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zoom RSS 根上(ねあがり)の松

<<   作成日時 : 2016/09/30 12:20   >>

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能美市は野球の松井秀喜の出身地の根上町・九谷焼の産地の寺井町・いしかわ動物園のある辰口町の三町が、平成の大合併で誕生したものです。この能美市の在る位置は大規模な古墳群が示すように江戸期以前は加賀の中心地で、古くから歴史の端々に挙がってくる地域でもありました。

能美市高坂町(旧能美郡根上町高坂)高坂山(通称、根上山)という小さな砂地の尾根があります。
尾根の山頂に「根上の松」と呼ばれる松があります。登り口が解り難く地元の人にしか知られていない存在ですが、旧町名の根上町の由来になっています。
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源平盛衰記 巻第二十八 北国所々合戦事から(国民文庫「源平盛衰記」引用)

〔斯りしかば、〕五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり。越中、加賀、両国の兵共、安宅渡に馳集り、橋板三間引落し、城を構垣楯を掻平家を待処に、越中前司盛俊が一党五千余騎、安宅の渡に押寄見れば、橋板は引たり水は深し、南の岸に引へたり。源平川を隔て只遠矢に射る。日数をへる共落すべき様なし。盛俊子息の盛綱を招て、あの渚は波に碾れて浅かるらん者を、打下て見よと云。盛綱即打下て馬を打入て見れば、実も流るゝ砂磯打浪に碾れて、思ひしよりも浅かりけり。打返して、水は浅く侍けり、被渡候へと申せば、盛俊打浸々々渡す。源氏是を見て、あはや平家は渚を渡せば、陸へ上立ずして河中に射浸よ者共とて、一千余騎轡並て、引取、差詰、散々に射。平家の先陣三百余騎、河中に被射浸て、海の中へ被押流。水巻の四郎安高此様を見て、父子六騎勇をめきて、馬を水に打入て散々に戦ふ。飛騨守景家が一党の中に被取籠、三騎討れて、三騎は手負て引退。石黒太郎兄弟五騎、馬の鼻をならべて、太腹際打入て散々に射。越中前司盛俊、大の中差取て番て、能引て兵と射、其矢石黒太郎にしたゝかに中る。暫しもたまらず、水の上にざぶと落、舎弟福満五郎打寄て、水中より引上て肩に引懸、朴坂越に石黒に帰て、灸治よくして、又十日ばかり有て都波の軍に値たりけるこそ由々敷剛者とは覚たれ。林、富樫、下田、倉光も大勢に被蒐立て、安宅城をも引退。

加賀国住人井家二郎範方、十七騎の勢にて根上の松の程まで返合々々、十一度まで散々に戦けるが、大勢に被取籠て、範方終に討れにけり。根上の松と云所は、東は沼西は海、道狭して分内なし。源氏数を尽して亡べかりけるに、井家二郎返合々々戦ける間に、希有にして落延ぬ。

富樫次郎家経は、黒糸威の鎧に、鴾毛の馬にぞ乗たりける。三十余騎にて落けるが、郎等共に防ぎ矢射させて、引返々々戦ける程に、馬の太腹を射させて■落さる。富樫が外戚の甥に安江二郎盛高と云者あり。続て落けるを見て、如何に安江殿、家経馬を射させたり、乗つべき馬や侍と(有朋下いへば、名をば誰ともさゝず、四五騎有ける郎等に向て、大様々々と其馬進せよとて落行けり。今参に新三郎家員と云者、我が乗たりける鹿毛なる馬の逸物なりけるより飛下て、後の奉公に立給べしとて、富樫介を掻のせたりければ、北をさして落行ぬ。家員が馬なくば、家経危ぞ見えける。源氏は安宅の湊よりおちて、今湊、藤塚、小河、浜倉部、双河打過て、大野庄に陣をとる。平家は林富樫が館に打入て、暫爰に休居たり。是より飛脚を都へ立。

平家の一門馳集て状を披に云、四月廿七日に、越前国燧城にて、当国平泉寺長吏斉明降人に参す、即先陣を申請て案内者して当国の輩を打随ふ。五月二日、加賀国へ乱入処に、源氏の軍兵、安宅の渡に城郭を構といへ共、彼をも攻落畢、林富樫が二箇所の城を打落ぬれば、北国は今は手の内と可被思召と申上たりければ、平家の一門大に悦■けり。角て暫加賀国を靡て安堵したりけり。

源氏は木曾殿へ早馬を立、燧城をば斉明が返忠にて被責落、所々にて討負て加賀国へ引、安宅の城にて御方の兵多討れて、林、富樫が党類も被打落ぬ、急勢を付らるべしとぞ申遣ける。斉明は黒糸威の腹巻に、長刀脇に挟て、三位中将の前に跪て申けるは、木曾は此間、越後国府にと承、御方軍に勝て、越前加賀を従へさせ給候ぬれば、早馬立て打上り侍らんと存候。越中越後の境に寒原と云難所あり、敵彼をこえて越中へ入なば、御方の為にゆゝしき御大事、彼を伐塞で候なば、木曾が為には大事にて侍るべし、されば急官兵を指遣て、寒原を切塞て越中国を随へばやと申。何事も北国の事は斉明が計也とて、越中前司に仰す。盛俊五千余騎を引卒して、加賀と越中との境なる倶梨伽羅山を打越えて、越中国小矢部河原を打過て、般若野にこそ陣をとれ。木曾早馬に驚て、今井四郎に仰て、六千余騎を相具して越中国に指遣す。兼平は鬼臥寒原打過て、四十八箇瀬を渡して、越中国婦負郡御服山に陣をとる也。

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原文が解り難いので簡単に説明すると、治承四年(1180年)4月、以仁王の息子・北陸宮を擁し平家・清盛追討と上洛を掲げて挙兵した源義仲の勢いは凄まじいものがあり、挙兵から約半年で信濃を経由して越後に進出した時点で、北陸の諸豪族や武士連の同調も得ていました。その勢いは越中・能登・加賀を席巻し越前に及ぼうとしていました。その勢いに危機感を持った平家は平経正(清盛の甥)・平通盛(清盛の甥)を越前国府に派遣します。ところがそれまで味方だった平泉寺の前従儀師斉明(従儀師は僧官の階位で指導階級)や国侍の一部が寝返り、越前北部戦線・国府近辺で敗北、二人は敦賀・若狭にまで後退します。情勢不利で二人は都に引き上げています。ここまでで挙兵から約1年半の出来事、いかに源氏の勢力拡大が凄まじいか解ります。ちなみにこの後の前哨戦では平泉寺の斉明はまたまた重要な役割を演じています。

更なる危機感を感じた平家は寿永元年(1182年)2月には平教盛(清盛の異母弟)、4月には平維盛(清盛の嫡孫)を主将に北陸追討軍を組織して随時派遣します。両軍は湖西・湖東から進軍、木の芽峠を越えた燧城(ひうちじょう)のある越前今庄で合流、源氏も燧城に斉明の平泉寺軍を入れ、更に二つの川の合流点に堰を作って人造湖を造り加賀・越前兵を中心に対峙抗戦をすることに、ところがここで斉明がまたまた返り忠で平家軍に寝返り、源氏軍は大敗。。更に、逃げる源氏軍は安宅浜(小松市安宅)で渡しの橋を落として防衛戦を行っています。以前、紹介していますが、安宅関跡がある安宅住吉神社と安宅市街を隔てる梯川(かけはしがわ)の河口部で対峙したわけです。現在より狭かったとはいえ両岸で対峙して矢の掛け合いに終始する中、平家軍の特別部隊の海辺渡河奇襲でまたまた平家軍が快勝。。
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この後、更に退却する源氏軍の井家二郎範方が殿軍となって、わずか17騎で根上の松に籠って平家軍に戦いを挑みます。根上の松は北国道の通り道ですが、東は沼地で西には海が広がっており、多人数がなかなか抜けられない位置の要害でした。井家範方はこの地形を利用して、決死の出撃は11度に及んで全員討死します。しかしこの決死隊の時間稼ぎで源氏軍は窮地を脱して退却できたと云われています。

平家軍はその後も進撃をつづけ、大野庄(現・金沢市大野・金石近辺)から東金沢辺りまで源氏を追討しています。ここで進軍を停めて加賀平定の戦勝報告を都に送っています。
とかく、富士川の合戦・倶利伽羅山の合戦の二度の大敗で愚将の名を冠される平維盛ですが、ここまでは富士川の汚名を晴らす働きだったわけです。大きな誤りは、ここまでは源氏本軍との戦いではなく在地勢力を叩いただけ、加賀で進軍を停めて加賀平定に時間を費やしたことにあります。この時点で、源義仲はまだ越後(しかも下越)におり、その間に越中も確保できれば大きく戦局が変わっていたと思われます。実際、前述の斉明が維盛に進言で「義仲がここに来るまでには蒲原(上越)の難所や親不知があります。先に出口を抑えるか、砺波・越中平野を先に抑えれば、義仲は出て来れず、出たとしても般若野の平地で討滅できます。義仲に先に越中に入られてはゆゆしき問題。まずは先の国司・盛俊の軍5000を倶利伽羅を越えて先発させるべきです。」 この砺波平野の般若野は広い平原で、後年の戦国時代には上杉謙信の父・長尾為景が一向宗の大軍に包囲されて討ち死にした地で、難所を越える遠征の不利が物をいうことを実証しています。

この進言情報は状況報告と共に早馬で義仲に報告され逆に義仲を慌てさせ派軍を急がせます。平家軍が加賀に滞陣したままの間に、義仲は今井兼平軍を倶利伽羅山の手前の婦中に陣を置かせ、自身も急遽の進軍で小矢部まで陣を進めています。
これで大軍優位の平地戦でなく、不利な山岳戦になってしまったわけです。
余談になりますが斉明の名はこの後は出て来なくなるんですが、源氏軍が勝利後に進軍し越前に到った際には、源義仲は平泉寺に友好的な寄進を行っています。ということは、またまた斉明は三度目の返り忠で平泉寺軍を義仲に味方させたということになるんですかねえ。。
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源平盛衰記根上の松が出て来るのは太字の部分ですが、源義仲VS平維盛の倶利伽羅合戦の前哨戦に出て来る一場面で、平家の撤退戦では逆にここで防衛戦が行われています。この根上の松はその後も古戦場として名所となります。また白山の遥拝所としての役目も持っており、これ以降は名所・名跡として歴史に散見されるところとなっています。多くの著名人が訪れていますが、書物に現れる最初の客が義経記源義経一向になるようです。

義経記 巻第七 五 平泉寺御見物の事から引用
判官其日篠原に泊り給ひけり。明けければ齋藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいの池を見て、安宅の渡を越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山〔の〕権現に、法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み奉らせて、其日は劔の権現の御前に参り給ひて、御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、明くれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀國富樫と云ふ所も近くなり、富樫介と申すは当國の大名なり。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける。


引用文を現代の場所・地名に要約して書き直すと、
義経一行はその日は篠原(加賀市篠原町)に一泊。斉藤実盛が手塚光盛に討たれた首を洗った「首洗い池(あいの池)」を観て、安宅の渡しを越えて、根上の松に着きました。ここは白山権現に法施を手向ける所(遥拝所)です。是非、白山に参拝しようということで十一面観音を祀る岩本宮(現・岩本神社)に一泊。明けて白山比盗_社に参って白山菊理媛神(ハクサンククリヒメノカミ)を拝んで、その日は劔の権現(現・金剣宮)の御前で夜を過ごし御神楽を奉じていました。明くる日、裏口を通った加賀武士の林六郎光明が助言してくれました。「加賀の富樫介という筆頭豪族がここから近くに本拠(富樫館)を置いており、鎌倉殿(源頼朝)の命令書は届いていないようだが、内々義経様一行を待ち受けているという話が聞こえています。ご用心ください。」

源義経の東北逃避行の道がら文ですが、逃避行と言いながら結構あっちこっちに寄り道しています。
義経記では通常、僕たちが教えて貰ったり知られた場所や時丙が異なっています。そもそも富樫との係わりも、野々市の富樫館に弁慶単独で乗り込んで寄進を受けて帰っています。ついでに義経たちが待つ宮の腰(大野湊)の大野湊神社に馬まで貸してもらって送って貰う噴飯物。安宅関の話は「如意の渡」という現在の高岡市伏木から射水市六渡寺(ろくどじ)の間の小矢部川を渡る処です。この如意の渡はつい近年(〜H19)まで渡し船が運航していました。弁慶が正体がばれそうになった義経を棒でぶん殴って、後で謝罪したのも義経記ではこちらになっています。ついでに弁慶が空文を読んだのは、義経記では白髭神社(滋賀県高島市)ですし。一般に伝わるものと義経記では違う部分や矛盾を書き出したら限がないほど面白いんですが、またの機会に。。

根上の松のある尾根は現在は高坂山とも根上山と呼ばれていますが、それほど高い山ではなく砂地の小高い丘だと思って頂ければ遠からずです。合戦が行われた当時は西に海が広がって東に沼地が広がるような砂の小山だったと想像されます。海に面していたために防風林の役目をクロマツの松並木が果たしていたようです。現在も根上町では防風林と緑化のためにクロマツの植林が行われています。
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根上の松に直接登れる道もありますが東側の登山口から外周を登るように進むと、小さな神社が建てられています「根上稲荷神社」。江戸期から昭和にかけては氏子が5.6軒しかなく細々と伝わって来たものですが、現在は周りに新興住宅が造成されて氏子が増えて栄えつつあるそうです。
この神社の稲荷神(きつね)には古い民話が、小松市の西照寺に伝わっていて受け継がれています。「高坂ぎつね」。以前にまんが日本昔ばなしでも放映されていました。 → まんが日本むかしばなしデータベース
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高坂山は海辺のせいか砂山といった感じですが、木材のチップを敷き詰めた遊歩道は意外に歩きやすい物があります。展望台があるということで登ってみると、高台の広場にお墓が並んでるじゃないですか、銘に神道の諡名の大人命(うしのみこと)・刀自命(とじのみこと)などが刻印されており明治初期のもののようです。謂れが解らないのですが、知ってる方が居たら教えて下さい。

せっかくの東を見渡せる展望台ですが、この墓の敷地を踏んでしまう不敬を感じて、長居は出来ませんでした。
展望台の看板はちょっと余計かも。。静かな高台でせっかくしずかに眠ってるんだから、観光客や外部の人が入らないようにした方が良いのでは。。ただ、なかなか風情のある墓標(奥津城)であるのは確かです。
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などと余計な事を考えながら進むと、本命の根上の松
始めてみる人は、その古い歴史から巨木を想像しがちですが(実際、初めて見た時の僕もそうでしたが。。)
樹高は約14メートルと高さはありますが幹回りはそれ程でもなく1メートル弱に観えます。地盤が砂地のために養分を多くとれない為なんでしょうか。。そこは不明ですが、長い年月に数代の松が受け継がれてきたのではないでしょうか、まだまだ若く活力があるように見られます。それでも樹齢は約110年と云われているそうです。
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特徴的なのは、地盤から根回りが60センチほど隆起している姿。「根上(ねあがり)」の名はこの樹形の姿から由来しているようです。地盤が砂地のために根を張るごとに砂地が風などで飛ばされたり、掘り起こされた為だと思われます。古くからこの名があるんですから、この樹形は受け継がれてきたようですから、興味深いものがあります。

金沢の兼六園にも500超の松があると云われていますが、その中でも著名な松は「根上の松」と「唐崎の松」になります。どちらも加賀藩主13代・前田斉泰(1811〜1884)が若木や種子から育て、手を加えて行ったと云われています。兼六園の根上の松は樹齢200年、隆起も2メートル超。最初、盛り土に植えて成長したところで土を除去したと云われています。手が加えられているとはいえ圧巻の姿は印象的です。この松のネーミングの元祖が根上山根上の松になります。 兼六園の根上の松(兼六園HPから)

源平合戦から700年近く経った幕末の加賀藩主が意識するほどの歴史的な銘木として、一度は観ておいてもよい木だと思います。できれば兼六園より先に観た方が良いかも、規模の違いが大きいですから。。

旅行日 2016.09.21









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刀利ダム
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2016/10/07 11:56
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つとつとのブログ
2017/05/16 13:27

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
根上がりの松  面白い形をしてますね 今にも動きそうな感じがします
写真見ていて 周りの樹木は余り値上がり現象が無いように見えますが・・・やっぱり待つ独特のダナを持っているのかなぁと思いました 
がにちゃん
2016/09/30 13:38
がにちゃんさん
廻りの松は若木が多いようです。以前より廻りの木が大きくなっていましたから、地元の植林の効果も上がってるのかもしれません。もしかしたら、根回りの砂を採るといった作業が加えられているのかもしれませんが、その特性を持つ松でないとこういう形になるのは難しいようです。この松が成長を重ねると兼六園の凄い松みたいになるんでしょうか。
つとつと
2016/09/30 18:37
根上りの松と云えば兼六園の松を想像します、源平の頃よりの歴史を考えると老松を想像していましたが、想像に反して若い松で驚きました、その辺の砂地の松は根もとの砂が浸食されて根が上がった樹形になるのですね。
源平の戦いで似仁王の命により信濃の国で挙兵した、源義仲(木曽義仲)破竹の勢いの進軍を阻止しようと越前、加賀に向けられた平維盛との倶梨伽羅峠の戦いの事は少し知っていますが、その前後の歴史については知りませんでした、根上り町のルーツなど勉強にないました。
go
2016/10/01 17:45
goさん
兼六園の根上の松が立派過ぎて、元祖の根上の松は忘れられがちですが、由来からは貴重な存在だと思います。樹齢100年程で兼六園の半分に満たない樹齢ですが、何代かを重ねて史実を伝えて来たようです。ただ、山への入り口が多い割にはどれも解り難いところですね。
義仲の進軍、維盛の討伐軍の動きは勢いの差と言いますが、平地戦と山岳戦では合戦自体が変わってしまいます。この辺が歴史のひだですね。
つとつと
2016/10/02 07:01
こんばんは〜
「根上の松」って変わった松だと思っていましたら、それなりの理由があるのですね。
独特の形ですね。
なんだか強風に見廻れたら、倒れそうなそう感じるのは私だけかな?
松の事 赤松位しか知識がなかったので、勉強になりました。
イータン
2016/10/02 18:56
イータンさん
海岸線にある松はクロマツが多いんです。観た眼が無骨ですが、塩害や風に強いのが特徴です。根上町もそうですが、天橋立の松並木も同じお仲間です。ただ、毎年のように話題になる松くい虫の虫害に弱いので、管理がタイヘンなんだそうです。
一見弱そうに見えますが、根上の松は隆起した根が40以上で支えているんです。元々、クロマツは強風の海岸線や岩場に根を張る力強さがあるんで、これでも結構持っちゃうみたいです。
つとつと
2016/10/03 08:39
根が上がろうと・・・頑張っている・・・・見習わなくては?
まだこもよ
2016/10/03 10:40
まだこもよさん
僕たちは音を上げちゃったらおしまいです^^その前にもうひと踏ん張り^^/
つとつと
2016/10/04 01:14

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