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zoom RSS 堅田城址

<<   作成日時 : 2015/09/29 10:21   >>

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加賀と越中を結ぶ北国街道は旅人にとっては古来から大事な街道として機能していましたが、何といっても倶利伽羅峠という難所があるために交易路としては大きな難点になっていました。険しい道ではありますが、起伏が少なく大きな難所がないことで、越中との交易路として重視されたのが小原越道でした。

現在も北陸自動車道や国道304.359号、山側環状、国道159号など主要道路が交差して大きなICを構成する森本ICのように、往時も北国街道小原越道が合流するのも、この森本の地になりました。また能登から津幡宿を経由する道も手前で北国街道に合流しますから、越中からの2街道と能登からの街道も重なり交通の要衝となっていました。
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加賀と越中が本格的な戦闘を行ったのは倶利伽羅峠の源平合戦。ここから源義仲が松根城と共に築城したという伝承がありますが、倶利伽羅合戦以降は源義仲は加賀には長く留まらず進撃を速めていますから、その可能性は低いと思います。
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更に時代が下って、越中の佐々成政と加賀・能登の前田利家が国境の多くの箇所で戦闘を行っています。余談になりますが、二人の立場や状況があったと思いますが、基本的には佐々軍が攻勢に出て加賀、能登への侵攻を行い、前田軍は徹底して防衛戦に徹した印象を受けます。
野外戦となった前田慶次城代の氷見の阿尾城、防衛戦に徹した奥村永福の末森城、同じく防衛戦を戦った前田秀継の今石動城などが良い例であり、撤退戦の不測時で発生した津幡の鳥越城の落城、朝日山城の佐々軍占拠という例外はありましたが、佐々軍が攻め、前田軍が守るという構図がありました。
小原道でも佐々軍は松根城を改修して基点にして、朝日山城・一乗寺城などを占拠しています。対する前田軍は切山城を防衛拠点に改修し対抗しています。面白いのは佐々成政も前田利家も共に織田信長配下の武将で、赤黒の母衣衆出身と似た経歴です。松根城、切山城はよく似た構造だと云われています。切山城の発掘調査が遅れていますが、いずれはっきりすると思われますのでお楽しみ。

ところで、位置的な関係でいえば朝日山城や松根城に対して、相対するように距離が近いのが切山城なのですが、、前線基地としては良いのですが、小原越道と北国街道の分岐点にある今回の堅田城は最終防衛拠点に成り得るはずなのに史上に出てきません。多少の手は加えられたようですが使用されなかったようです。前田軍が何故、この城を使用しなかったかは今もって不明です。北国街道付近の源氏ヶ峰城や津幡鳥越城が佐々軍に占拠され、松根・朝日山両城も占拠され両道から迫られていたのですから。。しかし、実際には佐々成政は源氏ヶ峰・松根・一乗寺城の大幅な改修で前戦防衛拠点にしていますから、侵攻の余力はそこまでだったようですが…

結果から言えば、対佐々戦で前田軍が唯一、単独攻勢に出たのが小原越道に対してのものでした。前田利家の家臣で奥村永福と共に両腕と云われた村井長頼が夜襲によって朝日山・松根城・一乗寺城を攻略しています。この功績から村井長頼は松根城を本城として一帯支配に当たります。この功績が村井長頼を前田家八家老に繋げたともいえます。結局、この佐々・前田の争いにも堅田城はほとんど出てきません。。
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となると、それなりの強固な守備能力を持つ堅田城の大規模な改修と築城を行ったのは、前田利家以前の一向宗ということになります。寺院勢力としての一向宗は、民衆を集めることから寺院が重視され、寺院の要塞化が目立つのですが、築城に関しての研究は遅れているのが実情です。白山麓の鳥越城二曲城(ふとげじょう)、小松西部の岩倉城など優れた戦闘実績を挙げた山城も幾つか挙げられるように、それなりの優れた築城術は持っていたと推測されます。

