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<<   作成日時 : 2016/11/20 04:53   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 21 / トラックバック 0 / コメント 8

少しずつですが、バタバタしながらもブログを書き進めていたんですが、先日お客さんチで契約計上をPCで進めて完了した途端、液晶が不良になってピンクとグリーンの世界になってしまいました。PCがないと仕事が全く進まなくなる僕としては、慌てて買いなおす羽目に陥ってしまいました。その後は仕事関係ソフトのインストールや計算ソフトのデータ移行、そもそもウィンドウズ10は初めてで何がなにやらチンプンカンプン。。すっかり嵌まり込んでいます。それにしても、今年は異常なくらい電化製品が壊れて買い替える羽目になってます。。洗濯機・冷蔵庫・オーブントースター・テレビ・電子レンジのコードが断線・娘のアイパッドにスマフォにイヤフォン、CSのリモコンを嫁さんが洗濯機に水没、そしてついには自分のノートPC。。毎月何か壊したり故障したりで超出費。。これでおしまいと思ったら3日前には風呂の湯沸かしが不能で交換修理、久しぶりの日帰り温泉しちゃいました。。。もうお祓いしかないかも

先日、嫁さんの実家のある上越まで行ってきました。。行く日は途中で小雨が降ったりでちょっと心配でしたが、大降りの雨は初日の夜だけでのんびりできたし、久しぶりの義母や兄弟とあえて、ウキウキしてる嫁さんや娘を家において、のんびりと近場を巡ることも出来ました。

僕が初めて上越市に訪れたのは25.6歳の時ですから、もう随分時が流れたものです。
上越市は昭和46年(1971年)に直江津市と高田市が合併して誕生しています。新潟県では人口も新潟市・長岡市に次ぐ第三位の都市になります。ただ、面積が広いので緑が多くて、のどかな雰囲気が漂う街でもあります。それでも東西に長く上・中・下越に分かれる新潟県の中では、上越地方の中核都市になりますし、長野方面に向かう分岐点としての中継点にもなります。
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前職の転勤依頼を受けたとき、恥ずかしながら合併の事を全く知らなかったので、ふ〜〜んくらいの感覚で即OKしたんですが、転勤直前に下調べで職場の最寄駅が高田駅だと知った時の驚き
高田在住の人が聞けば激怒しそうですが、僕の年代以上の人にとっては、高田市と聞けば第一の印象は雪、雪、雪の印象しかないんですよね。小中学の社会の教科書や地図帳の雪の降雪量と云えば、豪雪地帯の代表として高田市の積雪グラフと積雪に雁木(がんぎ)風景の下を歩く人の姿が刷り込まれていましたから。。。前職の会社は転勤が激しかったんですが、若いメンバーが多くて自由が利く面があって、転勤の選択は本人の意思が多少は尊重されていたんです。今でもあの時転勤先が上越高田だと云われてたら拒否権を発動してたはず。そうしたら、嫁さんと出会うこともなく、今一緒に暮らしてなかったはずと、よく嫁さんと話題にしています。

