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zoom RSS 金沢大学の旧標石

<<   作成日時 : 2017/01/22 12:47   >>

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金沢大学の角間キャンパスには仕事絡みや福光に抜ける際によく行きます。
何度も行きながら、昨年(H28)に行ったとき、ふと懐かしいものを見つけてしまいました。

角間キャンパスに訪れると云っても、大概は直接学部棟に向かってしまうので、長らく行っていなかった本部棟の駐車場。たまたまこの本部棟でお客さんと待ち合わせをしたんです。その一角の駐車場遮蔽の緑地に、木々
やツツジの木枝に隠れるようにそれは存在していました。それが金沢大学の標石です。
大学だからあっても不思議ではないんですが、この標石は実は昔は金沢城の石川門の前に設置されていたものなんです。
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金沢大学は昭和24年(1949年)に誕生した新制大学(国立大学)。金沢大学というと前身は中央公園にある旧制第四高等学校を思い浮かべる人が多いのですが、第四高等学校と共に石川県女子師範学校・石川師範学校 石川青年師範学校・金沢高等師範学校・金沢工業専門学校・旧制金沢医科大学を母体にして誕生しています。
発足当時は6学部(法文学部・教育学部・理学部・医学部・薬学部・工学部)でしたが、現在は平成20年(2008年)に8学部を改組して3学域16学類5研究科となっているそうです。

金沢大学は金沢城内に本(丸の内)キャンパスを置いて、医学部・薬学部が金沢大学付属病院のある宝町・鶴間キャンパス、工学部の小立野(鶴間)キャンパス、その他にも付属の小中高校のあった広坂キャンパスや各町に特別キャンパスもありましたが主要はこの三キャンパスでした。

本キャンパスは丸の内と呼ばれるように旧金沢城内を利用したものでしたが、さすがにキャンパス内は関係者以外の入場は禁止されていました。入り口も大手門や黒門など幾つかありましたが、正門と云えるのは白門と呼ばれた石川門でした。この石川門の狭間までが一般観光客が入れた場所でしたが、ここにこの標石が設置されていました。最後にこの標石を観たのは記憶に定かではありませんが、ここから先が金沢大学になるんだと納得したものです。当時の石川門は鉄砲狭間を少し見れるくらいで、あまり行く回数も少なく半分忘れていたんですが。。

平成元年(1989年)から現在の角間キャンパスに移転が随時開始されて、平成19年(2007年)に角間キャンパスの道路建物が完成すると共に完全移転がほぼ完了。その後は現在までに研究棟や寮設備の拡張が行われています。ちなみに、丸の内はご存知のように整備が施されて金沢城公園に、広坂キャンパスは平和町に移って21世紀美術館になっています。工学部のあった小立野キャンパスには金沢美大・石川県立図書館の移転が計画されているようです。

完成後も何度か本部棟には行っていたんですが、木が茂った上に躑躅の生垣に隠れていて気付かなかったんですねえ。この標石が全く気づかずにいたんです。。小中学の頃の印象が強いのでもっと大きい印象があったのですが、意外に小振りなんですよね。。

この標石の由来については、側に説明版がありました。

金沢大学 石橋雅義先生(一八九六〜一九七八 本学第二代学長)の書

この標石は、石橋先生の学長退官(一九六七年九月)を記念して石川県から寄贈され、当時の丸の内キャンパス(金沢城跡)の石川門前に設置されたが、総合移転第T期計画事業の完成に伴い、一九九六年三月に角間キャンパスに移設されたものである。
この標石は自然の梅林石(高知県産)で。先生の揮毫により「金沢大学」の四文字が刻まれて本学の正門標石とされ、長く市民にも親しまれたものである。
角間キャンパスには新しい大学標石(戸室石)が完成し、この標石はすでにその責務を終えたものであるが、後世に歴史を語り継ぐため、当時の石川門前お。。。。を付してここに設置する。  金沢大学


石橋雅義氏については、京都大学の理学博士というくらいしか知らないので、、、
ことバンクから引用。。

石橋雅義(1896−1978) 昭和時代の化学者。
明治29年12月7日生まれ。石橋太郎兵衛の孫。昭和11年母校京都帝大の教授となる。のち金沢大学長,奈良大学長をつとめた。放射性同位元素を分析化学に利用し,また海水中の微量元素を27種みつけた。36年学士院賞。昭和53年9月18日死去。81歳。千葉県出身。著作に「定量分析実験法」など。


