つとつとのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 中乃郷神社

<<   作成日時 : 2017/03/19 15:19   >>

ナイス ブログ気持玉 25 / トラックバック 0 / コメント 10

画像
少し前に自宅から二番目に近い神社として徳丸白山神社をご紹介しました。で、一番近い神社はというと、この中乃郷神社になります。神社の紹介をするときに、僕が参考にするのは神社にある社歴・由来碑が主になって、地誌や神社庁の紹介などを参考にして、地域伝承を調べて書いています。
画像



実を言えば、同じ旧松任市内から今住んでいる場所に引っ越して10年に満たないために、この辺りの地図や場所は解っていても、地元の伝承や史実には知らないことが多くあります。この神社などは良い例で、謂れが全く解ってなかったんですね。もっと言い訳すれば、この神社のある場所は近い割には、ここ3.4年まで、あまり前を通らなかったんです。まあ、神社やお寺巡りが好きな僕が一度も行かなかったというわけじゃないんですが、神社前の道は五歩市踏切から番匠町の狭い道の集落に繋がるだけで、車の通行には向いていませんでした。
画像
画像は解りにくいですが、向こうに観えるのが金沢=白山車両基地間の新幹線高架、下を北陸本線が走っています。アップすると北陸本線の列車が走る姿が観えます。

ところが近年、海側バイパスの4車線整備、北陸新幹線の高架整備によって五歩市踏切脇に新幹線保線の作業口が出来て、北陸本線脇の側道が整備され、それまでは五歩市踏切から番匠町までしか行けなかったのが、光野中学まで直線で行けるようになり、更に光野中踏切の前を横断すると、郷町、更には御経塚・金沢八日市まで直線路で行けるようになって、混む道を避けて通る際に機会が増えてきたんです。
画像
とはいっても、神社の由緒書が変わるわけではなく、書かれているのは箇条書きのような簡単な社歴の沿革碑のみ、一応、転記してみると。。。

中ノ郷神社沿革碑

主祭神 應神天皇(八幡様) 少彦名命(少毘古那命 薬師如来)



由緒沿革 
 782年(延暦の頃)   五歩市の辰田の原に「辰宮社」(八幡様)が創建される。
1574年(天正二年)   越後の上杉謙信が北陸を攻めるとき辰田の原に陣を布き辰宮社を本営となし戦勝報               告を記念して兜一具を奉納する
1785年(天明五年)   五歩市に「高田社」(八幡社)と辰野社(天神様)の二社、番匠に「春日大明神」と「薬師               如来」の二社、柳町に「八幡社」が創建される
1866年(慶応二年)   五歩市の二社を合祀し「辰野社」の辰と、「高田社」の田をとり入れ「辰田野社」と称する
1871年(明治四年)   番匠の二社を合祀し「少彦社」と称する
1874年(明治七年)   番匠の神社を土地の名に因んで、「郷姫川神社」と改称する
1895年(明治二八年)  五歩市の神社を「辰田野神社」と改称する
1907年(明治四〇年)  八月 「辰田野神社」と「郷姫川神社」を合祀する
                社号は中奥村と郷村の境界地に建設鎮座するので、「中ノ郷神社」と称する
                九月 柳町の「八幡社」を中ノ郷神社に合祀する
1908年(明治四一年) 神饌幣帛料供進神社となる

画像
明治40年に中乃郷神社五歩市の辰田野神社・番匠の郷姫川神社・柳町の八幡社が合祀されて誕生した神社です。ちなみに当時は五歩市は中奥村、番匠・柳は郷村に属しており、越境合祀の神社になるわけです。

また、この当時まで中奥村と郷村の接点は意外にも薄く、平安期の石川郡誕生時には五歩市は中村郷、番匠・柳は中奥郷に属していました。その後の変遷も激しく室町期には野々市の富樫氏と松任の鏑木氏の境界地であり、桃山期には金沢の前田氏と松任・小松の丹羽氏の境界地でもありました。このことは関ケ原戦時での前田・丹羽の講和の会議が行われた田中郷菅原神社でも触れています。
画像
文中に出てくる五歩市(ごぼいち)・番匠・柳町さらにその隣の郷・田中・徳用は、古来から行政区分としては入り組んだ地区なのですが、現在も野々市市と白山市が飛び地のように入り組んでいます。一応、五歩市・番匠・田中が白山市で柳・郷・徳用が野々市になります。つまり白山市(旧松任)と野々市市柳町といった二市に跨る氏子を持つ神社になるわけです。ちなみに、田中郷菅原神社も白山市田中町と野々市市郷町と二市の氏子に跨る神社です。

