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zoom RSS 古九谷の里〜九谷焼窯跡展示館

<<   作成日時 : 2017/02/07 14:50   >>

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石川県を代表する色絵磁器・九谷焼、時代ごとや先駆者によって開発改良で特徴が変わっていますが、華やかさに定評があって人気を得ています。
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九谷焼の始まりは、寛永17年(1640年)頃、大聖寺藩始祖・前田利治が、山中温泉の奥地(九谷)に良質の陶土を発見したことから、殖産業振興のために藩士・後藤才次郎を有田に派遣して製法を学ばせて、明暦年間(1655年)に後藤才次郎が帰国後に九谷の地に開窯(九谷初窯)したのが始まりと云われ、同年、初期のの作陶の花瓶(田村権左衛門銘)を当地の九谷八幡宮(現・三柱神社)に奉納したというのが九谷焼の創始と云われています。(画像はH24.9.29)
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現在の三柱神社は、九谷ダム建設による離町後の平成12年(2000年)に再建されたものです。九谷町はダム建設によって離町を余儀なくされましたが、九谷初窯・吉田屋窯跡が国指定史跡に指定されたことから、九谷の里としてダム湖(五彩湖)計画が変更され建物や町民はいませんが大部分が残されています。(画像はH24.9.29)
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九谷の地名の由来ですが、最古の九谷の名が出てくるのは文明18年(1486年)浄土真宗・蓮如の四男・蓮誓が九谷坊を開基したという記録がありますが、古来から山中温泉の中心地を一番にして、西の谷村と呼ばれる地区を隣接する柏野が2番、柏野は以前紹介したことのある柏野の大杉のある所です。その先の今はダム湖の下ですが我谷が3番といった具合に、奥に向かって村落に番号が振られていました。九谷は名前の通り、最奥の九番目の谷にあった村の名前と云われています。また一説には山が深く谷が多く、九百九十九の谷があると云われたことから来ているとも言います。

後藤才次郎が開いた九谷焼はその後50年ほどで製造を取り止め閉窯となっています。この時に製造された作品を総称して古九谷と呼んでおり、好事家には珍重されています。しかし、何故に閉窯となったのかという原因はいまだ不明と云われています。九谷の里の窯跡地には九谷焼の祖として後藤才次郎の顕彰碑があります。

現代においては伝統工芸の王国のように思われている加賀藩・大聖寺藩ですが、こと磁器や陶器に関しては、加賀藩では茶器を主とした大樋焼があるくらいで、この古九谷の閉窯以降は他藩から多くの作品・調度を買い入れていました。大藩の儀式や格式に使われる費用は尋常なものではなく、加賀藩・民間を合わせると年間購入数は約36万ともいわれ、運賃や商人の利ザヤを含めると高額に上り、藩財政を大きく圧迫していたと云われています。
その当時、陶器の独占全盛を誇っていたのが肥前有田の伊万里焼でした。そこに風穴を開けるように有田の技術を取り入れた染付磁器で台頭して成功を収めたのが瀬戸焼でした。瀬戸焼の成功に刺激を受けて、各諸藩も陶磁器の自家製法を研究したり、開窯をするところも増えます。それは加賀藩でも同じでした。

文化3年(1806)加賀藩では京都から青木木米を招聘して、卯辰山に春日山窯を開窯させて試作を開始、最初は九谷から陶土を取寄せていましたが、近くの河北・能美から陶土を開鉱して目途がつきかけたところで、文化の大火が起こり、緊縮・民営化と簡素化を迫る加賀藩と芸術作志向の青木木米の方針が合わず、怒った青木木米が帰京すると僅かな年月で衰退してしまいます。後年、この春日山窯を再興して民山窯を開窯したのが金沢城内の遺構として残った数少ない建物の中村神社の拝殿(金沢城時代は舞楽殿)の欄間を制作した武田秀平(友月)になります。

しかし、この春日山窯の開窯と県内の陶土発見による功績は大きく、陶土の発見された能美・若杉(現・小松市若杉町)に文化13年(1816年)木米と共に招聘され残留し、能美(小松)の林屋八兵衛の元に移った本多貞吉によって若杉窯が開窯され、更に近くの花坂に良質の陶石を発見して発展、加賀藩で最初の量産に成功した窯となります。加賀藩は改めて官営の若杉陶器所として、本多貞吉を職長として京都・平戸・信楽から職人を招聘して加賀藩の九谷焼の中心地となっていきます。
本多貞吉の元からは多くの名工が輩出されており、九谷焼再興の祖ともいえる人物です。
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文政6年(1823年)、発祥地と云える九谷のある大聖寺藩では、藩は動かず民間の豪商吉田屋・吉田伝右衛門が後藤才次郎が開いていた窯跡に開窯をします。徐々に発展しましたが、製品の運搬ほかの事情から窯を山代温泉の地に移しています。商品としての磁器を重視していますが、芸術性の調度の評価も高く「青九谷」として再興九谷の中では最高格と評価されており、青色の技法は現代にも引き継がれています。ちなみに主工は若杉窯の本多貞吉の養子・本多清兵衛。軌道に乗ると共に成形担当に京都・信楽の職人が招聘されていました。また九谷の命ともいえる絵付・焼き着けの錦窯には加賀の名工として名高い粟生屋源右衛門がいました。本多清兵衛・粟生屋本多貞吉の門下に当たります。しかし吉田伝右衛門一代で吉田屋窯は幕を閉じます。

その吉田屋窯を引き継いだのが番頭の宮本屋宇右衛門で、宮本窯として同じ地に再興しています。宮本窯では金沢の民山窯の赤絵技法を取り入れて金彩を施し吉田屋窯とはまったく違うものになっています。、更に細密画的な絵柄で赤九谷として人気を博し発展していました。加賀(山代)九谷の発展の基盤を造ったと云えます。
しかし、財政難に苦しむ加賀藩が活況を示した若杉窯を官営にしたように、宮本窯も大聖寺藩の官営として取り込まれてしまいます。官営化は収益を義務付けられるために、技術の継承には向きますが芸術性や独自性が置き去りにされやすく販路も限られる機来があり、加賀の九谷焼の勢いは能美・寺井に移り、しばらく不遇の時代を迎えます。
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春日山窯から始まる金沢の民山窯、小松の若杉窯、加賀山代の吉田屋窯・宮本窯、その他にも能美の斎田道開の赤絵二度焼き・細密意匠の佐野窯、吉田屋・宮本窯の流れを引く粟生屋源右衛門などが開いた小野窯、彩色金欄手で寺井九谷の源流となる九谷庄三など江戸末期から明治初頭の復活は再興九谷として現代の九谷焼の源となっています。

画像は寺井の九谷焼茶碗祭りです。毎年GWに開かれるイベントは人気があって多くの人出で賑わいます。画像の200円の灰皿、今も僕の愛用の灰皿になってます。(H25.5.3撮影)
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九谷焼ですが前述のように、金沢・能美・寺井・小松・加賀(山中・山代・大聖寺など)と加賀地方それぞれに諸派や町割で分かれ交流しながらも各地独自の進化を遂げてきたのですが、加賀市における古九谷・再興九谷の流れを受け継いで来たのが、ご紹介する九谷焼窯跡展示館の地になります。




吉田屋窯は最初は始祖・後藤半次郎が開いた九谷の里に窯を開いたのですが、山間地の為に運搬や販売に支障をきたすために、わずか2年後の文政9年(1826年)九谷の里から移転・造成したのが、山代温泉(越中谷)にあるこの地になります。
吉田屋窯、宮本窯、藩営・九谷本窯(山代窯)、民営・九谷本窯、九谷陶器会社、九谷陶器本社、大蔵寿楽、嶋田寿楽と、この地は運営は変遷しつつも窯は修繕を重ねつつ、昭和15年(1940年)まで吉田屋の築いた窯が使用されていました。同敷地内に焼成窯が新しく築かれて昭和40年頃まで使用されていました。なお、嶋田寿楽は協会に展示施設として管理運営を任せ、隣接地に工房と店舗を置いて三代目が良品を生み出しています。
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平成に入ってこの地が発掘され、吉田屋窯から続く重層の窯跡の全体像が発見され、国指定史跡「九谷磁器窯跡」となっています。吉田屋窯として造成されて115年間使われた窯跡を保存・保護するために柱を使用しない特殊構造の覆い屋で囲っており、出入り口から入ると斜面を利用した登り窯跡には圧倒されます。
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焼き物の窯に関しては詳しくないのですが、焼成の炎や熱が循環する登り窯には目を惹きつけられます。
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説明板によれば、大小の修理修繕が加えられ120年近くの長期間に渡って継続使用されて来たようですが、大きく造り直した形跡が3回あったことが判明しています。吉田屋窯草創期登り窯の焼成室は4房でした。文政10年に大規模改造が加えら、藩営九谷本窯時代(1860〜1870年)に5房になって、明治12年(1879年)九谷陶器会社が6房に拡大していることが解ったそうです。また通常残りにくい色絵皿窯も残っているそうです。
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国指定の窯跡を出て右手にある建物は、小松・加賀ではお馴染みの赤茶の瓦に木造建築ですが中に入ると、昭和15年(1940年)に造られた後継の登り窯があります。前述の約120年近く使われた登り窯の後継が造られています。この登り窯は昭和40年(1965年)まで使われていたそうで、現存する九谷焼の登り窯としては最古と云われ、加賀市指定文化財に指定されています。
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本焼きの登り窯としては小振りなんだそうですが、実際に目の前で見ると大きく見えます。この窯でも一度の窯詰めに1000個が入るそうです。構造形態は前述の吉田屋窯跡も同じ基本構造だったそうです。その他に窯焼きに使われる道具類も同じく展示されています。
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入場受付のある大きな木造建築住宅は、窯元の社屋・経営者の住居兼工房として使われていたもので、築年は明治30年代と云われています。築100年以上の旧家としての雰囲気がありますが、屋内には昔ながらの足蹴り轆轤場(ろくろば)、はがし場、絵付け場が復元されて、轆轤・絵付け体験も職人による指導体験ができます。僕が訪問した時も4人連れ家族とカップルが轆轤に、老夫婦が絵付けに挑戦していました。作業場横の座敷には企画展示とビデオが見られますし、以前は店舗だった部分には常設の展示、お洒落な小物から重厚な伝統工芸士の作品までの販売コーナーもあります。観光施設のため、手ごろな現代作品が多いようです。

入場料は一般310円、絵付け2000〜3000円 、轆轤;体験コース 作品1個3000円2個4500円
                                 陶芸教室  一時間1200円
駐車場は施設から少し離れた場所で、住宅などの路路を巡るように歩くので要注意。

独りで行くより二人以上で行って、轆轤や絵付け体験が面白いかも。。

旅行日 2016.05.04
























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タイトル (本文) ブログ名/日時
九谷焼 高明 10.5号飾皿 鳳凰図
繊細で精緻に描き出された美しい作品です。 日本を代表する伝統陶磁器工芸品「九谷焼」の飾皿です。 九谷焼の作家、伝統工芸士、高明(たか あきら)によるもの。圧倒的に丁寧に作りこまれた色絵が素晴らしいです。 高明は、80年前に開かれた九谷光崖窯の二代目。 彩色金襴手をベースとした九谷焼の伝統溢れる色彩の組合せで緻密に繊細に描き上げています。 モダンな香りもしつつ品格・風格に溢れています。 下地には、絵具を器面に落とすようにして極小の点をひとつひとつ描く、九谷焼の伝統技法「青粒(あおちぶ)」が施されて... ...続きを見る
CRAFTS DESIGN
2017/03/12 17:17

