つとつとのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 白山七社@ 古宮公園(白山本宮跡)周辺

<<   作成日時 : 2017/04/19 04:50  

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 9 / トラックバック 0 / コメント 7

お客さんへの営業廻りの時間調整や予定のない帰途に名所旧跡めぐりをすることが多い僕ですが、本来ならばこの時季は桜の名所ならばいうことなしなんでしょうが。。。そこはお客様の場所と時間次第さらに飛び込みの事務仕事が多いんで、出られない時も多いんで。。

桜の名所もちょこちょこ短時間立ち寄りはしていますが、また後になりますが時季外れという声は無視してご紹介いたします^^なんせ気に入ってて、3年連続で行ってる場所もあるのにいまだアップしてないし‥

ここ何日かは白山麓の入り口に行っていました。おかげで、まだ行ってなかった白山七社の佐羅早松神社にもよることが出来ました。これで白山七社は全制覇^^V 画像のない岩本神社に再度行って画像をとって紹介すれば、全部ご紹介できると思います。

実は前のブログの前には、だいぶ前に訪れていた白山別宮神社(別宮)を途中まで書いていたんですが、弥生さくら公園の桜が見事で、そっちを優先してしまったんです。

画像
今年開山1300年を迎える霊峰・白山に加賀から登る際には、現在は白峰経由で市ノ瀬から登るのが主流ですが、実はこれ、勝山の越前馬場(平泉寺白山神社)からの越前禅定道の中途から登る形になります。

加賀馬場(白山本宮・白山比盗_社)を起点に尾添の一里野からハライ谷を登るのが、古来の加賀禅定道でした。ちなみに馬場(ばんば)のあった加賀・神宮寺・白山寺、越前・平泉寺、美濃・長滝寺ですが、各寺から先の白山に向かう道は霊域として、馬は禁止されていて、ここでつなぎとめ、徒歩で参拝するために馬場の名になったとも云われています。

室町初期まではこの白山信仰・登山により、加賀国内でも白山神を崇める神社や寺院が多く隆盛しました。
加賀国府は現在の小松市にあったように加賀の中心地は古来は小松にありました。建武・室町初期、富樫氏が野々市に本拠を置いたことにより、野々市・金沢南(富樫・高尾・円光寺・額・泉近辺)がその後の中心となっていました。

古来、加賀の中心地・小松から白山に向かうには、加賀国府を経由して三坂峠を越えて鳥越に入り吉野で禅定道に合流する道(現在の国道360号)と、軽海から仏大寺などの辰口の東山麓を抜け岩本の渡しから手取川を渡り、白山本宮(白山比盗_社)に到着して本道を行く、この二道が主流になっていました。現在の本道といえる金沢から鶴来街道が整備されたのは江戸期に入ってからが主になるようです。

前述のように白山信仰によって、本宮四社・中宮三社、中宮八院を中心に白山神仏関連の神社・仏閣が加賀の地には多く見られたのです。加賀禅定道の道で大きな権限と力を持って白山信仰の中心的存在だったのが本宮四社・中宮三社でした。山王信仰で有名な日吉七社に倣って、白山七社と称していました。

一応、列挙すると。。。15世紀初頭までの状況としては。。

本宮四社  白山本宮・・・現・白山比盗_社、何度も遷座していて、表参道入口に当たる廃駅・加賀一の宮駅の横の古宮公園にありました。神宮寺(別当寺)として名目上の惣長史となっていました。
        剣宮   ・・・現・金剣宮 安元事件で唯一帰還した神輿はここの物と云われています。鶴来の町名や、奇祭・ほうらい祭りはこの神社に由来しています。
        三宮   ・・・現在は無し、15世紀初頭、焼失した本宮が同地に遷座、現在に至っています。
        岩本宮  ・・・現・岩本神社、本宮とは手取川の対岸になり、渡しの宮として栄えた

