えば、以前何度かUPした銭屋五兵衛大野弁吉(中村屋弁吉
銭屋五兵衛は海の百万石・海の豪商と呼ばれ、河北潟の干拓事業による一家破綻など、波瀾万丈の生涯を送った人物です。前に幾つか書いていますんで興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 銭屋五兵衛記念館 銭五の館 本龍寺・銭屋五兵衛の墓所
大野弁吉も一度書いています ⇒ 金沢大野からくり記念館
概ねの経歴などは「金沢大野からくり記念館」で書いてありますので、お読みいただければ幸いです。

からくり儀右衛門こと東芝の創始者の田中久重と並び称されますが、対照的な生き方をしたからくり職人として知られた人物です。羽子板職人の子として京都に生まれ、30歳で指物師・中村屋の娘・うたと結婚して婿入りしています。その後すぐに、妻の故郷である石川郡大野村(現・金沢市大野)に移っています。
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清貧を旨として、製作・研究にその生涯を費やしています。
その製作は本業の指物師としての家具・値付け・神棚・祠の他、獅子頭・山車は現在にも伝えられています。祭礼の県内の獅子頭が20頭、美川のおかえり祭りの山車などが知られています。この製作の合間には、エレキテル・色ガラス、火薬の製法・大砲・色ガラス製法・細工・写真機・湿版写真、更には鶴型模型飛行機の製作、医学分野では梅毒研究・医薬品開発と他分野にまで及んでいます。

発明家として藩内外に知られる存在でしたが、地位名声・金銭への執着がないというより敬遠した帰来が強く、親交のあった銭屋五兵衛・喜太郎親子の注文依頼や原材料の提供は受けていますが、代金以外の金銭や物資提供は拒否していたようです。逸話ですが、職人気質というのですか、弁吉は気分が向かなければなかなか作業にかからない反面、一旦発明やきっかけを掴むと飲まず食わずで作業や研究に没頭してしまいます。そんな時は奥さんは一切声を掛けなかったそうです。当然ながら定収入にはならず、弁吉の家は貧しく奥さんは大苦労だったようです。そんな弁吉家の惨状を見かねた前述の五兵衛が米や金を提供しようと持参しましたが「そんな施しは受けん!!」と、けんもほろろの返答で追い返そうとします。そこで五兵衛は「注文の前金だ」と、無理やり説得して置いて行きます。さすがにそんな直接問答は何度も通用するわけがなく、後日からは五兵衛は「前金」と云いつつ、弁吉への代金を前払いと称して物品と共に、奥さんに渡して去るようになったそうです。

しかし一説では航海術にも長けていて、銭屋の顧問になっていたという話もあります。実際、多くの羅針盤やカンテラなど航海道具を作製納入しています。
加賀藩からの登用にも謝辞、高峰譲吉の父・高峰元ぼくの壮猶館の化学助手のみ引き受けています。

銭屋五兵衛の注文には舟道具の他にも根付なども残っていますが、海外(インドネシア、豪州産)の原料が使用されており、羅針盤・カンテラなども精巧を極めており、銭屋との交流は大きいものがありました。
頑固者の大野弁吉ですが、妻の故郷に約40年過ごしたわけですから夫婦仲は良かったようです。大野弁吉が最初に撮影した湿版写真は妻の写真でした。
大野の町の住民との交流もあり、海岸で飛行機などの実験公開や鉄砲・大砲の試射をやって驚かせるのを楽しんでいたようです。
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からくり儀右衛門こと田中久重が「東洋のエジソン」と呼ばれる所以は、外交的な性格と自分の発明や製品を世の中に発表して幕藩期は藩に仕え発展に寄与していますし、明治以降は会社を設立して製品の流布と定着発展を目指したためです。幼少期から天才としてからくり職人の名声が知られ、江戸末期には肥前佐賀藩・久留米藩に仕えて、軍艦製造や反射炉製造、大砲製造に貢献しています。幕末期に詳しい方はご存知だと思いますが、肥前藩はこの近代化装備で幕末最強と云われ、その去就が勤皇・佐幕両派の運命を左右したと云われます。明治以降は東京に移り、東芝の前身となる東京製造所を設立して、研究開発、電機電信を開発しています。東京製造所から独立した人物には沖電気、アンリツ、池貝などの創業者が巣立っています。

これに対して、大野弁吉は自身の興味探求に研究・発明を追求し、その多くは自身の備忘録や居宅内に留めています。しかし、湿版写真・鶴型模型飛行機などは未公認ながら世界初に数えられるものです。前述したように弁吉の研究発明の範囲は広範囲に渡っています。本来の本業の指物師の腕前も名人級。とにかく医学から建築・飛行機と広範囲に渡って研究発明を行っており、その全てがその道の第一人者的な知識・実力を兼ね備えています。これが「北陸のダヴィンチ」の名の由来です。田中久重が発明家なら大野弁吉は学究者といえます。

自身の趣味探究、研究発明に固執した大野弁吉ですが、田中久重と共通するのが後進の指導育成と後進の成功です。もちろん、その教育育成法も全く違いますが、大野弁吉の元から巣だった人材は起業家は津田駒の創業者くらいで少ないですが、明治期に活躍した人物が多く、からくり、建築家、医学者他の多岐に渡っています。起業家と個人研究者の差といえばそれまでです。機械・電気電信機器が多い田中久重に比べ、他業界に人材を輩出した点では、その後の日本の近代化に貢献した点では見劣りしないと思います。

ちなみに、僕の住む白山市(旧松任)関連では県内初の解剖を行い、県内医学の先人的存在の松江安見(まつえやすみ)が、大野弁吉に天文学・算術を教わっていたそうです。松江安見は石川医学界の先駆的存在で、松任に医院を開設するとともに無償治療や遠距離往診も行っていて人望の厚い人物だったようです。彼が創立した徳丸小学校の後進となる東明小学校に顕彰碑がありますし、今は金沢ですが上荒屋に松江安見が解剖した日本初の篤志献体解剖(一般人の献体解剖)となった竹川りんの顕彰碑があります。
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前野良沢・杉田玄白の解体新書の翻訳のきっかけとなった解剖(腑分け)は、ご存知のように死刑囚の身体を使っていたわけですが、その後の江戸末期、明治初期の献体解剖も死刑囚の身体を使用していました。
当時、前例のないことに一般人の献体は誰しも忌避してしまいます。そもそも国も一般人の解剖は禁止していました。
明治16年(1883年)重篤な病に犯されていた竹川りんは、献身的な治療と看護を施しながら限界に苦しむ安江医師に対して自分の献体を申し出ています。死後、娘の遺言を聞いていた母親・ソヨも娘の熱意と後世の医学のためと献体を了承しています。これが、日本初の一般人の篤志病死献体解剖に繋がります。
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この親子への顕彰と感謝を込めた顕彰碑を、竹川親子の住んでいた矢木荒屋村(現・金沢市上荒屋)の郷用水側に建てています。
この顕彰碑は、その後用地の関係で移転を繰り返したようですが、地元の豊明湊八幡神社の境内にありましたが、古く破損や摩耗が目立っていました。しかし、安原川の改修で神社が移転したため、現在地に刻文をそのままに建替えて現在地に建替えられています。
表の顕彰文は加賀藩士出身で明倫堂講師、金沢四校(現金沢大学)教授を努めて、石川歌壇のトップと云われた高橋富兄。筆写しは県の書記を努めた青木六郎。青木は松任に所縁の深い人物です。裏面に松江安見の感謝文があります。松江安見は松江医院を基盤に献身的な医療を続け明治26年、45歳の若さで亡くなっています。松江医院は末弟が引き継ぎ、戦後まで医院は続きました。
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ちょっと横道に逸れてしまいましたが、「北陸のダヴィンチ」こと大野弁吉の墓所は大野小学校の側の傅泉寺(でんせんじ)の墓地内にあります。
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大野弁吉の墓は土台が石垣作りで立派なものです。石垣は墓石に比べて立派過ぎるように思えます。墓石の製作年は弁吉の没年ですから、石垣は後年の作かもしれません。
弁吉の名前は婿入りの関係で中村屋弁吉が本名になります。大野在住の発明家の名前が売れて大野弁吉の名が全国に知られています。
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傅泉寺は浄土真宗・東本願寺派の寺になります。開基は南北朝期と云われ、創建は慶長2年(1597年)と古い歴史がありますが、現在の本堂は明治8年(1875年)に建てられたもので平成11年(1999年)に大改修が施されたそうです。北陸の東本願寺系の特徴ですが、この寺の本堂や鐘楼堂には井波系の彫刻による象嵌や欄間が施されています。
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江戸時代は大野湊が北前船の基地で栄えた全盛期で、寛政期には北前船船主の丸屋伝右衛門・伊右衛門が寄進した御影石の手水舎が現在も残っています。ちなみに丸屋伝右衛門の旧宅は隣町の金石の宮腰緑地という公園になっています。こじんまりしていますが日本庭園風の造りで金石の街並みに溶け込むような景観です。






傅泉寺の門前を北に真直ぐ行くと大野日吉神社があります。長い階段の参道が続く立派な神社です。
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天平5年(733年)近江・坂本の日吉神社の分霊を受けて「山王権現」と称していました。元々は参道前の門の下にあったのですが、兵乱で文書類を失い江戸期前の詳しい状況は解っていません。江戸期には加賀藩の保護と町民の崇敬を受け大野町の総社となっていました。
現在の建物は元文3年(1738年)に再建され寛政9年(1797年)に改修、明治7年(1874年)に日吉神社に改称、明治27年に現在の丘陵上に遷座し、昭和12年(1937年)に改修・増築を施されています。
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社域には大野湊の船主の奉納した狛犬や御神灯が立ち並んでいます。
画像の筆塚は、主計町の源法院中興の祖で筆の名人と云われる運勝が発起人で、筆道会員60名が嘉永2年(1849年)に建立した物です。花街や茶屋街に在った源法院は、その後は寂れることも多かったのですが、尼庵主が入り、花街の芸子衆が訪れて賑わったそうです。現在は女流友禅作家が入って工房になっていると20年ほど前に聞いた覚えがあります。
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日吉神社では毎年7月第四土日に夏季大祭として例大祭、神幸祭が行われますが、各町会7台の華麗な曳山、大きな幌が特徴の獅子舞、金沢無形文化財の山王悪魔祓い神事が行われています。この祭りは豪壮さが際立っていてお奨めです。参道口に曳山館があって、ガラス越しに曳山をいつでも見られます。
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大野弁吉が研究発明に明け暮れた居宅跡は、大野日吉神社の本殿裏を登った丘陵上にあります。
大野の町を歩くと解りますが、市街地は日吉神社から裾野が広がる部分と大野川の港に町並みがあります。大野弁吉の居宅跡は丘陵の山頂付近で、当時は現地に日吉神社は無く人里から離れていたことが解ります。
弁吉はこの地に約40年、発明研究、指物師の作業に専念して、明治3年(1870年)70歳の生涯を過ごしています。もちろん、その間に5年間の長崎留学や金沢など頻繁に出歩いていますが、人里を避け、清貧の生活に徹して研究と作業に専念した生涯をちょっと羨ましくももいます。
旧居跡の顕彰碑は昭和36年(1961年)に大野弁吉顕彰会が建てたものです。
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この丘陵地は現在は遊歩道になっていて、大野の醤油工場の煙突や海岸線、日本の灯台五十選にも選定されている大野灯台、大野川を利用した大野湊、海から引き揚げられた仏像を祀る明月尊敬など、風光明媚な散策路になっています。
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明月尊は嘉永年間(1850年頃)に大野浜に打ち上げられた仏像を地元住民が祠を建てて祀ったもので、毎年8月に祭事を行って、夜店が並び賑わったそうです。平成8年に焼失、同13年に再建されたものです。大野湊や大野浜も望め月見の名所にもなっています。昼は静かな佇まいです。
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大野灯台は日本の灯台50選にの選定されていますが、形状が灯台としては珍しい四角垂の石柱のような形態です。高さは26.4m。建造当時は金沢で一番高い建物として金沢港のシンボル的存在でした。現在も大野のシンボル的存在です。
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ちなみに、この地区に住む以外の人は僕を含めて、大野金石(おおのかないわ)と一括りにしたり、まとめて大野と呼んだり金石と呼んだりしています。江戸時代までは、大野川の河口を利用して河北潟の水運や北前船の寄港地・大野湊を持つ大野町と、犀川の河口を利用する金沢の外港としての宮腰町(みやのこし、現・金石町)に分かれていました。
加賀藩初期から町奉行が置かれ、重要視され多くの北前船主がいた宮腰を代表する豪商が銭屋であり、安政年間に成立した大野を代表した豪商が丸屋・川端屋・浅黄屋などでした。
前田利家の金沢入城の上陸地点も宮腰であり、元和2年(1616年)に金沢城下から直線に整備された金石街道(金石往還)は加賀藩時代から現在に至っても重要視され、明治には馬車鉄道、電車通りと整備され、戦後も4車線道路となって重要な路線になっていました。金沢新港の完成で県庁前の50メートル道路に主要道路が変わったのは近年のことです。

