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zoom RSS 境関所A 境関所跡

<<   作成日時 : 2016/12/15 12:38   >>

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現在は主要道路になる国道8号線は当然ながら江戸時代には存在せず、前回紹介した境一里塚横の海沿いの街道を500m程進んだ先に、境関所が明治2年(1869年)までありました。
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現在は境関跡はほとんど痕跡はないのですが、旧境小学校の跡地と道路を挟んだ向かいの空き地と数軒の民家が境関跡に当たります。境関所は大きく分けると小学校跡地の岡番所と、向かいの空地及び民家と海辺までにあった浜番所。後で画像を紹介しますが境神社の階段を登って、更に国道を横切った先にある山を登ったところにある二つの御亭(おちん)と呼ばれた見張り所から構成されていました。境神社の境内が展望台になっており、境関所の全景が把握できます。
年ごとに強化されて規模の拡大・人員が増やされ、武器類も多く保有しており、その規模・人員・武器数は、有名な箱根の関所を上回る全国一といっても過言ではない厳重な関所でした。

古来からには国境としての施設が置かれていたようで、古代朝廷では公務で。ここを通って境川を越えて行くときには、馬を用意したと云われています。馬匹の用意施設が当地にされていたのではないかと思われます。当地の文献として境関について名前と共に出て来るものとしては、資料館の年表に書かれていましたが、永正15年(1518年)伊達稙宗(伊達家14代当主、伊達政宗の曽祖父)が、当主就任の左京太夫任官にあたり朝廷御礼の使節派遣の際に、経費として「二百文。境川の関の庭立共に御酒の分」と記述されているそうです。

加賀藩としては前田利長在世時までは口留番所として数名の番兵が置かれていたようです。慶長19年(1614年)治安目的として幕府の許可を得て関所を開設しています。初代奉行・長谷川宗左衛門安定は100石持身分ですから下士だと思いますが、足軽3名、小者数名で始まっています。形としては口留番所の形態に変わりはなかったようです。その後徐々にですが、人員が増やされ規模も拡大したようです。
境関の規模が拡大強化されたのは2代奉行・長谷川宗兵衛吉久の時代(寛永16年(1639年)〜万治3年(1660年))と思われます。吉久は1000石持で上士になります。寛永8年(1631年)幕府から謀反の嫌疑をかけられ危うく難を逃れた寛永の危機を避け、三代藩主・前田利常が加賀藩の家督を長男・光高に譲り、次男・利次に富山藩10万石、三男・利治に大聖寺7万石、自身の隠居領・小松20万石と大国を分割して恭順を示した形になっていました。ただ、反面では対幕府への警戒と防備も急務になっていました。不安材料としては、加賀藩内が対幕府に強硬派・利常友好派・光高に親子で意見が分かれていたことです。
長谷川地蔵尊 レプリカ
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それを現すような話が残っています。境関所の資料館である「関の館」の前にある四体の地蔵尊「長谷川地蔵」について、この地蔵は2代奉行・長谷川宗兵衛吉久親子に係わるものです。

吉久の奉行期間は長く21年に及びます。これは歴代奉行では最長で、この期間に与力2名が増員され、足軽10名、小者5名となり武器武具の保有も充実していきます。
吉久は利常寄りの人物だったらしく利常の内諾を得て、藩主には黙って国法を破って娘を市振の商家に嫁がせています。隣国の情報収集が目的だったとされています。ところが万治3年(1660年)このことが藩主・光高に露見。利常の内諾と聞いても容認せず吉久、長男、次男を切腹させています。更に近くの寺に匿われていた三男・昌吉も捕縛され斬首されています。これを哀れに思った村民によって地蔵尊が作られ、高台にある真言宗護国寺の境内に置かれ、親子4人の菩提を弔ったとされます。ちなみに護国寺は国境寄りの地獄谷にあったのですが兵火で荒廃していたために、吉久が現在地に移転したものだそうです。
護国寺で地蔵尊の写真を撮ったはずなんですが、画像が残っていませんでした。境関の関の館前に地蔵尊と由来碑がありますが、近年に作られたものです。

境関所史に記録が書かれているそうですが不審な部分があります。長谷川親子が処刑された万治3年(1660年)ですが、この年には利常・光高親子は二人とも生存していません。光高は正保2年(1645年)に29歳の若さで急死。次期当主が3歳と幼いために後見として藩政復帰した利常も万治元年(1658年)に亡くなっています。事件発覚・処刑の年は5代藩主・綱紀の治世になるわけです。記述の年や処刑についてはまちがいないようで、不祥・不正事件の結果だという話もありますが、実際はどうだったんでしょうか。