この地区に住んでいる人も隣が野々市で白山でと訳が分からない人が多くいます。かくいう僕も近所にコストコが出来た時、コストコの場所が野々市柳町だと知って改めて驚いたものです。隣のインターシティホテルは白山市徳丸町なんですから。。他にも白山市民は白山市だと思ってる人の多い金沢脳神経外科病院も野々市市郷町です。ところが横にある病院の処方箋を取り扱う野々市フォーマライズ薬局は、野々市という名前ですが、住所は白山市専福寺町になるというややこしい土地柄です。

もっと言えば、前に紹介したチカモリ御経塚・八日市・横江・長竹といった縄文・弥生期は同じ圏内だったと思われる辺りも金沢・白山・野々市が入り組んだ地域で、他地区の人には解りにくい地図になります。仕事柄、保育園に出入りすることの多い僕ですが、よく親御さんに聞く声には、近くて便利そうで家から見える25〜50メートル圏内の保育園が他市になっていて、だいぶ越境が緩和されたとはいえ、離れた保育園に通っているとよく聞きます。

この解りにくい境界地は長い歴史に影響されているのですが、東大寺の横江荘園を代表するような平安期の荘園領主、加賀守護の富樫家と真宗の争い(鏑木氏は初期は富樫方ですが、当主の転宗で真宗方になって主力となります。)、丹羽・前田の北陸での対立など。その時の有力領主によって、あっち行ったりこっち行ったりの端境地。
江戸期になってからは安定して、前述したように、番匠・柳は郷村に属し。五歩市は中奥村に属して明治まで続いていたわけです。ただ、江戸時代は村が違うということは、県が違うに等しく、接点が薄かったと推測されます。また、地場の神社が大切にされて、各村に尊宗・独自の祭礼がされていたはずで、越境合祀は大変な問題だったはずです。
画像
これを一変させたのが、明治政府による町村制度の実施と明治39年(1906年)の神社合祀令の実施でした。この政策を書き出すときりがないことになってしまうのですが、要は国が供出する地方補助金対象の県市町村と当時20万社あったと云われる神社を減らして供出金を減らそうという、国庫の支出を抑えるのが大きな主旨でした。近くは平成の大合併で地名の消失で歴史を伝えるものが失われた禍根が多く散見されていますが、明治に行われた町村制度の実施はともかくとして、神仏分離さらに官僚・合理的な数字重視の合祀令で消えた地名や神社は、地域の習俗や信仰心を失わせる要因になったと云えます。この政策に関しては、地方(県知事)の裁量に任せたことにより、各県によって大きく異なっています。伊勢神宮を有して一万社近くと多数あった三重県はこの時に9割の神社を失っていますし、逆に寺院が多い京都では1割しか減っていません。北陸では民心安定策で一村落一社を優先したために神社数は多く残っています。

とにかくこの合祀令によって、隣り合う中奥村の五歩市と郷村の番匠は氏神社(辰田野神社・郷姫川神社)を合祀することになりました。
明治40年8月、両村の境界となる現在地に双方の田圃を出し合って敷地を確保して社殿を建てたのが「中乃郷神社」の始まりです。名称は中奥村、郷村の中間という意味で名付けられたそうです。
更に翌月には話し合いで、両村と接する柳村の八幡社も合祀しています。

後付けの話になりますが、昭和28年(1953年)にも国は市町村に行政事務を委ねるために町村合併促進法を制定して、小規模町村の合併を進めます。石川郡でもそれによって、翌年には松任町と周辺10カ村(中奥村を含む)が合併して松任町(後に松任市)となり、翌々年には郷村、その翌年に山島村が加わっています。ただし、この町村合併はどこと合併するかは各村に判断を任されていました。野々市町と松任町の端境地・郷村は各村で意見が分かれて混乱を起こし合併が遅れました。当然ながら両町に加えて金沢市も綱引きに加わっていましたが、、、結局、郷・柳村などが野々市町に入り、横江・田中が松任町となり、現在のいびつな市境が出来たわけです。余談ですが、石川郡野々市町を取り込みたかった金沢ですが住民感情で逃がし、平成の大合併でも二の舞を演じて、ラブコールを贈りながら一部町議員以外には見向きもされず振られています。一時は新潟と政令都市争いを目指しながら、河北二町(内灘・津幡)にも振られ、後塵を拝す程遠い結果になっています。他の市町村にはこういう時には嫌われ避けられる傾向が金沢市にはあります。
画像
年代が前後しますが、由緒書の延暦元年(792年)辰宮社の辰田の原は、五歩市から北西になる現在の白山市の宮永町、福増町に跨る荒れた草原だったと云われています。上杉謙信の滞陣は、天正2年になっていますが、天正5年(1577年)の誤りだと思われます。謙信が越中を完全平定したのは天正4年で、同年に足利義昭の仲介で一向宗との同盟も同年になり、上洛戦に方針転換した転機になります。その後、能登侵攻で七尾城に迫っていますが、一旦撤退して越後に戻り、翌年七月に七尾城に再侵攻しています。