宮腰湊、大野湊という2大重要港を持つ町が隣り合うということは、当然ライバル意識もあるし、交通利権をめぐる対立も多く発生したようです。加賀藩は対立解消のために幕末の慶応2年(1866年)両町融和のために合併させます。この際に「固いこと金と石のような交わりに成るよう」にという願いを込めて「金石町(かないわまち)」と命名したと云われています。この合併により、本来は現在の白山市や野々市市と同じ石川郡だった大野・宮腰は金沢に編入される切っ掛けになります。

ところが、せっかく合併して一つになったのですが名前のようにはいかず明治22年(1889年)に分離しています。この原因ですが、合併後は旧宮腰は金石本町・金石相生町のちに上金石町、旧大野は下金石町となっていたのですが、町名によって本局が金石=宮腰の印象が強く、国や県からの連絡事項が届かないなど、下金石に不都合が多かったためと云われています。
ただ、この2町以外の人にはややこしいんですが、下金石町は大野の金石町に変更され、旧宮腰は金石北、金石西、金石東となっていることです。同じ金石なので同じ町内と思う人が続出。今もって違う町だと認識している人は少ないと思います。
更に混乱させるのは、宮腰(金石)の総社となる神社が金沢西署の側の大野湊神社。大野の総社が大野日吉神社であるというのが拍車をかけているように思われます。どちらも歴史的に由緒ある神社で祭礼も別々です。今は気にする人は多くありませんが、金石と大野を歩くときはその辺も観ながら歩くと面白いと思います。

旅行日 2012.10.27  2015.02.28

傅泉寺


大野弁吉住居跡

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金沢駅東口がリニューアルされて鼓門(つづみもん)ともてなしドームが完成したのは、早いもので平成17年(2005年)3月でしたから、もう12年も経つんですねえ。。 ...続きを見る
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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
自分の道を進まれた生き方 素敵ですね  
がにちゃん
2015/03/07 21:59
こんばんは〜

弁吉は金沢に移住してからの年月、落ち着いて仕事に励んだといえますね。
弁吉の発明技術は現代の基盤となっている事間違いありませんね。
加賀百万石、前田利家の金沢に相応しい仕事ができたといえますね。
イータン
2015/03/07 23:27
がにちゃんさん
大野弁吉は京都生まれですが、北陸人は自分の世界にのめり込んじゃう人が多いみたいです。気質かも、、でも、外に出るのが苦手な人も多いみたいです。
つとつと
2015/03/09 00:15
イータンさん
華やかさはないんですが、弁吉の世界は興味深いものがあります。
新幹線開業で金沢市街にばかり注目が集まっていますが、大野湊や金沢港も意外に面白い所が多いんですよ^^
しばらくは市街も混むと思うんで、ゆっくり外側を回るつもりです。
つとつと
2015/03/09 00:21

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