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
九谷焼は大聖寺藩始祖、前田利治が藩の産業振興の為に(1640年)始めた、とありますが、もっと古い歴史が有ると思っていました。
つとつとさんの記事を見ると300年余りの間に多数の人たちの創意工夫によって凄く進化したものですね。
私は焼き物には知識がないんですが、「お宝鑑定」のテレビの番組を見ていると古九谷焼や九谷五彩など立派な物が有りますが、始めた当初は成熟した九谷焼とは違って有田焼きを手本にした特徴のないものだった事を想像します。
茶碗祭りには何十年か前に一度だけいった事が有りますが、沢山の店が出ていて随分賑やかでした。
go
2017/02/08 17:41
良いですねぇ 九谷焼 我が家にあるのはコーヒーカップと古九谷焼のおちょこ位なものです  
がにちゃん
2017/02/08 18:08
いろいろなものの歴史に興味があるのですが、こと焼き物に関してはほとんど知識がありません。
いちど勉強しなきゃなあ、とは思っているのですが・・・。
登り窯の遺跡、なかなか興味ぶかいですね。
機会があれば一度訪れてみたいと思います。
家ニスタ
2017/02/08 23:26
goさん
九谷焼は大聖寺藩の前田利治が創始ですが、50年ほどで一度100年間中断しています。古九谷が謎の焼き物と云われる由縁です。ですから、春日山窯が起こされて約200年が九谷焼の実質の変遷が歴史だと云えると思います。それでも古九谷と伝わるものには意欲的な意匠が多く存在します。ただ、光沢の仕上げ地や真っ白な磁器を作るのに苦労したのが、原因かもしれません。
寺井の茶碗祭りは何度か行っていますが、平素とても静かな高台にあんなに人が集まるんだと、毎回驚かされます。

がにちゃんさん
古九谷焼きをお持ちなんですか@@そりゃ凄い@@
子供の頃は派手な絵柄と色の焼き物という寺井九谷の印象でしたが、今はいろいろな絵柄や光彩があって、たまに見て回るのが面白く感じられます。

家ニスタさん
なかなかお伺いできなく手間があき申し訳ありません。
茶道も華道もさらに言えば、料理の皿や器など、縄文土器もそうですが日本の焼き物文化はいろいろ変化が激しいですね。焼きあがった作品や茶碗や湯呑みでは馴染みがあるんですが、登り窯のような焼成の過程に関してはなかなか触れる機会がなくて、伊崎字を書こうとすると、全く解らないという自分がいました。
温泉がてら訪れてみてください。石川の温泉街の側には歴史的な遺物が多く存在します。
つとつと
2017/02/09 13:32
九谷焼のルーツとなる場所の写真、
興味深く拝見しました。
ここから九谷焼が始まったかと思うと、
ちょっとした感慨を覚えますね。
登り窯は、40年くらい前に、
確か伊賀上野で見学した記憶があります。
その時点で使われていたのかどうか、
詳しい事は全く覚えていません。
瀬戸焼の台頭、それに影響された各藩の
取り組みなど、陶磁器の歴史も面白いですね。
yasuhiko
2017/02/10 17:55
yasuhikoさん
九谷初窯の跡地は山中、山代温泉双方から行けるんですが、なかなかとんでもない山中になるために晩春から初秋にかけてしか行きにくい場所ですが、その場に立ってみるとやはり感慨深いものがあります。機会があれば訪れて欲しい場所です。文中にチラッと書きましたが山代側の道には、小松・能美・加賀によく観られる赤茶の瓦の荒谷地区という重要伝統的建造物群保存地区に指定されている東谷・荒谷の山村集落が見られます。山奥の山村集落の赤茶の瓦は妙に森林と合うんですよ。
陶磁器ではやはり有田焼の存在が大きいのですが、華やかな九谷焼の存在感もなかなかのものですよ。九谷焼は各市町で別個の特徴があるので、4個所の展示館や施設がお薦めです。寺井ではウルトラマンのキャラクターものまでありますよ^^
つとつと
2017/02/10 18:57
こんばんは〜
九谷の登り窯 最古の焼き釜が現存するのですね
驚きでした それはうむを言わせぬ文化財物ですね。
九谷焼きのお皿をはじめて見た時、深みのある色合いの焼き物だと思ったのを覚えています。
それにしても、一度に 1000個とは驚きです。
イータン
2017/02/13 20:52
イータンさん
九谷初窯はとんでもない山奥にあるので、行くにはなかなかの覚悟がいるんですが、再興九谷の窯跡は山代温泉街にあるので、風呂あがりのそぞろ歩きのついでによることができます。九谷焼と云っても今は5カ所の産地があり、作者それぞれで意匠も全く違ったものになります。深みのあるものから、虹を思わせる光沢の色、近頃ではウルトラマンの絵皿やアクセサリーまで。。。そうそう、我が家にもバルタンがいますよ^^
登り窯としては1000枚は小振りなんだそうで、もっと大きなものが主流なんだそうです。驚きですね。
つとつと
2017/02/13 22:36

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