七尾城の城代・長続連(ちょうつぐつら)は三男・連竜(つらたつ、加賀八家・長家始祖)を安土に救援依頼の使者として安土に送り出し、これを受けて織田信長は柴田勝家に滝川一益・羽柴秀吉をつけて援軍を編成、北ノ庄(現・福井市)から派遣します(8/8)。しかし、柴田軍は北越前・加賀で一向宗と闘いながらの進軍で、手取川を渡るのに1カ月と少しを要しており、織田軍中では謙信に匹敵する進軍スピードを誇る羽柴秀吉が加賀に入って手取川を渡った水島(現・白山市水島)から、柴田勝家と対立して長浜に無断帰還で離脱。この間に9/15に七尾城は落城。更に謙信は二日後には末森城を落として、奥能登を除く能登をほぼ完全制圧。織田軍の進攻を聞くと南下を開始。
画像
加賀に入った織田軍は一向宗の本拠とも云える地で本陣を置いて周辺に焼き働きをかけていますが、七尾城の状況が伝わっていない状態でした。そこに、上杉本隊が2里と離れていない松任城に着陣した事を知ります。恐慌を来した織田軍は七尾城を諦め9/23風雨をついて夜間撤退に移ります。その渡河中を後方から追い打ちを掛けるように謙信軍が急襲。織田軍は大勢の溺死者を含めた損害を出して敗退します。(手取川の戦い

その後、柴田軍は御幸塚城に佐久間盛政を残し、大聖寺城に兵を入れて、北ノ庄に撤退しています。上杉軍は丸岡(現・坂井市丸岡)まで追ったと云われますがこれは誇張のようです。御幸塚城・大聖寺城ともに合戦の記録はなく、2日後には七尾城に帰城して奥能登攻略に着手しています。、後年、能美の領主豪族が謙信の感状をもって、上杉景勝に帰属しているので、手取川を渡って小松手前で追い討ちを中止したようです。

上杉謙信が松任城に入る前に布陣したのが、辰田野の原の辰宮社だと中乃郷神社は伝えています。ただし、これはあくまで伝承です。奉納の兜があれば少しは納得するんですが。。他にも同じ名を持つ卯辰山という話もありますし、この辰宮社から西に3キロほどの成町に本陣跡の伝承があり松任城には入城していないとも云われています。松任城主・鏑木頼信が抵抗して戦ったとも云われていますが実証はありません。
いくら同盟を結んだとはいえ、遠回りになる上に本拠・金沢御堂を見下ろす卯辰山や有力地・松任城に陣を置くことを、一向宗が許すはずはなく、辰宮社か成町に仮本陣を置いて手取川に向かったというのが妥当だと思われます。鏑木頼信も謙信退陣後は何事もなかったように松任城に残り、金沢御堂での地位を保っています。
画像
画像
境内を散策したのはお盆前の8/7でしたが、拝殿横から神殿を観に廻った際に、草むらに飛び交う体長5センチ程の黒いトンボを観ました。このトンボの正式名は「ハグロ(羽黒)トンボ」。お盆の頃に飛ぶトンボで渓流や清流にいる川トンボの仲間ですが、空気がきれいで水がきれいな場所で観られます。久しぶりというより高校生の頃以来に観たようにおもいます。真黒な姿から「お歯黒とんぼ」。お盆の頃に飛ぶことから、先祖が姿を変えて現れたものとか、神様の使いだとされていて、「神様トンボ」とも呼ばれています。
雄は腹の部分が輝くコバルトブルーで、全身が真黒なのは雌になります。ですから画像のトンボは雌になりますね。
画像
江戸期に入ってから明治まであった五歩市の高田社(辰田神社)のあった場所ははっきりしませんが、旧名・高田と呼ばれるのは五歩市踏切を渡ってすぐにある地蔵尊の御堂がある場所だと云われています。当時はここが五歩市の東南側の入り口でした。
この地蔵尊は重量200キロほどもある「五歩市地蔵」と呼ばれる大きな延命地蔵ですが、この地蔵尊には民話が伝わっています。

むかし、むかしお地蔵さんのあるあたりは、高田とよばれ、あたり一面に竹が生えて、昼間でもうす暗いところでした。
画像
ある日のこと、太郎さんがここを通りかかると、美しい女の人が「お腹が痛い、お腹が痛い」と苦しんでいました。
「これは困った、娘さん、家はどこだ。」 心優しい太郎さんは、女の人を背負って家まで送っていくことにしました。
太郎さんが、いっしょうけんめい、女の人を背負って歩いて行きますと、背中がどんどん重くなっていきます。
あまりに重いので、不思議に思った太郎さんが、女の人をおろそうとしますと・・・・
「やや、これはどうしたことだ。」 女の人からふさふさとした尻尾(しっぽ)が生えてきたではありませんか。
女の人だと思ったのは、実はこのあたりに住んでいるキツネが、化けたものだったのです。驚いて、腰を抜かしている太郎さんを置いて、狐は竹やぶの中に逃げて行ってしまいました。

また、ある日のこと・・・松任(まっとう)から油揚げを買ってきた甚吉さんが、線路道を通って五歩市へ帰ってきました。手には、油揚げを入れたかごをぶらさげています。
甚吉さんの歩く後ろからヒタヒタ、ヒタヒタと、だれかがついてくるような音がします。あたりは、もう夜で、真っ暗やみ、怖くなった甚吉さんは、今度は早く歩いてみました。すると、どうでしょう、足音も早くなり、なおピッタリついてきます。ヒタヒタ・・・すっかり怖くなった甚吉さんは、とうとう、曲がる予定の西往来で、曲がることができず、今のお地蔵さんのあたりまで来てしまいました。
「くそっ、このままでは、どうにもならん」そう思った甚吉さん、あたりの枯れ枝を集めて、たき火をしました。獣(けだもの)ならば火を怖がって逃げていくだろう。そう思ったからです。
案のじょう、さっきからガサガサ音をたてていたものは、遠くに逃げていき、甚吉さんは、無事家に帰ることが出来ました。
家に帰って、包みを開いてみた甚吉さんは、びっくりしました。
なんと油揚げには、何かが爪で引掻いたあとが、たくさんついていたのです。
これも、このあたりにすむキツネか、タヌキか、ムジナのしわざだったのですね。
画像
こんなことがつづくので、村の人たちは、すっかり困ってしまいました。 「何とか、ならぬものだろうか」「何か良い方法はないだろうか」・・・
そんなとき、金沢の卯辰山(うたつやま)にお地蔵さんがいらっしゃるという話を聞いた村の人たちは、「高田にお地蔵さんを置いたらどうだろうか」「そうだ、お地蔵様がいてくださったら、きっと、キツネ、タヌキ、ムジナもでなくなるだろう」

そこで、卯辰山からお地蔵さんを運んできて、置いたところ、キツネやタヌキも出なくなったということです。
それからは、年に一度、村中の人が集まってお地蔵さんをお祝いしたということです。これが今も続いている、お地蔵さん祭りなのです。

「子どもたちの中奥ものがたり」・・・五歩市の地蔵祭(昭和50年五歩市子ども会)から出典引用


この民話は明治33年(1900年)頃が舞台になっていますが、付け足すとこのお地蔵さんを運搬してきたのが、村一番の力持ちのいそさんというお婆さんだったそうです。いそさんは卯辰山から地蔵尊を貰い受けて、背負って来たと伝わっています。ちなみに、いそさんは地蔵尊の近くにある得田家の先祖になるそうな…

地蔵尊は初めは松の茂みにあった洞窟に納められていたそうですが、村人によって堂が造られて納めらました。しかし、台風によって破損してしまい、昭和20年(1945年)村人たちの寄付によって新しいお堂が建てられ現在まで受け継がれています。ちなみに地蔵祭は毎年7/24に行われるそうです。

一番近い神社なんですが、今一つ由来がよく解ってなかったのですが、たまたま部屋の整理をしていたら、2年ほど前に貰った前出の「子どもたちの中奥ものがたり」が出てきたのです。今回の多くはこの本から引用させてもらいました

旅行日 2014.08.07 2017.03.16



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 25
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた
面白い 面白い

コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
キツネやたぬきに化かされた話 昔は本当にあったのかなっ?と思うくらいに各地域でありますね
それもみんな油揚げだったりして
昔話は楽しいですね  
がにちゃん
2017/03/20 17:51
がにちゃんさん
そうですね。民話にキツネ・タヌキはよく出てきます。
実物はどちらも愛嬌のある顔をしていますが、キツネは悪役、タヌキは愛嬌モノか善者扱いが多いみたい
でも面白いのが多くて読んでみると面白いですね。
つとつと
2017/03/21 08:02
毎年初詣に行っている神社ですけど 道を間違えてしまうことが 度々あります! まぁ理由としては 「道をを変えるから」・・・・なんですけど・・・’(毎度同じだとつまらないのと 他の用事を済ましてから 行ったりするから)
「キツネか たぬきの仕業かね?」と よく言ってましたね!?
まだこもよ
2017/03/21 09:01
石川県の神社は どちらも重厚な感じがします

むかし話も面白いですね  今 自分の住んでいる地域は曹洞宗のお寺が多いのですが どこも簡素な感じで なんか寂しいです

さて 桜いかがですか? こちらは 今日の氷雨もあり まだまだです
メミコ
2017/03/21 09:50
つとつとさんいよいよ地元の記事になりましたね、鉄道の側道が通れるようになったので随分便利が良くなりましたよ、スーパーマーケットに買い物に行くときも中乃郷神社の横を通り抜けて行けば信号がなくて便利です、前は五歩市北の信号で海側環状線を越えて高田の地蔵堂の踏切を越えていっていたのです。
現在の場所に住んで十年超になりますが地元の歴史に触れる機会がないのでつとつとさんの記事で知りました、郷土史を良く研究刺されていますね。
go
2017/03/21 14:48
神社合祀令の問題、南方熊楠が
反対運動を展開した事件で知りましたが、
それで失われたものも大きいようですね。
行政地区が交ざって分り難いと、
保育園や学校に通わせる時困りますね。
yasuhiko
2017/03/25 00:24
まだこもよさん
昔は地元の神社に初詣でで行っていたんですが、転勤などで住家を転々としていたら、近くの神社ではなく遠くの神社に行くようになってしまって、案外と地元神社が解らないなどということに。。ちょっと反省です。
タヌキもキツネも実物を見ると可愛いけど、人を騙すなんて感じじゃないですけどね。今はキツネも狸もいませんが、先日、通った時にイタチ(小さかったからオコジョかも)を見かけました^^
つとつと
2017/03/25 11:20
メミコさん
北陸は神社が多く、氏子になる地元に根付いているせいか、地元の手入れが行き届いています。何と言っても、風雪が厳しいですから頑丈な造りが多いようです。神殿は加賀特有の石垣づくりが多いということもあるようです。
曹洞宗は禅宗なので外装は地味な感じが多いんですが、内陣の豪華さは国内仏教の中でも突出した豪華な寺院が多いんですよ。ぜひ中に入ってみるといいですよ^^
つとつと
2017/03/25 11:28
goさん
あんまり出かけてなかったせいでネタがなくなっちゃいました。
五歩市北の信号がなくなって、非常に危険な道になっちゃいました。直進がしにくくてつらいですねえ。。でも、この側道で僕は逆に百万ボルトやヤマダ電機などに行きやすくなりました^^
なかなか地場の歴史というのは身近には出てきませんからねえ。僕も出てきて本を読むまでこの神社の謂れがよくわからなかったんです。子供向けと云いつつ、けっこう細かく載っていて面白い本でした。中奥は長竹・橋爪も含まれるのでなかなかの広さですね。。また近くの話題を描きたいです。
そうそう先週ですが、昨年goさんが行った美川のふくさげ祭りに行ってきました。仁木家の古代雛や水引にも驚かされました。さすが北前船の町ですね。
つとつと
2017/03/25 11:39
yasuhikoさん
神仏分離と神社合祀は多くの禍根を残していますね。特に神社合祀は日本人の信仰心に大きな影響を残していて、よく日本人は宗教には疎くなって、鈍感だとされる要因になってしまいました。南方熊楠の反対運動が功を奏して抑止されましたが、遅きに逸したという感じです。でも、神社には鎮守の森という自然美が、たとえ住宅地内でも残されているところが多く、ホッ吐息をつげる場所になっていますね。
引っ越すまではそれ程感じなかったんですが、いざ住んでみると、この行政区分の違いというのが、生活に多少の影響を与えますね。時々、お向かいさんが違う場所を観ますが、近所づきあいも疎遠になりやすいと聞きます。
つとつと
2017/03/25 11:50

コメントする help

ニックネーム
本 文
中乃郷神社 つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる