つとつとのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園@

<<   作成日時 : 2017/05/21 19:14   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 31 / トラックバック 2 / コメント 2

前々回の記事では、倶利伽羅不動尊の西之坊・鳳凰殿をご紹介しました。
僕の子供時代と云えば、山頂本堂に初詣でに行くのが、当たり前になっていました。倶利伽羅駅から反対方向に父方の本家があって、年始がてら伺って、軽トラで乗せてって貰うか、坂戸口や九折(つづらお)から、てくてくと登って行ったのを覚えています。その頃は、そんなにきつい印象の記憶がなかったんですが、改めて車で登ると結構どちらの道も険しく厳しい道のりです。若かったのかなあ。そういえば、小中学高校の頃、歩くことには全然苦にしてなかったなあ。。今はちょっとの坂道でぜーぜー

当時は裏駐車場から参拝してたんで、ほとんど手向神社の印象はなかったんですが、大人になって自分の運転で登るとなると坂戸口からの距離が長く感じるけれど、子供の頃は観ることのなかった場所を再確認することが出来て、思わぬ発見や位置関係が解るようになって、この辺りに来ることを楽しみにするようになっています。

実は、山頂本堂に行って奥の院の撮影をしたはずなのに消えておりまして、また行ったときに奥の院を撮影して記事を書こうと思っていました。ところがそう思っている時に限って機会がないんですね。で、奥の院はまたの機会ということで。。倶利伽羅不動寺を書き始めて方針転換。。僕が、倶利伽羅では倶利伽羅不動明王以上に重要と感じる神様について、先に書くことに。。

鳳凰殿のブログで書いたように、倶利伽羅不動尊は長楽寺としての歴史は長いのですが、江戸末期の門前店の火災の延焼で荒廃した後は、再建されずに明治を迎え、わずかな堂宇を残していた長楽寺は廃寺となり、護摩堂だった石堂神殿手向(たむけ)神社として長らく失われた状態でした。
画像
昭和24年(1949年)から高野山と地元住民によって再興され、昭和26年には卯辰山に残されていた招魂社(護国神社の前身)の忠魂祠堂を本堂として移築、また旧高松小学校(現・かほく市高松)の御真影奉安殿を奥の院不動堂として移築。その後に堂宇や伽藍・参道を整えて現在に至っています。護摩法も毎日2回、祈祷5回と倶利伽羅不動尊はやはり山頂本堂が中心に動いています。

倶利伽羅不動尊不動寺は加賀と越中の国境に建っており、特に奥の院はわざわざ県境の線上に置かれています。一応、現在の所在地は石川県河北郡津幡町ですが、お隣りの小矢部とは共同地のような存在です。古代から加賀・越中を往還する旅人の信仰をを受けたことは当然な理になります。
画像
画像
画像
長楽寺廃寺跡に置かれた手向(たむけ)神社の元となったのも、旅人の道中の安全を見守る祠が起源だと云われています。明治の神仏分離令で建てられた神社なので神功皇后・素盞嗚(すさのお)命を主祭神にしていますが、名称の通り本来は手向の神を祀ったものになります。この手向の神こそは倶利伽羅不動明王よりも同格イヤ、それ以上の存在になる神だと僕は思っています。
画像
画像
江戸期以前の長楽寺を伝えるものは、津幡町倉見の専修庵から平成になって戻った阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅図の掛け軸・資料と云ったものはありますが、構築物は前述の様に他からの転用や戦後・平成に作られたもので、境内にはほとんど無いと云っていいのですが、唯一の江戸期初期の構築物を伝えるのが、先に書いちゃいましたが、実はこの手向神社になります。

外側からは普通の木造の拝殿との神殿造ですが、昭和47年(1972年)に建てられた神殿の建物は覆い屋の役割になっています。木造の神殿の中には、石堂神殿と呼ばれる石造の御堂が納められており、神殿の本体となっています。拝殿の扉が開かれていると、その姿が遠めに見ることができます。(画像をアップしてもらうと彫刻や形態が解ります。)拝殿内にも入れそうですが、誰もいなかったので許可を貰えませんでした。
画像
画像
この石堂は慶長19年(1614年)、前田家三代・前田利常が先代・兄・養父である前田利長の病気快癒の祈祷所として寄進したものです。利長は大阪冬の陣直前の6/27(旧暦5/20)に亡くなっていますから、冬場の製作だと思われます。その後は長楽寺の不動堂となり後には護摩堂として使用されていました。この由来から拝殿の神紋は加賀前田家の加賀梅鉢紋になっています。