それにしてもこの標石は移転してから20年になるというのに(その間何度も角間には訪れたり、通り道にしたりしていたのに。。)
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ついでに、現在の標石は大学中央バス停の側の泉水にあります。重量47トンで、江戸期に金沢城の石垣や上級武士の屋敷・寺社仏閣に使用された地元産の赤戸室石の巨石を使用しています。揮毫は移転当時の学長・岡田晃氏によるものです。ちなみに、この標石のある泉水と後方の壁は金沢城の石垣と堀をイメージしたもので、同じく戸室石の赤青を組み合わせています。横の石段も104段あるそうです。遅刻寸前の学生が猛ダッシュで駆け上がったり、バスに間に合うように駆け下りたりしています。

旅行日 2016.06.07



今回は画像が少なくて寂しいので、昔の画像を。。少し。。
撮影日2011.11.22 自然科学2号館 エントランス
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撮影日2011.11.22 自然科学5号館
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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
標石というと、三角点や水準点を
思い浮べますが、これはキャンパスの
境界を示す標石なんですね。
大学が出来た当初は、金沢城内に
キャンパスがあったなんてびっくりです。
でも、駐車場の緑地に取り残された
今の姿は、ちょっと侘しい気もしますね。
yasuhiko
2017/01/22 14:55
yasuhikoさん
境界というより玄関の表札みたいなものなんですが、昔はこれが大きく見えたんですが、今見ると意外に小さかったんだなあと思ってしまいます。まあ、今の標石が大きすぎるというのもありますが。。
金沢城時代には僅かに残っていた重文の三十軒長屋が書庫の一部だったりしていました。今の城内も広く見えますが、新しい角間のキャンパスも広大な規模です。ただ、街中にあった丸の内と違って、山奥ともいえる場所なので冬は大変^^毎年、雪情報でセンター試験は大わらわみたいです。
つとつと
2017/01/22 18:01
大きいですね  いつも思うのですが こんな大きな石をどれほど苦労して運ばれたのかと・・・  金沢城内に有ったのですよねキャンパスが・・・  
がにチャン
2017/01/23 15:19
がにちゃんさん
大阪城や伏見城みたいに県外の石材を使用せずに、金沢城の石垣の大半は近くの戸室山の石材を切り出していたんですが、それでも8〜15キロの距離があって、運搬は相当の労働力を必要としたようです。運搬路の小立野の近代病院前の道には石引という地名が残っているくらいです。金沢城の石運搬にはそりで滑らせる修羅引き、大勢で天秤を担いで歩く石釣り、台車に石を載せて運ぶ地車といった方法を使ったようです。
大石はたいへんな作業だったと思います。
つとつと
2017/01/24 02:40
つとつとさんこんにちは、私が金沢に来た頃(45年ほど前)には金沢大学のキャンバスは現在の金沢城の中にありました、金沢に来た当初は珍しさがあったのと兼六園は当時は無料だったので休日には良く兼六園に行きました、石川門に行って矢狭間や遠目に珍しい鉛瓦を見ていました、その時に金沢大学の標石も見ていましたが「金沢大学」彫られた標石がとても威厳に満ちて見えた事を記憶しています。
自宅に金沢大学の生徒さんを下宿で受け入れていた関係で学園祭の時にキャンバス内に入った事が有りますが、木々が鬱蒼と茂っていて都心にこのような所が有ることに驚いた記憶が有ります。
新しい標石は赤戸室石の47トンの立派な物ですね。
go
2017/01/24 12:51
goさん
この標石が石川門にあったころ、何度か見かけたんですがgoさんの言われるように威厳があってちょっと近寄りがたいものを感じたんですが、今見るとこんな小振りな石碑だったかなあと思ってしまいます。
僕は大学が城内にあったころは、大学や就職で県外に出たこともあって中学高校の頃で2.3度しか入っていないのですが、黒門の寮があるところからでした。確かに木々が多くて、過ごしやすい雰囲気がありましたねえ^^今の整備された金沢城内を観ると全く違って見えますねえ。
つとつと
2017/01/26 11:55

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