中宮三社  中宮 ・・・現・ 笥笠中宮神社、白山参拝では最奥の長史の神社、女性はここまでの参拝でした。権限は本宮をしのいでいたとも云われています。
        佐羅宮 ・・・現・ 佐羅早松神社、安元事件の原因の中宮八社・涌泉寺はこの神社の直接の管轄寺、京都の白山神社のご神体の神輿はこの宮の物と云われています。
        別宮   ・・・現・白山別宮神社 小松から三坂峠を越えた位置にあり小松からの玄関口に当たりました。江戸期には別宮奉行が置かれ、明治の改編では中宮三社唯一の郷社格になった神社

本来ならば、白山本宮から順番に紹介すべきなんですが、上記に記したように白山本宮は何度か遷座を繰り返しています。元々の開基は舟岡山の山上の遥拝所であったのですが、その後は手取川の河岸の十八講河原で水害で流され、安久濤(あくど)の森(現・古宮公園)に移って火災により焼亡、三宮の現地に遷座して現在に至っているわけです。
画像
画像
ちなみに画像は16日に撮った夜の白山比盗_社、樹木公園で夜桜のライトアップに行ったついでに寄ったものです。神社もライトアップすると聞いていましたが、真っ暗でした。。そんな中でも、けっこう参拝している人がいました。

ところが、遷座した現在地は元々は三宮があった地でした。しかも、この遷座は文明12年(1480年)火災による三宮への緊急避難で、あくまで三宮に本宮が間借りした状態でした。もちろん、朝廷への再建申請は出されていましたが応仁の乱以降、朝廷も実質破たんしており予算も組めない状態。この火災で惣長史としての神宮寺も失い、その後は一向一揆の勢いが強く、荘園を失って年貢収入もなく白山衆徒が廃絶されて、その後百年間はいつしか三宮の社殿も荒廃しきっていました。
画像
画像
こぼれ話ですが、応仁の乱によって京都の寺社や公家屋敷が焼失したことにより朝廷は収入源を失っていたのですが、後土御門天皇は乱を避け将軍屋敷の室町第に10年以上居候。当時、天皇在位の逝去は禁忌でしたが、御所に戻った後も病気で譲位しようにも予算がなく、明応9年(1500年)に亡くなっています。更に葬儀予算もなく遺体は1か月半以上放置されて、腐乱状態で虫が湧いていたと云われています。その跡を継いだ後柏原天皇は26年の在位でしたが、幕府と本願寺の支援で即位の礼を行ったのは21年目。その後の後奈良天皇は大名の大内氏の献金で即位の礼を行いました。超まじめで人格がある人物でしたが、宸筆を乱発して収入を得ていました。骨董品として宸筆は珍重されますが、後奈良天皇の宸筆は数が多すぎて価値が低いとされています。かほどに朝廷も貧窮していたのです。
画像
白山本宮の社殿が三宮の地で整備され始めたのは前田利家が入部してからで、文禄5年(1596年)朝廷からの白山宮再建の綸旨を受けて保護・再建したところからです。この時に同地に別当寺として白山寺も建立されています。
明治の神仏分離で、奥宮問題で福井・平泉寺白山神社との競合が再燃、明治政府の裁定によって、白山寺を廃して白山総鎮守として白山比盗_社が誕生したわけです。
画像
ここまで書いたように白山本宮・白山比盗_社は同地にあるんですが、振り返ってみると朝廷・正親町天皇は白山宮再興を指示しているだけ、前田利家も三宮に本宮がいたからそのまま再興しただけです。正式な遷座はしておらず、意地悪な言い方をすれば三宮の廂を本宮が借りて、そのまま居座った状態なわけです。三宮にすればここは三宮だと主張してもおかしくないんですが、誰もそんなことは言わないし、白山比盗_社が三宮町にあることは現実としてみんなが受け入れているわけです。