僕が最初に転勤して滞在した期間は、秋からわずか3か月ちょっとだったんですが、ちょうど豪雪に当って国鉄が魚津・直江津間が不通になるほどの積雪を経験しました。当時は高速も滑川・上越間が開通していなかったころで、正月休みで石川から戻るのに魚津から着けるかどうかわからないバスで高田まで乗ったものです。
前日は積雪がなかったのに一晩で2メートルの雪の降り方と雪質、積雪を観たときの衝撃と雁木のありがたみは、おなじ北陸人の僕にも興奮と感動を覚えたものです。その後、新潟市・長岡市と移動したんですが、北にあるのに滅多に雪が積もらない新潟市、上越よりもっとすごく積もる長岡の融雪の噴水や六日町・十日町の豪雪地帯を目の当たりにして、カルチャーショックを受けましたねえ。でも10年以上を新潟で過ごしたおかげで、あっちこっち行った中でも僕には一番住み心地の良かったのが新潟県でしたねえ。雪のおかげか水が豊富で美味しいし、その水で炊く米の味は全国一は過言じゃない
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余談が長くなってしまいましたが、この上越市を代表する偉人・有名人は誰かと云えば、誰もが挙げるのは上杉謙信なんですが、、、それじゃ、もう一人挙げろと云われれば、他県の人にはなかなか思い浮かばないんですよね。しいて挙げれば、金谷山で日本最初のスキーを伝えたテオドール・フォン・レルヒ少佐。上越市のイメージキャラクターでレルヒさんとして御土産にも隠れた人気があります。でも実際にはオーストリア人だし高田滞在もそんなに長くないんですけどね。
他に僕が思いつくのは、徳川家康の実子ながら転々と虜囚生活の生涯を過ごした松平忠輝(高田藩初代、徳川家康6男)、浄土真宗・親鸞聖人の妻・恵信尼、日本童話の父と云われる小川未明といったあたりですか。。。でも忘れてはいけない重要人物が一人
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この肖像写真の人物をご存知でしょうか。意外に上越出身だと知られていないんですが、日本、特に東京に残した業績は特筆すべき人物です。ちなみに僕も上越に来るまで、上越生まれとは知らなかったのですが、誰もが顔だけはよく知っている人物です。まあ、名前の方もクイズなんかで何て読むみたいなので登場していますが。。。

それが、前島密 「まえじま ひそか」と読みます。この顔に見覚えはありませんか。。ご存知の方もいると思いますが。。日本郵政の父と呼ばれている人物です。中曽根さんが首相時代に密を「みつ」と読んで失笑を買ったことがありましたねえ。密自身が他人にミツと呼ばせていた事実もあるそうですが、「ひそか」が正式です。流通切手の中でも歴史の長い1円切手の肖像画像になっていますから、一度くらいは観たことがあると思います。この人物、明治における郵便はもちろんですが、当時の世界・欧米諸国から奇跡だと呼ばれた明治の文明開化の事業に広く深く係わった人物です。その人生は国内の近代化整備に尽くした実務型官僚、後には実業家・実務型政治家のお手本とも云える人物です。

現在の普通切手・一円切手の意匠に使われている画像ですが、普通切手としては昭和21年(1946年)に発行された15銭切手が正式な始まりですが、この時は体の向きはそのままで顔は本人から見て右斜め向きです。翌年、発行された1円切手は印刷画像の荒いものですがこの画像と同じ左向きになり、昭和26年以降に発行されたものは鮮明なこの写真画像で額面やNIPPON表示の変更はありますが、この意匠が現在も踏襲されており、65年間意匠が変わっていない一番見慣れた切手になっています。
平成になってから発行された記念切手は顔が右向きが使用されています。
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前島密は天保6年(1835年)に越後国中頸城(なかくびき)郡津有村下池辺に上野家の次男として誕生しています。現在は上越市下池部神明替にある池部神社の地になります。下池辺の地は江戸期初期は高田藩でしたが、その後は天領となっており池辺一帯の郷蔵が置かれた地でした。父親はこの地で300年続く豪農・上野助右衛門、母は高田藩士の妹・貞(てい)。
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上野家は大正3年(1914年)になって東京に移住したために土地は人手に渡っていたのですが、前島密の遺徳を偲んで、地元有志の募金によって土地を買戻し、鎮守三社を合祀した池部神社の敷地内の前島密生誕地である屋敷跡地に大正11年(1922年)に生誕記念碑を建立しています。題字は日本資本主義の父と云われた渋沢栄一。これが現在の前島記念館の始まりになります。
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ちなみに池部(池辺)神社の創始は不明ですが、前述の幕府郷蔵の鎮守として江戸期は稲荷神社となっていましたが明治14年(1881年)に元の名に戻ったそうです。向かいにある西本願寺系の明安寺の本堂は慶長(1596年〜)以前の建物と云われており、前島密生誕当時をつたえる数少ない建物です。
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昭和6年(1931年)、現在の記念館の向かいにある前島池部郵便局と稲田郵便局の発起、一般からの寄付で前島密を顕彰する記念館が建てられています。当初は上越郵便局長会が維持管理していたのですが、昭和12年(1937年)国に寄贈されて当時の郵政資料館(現・郵政博物館)の分館として現在に至っています。
現在の本館建物はレンガ仕立ての美しい建物ですが、昭和56年(1981年)に新築されたものだそうです。僕が初めて訪れたのはその数年後でしたが改装中か何かで入れず、別館に移されていた資料を見学したんですが、今回初めて本館を見学させて頂きました。入場料無料の施設ですが展示物は非常に充実しており、前島密関連の資料・書簡・手紙類など約200点が収蔵されています。
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前島密自身は官僚・実業家・政治家として中央で活躍しており、晩年も神奈川・西浦(現在の神奈川県横須賀市芦名)に別荘・如々山荘を建てて隠棲して余生を送っています。墓所も当地にあり、束帯姿の像が立つ変わった墓標で知られています。画像の像はそれを映したものだと思われます。

開館が私的な記念館の割に資料が充実しているのは第2次大戦が大きく影響しています。戦争末期になると空襲による焼失や散逸を畏れ、東京の郵政史料館の資料類の相当数が分館である記念館に疎開していた経緯があり、資料館に資料が戻される際に相当数の前島密関連の資料が残されたようです。
画像また記念館の横にある生誕記念碑の前に立つ巨大な前島密の銅像は、同じく東京の逓信省庁舎に付属した資料館前に大正5年(1916年)に建てられ、立憲改憲党設立に共に働いた大隈重信・箕浦勝人(逓信大臣)・渋沢栄一などが祝辞演説を行っており、晩年隠棲していた本人も除幕に出席した逓信省のシンボル的存在でした。戦時の金属供出で撤去されたのですが、溶解寸前で終戦を迎え難を逃れ、現在の記念館横に移設された経緯があります。自身が発展させた逓信省から東京の町を眺めていたものが、まさか自分の生れ故郷の姿を眺める銅像になるとは本人も思っていなかったでしょう。
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個人の名前が冠された郵便局はここくらいだと思いますが、記念館の前にある「前島記念池部郵便局 」の横には記念館の別館があります。こちらは展示物は多くありませんが、さすが郵便局の付属施設です。古い時代の郵便ポストや前島密関連の普通切手・記念切手が全種類に渡って展示されています。中には切手ファン垂涎の明治大正の切手まで。。大きな面積の割には展示物が少なくさびしい感じですが、なかなか必見の逸品があります。昔、子供のころに切手収集を始めてわずか半年で挫折した僕ですが、それでも名前だけは知っていた貴重な切手もありました。そうそう、「切手」もそうですが「郵便」「葉書」と云った名称も前島密の考案です。ちなみに記念館の館長さんはこの郵便局の業務も兼ねているんですが、土曜とか夕方前に行くと記念館や別館の資料を懇切丁寧にしてくださいます。

前島密の経歴ですが、その波乱万丈さと業績や手掛けた事績そして当時としては高齢の84歳と長寿なので長くなりますが、ご勘弁を。。前島密はこの地で生まれ、名を房五郎と名づけられています。7歳の時に父が死去して、母と共に叔父を頼って糸魚川に移ります。叔父が糸魚川藩(清崎藩)の藩医ということもあって、最初は医者を目指して10歳で高田藩に遊学、12歳で江戸に出て幕医や官医に修学しています。ところが、14歳の時に叔父が死去して母が池辺の兄の元に戻ると、江戸に留まったまま医学から離れて他の学問に進みます。叔父の死去前後からは苦学として収入を得るために政治・兵法の書の筆耕(書物の写字や清書)を生業にしていたと云われます。ここから、西洋事情や兵学・航海術などに詳しくなり興味を持ってそちらに道を求め、知己も増えたと云われています。この知己によってペりー来航では接見役の従者として浦賀で黒船や兵員をつぶさに見ていますし、数学・砲学・兵法などの教授を受ける機会を得て、その後(22歳)には軍艦操練所の生徒・見習い生として乗船しています。ここで名を巻退蔵と改名しています。

20代前半の観光丸・箱館丸での実習、測量航海によって、機関学・航海技術のエキスパートになった後は、松江藩、福井藩、和歌山藩の持ち船の機関士兼教授として乗船して名を高めていきます。記念館に当時の密のメモや模写が残っていますが、詳細な画入りで克明につづられています。
長崎滞在中にアメリカ人牧師から英語・数学を習っており、向上心と欧米への憧れは衰えることはなかったようです。28歳(文久3年、1863年)には幕府が初めて欧州に派遣した文久遣欧使節の通訳の従者として渡航のチャンスを得ましたが、長崎から江戸に向かう船が途中で故障で、乗船が間に合わずに長崎に戻っています。
長崎に戻ってからは、自分の苦学の教訓からか苦学生向けの私塾を開いたりしてます。
しかし、このことから薩摩藩の洋学校(開成所)に、藩士待遇で英語教授として招聘されます。その期間は1年に満たなかったのですが、この経験は後に直属の上司となる大久保利通との係わりに繋がります。教授職が1年に満たなかったのは兄の死が原因で帰郷を余儀なくされたものでしたが、葬儀には間に合わずそのまま江戸に帰ることになります。

31歳(慶応2年、1866年)は、本人にとっては一大転機の年になり、幕臣で京都見廻組・前島錠次郎の養子となり前島来助(来輔、くるすけ)となります。更に生涯の伴侶となる奈加(なか、仲子、当時18歳)を同じ幕臣の清水家から迎えています。この時点では無役でしたが、後に漢字廃止運動に繋がる「漢字御廃止の儀」を将軍・徳川慶喜に提出しています。提出書は採用されませんでしたが、幕府開成所(後の東京大学の源)に反訳方(翻訳・通訳)に採用されています。翌年には養父が亡くなった後ですが、正式に開成所数学教授となって役付きとなり、兵庫開港の事務方にもなっています。

大政奉還を聞きつけた際には、後の政府運営のために徳川慶喜に直轄領の移譲となる「領地削減の儀」を提出し、小田原では官軍折衝役にもなっています。大政奉還後の遷都に関しても、大阪遷都を進めていた大久保利通を建白書提出と説得で東京遷都へと翻意させています。幕臣ながら、改革派の本領を発揮した感じです。

大政奉還後は駿河藩留守役・公用人となっていました。この頃に前島密と改名しています。
34歳(明治2年末、1869年)明治政府に召し出されて官僚としての道を歩みます。その業績は多岐に渡り、綿密な精査と緻密で正確な見積、実行力には定評があり、上司の信頼は絶大だったようです。上司としては大久保利通、大隈重信が主になったようですが、二人の政敵とされた伊藤博文・榎本武揚などからも省庁を越えて、助勢依頼を受けて実務をこなしています。前島密が駿河藩から政府に召し出された時の出仕等級は9等で、15等級中の中間管理待遇でしたが、これらの実績で毎年のように位階が上がり、わずか4年で大蔵省のNO.4の大丞(たいじょう)、3等出仕に登っています。43歳(明治11年、1878年)帝国議会開設前の明治政府の立法機関となる元老院議官に選出され実務型政治家に転身しています。

この間の業績としては、、、、
郵便制度の立案と確立・・・最初は東海道宿駅を利用することから初めて、数年をかけて全国統一を果たしています。その間に郵便為替・郵便貯金を創業させ、郵便保険(生命保険)の構想も立案しており、現在のゆうちょの基本四業務を確定しています。
陸海元会社(現・日本通運)の設立に認可の関与・・・郵便制度による飛脚・輸送の変化に対応するため
郵便報知新聞(現・スポーツ報知)、まいにちひらがなしんぶんしの創刊・・・前者は当時は東京5大紙の一角になっていました。後者は全文ひらがなの新聞、漢字廃止論の副産物。
鉄道建設の建設費・営業収支の見積の作製・・・この見積書(鉄道憶測)は、記念館に展示されていますが、正確詳細の出来で指導した外国技官を驚かせています。この見積を元に3年後に新橋・横浜間が開通しています。
訓盲院設立・・・後の東京盲唖学校の設立、現在の特別支援学校制度の基礎
西南戦争時、大久保利通に変わって内務省代行及び警視庁事務監視・・・東京の治安維持と九州への警察官派遣。
第一回内国勧業博覧会審査官長。・・・ただ、政府のもくろみは産業創出の富国と輸出品の創出でしたが、イベント性が強く政府内の評価は低かったようです。
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郵便制度の父と云われる業績はこの期間(約8年間)に限定されるのですが、その功績がいかに大きかったかが覗われます。内務省業務を代行するほど大久保利通とは公私に深い交際があり、記念館には大久保からの私的な手紙も展示されていました。性格の勤厳実直さは似た者同士と云った感じですが、手紙には多少のユーモアも交じっています。大久保利通の暗殺事件(紀尾井坂の変)には、前島密は直後に現場に駆けつけて生々しい証言を残しています。
前島密が政治家として転身する時期は大久保の死と交錯します。その後の事績や行動を観れば、大久保を自分の模範にしたと云えると思います。
政治家に転身した前島密は内務省、大蔵省を中心に前述の榎本武揚の要請により農務省も兼務。開港によるコレラ対策の為に東京地方衛生会の会長兼務など多岐に渡る事業を手掛けています。ここまでの明治草創期における文明開化と呼ばれる東京文明の創造主・大恩人の一人といえます。

明治14年(1881年)の政変で直属の上司(大蔵卿(大臣))の大隈重信が下野すると、行動を共にして翌年立憲改進党に参加します。
明治14年の政変は薩長土肥の連合政府から薩長閥に移行する複雑な政権抗争や自由民権運動の高まりの中、政府内でも新憲法や国家体制(君権主義か立憲君主)の意見の温度差、更に国家財政の悪化補填問題も絡んで混乱していました。この中で朝ドラ「朝が来た」でディーン様が演じてすっかり有名になった五代友厚に対する開拓使長官・黒田清隆(薩摩閥)の官有物廉価払下げ問題が発覚。これをリークして排斥運動にしたのが大隈重信の大蔵省でした。この利敵行為に、憤激する薩摩閥に伊藤博文の長州閥も同調して大隈排斥となります。この際に払下げの中止、10年後の国会開催、体制決定の一時白紙が決定します。この決定は大隈罷免の交換条件だったと覗われます。国会開催の10年後決定は大隈に自派態勢の準備を与えるもので、この後大隈は自由民権運動をまとめるために保守系野党となる立憲改進党を設立します。ただ、この政変で棚上げとした国家体制ですが、先に下野した板垣退助や大隈重信が去ったことで、薩長閥の強化・君権主義・プロシアワイマール憲法を手本とした大日本帝国憲法が政府方針に固まった瞬間とも云えました。

立憲改憲党の方針看板は「王室尊栄・人民の幸福」。政治方針も政治漸進主義という段階的な整備を目指すというものでしたから、支持基盤を都市部の商業資本家・知識層に置いていました。このためというか党員には、民間企業の設立や要職に就く者が目立ちます。このために、幾つかの派閥が出来てなかなか纏まらないという欠点がありました。これに対して、もう一つの自由民権運動を代表した板垣退助の自由党は、フランス流の主権在民思想で下層民や旧士族が支持基盤でした。やはりフランスを手本にすると革命的になり、各地で過激な行動に出やすいものがありました。本来ならこの二党が大同して協力できれば、民主基盤の国家ができたかもしれませんが、結局は足の引っ張り合いの泥仕合になり、両党ともに内部分裂を起こし、大隈は一時脱党と復帰を繰り返し、自由党は解党、結局両党が大同合併したのは国会開設ぎりぎりで、政局は混乱をきたすだけでした。

前島密も明治十四年の政変前年には内務省では内務省補、駅逓総監を兼務していました。ちなみに内務省は戦後に廃止された部門ですが、地方行財政・警察・土木・衛生・国籍・出入国管理・国家神道など、今でいう総務・国土交通・厚生労働・文部科学の各省と法務・環境省の一部業務、更に警察・公安・神社本庁を合わせたもので実質的に国内業務のほとんどを担っていたといえます。国会開設・内閣成立以前は実質的には内務省の内務卿は国の首相といえます。つまりこの時点での前島密は、首相補佐官と国土交通大臣を兼ねた存在だったといえます。明治十四年の政変は大隈重信という首相・内閣が退陣させられたということになります。

政治実務を離れた前島密は前年に創設された日本海員掖済(えきさい)会の前身・海員寄宿所の開設に委員として尽力。掖済会の名は前島密の命名です。日本海員掖済会は海運の近代的発展を目指して環境の改善・船員の生活改善・育成を目指して、宿泊の提供に加えて、乗船の斡旋、船員の教育訓練、遭難船遺族への弔意・慰安、船員に対する医療の提供、福利厚生を担っていました。また日本初の公益法人であることも知られていて、戦後の事業解体では公益法人として医療事業体として存続された経緯があります。
現在は船員以外にも開放されていますが、船舶への医療相談・指示の24時間対応。離島・僻地の無料巡回医療も行っています。世界でも唯一の洋上救急制度の重要な一翼を担って活動しています。

幕臣時代に国民に識字率向上を目的として将軍・徳川慶喜に「漢字御廃止の儀」を奏上したり、ひらがな新聞を発刊し、本人自身も英語習得・教授など外国語に苦労した分、後には盲訓院(東京盲唖学校)の設立や役員参加、国語調査委員会の会長に就任するなど、教育と国語改革には情熱を持ち続けていました。
この時期には、政府からの妨害や.経営難に苦しんだ早稲田大学の前身・東京専門学校二代目校長に就任しています。ちなみに、後の早稲田創設の際(明治34年(1901年)には基金募集の責任者となり、息子の弥(わたる)と共に初期の校賓になっています。

国会開設前ですが、敵対関係の政府に請われて逓信次官に復帰、電信電話の官製化を決定。電話交換業務を整備電話事業を開始しています。その翌年(明治24年(1891年))に退官。実業家に転身します。
その後も、東京馬車鉄道(日本初の私電、現・東京都電)・北越鉄道(現・直江津・新潟間)・関西鉄道東洋汽船京釜鉄道日清生命(現・T&Dフィナンシャル生命)などの社長・監査役・役員として、鉄道敷設や整備・管理業務に参画しています。これらの前島密の手掛けた創始ともいえる事業や企業は前島密の生前後、国営・合併・民営化などを繰り返し形態は変わっていますが、現代にも続く事業や企業形態として残り基盤となっています。

実務官僚・政治家・実業家の功績が認められ明治35年(1902年)男爵に叙任され華族に列せられます。翌翌年からは貴族院議員として活動。落馬事故で片目の視力低下で苦しんだようですが、実務能力に関しては頭抜けており、伊藤博文・大隈重信・渋沢栄一などから見舞いや現場要請の私簡が残されています。頼まれると断れない性格で、誠実に多くの実務をその後もこなしています。彼の人生はほとんどが実務・補佐業務に徹しており、請われれば組織の分け隔てをつけず、業務にめどが立つと潔く引いており、管理に対しても厳正で、利権という言葉が見当たりません。
前島密の名言としては、逓信次官を退官し、実業家として野に下る際の言葉が残っています。今の議員と呼ばれる政治家や国・県、市町村を管理する職員は肝に銘じてほしいものです。

誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない。
縁の下の力持ちになることを厭うな。人のために良かれと願う心を常に持て。

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明治43年(1910年)75歳で貴族議員及びその他の職務をすべて辞任。神奈川県西浦村(現・横須賀市芦名)に建てた如々山荘に入って隠遁生活と称して政界・経済界から完全に関係を断ちます。
退職後は悠々自適に九州旅行をして過ごし、如々山荘に入ってからは趣味の尺八、漢籍、水墨画に没頭したといわれています。これらの作品も記念館に残されていますが、見入らせてくれるような作品群です。漢字廃止論者として穿った見方をされていますが、これを見ると漢字を嫌ったわけではないのが解ります。
趣味の合間には妻の仲子夫人と仲良く過ごしており、近在の子供たちと海水浴などをして、現役時代は見せたことがない笑顔で戯れていたといわれます。ただし、厳正謹厳の性格はそう簡単に隠せるものではなく、商店や御用聞きの請求書や領収書の数字や字が間違っていると烈火の如く怒鳴り、ご近所や商店からは雷親父と呼ばれてもいたそうですが。。。それ以外は好々爺然としていて人に好かれ、夫婦仲はよく冗談を言い合う仲だったようですが、山荘生活6年目に仲子夫人が69歳で先立ち、その後は塞ぎ込んだように衰弱して1年余り後に後を追うように亡くなっています。大正8年(1919年)4月27日逝去。享年84歳。

あまりに重要事績が多くて長い文章になってしまいましたが、前島密の残した事績は日本の近代化に貢献したものばかりです。上越出身の偉人として尊敬されるべき存在で、一度は訪れて欲しい資料館です。

旅行日 2016.10.22




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出版社郵研社発行年月2009年04月ISBN9784946429200ページ数295P9784946


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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
確かに 電化製品んて一つ壊れると連鎖反応おこすのかと思うくらい必ず1個では済みませんね それにしてもこれだけたくさんだとほんとう 大変ですね
やっぱりお祓いしなくてわ(笑)
誓って兄弟の血はすすらない。税金で飯を食おうとは思わない。
縁の下の力持ちになることを厭うな。人のために良かれと願う心を常に持て
素晴らしいですね こんな人に総理大臣やってもらいたいですね
がにちゃん
2016/11/21 11:25
パソコンが壊れて大変苦労をしているようですね、その上に慣れないソフトで難儀しているようすで同情します、近頃の家電品は保証期限が切れた頃には壊れるように出来ているようで、我が家でも今年は洗濯機、冷蔵庫、エアコンが壊れました、基盤が壊れてしまって保養期限が過ぎていて部品がなくて泣く泣く新品にしました。
直江津、高田、新井は豪雪地帯ですね、つとつとさんの写真にもありますが、街の通りがアーケードになっていて、大雪で通りが通行できない時でもこの下を通行して買い物が出来るようになっていますね。
前島蜜の事は日本郵便の父だと知っていましたが、上越出身だとは知りませんでした、勉強不足です。
2年ほど前に友人と上越市頚城の坂口記念館へいって来ました、ブログの記事にもしましたが、農学博士で酒の酵母やワイン菌を研究した坂口博士の酒の記念館です、上越は雪深い地域ですが立派な人を沢山輩出していて驚きます。
go
2016/11/21 14:03
またまた 新しい歴史のページに出会えました

上越というと金沢より身近な感じです 郵便報知新聞(現・スポーツ報知)、まいにちひらがなしんぶんしの創刊に興味あります

いろんな事を教えていただけるつとつとさんブログってすごいわ〜 
メミコ
2016/11/21 18:16
大正8年に 84歳で…今の時代なら「 100歳越え」ぐらいの感覚?
何かが壊れると 次から次へと こわれますが ある人が 言ってましたが 「人間の代わりに 壊れて くれている」だそうです!確かに そう思うと「ありがたい話」ですよね!
まだこもよ
2016/11/22 07:43
前島密さんというと、私には
大変馴染み深いものがあります。
というのも、大分前に以前の職場で、
前島密のお孫さんと同僚となり、
机が隣だった事があるからです。
同僚とはいえ、彼は年上の大先輩でしたが、
(お亡くなりになって、かなり経ちます。)
御本人のいない時、皆さん「男爵」と
親しみを込めてお呼びしてました。
お孫さん自身の経歴については、お話を聞いた
事があるんですか、祖父の密さんの思い出を
聞く機会がなかったのは残念です。
記事を拝見して、よくこんな方のお孫さんと
一緒に仕事が出来たとものと、
我ながらちょっと不思議な気がしました。
yasuhiko
2016/11/23 14:14
前島密・・・。
名前は聞いたことあるけれど、という人物の代表みたいな感じですね。
雁木といえば、栃尾や与板にもありますよね。
雪の時期は(スキー以外)あまり新潟には行かないので、雁木の威力を本格的に感じたことはありません。
こんど雪の時期にも行ってきたほうがいいかもしれませんね。
家ニスタ
2016/11/23 23:04
がにちゃんさん
まったく、これだけまとめて壊れるとたまったもんじゃありません。救いは月一の間隔だったことくらい。ただでさえ苦しい生活が完全に金欠病になっちゃいました。。
名前を知れど、業績はあまり知られていない人物ですが、その業績はすごいし、もっと評価される人物です。

goさん
PCが壊れて、久しぶりにPCを買いに行ったらウィンドウズ10に変わっていて、どれが良いやら悪いやら、久しぶりに展示品のPCの電源を消したり点けたりして選んできました。しかも円安で以前より高くなった感じ、タイミングが悪かったですね。。
上越出身にはやはり粘る強さがあるみたいで、この前島密や坂口博士が代表者ですねえ。以前まで坂口記念館のある頚城村が上越市になって、上越に対する感覚が少しずれてしまっている僕ですが、頚城や犀潟・柿崎あたりにも足を延ばしたいと思っています。

メミコさん
今回の前島密は神奈川の横須賀に眠っています。晩年を過ごした如々山荘は芦名の浄楽寺の境内にあったんです。この浄楽寺は国宝や重文指定の仏像がけっこうあるんです。海の景色も良いしメミコさんにはおすすめの場所ですよ^^
前島密は子供の頃から興味があったんですが、まさか上越出身とは。。知ったのも統治に行くまで知りませんでした。知らない土地にも出かけなきゃですね。

まだこもよさん
人間の代わりに来れてくれる^^なるほどそう思えば少し肩が軽くなりますね。
云われてみれば、今年は大きく体調を崩してないような。
でも出費は痛いですよ><

yasuhikoさん
お〜〜 前島密のお孫さんと同僚@@ うらやましい〜〜 僕の尊敬する一人の子孫、そんな機会はなかなかありませんからね。お孫さんなら間違いなく戦後までは男爵。バロン前島ですねえ@@
つとつと
2016/11/26 19:58
家ニスタさん
確かに昔から名前の読み方とかで、みんな知ってるんですが、郵便以外は全く知られていませんが、実際の業績はものすごい人です。
初めて上越に行ったとき、通りに雪が積もって、この雁木がトンネルのようなるんです。さらに豪雪の時は道路に一斉雪落としで道路が埋まって貴重な通行路でした。このせいで道が狭く感じるんですが、雪国の生活の知恵ですね。
つとつと
2016/11/26 19:58

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前島密記念館 つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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