一向宗時代、この堅田城周辺は河北郡になり大坊主四箇寺の一つ・木越光徳寺(きごしこうとくじ)の勢力圏に当たります。有力な候補としては光徳寺が挙げられます。ただし、光徳寺は富樫氏の主要支族が創建したと云われています。高尾城で敗死した加賀守護・富樫政親の父・成春(河北・石川の半国守護)の主要勢力圏でした。ややこしいのは政親を敗死させて、一向宗を後ろ盾に守護となった泰高の高尾城攻略の主力の半数以上が大坊主四箇寺勢力ということ。ですが現在の七尾にある光徳寺の住職は連綿と冨樫姓を伝えています。
つまり、富樫氏築城説も根強いわけです。ただ発掘調査では戦国中期以降の特徴があるそうで、一向宗の大改修は間違いないようです。

ちなみに、このブログでは初めて名前が出た一向宗の大坊主四箇寺について・・・
当時の真宗寺院の基本的な格なのですが、頂点になるのが蓮如の一門に係る寺院・・加賀では有名なのが加州三箇寺がこれに当たります。二俣本泉寺(若松本泉寺)・山田光教寺・波佐谷松岡寺が主要寺院です。
更に民衆を多く集め、道場を持つ寺院の主が大坊主と呼ばれていました。河北郡には三つの大坊主寺院がありました。また石川郡になりますが地勢的に河北に数えられた専光寺も河北の大坊主寺院とされていました。更にその下に道場のない大小の寺院とそこに集まる惣や講といった民間組織をピラミッド組織として構成していました。

河北郡の四つの大坊主寺院を簡単に紹介すると。。。
鳥越・弘願寺(とりごえ・ごがんじ)・・・名前の通り、前述の津幡町の鳥越城付近にありました。越中との県境が近く倶利伽羅峠の手前、八の谷など河合谷越えの能登への裏街道口の中継点にもなります。戦国以降は津幡城址に移り、現在は津幡宿の中心のおやど橋の袂にあります。
吉藤・専光寺             ・・・当時は石川郡の犀川河口に存在していました。現在も吉藤神社から県民海浜公園やソフトボール場にかけて、寺院の名前が町名として残っています。当時は河北の他の三寺と比肩する勢力を有していたので、河北勢力として見られていました。江戸期になると金沢後町(かなざわうしろまち、現在の彦三・武蔵近辺)に寺地を与えられて移転、東本願寺派の触れ頭でしたが、東別院の拡充により現在地の金沢市本町2丁目に移っています。
磯部・勝願寺(聖安寺?)     ・・・寺名から親鸞の血脈を伝える面授を受けたという井上善性坊が創建した下総磯部(現・茨城県古河市)に開創した勝願寺に所縁があると思われます。当時は現在の市民球場のある北部運動公園から浅野川沿いの間に在ったと云われていますが詳細は不明
木越・光徳寺             ・・・四箇寺では最大の勢力を誇っていました。享禄の錯乱(大小一揆)では加州三箇寺側に付いていますが、乱後に本願寺の赦免を受けて寺院の権威と力を保持していたようです。乱後衰微時に高田専修寺派に攻撃を受け門前(現・輪島市門前)に避難した時期はありますが、天文年間には地元に戻って第2期の全盛時代を迎えています。場所は勝願寺から北に約一里の湿原地帯に在ったようです。光徳寺の伝書に元亀の上杉謙信軍の侵攻時に河北潟の水を引き入れて堀として当ったと云われていますが、戦闘の記録はありません。水を引き入れる防御は天正8年(1580年)、織田軍(主力は柴田勝家・長連竜軍)に攻撃を受けた際証明されます。この攻撃では織田軍は800隻の舟を使用したと云われ水陸で争われ、加賀平野での一向宗対織田軍の最激戦地と云われています。現在も南西に流れる川は「血の川」という名で残っています。昨年、県の発掘調査が行われ東西南北に屈曲する幅6メートルの堀か溝と思われるものが確認されています。発掘品は多くなかったようですが発掘結果の報告が待たれています。
この攻撃で光徳寺は陥落しましたが、大坊主は脱出して七尾に逃れています。現在は七尾市の観光道のメインと云える一本杉通りに大きな伽藍と境内があり、祭礼には屋台が並んで賑わっています。現在でも七尾を代表する寺院になっています。(4年ほど前に撮った画像が見つかりませんでした

余談がまた長くなりました。古代には倶利伽羅峠に砺波の関が置かれたように、この森本の地にも監視・防衛の地が古くから存在したようです。それが森本ICの北側、旧小原越道の北陵の山並の先端に在った「堅田城」です。
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堅田城の発掘・調査に伴って、主郭部から弥生後期の土器や甕が出土していますし、麓の小原道沿い(山側環状の高架下辺り)からは、鎌倉期の屋敷跡が発見されています。屋敷跡からは般若心経を板に書いた勧請板や中国製陶磁器、珠洲焼などの国産陶磁器が大量に出土しています。古来から生活や政治の地にもなっていたのが推測されています。
鎌倉屋敷の在った場所は背後を堅田城にしていることから、高尾城のように屋敷や政庁を麓において防御城を背後に置くのは富樫氏築城説を肯定するように思われます。
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堅田城は山稜の先端113mの山頂に築かれています。山稜は南に向いており防御面は南と東南・東部を重視しています。東及び東南部は削り取ったような急激な斜面になっており、南面は大規模な竪堀で、下方に畝掘りも施されていました。現在は山側環状バイパスがこの竪堀部分から山稜を貫いていますが。。。形状は外から見ても十分見ごたえがあります。
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堅田城の登山道は西側と東南部にありますが、搦め手と観られる東南部は見上げると直角の様な斜面を登ることになります。
大手となる西面は本来は急斜面に施されていたようですが、現在は医王病院横に墓地があり、ここの狭い道を小型車で登れますので見学はこちらを利用するのが無難です。
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それでも、登山道右には深い竪堀というよりも崖が観られ、急激な斜度が感じられます。急激な登りが続き、虎口から郭の登りが急角度になっています。更にこの区画もですが切岸が施されています。西側の防備も登ってみると堅固になっています。




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郭は4地点のようですが、西側は単なる溜り場のようにも見えます。主郭部と二の郭は盛り土で区画されていますがパッと見には一つにも見えます。二の郭は南面の竪堀の上部に位置するようにあります。上部から竪堀が観られますが、説明板によれば郭の地表面から1.1mの堀切の留めがあるそうです。主郭部は盛り土で形を整えられています。
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主郭部の盛り土は三層になっていて、最下部から弥生土器や甕が出ており、その上の地層は13世紀(鎌倉期)、更にその上に15〜16世紀(戦国期)の盛り土がされているのが確認されているそうです。主郭部からも前方の小原越道や堅田・不動寺方向を見渡せ、後方には河北潟の姿や北国街道の一部が観られる好眺望です。櫓台は主郭部の北側に設けられていたようです。とにかく監視城の役目は十二分に果たせますし、攻めづらいことは確かです。
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主郭部には土塁を巡らした後が観られ、逆落としも十分な高低が残されています。
主郭から北面の城郭の廻りを周回できるように遊歩道がありますが、今回は体力不足とにわか雨で主郭からすぐに下山してしまいました。周回はまたの機会に。。。

ただ登ってみると、改修を施して規模は大きいのですが、大人数が篭れる余地が郭の面積を観ると無理に観えます。
この辺が前田軍が使用しなかった理由の一つかもしれません。
もちろん一番の理由は、前田家が加賀入部まもないために、民衆の支持を固めておらず逆に反発が強く、改修の時間と費用や防備の動員数に限界があった為と思われますが。。
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ただ郭に比べて、防備の竪堀や切岸、土塁は厳しい造りで、少人数での籠城戦でも十分に大軍に対応できる防御的な山城の秀作です。山城好きな人にはお奨めの城になります。

旅行日 2015.09.24

堅田城


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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
堅田城、面白そうですね。
堅固でも大人数の籠城に適さない山城というのは、けっこうありますね。
僕はそうした城のほうが、防御に工夫がこらされているので好きです。
地図を拝見すると、森本駅からも近そうですね。
僕は遠出をするときはもっぱら鉄道なので、駅から離れていると困ります。
来年の春にでも、鉄道で北陸に行こうと考えています。
まだ不確定ですが・・・。
堅田城にも、時間が許せば寄ってみたいと思います。
家ニスタ
2015/09/29 23:01
堅田城??? 滋賀県かと思ってしまいました
中々な墓所に建っているのですね 建築する時大変だったのでしょうね
しっかりと下界が見える所  良い場所なのですね
がにちゃん
2015/09/30 14:52
家ニスタさん
森本駅から約1キロちょいくらいですかねえ^^
金沢からなら北陸本線か七尾線で普通車で二駅目です。
堅田城は大きくはありませんが、南面の竪堀は圧巻です。バイパスのトンネルがちょっと邪魔ですが、なかなかのものですよ^^
しばらくぶりに登ったら、後から二人も登って来てました@@ けっこう名前も知られる存在になって来たのかも。
石川は、やはり春秋に来られる方がお奨めです。冬は雪が邪魔だし、夏はジメジメですから。。
つとつと
2015/09/30 17:09
がにちゃんさん
確かに堅田と云えば、滋賀を想像しちゃいますよねえ。
浄土真宗の中興の祖・蓮如が北陸に2度目の来訪時、吉崎御坊を建立したんですが。。
その時に同行した側近衆の多くが顕証寺(現・近松別院)の関係の堅田の人が多かったんだそうです。町の由来もそこから近江の堅田にあるみたいです。
山城は防御だけじゃなくて、監視の役目の方が大きかったんです。当然ながら監視をするときは見晴らしが良いのが条件なので、景色の良い所が多いんです。お奨めの眺望スポットも多いんです。
つとつと
2015/09/30 17:30
森本インターのあたりの堅田町のあたりは、昔から北国街道と小原越道が交差する交易の要所ですが、加賀と越中の境界の倶梨伽羅峠も近く歴史的には、つとつとさんの興味深い所でしょうね。
歴史をさらに遡って弥生時代の遺物も発掘されているようですが、山の端にあって潟や海にも近いので古代人の住まいとしては良い場所だったと思います。
花園の旧八号線が鉄道を跨ぐあたりから、森本の旧道の両端に大きな松の樹が並木の様になっていて、その近くの友人宅に行った時に北国街道が通っていた所だと聞きました、旧道も開発によって途切れ途切れになってしまっていますね。
go
2015/10/01 17:16
goさん北国街道や小原道は古くからの道で、開発や幹線道路で景色が変わってしまった所も多いのですが、いろいろな歴史が残っているのも事実です。
藩政時代の加賀藩の参勤交代の経路上には幕府の指導で松が並木として植えられたんですが、花園の松並木はその名残が残っている貴重な場所なんです。ちょうどこの辺りから金沢城までの街道は下街道(下口筋)と呼ばれていて「金沢下口往還」と呼ばれているんです。、花園を過ぎた辺りから陣容や衣装を変えたそうです。
更に花園を過ぎた辺りから津幡の道には北国街道の名残が多く残っていますが、やはり車より歩く道って感じです。八田技士の生家などの旧家も多くて趣のある道ですねえ。
つとつと
2015/10/01 20:45
発掘されると 「昔の茶碗など」が出てきますが…割れていたりするらしく…どうも「昔の人が 棄てたモノでは?」と言われますが…もし そうだとしたら 昔…棄てた人は まさか未来の人が「スゴいスゴい!」と「ゴミ」を掘り出しているとは 思わなかっただろう。
まだこもよ
2015/10/10 14:00
まだこもよさん
後世の発掘は建物跡も瓦礫だし、茶わんや土器も割れたり不要になった物、揚句は便所の排泄物まで調べています。大事なものとして完品が残るのは稀有なことです。
書物も紙ですから、ほとんどが写しになります。
でもそれが推測や発掘数が重なって、歴史を解き明かしてくれるんだと思うと、面白いもんですねえ。
排泄物は石川県内で御便所跡があって、縄文時代からコメを食べたのが立証されたんです。ついでに寄生虫までお腹にいたみたい^^;まさか自分のうんちまで調べられるとは思わなかったでしょうね。
つとつと
2015/10/16 10:50

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