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zoom RSS チカモリ遺跡〜縄文ワールド

<<   作成日時 : 2017/02/17 01:58   >>

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金沢にある国史跡「チカモリ遺跡」は縄文末期(BC3000〜2300年)から晩期にかけての集落遺跡になります。
チカモリ遺跡のある金沢市の西南部に当たる場所は、近くには同時期の遺跡で土器・石器が1万点近く出土した環濠集落の御経塚遺跡、弥生期の遺跡から続いて庄家(奈良期?)・初期荘園(平安初期〜鎌倉中期)となり多くの木簡が発掘された東大寺領荘園の三宅(今でいう管理事務所)があった横江庄・上荒屋遺跡が近くになります。他にも縄文・弥生期の遺跡を含め戦国中期まで近隣に遺構が多くあり、加賀の中心的存在地の一つとして連綿と発展を続けた地でもあります。
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左:チカモリ遺跡史跡公園 H24.4.20撮影
下:東大寺領横江庄跡(東庄)・上荒屋遺跡 H24.9.20撮影
このチカモリ遺跡を含む地域は手取川・犀川によって構成された扇状地で、水分を多く含んだ土壌と水脈が地下にあるために、柱跡が390、それと木柱の底部である木柱根が295本も発掘されたのです。遺跡の発掘現場を観たことのある人は解ると思いますが、通常は柱跡などは木柱は腐って土となって柱の跡として穴だけが残る場合が多いのです。この遺跡は、掘れば水が出る悪条件ながら、柱の底部とはいえ水にパックされ保存されたことで木柱が数多く発掘された貴重な例にもなります。
上荒屋遺跡ではこの豊富な水脈を利用した舟輸送用の運河が確認されています。
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元々、チカモリ遺跡は昭和29年(1954年)の調査には縄文土器が発掘されていて、縄文土器の年代の標準基準として「八日市新保式土器」として認知されていました。八日市新保式は上部に尖った突起と胴体上部や首部にくびれを持った形で意匠を施された深鉢土器です。金沢から富山東部にかけて多く見られ、大陸の影響を受けているともいわれています。興味のある人はこちらを → 野々市デジタル資料館 深鉢形土器41〜
昭和50年(1975年)事前の範囲確定調査で7千uに及ぶ大規模集落と判明して、昭和55年詳細な本発掘調査が行われ、大規模な木柱跡が発見され、昭和62年に国史跡指定を受けて遺跡の中心部が史跡公園となっています。
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国史跡になるほどの発掘発見は数多い木柱根の発見はもちろんですが、その内容にもありました。
以前紹介しましたが、小矢部市で発掘された桜町遺跡にも発見されていますが、ウッドサークル(環状木柱列)の木柱根の残りにありました。イギリスの有名なストーンヘンジ(環状列石)が有名ですが、あれ程大規模ではありませんが、あれの木柱版と思っていただければ、その8〜10本の木柱を使用したウッドサークルが8基発見されたことにあります。。ただし、柱の底部分のみですから公園内に復元されているのは、上部が解らず想像の産物なのですが。。ウッドサークル以外にトーテムポール、巨大家屋施設など多種の異論があります。一応、ウッドサークルには8〜10本の木柱を使用して真円を作り内側に円形空間が構成された作りです。

注目されたのは、その底部の形状にありました。
発掘当時は縄文時代から弥生時代にかけては、大木の加工はなく、その大木加工技術は大陸からの渡来人が来るようになった後、弥生晩期から飛鳥・奈良時代に入ってからだと云われていました。実際、現存最古の木造寺院建築と云われる法隆寺も奈良・平安期の再建だと云われていたほどですから。。
ところがチカモリ遺跡から出土したウッドサークルの木柱根には、これを覆す加工が施された痕跡があったわけです。
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使用された木柱の素材は栗の巨木で最大の物は直径85p、これだけの巨木と硬い栗の木ということも残存した要因になります。発掘された295本の内、250本が半截(はんさい)といって、丸太を縦に二つに割って、かまぼこ型に加工されていました。また樹皮もはがされており、一部には運搬用だったと思われる蔦が巻かれた物もあったそうです。残りの45本は樹皮を剥がした丸太として方形に4〜6本並んだ状態で発掘されています。かまぼこ型の木柱は多くは切断面の平面部分が外壁になるように建っているものが多かったようです。

集落はU字型になっており、集落の出入り口は東南部にあったと予想されています。また前述のウッドサークル及び4〜6本使用の巨木の丸太使用の方形建物を囲むように家屋と思われる住居が立っていたようです。このことから、ウッドサークル及び方形建物は集落内の共有・共同施設だと思われます。