今は無き三宮に敬意を表して白山比盗_社三宮とすると、、、、
本来あった場所になるわけですが、十八講河原の本宮が手取川に流され安久濤の森に遷座したのが社歴から霊亀2年(716年)。そもそも伝承の上に泰澄の開山もまだ、洪水で手取川の流れも変わっており、手取川の急角度に曲折する手前の中州あたりだと云われていますが、
十八講河原の本宮跡は幻のまま。。十八講河原 ⇒ H27.08.08 天狗壁
ちなみに、白山本宮の発祥地は以前紹介しています ⇒ H28.7.19 舟岡山城
画像
画像
画像
というわけで、白山比盗_社の表参道の大きな桜の木をスタートして、古宮公園のある安久濤(あくど)の森にむかいます。以前は北陸鉄道の加賀一の宮駅をはさんで向かいに渡れたんですが、廃線となった今は少し西に大回りせねばなりません。加賀一の宮駅は特徴的な駅舎看板が掛けられていたんですが、今は取り外されています。どこに保管してあるんでしょうかねえ。。現役時代の加賀一の宮駅 ⇒ H19.07.06 加賀一の宮 白山比盗_社
画像
北陸鉄道は地元では北鉄と呼ばれていますが、一般には路線バスの印象が強いのですが、、、浅野川線・石川線の二線が走っています。以前は鶴来駅から寺井駅の能美線も昭和50年代まで走っていました。
画像の右が古宮公園になります。


画像



石川線は金沢の野町駅から加賀一の宮駅までだったんですが、平成21年(2009年)一部廃線になって今は鶴来駅までになっています。それ以前の昭和59年(1984年)まで金名線と呼ばれた路線がこの加賀一の宮から鳥越の白山下まで列車が走っていました。金名線は名前の通り、金沢=名古屋間を繋ごうと計画されたものですが、発足当初から資金難に悩まされ、乗客不足で赤字路線経営で、途中の橋梁の路線の崩落や危険性から廃線になっていました。白山麓の手取川を縫うように進んだ路線は隠れた人気があったんですがねえ。。ちなみに鶴来=加賀一の宮間も発足当初は金名線だったんですが、路線維持のために金名鉄道から北陸鉄道にすぐに売却された経緯があって、この路線が廃線となって白山麓を走る金名線は完全に姿を消したことになります。
加賀一の宮駅は独特の拝殿のような駅舎と駅名額で人気があったんですが、、車の普及で乗客が日に数名となり、正月三が日参拝のみ満員となる路線でしたが、地元住民や白山市民の反対もむなしく廃線となってしまいました。
画像
古宮公園は硬い岩盤の崖上の台地の上にある公園になります。白山宮があったと思われる十八講河原の東南に位置した場所になります。手取川が急激に屈折した水面の静かな澱みで水被害の少ない安久濤(あくど)淵の崖上に河原から移転したと思われます。
画像
画像



手取川の流れがちょうど曲がる外延の澱み部分なので、江戸晩期から明治、25年の月日をかけては加賀平野に行き渡る七ヶ用水の創始となる五つの取水口が、肝煎・枝権兵衛、藩産物方・小山良左衛門によって造られています。
画像

このため、大正15年銘の二人の顕彰碑や、昭和に続く水路の完成の竣工碑、水門の神様・水戸明神、加賀平野の農業用水の多くを支える七ヶ用水に関する事物が多く見受けられます。
画像
画像
肝心の白山本宮の跡地ですが、はっきりした場所は不明ですが、枝権兵衛が掘った第二・第三取水口の間の台上あるいは水戸明神の祠がある辺りではないかと想像されます。

画像





それを示すように、平成8年(1996年)七ヶ用水管理事務所建設時の発掘調査で、1700枚に及ぶ瓦笥(かわらけ)が出土しています。そのほとんどが使用済みのもので廃棄場所だったようです。
画像

瓦笥は丸型の小皿でお神酒に使用されたようです。近くに祭祀場があった証明といえます。この辺りの祭祀場といえば白山本宮・神宮寺以外考えられません。出土状況を残すためピラミッド型の覆いに、発掘現場が復元展示されています。
白山本宮跡を示すものはこれだけですが、本来の本宮跡がここだというのは史実のようです。そうなると新しい白山本宮として室町中期・江戸期を通じ、明治に成立した白山比盗_社の期間を合わせたより、長い時を白山本宮として刻んだ地になります。白山比盗_社の参拝の際にはぜひ立ち寄ってみてください。
画像
画像
画像
七ヶ用水の現在の取水口は、一の宮大橋を越えた古宮公園から1キロ余ほど先にある白山ダム管理事務所ですが、直線の用水路の中間地点の大水門・発電所を過ぎて左折、旧鶴来街道に出ると、大きな祠に納められた石壁に彫られた大きな地蔵尊があります。右画像をアップすると解るかもしれませんが、祠の裏山の中腹が白山比盗_社の表参道の神門になります。



画像
かたがり地蔵は元は白山本宮の発祥地・舟岡山の山裾にあった自然石摩崖仏です。明治期にこの地に移されたものです。
画像

路傍に晒されているので風化と摩耗で姿形が解りにくいですが、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。左側には五輪塔が陽刻されています。また画像には入っていませんが右傍らには「庀白山御宮道」の小石柱があります。この意味は「白山禅定道(御宮道)を庇護する」。
画像
古くから地元では左肩が下がり気味なので「かたがり地蔵」と呼ばれています。また地元では泰澄作と伝わっていますが、作風から室町様式とみられ、16世紀初頭の古文に記載されていることから室町中期以前の作とみられています。
この地蔵尊に小石を奉じると足のケガに効き、箸を奉じると歯痛が治まるとされています。
画像
画像
画像
かたがり地蔵の近くにはこの時季あまり見られない赤の花が木に観られます。これは桜?梅?観るのは好きですが、花木や草花の名前はとんと疎い僕なので、他の方のように名前を書けないのが辛いですね。山間の鶴来ではこの花が道沿いで見られます。
画像




白山比盗_社の門前からかたがり地蔵にかけては、その先の一部を含めて現在は白山町(しらやままち)と呼ばれますが、白山比盗_社に仕える人が多く住んでいたことから、この区間の別名を神主町とも呼ばれています。かたがり地蔵から白山比盗_社の表参道入り口に向かう途中にある町の公民館の名前も神主町公民館となっています。
画像

画像
この神主公民館の木造建築は一の宮小学校の校舎として使用された木造洋風建築です。正面を重視した下見板張・桟瓦葺・2階建。何と言っても周りからも目立つ水色に塗られた壁面が特徴的で、桜のピンクと妙に合う建物です。

神主町といえば、ちょっと怖くて首を傾げたくなる民俗風俗についてに、、、
戦前のお話ですが、神主町は白山比盗_社の門前町であり、神職が住まう祓い道・禅定道としての自負がありました。現在もそうですが、鶴来の町から南になる白山麓の村々には大きな病院がなく、大病の治療・療養は鶴来や松任に行くしかありませんでした。当然ながら治療空しく亡くなり、白山麓に遺体となって帰る人も出ることになります。白山麓では遺体を死人(しびと)と呼んでいますから、ここからは遺体ではなく死人としますが、、、神主町では不浄となる死人の通過は許せるものでなく町の通過を禁じていました。またこの禁事からいつしか長い時を経ると死人を通すと嵐が来るとされ、風雨の時や病院での死亡を聞くと、夜を徹して通行禁止の見張りを立てるほどになっていました。このため、白山麓の村に戻る死人の列は市街から表参道の手前の道を左折して、傾斜の厳しく曲がりくねった山道を登り八幡町に出て(舟岡山城の搦め手口に出る登り道です。)、白山比盗_社を巻くようにして避けて、獅子吼から再び白山(しらやま)の南端に道を降りねばなりませんでした。為に、この遠回りの道は死人道と呼ばれていました。この話を知る人は今でもこの急な坂道は登りたがらないと云われます。戦後になると、さすがにそのような差別的行為はなくなりましたが、かたがり地蔵の前に土橋があった時代は、町に遠慮して橋に塩を撒いて通ったそうです。

明治22年(1889年)の町村制では白山(しらやま)は河内村に属していました(当時は中島、三宮、八幡、小原も河内村に所属)。ところが戦後の民主化で産業や風俗の違い、更には教育問題・農協問題で対立して、前述の中島以北の五町が一の宮村として昭和27年(1952年)分村します。ところが僅か2年半ほどで、国の町村合併促進法の施行で鶴来町に編入されたという経緯があります。このゴタゴタはいろいろな要因はありますが、少なからず前述のお話も影響したと云われています。

最後に余計なお話になってしまいましたが、今はプライドの高い門前町の名残はなく、人も風景ものどかで時間のゆっくり流れるところです。

旅行日 2017.04.14











テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 9
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス
驚いた

コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
白山7社全制覇おめでとうございます  白山登山はしたのですが、神社へのお参りは・・・?まだ  三兆に立てなかったのは拝まなかったからか・・・
がにちゃん
2017/04/19 15:07
先日、樹木公園に行った帰りに白山比哶神社の裏の道を通って帰る時に信号の名称が「三の宮」になっているので?と思っていました、白山比哶神社は加賀一の宮と思っていたので不思議に思っていたのですが、つとつとさんの記事を見て分かりました。
加賀禅定道の入り口のハライ谷は渓流釣りに行く谷です、林道に車を停めて白山に登る登山者も多いですよ。
前に獅子吼の語源を調べていたら、四宿(ししゅく)からきているようで、獅子吼から白山に登るときに四つの宿を越えて行くそうです、「宿」は登山の途中で野宿する場所をさすようです、4日がかりで登ったのでしょうね、信仰の山の白山に登るコースは幾つかあったようですね。
go
2017/04/19 19:07
濃い内容に驚きました。白山、立山は登りたい山ですが遠いですね。北陸の神社についてブログを拝見して想像を膨らませています。
tor
2017/04/19 21:25
そうやって、暇をみては
史跡巡りをされてるんですね。
白山詣での道程がよく分かりました。
三宮の社殿が荒廃してた時代の話も、
なかなか興味深かったです。
yasuhiko
2017/04/21 14:46
北鉄、以前は加賀一の宮まで来ていたのですね。
去年僕が来たときにはすでに鶴来までになっていました。
廃線になる前にいちど乗っておけばよかった。
もったいないことをしました。
最近全国の廃線のペースが早く、乗らないうちに廃止されてしまった鉄道がけっこうあります。
家ニスタ
2017/04/22 11:17
がにちゃんさん
地元でしかもあっちこっちの神社に出向いているのに、何とか七社とか三大何とかは、一つだけ抜けてるところが多いんですよ。そういえば、三大大仏も10年ほど前にやっと全部見られたし‥
白山奥の宮に参るには三馬場のどれかに詣でてから行くと転機に恵まれるそうですよ^^;機会があったらチャレンジしてみてください

goさん
そうなんですよ^^僕も昔、白山さんが一の宮なのに、三宮町にあるのか不思議に思っていました。探ってみると地名と旧跡は結びついてくるものですねえ。
獅子吼が四宿から呼称が変遷してきたのも面白いですねえ。何年か前までは四宿の旧跡に御堂や祠があったんですが、今は見当たらないようですね。。地元の人でも知らないみたいです。僕は県内の修学旅行で訪れた時に教えてもらって、ぼんやりと覚えていたくらいです^^;それまでは加賀特有の狛犬(狛獅子)が吠えたようないかついのが多くて、遠吠えか何かだと思っていました。

torさん
北陸は白山・立山といった山岳信仰から仏教に融合したものが多く興味深い山があります。この二山と能登の石動山が神の山として古くから信仰を集めていたようです。白山は特に県が重なる場所で周辺に白山関連の史跡が多く残っていて興味深いですよ。
九州は現代日本の発祥地ともいえるので、いろいろな種類や神話の世界があって、いつも羨ましく読ませていただいています。

yasuhikoさん
北陸の歴史は宗教の変遷に大きく左右されています。曹洞宗・浄土真宗は元々の発展は北陸からになります。更に白山・立山・石動山の山岳信仰も根強く、そこに日蓮宗・曹洞宗を信奉した前田家がはいって共存した特有の世界になったようです。
もちろん、対立もありましたから、その影響も大きくなっています。
つとつと
2017/04/22 12:17
家ニスタさん
そうなんですよ。僕にとっては馴染み深い鉄道だったんですけどねえ。。
参拝時列車だけでも残してほしかったんですがねえ。それはそれで整備が大変という話でした。廃線の為に表参道から神社に登る人が少なくなってしまいました。
けっこう、周りはのどかで見るものが多いんですけどね。。
つとつと
2017/04/22 12:18

コメントする help

ニックネーム
本 文
白山七社@ 古宮公園(白山本宮跡)周辺 つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる