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zoom RSS 仏御前の里A

<<   作成日時 : 2016/01/24 17:33   >>

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仏御前の生まれ故郷を強く主張する地は北陸には2か所あります。福井県大野市仏原及び栃沢(栃沢は現在は九頭竜湖の底です。)。国道158号線で和泉村に向かう途中にあります。ここには落差100mの三段滝の「仏御前の滝」があり、仏御前が髪を洗っていたという伝承があります。福井県内には、仏御前だけでなく祇王・妓女・刀自の過ごした寺と供養塔があったそうです(現・福井市三郎丸)。
そして、もう一つが石川県小松市原町になります。一般にはこちらが有力とされています。
小松市でも東端にあたり、先に進むと中の峠、三坂峠を越えると一向一揆最後の拠点・鳥越城二曲城の鳥越を抜けて白山禅定道を経由、白峰越えで福井の勝山・大野へと抜けられます。
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京からの帰り道は大野・勝山を経て、禅定道の途中・木滑(きなめり)の地で子供を生み落し、しばらく民家で静養、原村に戻ったとされています。しかし残念ながら生まれた子は男子でしたがわずか2週間程で夭逝しています。日数的には原村に到着後に亡くなったとも、木滑の民家でとも云われはっきりしません。ところで、仏御前出産の伝承地はもう一か所あって、尾小屋経由で西尾の手前にもあります。こちらは大倉岳スキー場に向かう道ですが、平安期は人一人がやっとの峻険な山岳路で、臨月の仏御前が歩くのは無理だと思われます(尾小屋二ツ屋地蔵尊)。
2012.09.01撮影 尾小屋トンネル南口 尾小屋二ツ屋地蔵尊
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木滑での仏御前の出産地と伝わる木滑神社には、祠に安産石が祀られています。旅路の途中の出産で仏御前がこの石に縋りついて出産したとされ、出産に立ち会った地元の老婆が、まとわりつくやぶ蚊やイラカを払ってあげたことから、その御利益かこの辺りではやぶ蚊が少ないという伝承が残っています。

ちなみに、原村から西に向かうと小松国府の推定地になり、古来から原村は国府から白山や越前に向かう中継点の役割があったようです。

仏御前は永暦元年(1160年)1月15日(新暦2月23日)に、白河兵太夫の娘として生誕します。幼名は「千歳(ちとせ)」とも「阿千代」とも。
古い伝承ですが、原村の地では百済からやって来た白狐が僧に姿を変えて、野原で経を読んでいたという言い伝えから「阿弥陀が原」「仏が原」と呼ばれていたそうです。この話に感動した花山法皇の北陸巡幸の際に、勅願建立した五重塔があり、塔守として京から派遣されたのが白河兵太夫と云われています。北陸の小松・加賀には法皇領が多く、花山法皇の伝承地が多く存在します。明治期まで心礎石があったと云われる五重塔の跡地と云われる堂田という場所からは、室町期の大日如来を刻字した板碑が発掘されています。この関係から仏御前の実家は原村の代官的存在だったと推測されています。

塔守の家で育ったことから信心深く、容姿端麗な子供として知られ、地元ではいつしかと呼ばれていたと云われます。14歳の時に叔父を頼って上京し白拍子となってデビューします。その後、わずか1年で都で評判の白拍子となっています。そして、前回のブログで紹介した祇王の事件となります。
往生院(祇王寺)に入った仏御前は清盛の子を身籠っていることが解ります。寺院で出産することが憚られ、仏御前は生まれ故郷に帰ることを決心し、自分の姿を模した姿像を作って形見代わりに残して往生院を去ります。

仏御前が戻ったのが17歳。故郷を出て僅か3年間。白拍子になり、祇王・清盛との出会い、出家、更には出産と本当に波乱に満ちた3年間でした。
帰郷した仏御前報音尼として、堂田塔の屋敷から300mほどの場所に庵を建てて、仏道に励んだと云われています。しかし、それから僅か3年後(治承4年8月18日(1180年新暦9月14日))に世を去っています。ちなみに、仏御前の死の翌年に因縁の相手・平清盛が亡くなっています。
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仏御前の庵があったと云われるのは、国道360号線沿いの原町の小松側入り口になります。庵跡として墓所を造ったと云われています。左は供養碑、中央が供養祠(石堂)、右が墓石とされています。仏御前の墓所は安産の御利益があるとして、供養碑・墓石には絵姿が彫られていたそうですが、近在の住民に信仰を受け擦り減り消えてしまったそうです。真ん中にある石堂は昭和20年代に他所から持ってきて合祀したものだそうです。

報音尼(仏御前)の死については、諸説伝わっていて判然としません。「近々、往生できるというお告げがあった」という言葉を残して読経中に亡くなったとか、妊娠中での無理な旅路による疲労からの病死、更には世を儚んでの自殺など諸説あります。仏御前の坐像を護持する原村では語られていませんが、廻りの村落で昔から根強く語られているものには集団暴行死説もあります。

庵に入って仏道に精進していた報音尼。出来るなら、一人仏道に専心したかったのでしょう。しかし清盛が執心したほどの美貌の持ち主で、都で評判となった元白拍子の尼さん、しかも花の盛りとも云える18〜20歳の若さです。
興味津々の男性陣が放って置くはずもなく、法話を聞くという理由をつけては庵に集まって来ました。また、たちの悪い者は夜這いを掛ける不届き者まで現れたわけです。このような騒ぎに巻き込まれて、世を儚んで自殺したというのが自殺説。
更に懸想をする男たちの妻たちが逆上、共謀して報音尼を騙して山に誘い出し、みんなで撲殺したというのが殺人説。近年では、北國新聞社から発刊された「仏御前(昭和54年発刊)」は、前述の説と共に、この説を紹介しています。
自殺説・殺人説を裏づけるような慣習として(一部病死にも関係しますが、)、報音尼の妬み・祟りを怖れてのことですが、、、江戸時代まで原村での出産は雨戸から窓まで全て塞いで、真っ暗闇の中で行っていたそうです。

ただ、前述しましたが、報音尼の実家・白河家は伝承通りの法皇領の塔守・寺院の守護ならば、原村においては代官的存在の別格者になります。いくら、興味津々の男性陣とはいえ、なかなか手出しできるものではなく、報音尼に悪行を成せば逮捕、悪くすれば死罪、村からの追放は確実です。報音尼が望めば塔の屋敷内に庵を移すことも簡単だったはずです。また、出家前ならともかく、浄土信仰に縋った報音尼が、自殺の道をとるとは考えにくいと思います。やはり臨月の長旅と、旅途中の出産による体力衰弱による病死というのが妥当な線と言えると思います。
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この仏御前の里には、祇王を上回る日本一の白拍子として、歌舞をする人や歴史に触れたい人が多く訪れ、仏御前の像に香華が手向けられ灯が絶えないそうです。像の安置所である林家は、一般住宅ですので事前に連絡してからうかがうのが無難です。僕が訪れた日は御留守だったようです。やはり、単なる突然の立ち寄りは難しいようです。

往生院(祇王寺)から所縁の深い仏御前の原村に贈られたものです。前述した仏御前が京を去る時に、往生院に残してきた件の像だと云われています。林家には昭和初期から安置されていますが、それ以前は庄屋宅や信仰心の厚い家に持ち回りで、連綿と大事に伝えられて来たそうです。仏御前の像は乾漆坐像で脆く汚れやカビに弱い素材ですが、長い年月を感じさせない色や姿形は、原村の仏御前への思い入れが感じられます。

林家の安置所には、仏御前の像と共に、堂田で発掘された板碑、「仏御前影像略縁起」がありますが、毎年9月16日に行われる白拍子祭りには、白拍子の舞が奉納され、この縁起が朗読されています。
ちなみに、「仏御前影像略縁起」は、金沢寺町の大円寺住職によって書かれたものだそうです。金沢を車でよく通る人は、金沢市の名所・W坂のある桜橋に降りる交差点「寺町5丁目」の角に人骨延命地蔵尊という石柱と大きな自然石の碑がある寺院を観たことがあると思います。人骨延命地蔵尊は4mの大きな物ですが、全身に無縁仏の人骨を張り詰めた物です。怖いもの見たさの方は一度拝観しても良いかも。
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報音尼の遺骸は原村の北西の山中で荼毘に臥されたのですが、その場所は現在でもけっこう森の奥の方になります。畑地の中を抜けて解り難い場所ですが途中に案内板は一切ないのでご注意を、畑道を抜けて森の中に入り、途中から参道が無くなって林間からかすかに見える石柱の囲いを目標に進みますが、足元が脆い沢道など、裏寂しい場所です。行かれる場合には、足が汚れても良いしっかりしたもので、分け入った方が良いと思います。
高杉に囲まれ空も観えない森の中、寂しく裏寒い場所に仏御前の荼毘の地があります。しかし、墓所としては屋敷跡よりもこちらの方が雰囲気も造りもふさわしいと思われます。
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当初は廟所が建てられていたそうですが、現在は石堂と五輪塔があるだけの寂しい場所です。
石堂は江戸期以降に建てられたようですが、五輪塔は年代が古く特殊なものだと云われています。
古文書に「原に塚があり」となっており、本来は塚には石堂が置かれるのですが、この荼毘後に当地に埋葬されたのか、墓所の地に移された石堂があった場所かは不明のようです。
昔話になりますが、宝物狙いの悪村人が掘り返そうとしたら、雷鳴が轟き、稲光が閃き、慌てて逃げ帰りましたが、高熱で身動きが出来なく苦しんだという、おまけ話も伝わっています。
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報音尼の菩提寺があったと云われる地は、文化財センターの北側から行けますが、現在は原町の墓地になっています。その墓地の奥、山肌の端の中腹に梵字が書かれた自然石が置かれていますが、それが唯一の痕跡です。

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小松市埋蔵文化財センターは小松市で発掘された遺物が所狭しと置かれていますが、小松は平安期から国府がおかれ、古代には古墳群が多く存在した加賀の中心地であったため、興味深いものがありますが、今回は休館日で観られなかったのですが、このブログを書いている間に再訪できました。
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ここでも、ラグビーの五郎丸のルーティンポーズが波及しています。レプリカの巫女埴輪だけど^^;右のが本物の重文指定の巫女埴輪^^;

小松市は古代においては、現在の市街地は海になっており、その後は湿地帯となり加賀三湖の今江潟が構成されたのですが。。このため弥生・古墳期には、現在の小松市街の多くは海や湿地帯で、集落的な物は発生していなかったようです。
このためか、自然林が多い丘陵地帯を走る国道8号、小松市街地東側を通る国道305号沿いに、遺跡が散在しています。
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丘陵地の西側の安定した数少ない平野部となる小松駅東側の八日市の近辺に、弥生時代の拠点集落が確認されています。この八日市地方(ようかいちじがた)遺跡からは日本初発掘の柄付石剣を始めとして高度な木製品・絵画土器などの加工品が1000点以上発掘され、一括重文指定を受けています。
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古墳期になると能美の広大な穀倉地帯を背景に、能美古墳群河田山古墳群といった50基以上の古墳が集中で示すような強大な地方勢力の存在が観られるようになります。また粟津駅近辺の丘陵地の額見町遺跡からは多数のオンドル付竪穴式住居郡・高床式建物の環濠遺跡が発見されています。オンドルはかまどの煙を建物の壁や床下伝いに通す暖房施設で現在の床暖房みたいなものです。近年までは渡来系の近代的集落としてしか認識されていなかったのですが、平成になって近くの矢田野住宅地で矢田野エジリ古墳が発掘され豪族集落と再注目されています。古墳は墳丘が消失していましたが、円筒・人物・馬型埴輪が多数発見され大規模な豪族集落と再確認されています。ちなみに先に紹介した巫女埴輪も珍しいですが、馬に乗った人物埴輪・口輪を取って補助する人物埴輪は全国的にも珍しいと思います。
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これとは別に近くの小松ドームから那谷寺にかけての丘陵地帯からは、当時の最先端の須恵器の窯跡が多数発見されており、同じ小松ドームあたりから北に須恵器の窯跡と鉄器の窯跡が混在しながら丘陵地帯に広がっています。年代も弥生から平安期と長い期間を通してのものです。これだけ広範囲で大規模な窯跡群は珍しいと思います。近年も300点以上の土器・須恵器の破片が発見され、この研究・修復・復元にセンターでは掛かりっきりのようです。

以前、河田山古墳群を紹介した時にも書いていますが、能美・小松は旧石器から東西の文化が折り重なるように存在しますが、土器・須恵器に関しても同じことが言え、東西の弥生文化圏(土器に関しては出雲系、吉備系共に)が入り混じり、しかも窯址からの出土品も東西両方の形態が出土しています。つまり文物が流入するだけでなく、製法・技術までが共存するという特徴的な地域です。また、平安期以降、江戸時代以前も加賀の中心地は小松近辺で、加賀の文化の中心地になります。まだまだ、新発見や再確認の遺物が出てきそうです。

この小松の埋蔵文化財の管理調査を一括して行っているのが、原町にある小松市埋蔵文化財センターです。
市街から遠く、山間にあるために意外に来訪者が多くないようですが、貴重な埋蔵物が展示されています。歴史に興味のある人には必見のセンターです。
来訪者が少ないのでセンターの人も親切で(失礼)、展示品の説明と共に埋蔵物の鑑定調査・修復・復元の作業の現場も間近で観るという貴重な体験もさせて貰えます。他の埋蔵センターではガラス越しに見ることはありますが、お話聞いたり、話しながら間近で観るのはなかなかできません。
木製品の防腐処理や保存処理、土器の汚れや使用の違いの見方などは、画像などでは知っていましたが、やはり直に観たり触ったりしないと解らないものです。また再訪してみたい施設です。

旅行日 2015.12.25 仏御前の里                2016.01.22 小松市埋蔵文化財センター






















阿千代物語 仏御前異聞たどり / 山岸正 【単行本】
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基本情報ジャンル文芸フォーマット単行本出版社北國新聞社出版局発売日2011年04月ISBN97848


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
仏御前が懐妊されていたとは知りませんでした  京都から北陸の地まで身重での旅は大変だったことでしょうね
  ラグビーの五郎丸のルーティンポーズ・・・ハハハ 五郎丸のご先祖さんでは
仏さんだったり 巫女埴輪だったり ありがたぁ〜いポーズなのですね(笑)
がにちゃん
2016/01/27 18:24
がにちゃんさん
尼寺とはいえ、寺院の出産は禁忌で留まる事は出来なかったと思います。
身重で臨月に近い体での旅路は、相当の無理が掛かったと思います。出来ることなら静かに我が子と過ごさせてあげたかったですねえ
五郎丸のルーティンポーズがすっかり流行っちゃいましたが、たしかに、ありがたポーズ しかし埴輪までとは見るまで思いませんでしたよ
つとつと
2016/01/28 11:25

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