特筆すべきは、これだけの巨木の栗の木をどこから運んできたのか、更にこれだけの量の大木をどこでどのように樹皮を剥がし半載に加工していたのか、どのような構築物だったのか。。
チカモリ遺跡の後に続いて、能登の海洋漁業主体の集落の真脇遺跡、高床式建物が確認された桜町遺跡をはじめとする富山東部の縄文遺跡、玉・翡翠製造工房が縄文期からあったことを示す糸魚川の寺地遺跡、縄文遺跡としては国内最大級の青森の三内丸山遺跡からもウッドーサークルや半截加工の木柱が発掘されて、縄文期の高度な木造・翡翠加工技術が派生していたことが判明したのです。更に真脇遺跡では盛り土の集団墓地も出ており、自然環境と共生していたと云われる縄文人が環境を変える土木工事を行った形跡もあります。
僕たちが学んだ縄文人のイメージとは、大きくかけ離れた姿が現れてきています。

半截木柱の製造に関しては、三内丸山・寺地・真脇などよりチカモリ遺跡が後になるわけですが、同じ栗の巨木を使用していることは特筆されます。三内丸山では栗の巨木の栽培が行われていたことが近年確認されています。
また、繰り返しになりますが、半截の木柱の発掘数も三内丸山6本、寺地5本、真脇26本で、チカモリの250本は突出しています。更に黒漆と赤漆を使い分けて二重塗りにした製品も出土するなど成立年代の違いがあるのですが、チカモリは縄文時代の最晩年の遺跡として縄文建築・文化の集大成だったと思われます。
しかし、扇状地帯のチカモリでは巨木の群生には向いておらず、東の医王山系や白山麓との関係性解明が今後の課題かもしれません。

何はともあれ縄文時代が自然と共に生き、穴倉生活の狩猟・消費生活のみなどという定説は覆され、中期には狩猟とは別に生産・加工をこなし、末期には木造加工建築、工芸技術もあった世界だったことになるわけです。これによりこの後に続く飛鳥・奈良・平安の巨大木造建築へと続くわけで、従来の大陸渡来説を見直すきっかけになった遺跡と云えます。

私見ですが、発掘や研究が盛んになった昭和40・50年代以降、縄文時代の年数幅はどんどん広がっていって、今は多くの説もありますが約BC2万年〜800年と長すぎる期間設定になってきています。この長すぎる期間設定は発掘研究が遅れていたことを示し、大陸・渡来文化への信奉の過度が過ぎたことを示していると思います。
地域文化の進行を軽視し過ぎるこれだけ長い期間には、集落・地域・地域間・国家・圏外・海外交流と文化の流入・進化があり、集団社会の変遷・交流があったと思われます。実際前述の八日市新保式土器はその後の北九州の弥生遺跡からも出土しているそうですから、縄文晩期には北陸と九州の交流があったことになります。
また、加賀地区の遺跡には東西の双方の特徴を持つ土器や道具類、あるいは東西両方が同じ場所から出土することでも知られています。出土する遺構や出土品を観るにつけ、驚かされるものが多くなっています。機能性はともかく芸術・技術面などは、続く弥生期では退化してるんじゃないのかと思わせるほどです。
今後の課題は出土品などの類別研究からの地域文化圏の系統・時代分けを施す時期に来ていると思います。縄文という一派ひとからげで語るには広がりすぎると思います。

こういう遺跡や出土品を観るのが好きな僕が、チカモリ遺跡をここで紹介していなかったのは、史跡公園しか見ていなかったことがあります。だいぶ前(学生時代かな)からニュースや新聞記事で存在は聞いていましたが、県外に出ていたこともあり、当地に訪れたのも近年になります。
来訪時に公園横に出土品の保存・研究施設があると聞いていたのですが、修復は埋蔵文化財センターに移動したようで、来訪時は看板もなく門も閉じられていました。(現存するけど名称変更で当時は閉まっていたみたい。金沢市新保本町埋蔵文化財収蔵庫という長い名前で同じ場所にあるようです。見学は自由のようなので機会があったら。。)現在は。。。公園を画像に納めただけでそのままになっていました。

昨昨年末の冬に小松市文化財埋蔵センターに訪れた際に、学芸員の女性に金沢市埋蔵文化財センターで、チカモリ遺跡の出土品を中心にした縄文ワールドが出来たことを知って、機会を狙っていたわけです。念願かなってやっと木柱根を観ることが出来ました。漆塗りの土器・道具も観れたし。。
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金沢市埋蔵文化財センターは平成9年(1997年)に開設されたのですが、なかなか機会がなくて訪れていませんでした。近年、リニューアルされて1階は展示スペースですが、2階には保存・修復作業が見られるように、ガラス張りで見学が可能になっています。平日に訪れると見られるのでお勧めです。




現在は前述の縄文ワールドという長期イベントが開催されていて企画を変更しながら、今年の3月まで開催されています。現在の企画展は「文様の技術」。常設展示は「巨木の文化(チカモリ遺跡)」と「漆と装飾(中屋サワ遺跡)」 
HP → 金沢市埋蔵文化財センター    縄文ワールド 環状木柱列再現スペース
ちなみに中屋サワ遺跡は、チカモリ遺跡から1.5キロほど北西の安原川沿いのチカモリと同時期の遺跡ですが、チカモリと同じように扇状地の影響で土器や木製品が保存された状態で大量に発掘されています。土器の多様性と木製品の漆塗り・装飾が注目されてH26に644点が国重文指定を受けています。

金沢市埋蔵文化財センターの展示の一部
環状木柱列の木柱根
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縄文ワールドのシンボル展示の最大規模の木柱列には門扉が施されていたようです。木柱根の年代測定が実施されていて、年輪間隔の分析からBC820〜800となっており、同時発掘の長竹式土器の付着物の炭化物の放射性炭素年代測定でBC910〜820と測定結果が出ています。つまり縄文晩期という結果がそれまでの1000年前後が年代的にまたまた紀元に近づいたわけです。ちなみに長竹式土器は白山市の旧松任の長竹遺跡から発掘された北陸独特の縄文式土器で縄文晩期の標準土器になっています。

広場に積み上げられていた石器の山盛り
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                      金沢市内遺跡出土の土器類
                      右上段の土器が八日市宮保式深鉢土器
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中屋サワ遺跡出土品
上:赤漆塗り器 下:黒漆塗り装飾弓
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このチカモリ遺跡の近隣には他にも縄文期の環濠集落の御経塚遺跡など多くの遺跡が発見されていますが、金沢市埋蔵文化財センターから半径5〜10キロ圏内は縄文末期から戦国中期まで連綿と文化・政治の中心地として栄えた場所になります。それだけ、遺跡・史跡が多く出土品も多くあります。掘れば何か出てくる土地柄です。金沢・野々市・白山市が重なる地でもあり、分散展示しているので収蔵品の多い金沢市埋蔵文化財センターと野々市歴史ふるさと館(御経塚遺跡の入り口)を合わせて観ると充実した出土品と驚きの歴史に出会えます。

旅行日 2016.06.05






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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
縄文時代や弥生時代と良いっても 本当は何かすごい技術もあったのではなんて思ってしまいますね  
がにちゃん
2017/02/17 14:13
がにちゃんさん
特に縄文土器や土偶の装飾技術、更には画像のようなその後の石川の特産になる漆塗りの漆器・道具。まだまだこういう知られない技術が眠っていると思うんですよ。
つとつと
2017/02/18 07:55
考古学をかじっている者ですが、チカモリ遺跡は初耳でした。
ウッドサークル・・・うーん、興味ぶかい。
三内丸山でも栗の巨木が使われていたようですが、当時は全国に栗の大木の林があったのでしょうね。
金沢市埋蔵文化財センターも一度訪れてみなきゃなりませんね。
たしかに縄文時代の時代設定が長すぎることはいえると思います。
しかし近年いわれている弥生時代の開始をさかのぼらせるという議論には反対です。
必ずしも農耕が行われたから弥生、ということにする必要はないと思います。
縄文と弥生で明らかに土器形式の断絶がありますから・・・。
そういう意味でいうと、土器の連続性から考えると縄文をひとつの時代と区切ることが、あながち無理なわけではない、と考古学を少しかじった者は感じます。
家ニスタ
2017/02/19 12:04
チカモリ遺跡の名前はよく知ってるのに、
どんな遺跡だったか思い出せなくて、
記憶としばらく格闘する事に…。
復元されたウッドサークルの写真をみて、
やっと思い出しました。なるほど。
日本海側を中心にした縄文の巨木文化を
物語る遺跡として、話題になった所ですね。
タイムマシンが使えたら、構造物の上の方が
どうなっていたか、ぜひ確かめたいものです。
遺跡や遺物だけではなかなか分らない
縄文人の民俗や宗教、精神生活。
その辺りが解明されると面白いでしょうね。

yasuhiko
2017/02/19 17:56
家ニスタさん
巨大な栗林の管理は十分考えられます。そもそも、これだけの木材の伐採地がないわけがないと思います。
時代設定は別に弥生を延ばせというわけじゃないですよ。土器・道具類は全く違いますからね。たしか稲作をしていた縄文遺跡が発見されていたと思いますが、それにしても、ここまで違う生活様式はやはり別文化時代だと思います。縄文期の期間設定があまりにも長すぎるのが気になって、時代背景が読みづらいんですよ。三内丸山とチカモリでは成立だけでも3000年近い差がありますから。。
縄文期にも、当然ながら、栽培がなされていたと僕は考えています。これだけの集落が成立してくれば、十分考えられますからね。
つとつと
2017/02/19 20:11
家ニスタさん
追伸、金沢の埋蔵文化財センターの他に石川県の埋蔵文化財センターもあって、展示や見学を行っているんで、文中の二つ(金沢・野々市)と小松を合わせてみるとなかなかの縄文の遺物が揃っています。ただね、石川県と小松市はちょっとどころじゃない奥山なんで覚悟がいるかも^^;
つとつと
2017/02/19 20:19
yasuhikoさん
もしタイムマシンがあったら、一番行ってみたいのが縄文時代ですねえ^^
どうしても建物の上部の詳細がみてみたいし、文物がないのでまったく精神面が見えないのが逆に興味を掻き立ててくれますから。
ここ半世紀の考古学の発掘と調査の技術の進歩は目覚ましくて、観るごとにすばらしい発見や詳細が解ってワクワクしますねえ^^
つとつと
2017/02/19 20:53

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