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zoom RSS 舟岡山城

<<   作成日時 : 2016/07/19 16:23   >>

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白山市の旧鶴来町は古くから白山巡礼の入り口的存在で、宿場的存在として古くから栄えた町です。また、加賀禅定道の起点となる加賀馬場となる白山比盗_社が鎮座することで知られています。
手取川の流れが作った細長い盆地と、獅子吼高原と呼ばれる急峻な高原がすぐ側に迫る特異な自然環境です。盆地の横の崖面は町を守るようにありますが、その端に舟の形のような台地になる孤峰があります。
                                         清沢坊願得寺跡 H25.12.04撮影
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戦国初中期、加賀国の実権を握っていたのは、加賀守護・富樫政親を高尾城に滅ぼした真宗勢力の賀州三ヶ寺(松岡寺(蓮綱、蓮如三男)、山田光教寺(蓮誓、蓮如四男)、二俣・若松本泉寺(蓮乗⇒蓮悟、蓮如次男⇒七男)でした。鶴来には蓮如の十男・実悟が本泉寺・蓮悟の養子となって清沢坊願得寺に置かれていました。この実悟が、加賀を「百姓が持ちたる国」と云った人物です。願得寺の名称は実如(蓮如の長男)から与えられたもので、実如は北陸に退避した蓮如に代わって近畿に残り、旧仏教・朝廷交渉を一身にになった人物です。早世しなければ確実な法主候補でした。というより晩期には法主的存在でした。真宗内では、実如から寺名を下賜されることはこの時点では蓮如以上に重要なものでした。
しかし実如の死後、本願寺内の内紛で能登・加賀・越前守護まで巻き込んだ享禄の錯乱(大小一揆)が起きます。しかし北陸真宗の最強軍団・山之内衆が大一揆側(本願寺・本覚寺・超勝寺)についており激戦地になっています。この享禄の錯乱では白山宮も大一揆側に付き清沢坊は焼亡。蓮悟・実悟は能登に逃亡後破門。鶴来の地は山之内衆の勢力圏となります。

ちなみに、能登守護代・畠山家俊は蓮如の最後の正室・蓮能とは双子の弟で、実悟は蓮能の実子になるため実悟救援を口実に加賀守護・富樫稙泰と共に介入しましたが、河北光教寺に続く津幡の戦いで戦死、敗北しています。このため蓮悟は能登から自由都市・堺に逃れましたが、命は助かったものの零落して不遇のまま亡くなっています。実悟は破門のまま全国を放浪19年後に赦免されると、その学識から法主・証如から古橋御坊(現・門真市)を譲られ河内願得寺に改めています。この寺名は清沢坊願得寺から由来しています。実悟が92歳まで生き最長老的存在となり河内願得寺は真宗の中心的存在となって行き、勅許院家(別院)として一家衆、東本願寺では明治まで五箇寺として法主の代行を努める寺院になっています。

白山登拝のため金沢・松任方向からは必ず通ることになる鶴来の宿場地。また、山之内衆の本拠・鳥越にもつながる白山麓の起点です。
古くからの国人土豪が舟岡山に砦を築いていたとも云われますが、白山麓の起点の宿場町であり管理上からも鳥越の出城としての要素からも監視所の必要性があったようです。
白山麓での山之内衆の勢力圏になった後、若林長門守によって改修築城されたと云われています。
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舟岡山は手取川と獅子吼高原によって形成された河岸段丘だと前述しましたが、その河岸段丘の扇の要部分に弧峰としてある台地上の山になります。標高は186m程ですが、周囲は崖面が多く天然の要害と云った地形です。
現在、白山青年の家がある中腹は古くから安定した土壌で、手取川の氾濫の被害を受けることがないということで、縄文時代(約4500年前頃)にはすでに集落があったようです。4.5軒の竪穴住居郡や縄文石器が多数発掘されています。古くから舟岡山が知られた存在だったことが覗われます。
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また、現在は南隣に白山神社の総鎮守の白山比盗_社がありますが、元々はこの舟岡山が発祥の地になるそうです。二の丸跡に発祥の地の石碑と岐阜の石徹白(いとしろ)からの大杉の苗が記念植樹されています。石徹白の大杉は美濃禅定道の途中にある大杉で、屋久島の縄文杉が発見されるまでは日本有数の巨木と呼ばれていました。石徹白には長滝寺から進む美濃禅定道の中継点になる白山中居神社がありますが、杉の巨木に囲まれ崖淵に造られた神社で白山信仰に興味のある方には平泉寺長滝白山神社(白山中宮長滝寺)白山比盗_社の三馬場と並んで必見の神社です。
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白山比盗_社は社歴によれば崇神天皇7年(BC91年)、加賀平野から白山を仰ぎ見る「祀りの庭」として、この地に創建されたと云われています。さすがに年代考証ではBCは無いとは思いますが、相当古くから知られた祠・磐座だったようです。
応神天皇8年(316年)に手取川河畔の十八講河原に遷座しています。十八講河原は現在は手取川が大きく直角に迂回する中洲を言いますが、当時は今とは手取川の流れは違っていて、現在の中洲が河畔になっていたと云われています。十八講河原から白山方向を観ると、左右の迫る山々の隙間から見事な白山の姿が観られます。これが遷座の第一理由だったと思われます。
霊亀2年(716年)、洪水によると思われますが安久濤(あくど)の森に再び遷座しています。安久濤の森は現在の古宮公園になりますが、真下には加賀平野を潤す七ヶ用水の取水口がある安久濤ヶ淵があります。手取川から観ると良く解りますが、河岸段丘を構成する凝灰岩の崖面がここまでだということが解ります。
文明12年(1480年)に現在の手取川の流れになった大洪水で神社が流されています。改めて遷座して現在地に移っています。やはり、度重なる洪水に懲りて安定した土壌の舟岡山の近くに戻ったという感じです。
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舟岡山城という名の他に「白山城」「八幡城」「釼(つるぎ)城」とも呼ばれていますが、城が現役当時に何と呼ばれていたかははっきりしていません。現役として活躍した時期が30年程(実質20年弱)と短いのが影響したのかもしれません。城は南北200メートル、東西130メール程で山城としてはそこそこの規模があります。
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金剣宮・白山比盗_社に挟まれた関係から金剣宮関係の坪坂氏が砦化していたとも云われます。その後、真宗山之内衆が入って白山麓の最前線基地として築いたものが、城としての舟岡山城の本格的な始まりともいえます。天正8年(1580年)柴田勝家軍による金沢御堂落城後も抵抗する真宗勢力に対しての掃討戦は続き、同年舟岡山城も落城、その後は丹羽長秀家臣の早谷五左衛門が城主に、賤ヶ岳戦後に河北・石川郡の領主として金沢入城を果たした前田利家時代には高畠石見守定吉が城代として派遣されています。
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ちなみにこの高畠定吉(たかばたけさだよし)の高畠家は前田利家の正室・芳春院(お松)の実家筋に当ります。芳春院の実父は篠原一計と云われていますが、実父死後に母親が斯波家・家臣高畠直吉(定吉の祖父)に再嫁しています。高畠直吉の長男・吉光が高畠家本家を継ぎ、その息子の定吉が本家を継いでいます。つまり、芳春院とは義理の叔母・甥の関係になります。ちなみに直吉の末娘(吉光・芳春院の妹)が婿養子をとった高畠家(権兵衛家)も幕末まで存続しています。
定吉は幼少期から前田利家に仕え、利家が荒子城主になった際に200石で正式な家臣になっています。その後、利家と共に転戦、戦績を重ね、荒子七人衆(村井長頼、吉田孫兵衛、小塚藤右衛門、高畠定吉、原田又右衛門、金岩与次之助、木村三蔵 )に名を連ねており、天正年間(1572年〜)初めに前田利家の末妹・津世姫(長寿院・長久院)を後室として迎えています。舟岡山城代就任後には1万7千石を与えられています。
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高畠定吉には実子が無く、前田安勝(前田利家の兄・七尾・小丸山城主)の娘を養女に迎えて青木善四郎泰矩(元北の庄城主・青木一矩の孫)に嫁がせ、その間の次男・定方を養子に迎えています。定吉死後になりますが、前田安勝の家が絶え前田知好(利家の三男)が継いだ際に、血縁の定方が、安勝の名・五郎兵衛を襲名しています(高畠五郎兵衛家)。この五郎兵衛家と前述の権兵衛家の両家は、嗣子不在時には両家で養子の出し入れをして、幕末まで命脈を保っています。
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しかし、高畠定吉本人はガチガチの反徳川派でした。前田利長の方針にも多少反発があったようです。
関ヶ原戦時には病気を理由に金沢城留守居役になっていましたが、慶長7年(1602年)には突然に家督を定方に譲り、前田家を致仕して単独出奔、京都に隠棲してしまいます。、翌年に逝去、享年67歳
ちなみに、京都隠棲については、先に能登を没収されて隠棲した前田利政(利長の弟)を追ったとも、頼ったとも云われています。そのまま舟岡山城は城主を失ったままとなり、一国一城令と共に廃城となっています。
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また、当時、高畠定吉の屋敷は現在の日本銀行金沢支店の地にありました(下邸は大豆田大橋近辺や現・高畠辺りと云われています。)。戦国末期まで金沢市内で最古の神社と云われた「石浦山王社」の大伽藍があったと云われます。金沢御堂の攻略時に兵火の延焼で焼失。現在は観光客が必ず通る広坂交差点にある石浦神社に受け継がれています。
石浦山王社があった時代から高畠家、日本銀行に受け継がれた樹齢5百年以上のタブの木が、日本銀行の裏庭に稲荷社の御神木として大事にされているはずです。だいぶ昔に見学した記憶が微かにあるんですがどうなんでしょうか。まあこの記憶のおかげで高畠石見守定吉については多少知っていたんですが。。何年か前に玉川図書館で「高畠家文書」の公開展をたまたま見ていて。おぼつかない記憶がまだ新しかったのもあります。
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大きく横道に逸れて、高畠定吉の話が長くなりましたが、石材を多く石垣や土塁に使用している舟岡山城が現在の形態になったのは、早谷五左衛門・高畠定吉の在城時代に大きく改修されたと思われます。
城の中枢部となる本丸・二の丸は南端部にあり、北面に対する防御を重視しています。




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現在は県道があるために本丸が近く感じますが、当時は東・南面は切り立った崖面だったこともあり、登城口となる白山青年の家側の北道・大手道が攻め口にならざる負えなかったようです。その最前線となる二つの道の間の斜面が、現在、発掘調査が行われているようです。
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この斜面には舟岡山城では最長の横堀が施されていますが、のり面にも多くの竪堀?排水溝?が施されています。また、城内にはなかった丸石が使われているのも特徴です。年代確認が取れていないようなので、城時代の物か、それ以前かは今後の発掘調査報告を待たねばならないようです。
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現在、白山青年の家上部ののり面の調査が進められていますが、竪堀か排水路かは判然としませんが溝内部に石柱が施されているのは、何のためだったんでしょうか。あるいは白山宮の関連か、縄文遺跡の集落からも近いのでその関係かも。。
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問題点としては、北道・大手山道から進むと三の丸・四の丸と表示された広い敷地が観られますが、この平坦面は明治になって耕地許可が出たために、地元住民によって切り開かれ農地として耕作された為で、本来は他と同じく起伏を利用して土塁や土掘りが施されていたと思われます。このために二の丸・本丸の規模は大規模なものでなく、この平坦面は異常な広さに感じさせられます。
更に全体的に木が成長していて、土塁や石垣を崩壊させている部分が多く、早急な保護対策が必要だと思われます。しかし、典型的な山城に近代的な石垣を配したり、排水溝の柱状石など興味深いものが多い城跡です。
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さて、前述の排水路と思われる跡を覗きながら、しげしげと観ながら歩いていたら、またしても出くわしてしまいました。どうも僕が鶴来の山に入ると呼び寄せてしまうようです。市街地から近く、他から隔絶した地形にあるはずの舟岡山ですが、どうやって来たんでしょうね。まあ、近くの獅子吼や樹木公園でもたまに見かけますから、いても不思議ではないんですが。。
今回は立派な大人のカモシカです。下ばかり観て歩いていたので、気配でふと顔を上げたら眼の前、約10メートルほどに@@一瞬、ビクッとしてしまいました^^;熊さんじゃなくて良かった^^
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カモシカはあまり人や物を畏れずに、自分の安全距離で相手をじっと観察する性格があるようです。他の動物なら即逃げ出すか向って来るかですが、そこが大きく違っている所。でも野生動物ですから、動いて威嚇したり驚かせたりしてはまずいんで、しばし一人と一頭でにらめっこ@@:@@ 20分以上は一緒にその場でいましたねえ^^; 飽きたのか、カモシカがゆっくり離れ出したのに合わせて、僕もゆっくり離れて下山することに。。

僕が舟岡山に登った翌々日。なんとブロ友の家ニスタさんが、はるばる僕の地元まで来られて、この城跡を訪ねていました。北鉄が鶴来駅までになってしまい登り口を探すのに苦労したみたいで、僕とは正反対の東南面から直接本丸に向かう道を行ったようです。以前の加賀一の宮駅が健在だったら解り易かったんですが。。
   家ニスタさんのブログ ・・・ 北陸一周・城と“呑みテツ”の旅(6)−鶴来〜舟岡山城
前回は、僕んちの近くの松任城を観てガックリしたようですが、今回はどうだったんでしょうか。なかなかの城だよなんて言っちゃったからなあ ガッカリさせていたらゴメンなさい

旅行日 2016.04.02

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北陸一周・城と“呑みテツ”の旅(6)−鶴来〜舟岡山城
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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
拙ブログをご紹介いただきありがとうございます。
いえ、なかなかのものでしたよ。
山城好きの僕も満足のお城でした。
石垣の多用はちょっと謎だったんですが、なるほど、高畠定吉の改修によるものだったんですね。
僕は去年、新潟の樺沢城でカモシカに遭遇したんですが、やはりじっととまって凝視するクセがあるようですね。
舟岡山の帰りに、縄文遺跡があるらしいことは気づいたんですが、そのときはやや疲れていたので、パスしちゃいました。
寄ってくればよかったですね。
家ニスタ
2016/07/19 22:31
こんな遠くまで足を延ばしてガックリでは、心苦しかったですから。。
坂戸城に行ったときに手前まで入ったんですが、樺沢城の手前まで足を延ばしながら、登城しなかった心残りの一つでした。御館の乱で北条氏がここを占拠したと聞いていたんですが、上田長尾家の坂戸城から近くて驚いた記憶が。。そういえばあの辺りも山深いですからねえ。。カモシカが居そうですね。
毎年、鶴来の山間に入ると姿を観てしまいます。いつも、じ〜〜っと見つめられて、ついつい動けなくなっちゃうんです。。
つとつと
2016/07/21 10:43
縄文遺跡があったのですね 自然の中で生きるには災害に逢いにくい場所を選ぶことは大切な事ですね  カモシカ 白根山から草津へ下山途中で出会った事が・・・
結構近くで じっと見つめられてました  
がにちゃん
2016/07/21 14:52
がにちゃんさん
鶴来は高原と手取川に挟まれた細長い町で加賀平野の扇状地の始点になる町です。恵まれた上質な水で石川を代表する名酒、万歳楽・菊姫が造成されています。
そのぶん、昔から手取川の氾濫に悩まされてもいます。
安定した水害のない土壌は貴重な場所だったようです。これ以上高くに行くと不便で水の手に苦労するしで、鶴来でも貴重な場所だったようです。
毎年というより近年になって、カモシカが市街地に近づいているような。。
あの瞳でじっと見られると、ついつい惹きこまれて、しばらく一緒に過ごしてしまいそうです。それにしても、気づかないうちに近づいてきたのは初めてでした。びっくり@@
つとつと
2016/07/21 19:37
縄文時代って「台風」が 来なかったんですかね?(これで・・・大丈夫とは 思えないが・・・まぁ壊れたら また作ればいいか?笑)
まだこもよ
2016/07/25 09:58
まだこもよさん
う〜〜ん、風は吹きこむところと云えば言える場所。
ただ作り直しは効きますよ。それと竪穴式住居は意外にしっかりした造りで、北陸ではさらに泥土をかぶせた物が多かったようです。だから、風なんかには強かったかも、逆に水に弱いと思うんで川べりはむずかしいかも。だから、高地を選んだのかも
つとつと
2016/07/27 20:51

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