何はともあれ、2代から5代奉行の27年間、奉行職には1000石以上の人持組(上士)が就任しており、この期間に境関所の基本構造が完成して行ったと思われます。ちなみに幕末までに奉行職は42名。内1000石以上の人持組は過半数の24名。残りも500石以上の人持組並の者が選ばれています。人持組以下とはいえ和田・茨木・青木・高田家など名前の知られた著名な経験者の家が2度3度と就いています。
境関所の年表(参考文献:富山県史、曽良随行日記、境関所史参考)をみると、施設の被害報告や補修修理は逐一加賀本藩に報告・許可申請を行っていますが、人持組以下の奉行時に多くみられ、人持組の奉行にはこれが見られず、ある程度の自由裁量・判断が与えられていたようです。
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天明5年(1785年)藩命で作製された関所の平面図によれば、
境小学校跡地に復元した関所の大門が建てられていますが、実際に建っていた位置はここから80mほど東の街道を跨ぐように東からの入口として建てられていました。国境の関所という性質上から、東の警備が重視されており大門の前には18.4間X14.2間(33.6X25.8m)の升形が造られ、一度に大勢が通れないように制限していました。
岡番所側には長屋・関所門・番所の建物約50mと懸塀、海側には上部に小竹を植えた石垣積が升形を含め約100間が続き、通路幅は約6mとはいえ圧迫感を与えたと思われます。この100間(約180m)に及ぶ通路は長さの通り、百間道と呼ばれていました。
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岡番所の背後には急激な崖面と山が迫り、東西には海側の石垣積と同じく、上部に小竹を植えた石垣積が約75m、70mが崖山から施されていました。いざとなった時には、この石積の範囲(約80X180m)の岡番所が砦や城の防御施設に変わるものでした。

岡番所には、前述の17間強の長屋+門+6間の番所(計約50m)が通行路に面して圧するように建ち、奥の敷地に板塀と火除け塀で囲むように、参勤交代時の藩主や幕府高官のの宿泊所となる「御旅屋」。その脇に奉行の宿舎「御貸屋」。東側に与力の宿舎。更に東側は空き地として藪にしています。
西側には御塩蔵御塩蔵は大きな縦長の蔵と予備蔵から構成されていました。は古くから製塩業が主要産業の一つで、境関奉行はもう一つの主要任務として塩の輸送・管理業務の蔵奉行を兼ねていました。御旅屋との間の石積みの塀、関の東側の広い火除け地といい、御塩蔵への延焼を避ける構造は塩が重要な物品だということを現しています。




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御旅屋の後方に泉水庭園を配して中央から通路を配して裏山に登れるようにしています。この泉水は東西16間(38.8m)・南北6間(10.8m)と大きなもので、椎の古木が泉水に映る景観があったと云われますが、火災時・戦闘時の非常用水の役目を果たしていたと思われます。明治以降は国有地として小学校が建設された際に東半分が埋め立てられ、昭和44年の集中豪雨による崖崩れで消滅していました。昭和45年に縮小して復元、近年改修されて現在に至っています。
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ちなみに池の側にロダンの考える人の銅像がありますが、元々は小学校校舎の入り口に昭和16年(1941年)に二宮金次郎像として建てられたものですが、昭和30年に池の南側に移されていました。しかし前述の集中豪雨によって流失しています。池をつぶした集中豪雨はそれ程の被害を先の町に与えたそうです。昭和46年に残った台座を利用してPTAが同じ場所に寄贈したものだそうです。
復元泉水はロダン象の右にありますが、本来の泉水はこのロダン像から左手に広がってあったことになるんでしょうか。
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現在は国道8号が尾根越えに走って分断されていますが、険しい山を登った先には御亭(おちん)と呼ばれる遠見番所が上下に二カ所に置かれていました。昭和40年(1965年)礎石を基に復元されているのが下御亭で関所からは150間(273m)地点にあり、更に奥山の上部150間に上御亭が置かれていました。
この上下御亭の間には綱縄が張られて鳴子が付けられており、関所抜けを見張っていました。また、山上から海上の監視も兼ねており、山海の警戒に当てられていました。
現在は大木や葉が邪魔をしていますが、眺望の良い絶景ポイントのため、時おりですが、藩主や幕府役人などを案内して眺望鑑賞に供したと云われています。

名前の通り、街道を隔てた浜番所には岡番所で捕縛された者が入る牢屋の他に、見張り小屋があり、洋上警戒と、御亭からの合図で出港する小早が置かれていたようです。ちなみに刑場は村落から離れた西方にあったと云われています。



境小学校の跡地に建てられたコミュニュティセンター「関の館」には、境関所の全景を描いた絵図や境関所の歴史説明などと共に、天明年間の絵図から作成されたジオラマが展示されています。これを見ると境関所を実感できます。これを観てから町内や境神社・護国寺を巡って、下御亭まで登るのがおすすめです。やはり事前に見た方が場所が解りやすいです。
この展示コーナーには当時の通行手形なども展示されていますので、当時の手続き方法や交通事情も把握できると思います。
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通行手形に関しては身分や住処によって発行場所が違っていましたが、手形の男女・氏名・年齢・目的は厳しく詮議されていたようです。ただし江戸時代の長い期間には不測の事態というのもあったようです。それによって、発行場所や基準を改めていったようです。
興味深いものでは元文3年(1738年)、身重の女性が境関で出産。旅先ならその地の役所などに届けて手形の追加ができるんですが、関所の地で出産はこれが初めてで関所役人も困惑したようです。当然、届け出人数が合わなくなるのですが、さすがに特例で赤子を黙認で通していることが記されています。これが境関では数少ない一般旅人の手形なし通過になったようです。

境関所は通行制限と監視業務が厳しく、例え幕府役人・加賀藩重臣でも手形なしの通過は禁じられていました。
まあ、武士階層の方が詮議が厳しいのは当たり前なんですが、通行手形を見れば武士階層と農民の詳細な手形と一般商人の簡易な手形では手形内容も文の長さも全く違います。発行場所も細かく決められていました。加賀藩としても経済活動を滞らすのは困りますから、から西の泊市場への越後・信州からの商人や買物客は町役や旅館主人の簡易な手形で通しています。手形に関しては発行場所の規定は厳しく決められていましたが、黒部より東の住民は肝煎やお寺の和尚さんとか発行者が緩くなっていました。
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そんな中で一般市民階層で、手形なしで通過を許可された人たちが存在していました。他国になりますが市振から親不知ピアパークの近くにある歌地区までの越後山下の八か村の住人がこれに当たりました。小難しく言えば地域間経済交流のため。条件は境関の番人・役人が顔をわかる住民。そう顔パスというやつです。日帰りは手形なし通行が許されていました。初めての住民は地区の顔役の添書があれば通行許可になっていました。こういう柔軟な対応は、やはり必要だったようです。
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とはいえ、境関所は構造・立地上からも重要な防御施設であったのは変わりなく、その装備は城や大型の砦以上でした。人員も中期は30人ほどでしたが混乱期になってきた幕末には60人に達しています。
常備していた武器類も多少の変更はありますが、常備武器の内訳は・・・
武器・・・鉄砲70梃・弓30張・槍70本・番刀110腰・六尺棒30本・刺股(首金)10個・万力鎖(まんりぐさり、分銅鎖)10個
武具・・・甲冑5領・具足60領・皮笠60蓋・
その他・・・鉄砲玉鋳型14膳・鋳鍋8個
加賀藩・富山藩・大聖寺藩といった加賀本親藩には国境警備の主要関所(境・東猪谷・西猪谷・切詰・大聖寺)と口留番所がありましたが、境関所の装備は他の十倍以上の装備でした。加賀藩がいかにここを重視していたかが窺われます。
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明治2年(1869年)境関所は廃止され、明治4年には大門・御旅屋・御貸屋・柵などが競売に掛けられ、完全に姿を消し、跡地には曠達小学校に始まり境小学校が120年の期間を綴ってきました。境小学校が併合され閉校となったのが平成6年(1994年)。
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校舎跡地に境関所をイメージした形と黒で統一した関の館が開館。館内に前述したような資料館が展示されています。要注意は町の施設の為に、土日には開いていないようです。上越に向かう土曜に寄った際には開いておらず、帰り道に立ち寄った僕なのです。

旅行日 2016.10ー22.24


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タイトル (本文) ブログ名/日時
境関所B 境神社〜護国寺
境関所跡があった境小学校跡のグラウンドの東端参道を進んで、急な長い階段を登った裏山の中腹にあるのが境神社になります。拝殿前には境関所跡を広く見渡せる好眺望の展望台があります。 展望台になるところに枝を広げた木が邪魔をしていますが、春には美しい花を見せてくれる桜の大木だそうです。 ...続きを見る
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2016/12/26 20:32

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
昔は旅をするにもいろいろ大変なことがあったのですね 特に女性は難しかったとか 今の世の中に生まれて 気楽に旅を楽しめる・・・最高!
関所はこんなに武具が揃えられていたのですね 人の出入りを監視するだけではなかったんだ
海外旅行をする時にパスポートがいる・・・と同じ?
自由にどこの国にも行ける日が来れば戦争もなくなるかもぉ〜
がにちゃん
2016/12/15 16:49
土日に開いていない資料館というのは、困ったものですね。
町の施設でも、大抵は土日に開けているものですけれど・・・。
以前どこかの資料館で、祝日の月曜日に行ったら閉まってました。
たしかに月曜定休と書いてあったんですけれど、融通をきかせて祝日には開けてもらいたいと思いました。
家ニスタ
2016/12/15 23:23
なるほど「境」という地名にも、
ここが古代から、国境の地として
意識されていた事が分かりますね。
東海道の箱根を上回る規模の関所だった
という事には驚かされました。
山上の遠見番所など、監視の厳しさを
実感させる風景ですが、その一方、
顔パスの場合もあった事など、
面白いエピソードだなあと思いました。
yasuhiko
2016/12/16 14:02
国道8号線を通行すると「境川」の橋を渡ります、現在はここが県境となっているようですが、その地名から県境であることが分かります。
境の関所跡は地図で見ますと境川よりほんの少し富山寄りの位置になるようですね、藩政頃には越中藩が北の守りとして厳重に警護していたようですが、ここより北には親知らずの難所が有って、他に迂回路もなく関所としてはこの上ない立地条件の様です。
藩の禁を破って娘を他国に嫁がせた罪で長谷川吉久親子が切腹させられたことは、利常の内諾を受けていても藩主の権限はそれ以上に絶大だったようですね。
長谷川親子の切腹した日には、利常も光高の亡くなった後の事で、古文書の日付けが正しいのか首をかしげます。
go
2016/12/17 12:08
がにちゃんさん
そうそう、通行手形はパスポートと同じ感覚です。ここは国境警備地帯で、加賀藩としては対幕府には最重要地点だったんです。
入り鉄砲・出女というのがありますが、これは幕府つまり江戸を中心にした言葉で、江戸への武器流入の謀反防止と人質替わりの室・子女の勝手な帰国を警戒した者でした。逆に加賀藩なんかは流民防止と特産品の密輸防止がメインでしたから、女性より男性、特に入国より実は出国の方が厳しかったんです。国や地域はできれば広く自由な方がいいですね。
つとつと
2016/12/19 01:50
家ニスタさん
そうですよね。やはりこういう資料館なんかは一種の観光施設なんですから、土日祭日はあけておいてほしいですね。そのせいか、僕以外お客さんは一切なしで、ゆっくり見られました^^
つとつと
2016/12/19 01:54
yasuhikoさん
各地域に残る地名はその土地を現す言葉になっていますから、地名は解りやすいですねえ。そうそうこの境と親不知までの山の下地域では古くからタラ漁が盛んだったようで、名物はタラ汁です。これがなかなかの美味です。
改めてこの関所跡に立つと、絶好の立地にあったことが解ります。遠見番所までの登りも急激な尾根上に建っていますから、堅固さが想像できます。
顔パスというのは面白いシステムですが、この辺りの生活市場が今の泊駅近辺でして、国境に分けられてもお隣さんという感覚でしたから、経済的にも良好な関係だったようです。越後側の市振関も同じ感覚だったようです。
つとつと
2016/12/19 02:17
goさん
いろいろな意見があるようですが、実際には話が光高と綱紀が入れ替わったのかもしれません。そうすると、亡くなって間もない利常の内諾という言い訳も理解できます。どちらも20歳前後の若き当主ですが、発言力の強い当主でした。光高は若くして亡くなりましたが、その子の綱紀は歴代で最長の藩主期間で名君と呼ばれています。
相対する市振関は、境川の橋から少し行った市振小学校の辺りで同じような距離感ですが、どちらも関所としては絶好の位置ですね。今はどちらものどかな町ですが、国境という特殊な雰囲気は何となく今も空気の違いを感じます。
つとつと
2016/12/19 02:59

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