石材は越前の笏谷(しゃくだに)石。笏谷石は福井市の中心にある足羽山で採掘された石材で凝灰質でガラス分が混じるので光沢があり、しかも加工のしやすい石材として古くから使用されたようです。一乗谷の古仏群や柴田勝家が築いたと云われる今は無き北ノ庄城の屋根瓦。丸岡城の屋根瓦も笏谷石が使用されています。石堂神殿にも柱・屋根・棟には彫刻が丹念に施されています。笏谷石は露天掘りで、福井市街中心地の為、陥没事故の危険性から現在は産出されず、幻の石材となっています。倶利伽羅不動尊内では一番注目して欲しいものです。

この手向神社は前述の様に、旅人の道中の安全を見守る祠が基になったと云われていますが、その痕跡や伝承が幾つか散在します。そして一番重要な場所に向かうのが。。
画像
手向神社・山頂本堂に向かう表参道入口の右脇に古道があるのですが、入り口には江戸期の神仏混交の名残のある稚児柱で補助された両部鳥居と呼ばれる鳥居が建っています。更に鬱蒼とした森を先に進むと国見山の山頂に通じる急な百八段(+8段)の石段(百八坂)が待ち受けています。
画像
画像
百八坂の石段は、加賀藩では貴重石材として藩主や高級武士階級にしか使用を許されなかった青戸室石が使用されています。斜度45度ですから登るときは要注意。この急激な石段を一段登るごとに煩悩が払われると云われています。
この石殿は前田家5代・前田綱紀が寄進したもので、参勤交代時に休憩所となった長楽寺と山裾を走る北陸道に対してのもので、参勤交代という旅の無事安全を願ってのものと云われています。
画像

国見山頂上は倶利伽羅峠では最高地点になります。この時季には枝葉に遮られますが、紅葉期や冬枯れの時に来ると不動寺の全景が見下ろせるビューポイント。画像の最奥の山が二上山で東麓に越中国府がありました。二上山の手前が稲葉山で頂上に稲葉山牧場という小矢部牛の放牧場があります。
古代には各地に点在した手向神の祠は、その設置は街道や道側の丘の上や山上に置かれていましたから、国見山の頂上というのは説得力があります。本来の手向神社の発祥地はここになると思われます。
画像
百八坂を登りきったところに「五社権現」として四つの石殿が置かれています。これまた戸室石製です。国見山は倶利伽羅峠内では最高地点にあたります。またこの山頂は加賀・越中の国境になります。石殿の表側が加賀国、裏側が越中国になります。
並列する一番奥の石殿の背面(現在は摩耗で読めない)には「「延宝五年 四社建立 松平加賀守綱利公 九月八□」と刻まれていました。ちなみに綱利という名は父・光高の急死で、三歳で跡を継いだ幼名・犬千代(祖父・利常が後見)が十二歳で江戸城に登城・元服した際に将軍・徳川家綱から編気を受けた名前で、この時に加賀守も同時に受けています。後に綱紀と改名しています。建立が延宝五年ということは1677年、後見の利常が亡くなって19年で33歳、独り立ちして円熟期を迎えた君主でした。ちなみに綱紀は92歳と当時としては異例の長寿、3歳からの治世は80年の安定政権、加賀藩最高の藩主と云われています。
画像
五社権現と云いながら、四社建立?と、思う人が多いと思います。元々、五社権現というのは、以前、ご紹介したことがありますが、能登の石動山天平寺が信奉していた大宮(本地仏本尊・虚空蔵菩薩)・白山宮(客人権現・十一面・如意輪観音)・梅宮(将軍地蔵菩薩)・火宮(蔵王権現・聖観音菩薩)劒宮(倶利伽羅不動明王)の五つの権現のことで、つまり長楽寺が倶利伽羅不動明王を祀ることから、山上には残りの四社が建立されたのだと思います。ただ石殿の中は観たことないんで、どれがどれかは解りませんが。。
画像
前田利家が天平寺を焼き討ちした時に、人質とした本尊の虚空蔵菩薩像を今石動城愛宕神社に移したために、倶利伽羅村の峠越えの地が石動(いするぎ)と呼ばれるようなっていましたが、その関係性もあったようです。ちなみに件の虚空蔵菩薩像は神仏分離後の現在は小矢部市石動駅近くの浄土真宗(東本願寺)・聖泉寺にあります。



能登・加賀・越中・飛騨の一部を領有した加賀前田家は神格化された能登・石動権現(石動山攻め後は小矢部)、白山麓の白山権現、金沢医王山の医王権現、越中の立山権現は無視できない重要な宗教ポイントでした。その一つの石動権現にあった五社権現(白山権現も含まれます)の分身を石殿として置くというのは、倶利伽羅山を同じように重視・信仰したことが窺われます。
画像
国見山の南面に新しい石段がありますが、そこを降りて旧北陸道の歴史国道を挟んだ所にあるのが倶利伽羅公園。駐車スペースの少ない倶利伽羅峠では貴重な駐車場のある公園です。源平合戦の慰霊塔や展望台はここに停めた方が便利です。八重桜も多く植えられていて、満開時には多くの人がお花見のシートを広げる場所です。この日もまばらな桜の下で、お花見グループが一組いました。

この公園に津幡町・小矢部市の両教育委員会が建てた「砺波山手向の神の歌」という万葉歌碑が建てられています。案内板を記すと・・

万葉集 巻十七 砺波山手向(たむけ)の神の歌

天平十九年(七四九)五月二日、大伴池主が、越中守大伴家持に贈った歌である。
大伴池主は掾(判官)として家持に仕え、優れた万葉歌人であり家持との贈答歌が多い。家持が着任して一年。翌天平十九年、国の収支決算書である正税帳を中央政府に提出するため上京することになった。
四月三十日、家持は上京にあたりての感慨を歌に託して池主に贈った。池主は、その別離の歌にこたえて、
       あおによし 奈良を来離れ 天さかる ひなにはあれど ・・・
と、長歌一首、短歌二首を贈り別れを悲しみ、旅の無事を祈って歌い捧げた。
       砺波山の手向の神に幣を奉りて、無事に旅を終えて、なでしこの花のさかりのころに再会できるよう
       に祈ります、と

昭和五十六年七月六日、津幡町長、小矢部市長の揮毫により由緒の地に建立された。

昭和六十二年三月三日 津幡町教育委員会 小矢部市教育委員会


一応、訂正箇所を、天平19年は749年としていますが、747年の誤りです。
画像

長歌 万葉集 巻十七 四〇〇八番

題詞原文 忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首 并二絶

読み下し たちまちに京に入らむとして懐を述ぶる作を見るに、生別は悲しく、断腸万回にして、怨緒やみがたし。いささかに所心を奉る一首 あはせて二絶

長歌原文(よみ)

安遠迩与之(あおによし) 奈良乎伎波奈礼(ならをきはなれ) 阿麻射可流(あまざかる) 比奈尓波安礼登(ひなにはあれど) 和賀勢故乎(わがせこを) 見都追志乎礼婆(みつつしおれば) 於毛比夜流(おもひやる) 許等母安利之乎(こともありしを) 於保伎美乃(おほきみの) 美許等可之古美(みことかしこみ) 乎須久尓能(をすくにの) 許等登理毛知弖(こととりもちて) 和可久佐能(わかくさの) 安由比多豆久利(あゆひたづくり) 無良等理能(むらとりの) 安佐太知伊奈婆(あさだちいなば) 於久礼多流(おくれたる) 阿礼也可奈之伎(あれやかなしき) 多妣尓由久(たびにゆく) 伎美可母孤悲無(きみかもこひむ) 於毛布蘇良(おもふそら) 夜須久安良祢婆(やすくあらねば) 奈気可久乎(なげかくを) 等騰米毛可祢(とどめもかねて) 見和多勢婆(みわたせば) 宇能波奈夜麻乃(うのはなやまの) 保等登芸須(ほととぎす) 祢能未之奈可由(ねのみしなかゆ) 安佐疑理能(あさぎりの) 美太流々許己呂(みだるるこころ) 許登尓伊泥弖(ことにいでて) 伊波婆由遊思美(いわばゆゆしみ) 刀奈美夜麻(となみやま) 多牟気能可味尓(たむけのかみに) 奴佐麻都里(ぬさまつり) 安我許比能麻久(あがこひのまく) 波之家夜之(はしけやし) 吉美賀多太可乎(きみがただかを) 麻佐吉久毛(まさきくも) 安里多母等保利(ありたもとほり) 都奇多々婆(つきたたば) 等伎毛可波佐受(ときもかわさず) 奈泥之故我(なでしこが) 波奈乃佐可里尓(はなのさかりに) 阿比見之米等曽(あひみみしめとそ)
画像
訳 奈良の家を離れ、鄙(ひな)の地ではあるが、あなたにお逢いしているので、気がまぎれることもありましたが、大君の仰せを恐れ謹んで、ご領土の公務を帯びて、足ごしらえをして、朝に出発して行かれたならば、あとに残るわたしはどんなに悲しいことでしょう。旅行くあなたもどんなにか恋しく思われるでしょう。思う心が不安なので、ため息をこらえることもできず、見わたすと、向こうに見える卯の花の山で鳴くほととぎすのように、声あげて泣けてきます。乱れる心を口に出して言うのは不吉なので、砺波山の峠(手向)の神に、幣(ぬえ)を捧げてこうお祈りします。「いとしいあなたを、何事もなく無事にずっと離れず守って、月が変わってもまだ夏のうちの、なでしこの花のまっさかりのうちに、お逢いさせてください」と。
画像
短歌 万葉集 巻十七 四〇〇九番

短歌原文(よみ)

多麻保許乃(たまほこの) 美知能可未多知(みちのかみたち) 麻比波勢牟(まひはせむ) 安賀於毛布伎美乎(あがおもふきみを) 奈都可之美勢余(なつかしみせよ)

訳 道の神さまたちよ、お供えは十分にいたします。わたしが恋しく思っているこの人を、見守ってください。
画像
短歌 万葉集 巻十七 四〇一〇番

短歌原文(よみ)

宇良故非之(うらこひし) 和賀勢能伎美波(わがせのきみは) 奈泥之故我(なでしこが) 波奈尓毛我母奈(はなにもがもな) 安佐奈佐奈見牟(あさなさなみむ)

訳 心恋しいあなたがなでしこの花であればよいのに。そうならば、毎朝見られるのに。

左注原文 

右大伴宿禰池主報贈和歌 五月二日

読み下し 右、大伴宿禰池主が報(かへし)贈る和(こたへ)の歌 五月二日




高岡市万葉歴史館から引用しました。この一首二短歌の先に、大伴家持から大伴池主に一首一短歌が贈られた返歌になるのですが、どちらも恋文のような言葉が並んでいます。
漢文は解読して、意味を更に訳さねばなりませんから、そのままだと、解り難いですが、慣れると意外に読めてきます。ただし当て字も多いので、、、、

この長歌で「砺波山 手向の神に 幣(ぬえ)奉(たて)まつり 我(あが)乞い祷(の)まく
と、あるように、手向神の祠にお札を捧げて旅の無事を祈る、というのが古代から習慣があったことを教えてくれます。

砺波山(となみやま)倶利伽羅山の古称で、ここでは最高点の国見山を指すと思われます。
倶利伽羅峠の小矢部口には越の三関の一つ「砺波の関(場所は特定されていません)」が置かれていました。ちなみに残りの越の三関は北陸道に置かれた関で、越前敦賀の愛発(あらち)の関、越後・出羽国境の鼠ヶ関(ねずがせき)のこと。古代の関は一般に想像する江戸期の通関管理的な関所ではなく、国守と共に派遣される武官が置かれ、兵員・武具が常備された軍事拠点の要素が強いものでした。国守は都との往還には、この関を通ることを義務付けられていました。

大伴家持は万葉歌人として知られ万葉集の編者ともいわれる人物ですが、5年間、越中守として赴任していました。家持28〜33歳の頃で223首の和歌を残しています。帰京後に度重なる政争に巻き込まれる以前の少壮期と云えます。大伴池主も歌人として知られますが、越中国の三等官に当たる掾(じょう、判官)として赴任されてから家持とは公私で親交を深めたようで、漢詩は逆に教示していたとも云われます。任期後も越前掾となったりで家持と離れたのちも親交が続いており、多くの来報歌・贈答歌を贈っています。これらの来報歌・贈答歌が万葉集に多く採用されています。もちろん、家持が正税使の職務を終え、越中国府に帰任して再会を果たしています。

しかしこの歌から10年後、池主は藤原仲麻呂への暗殺計画漏洩事件(橘奈良麻呂の乱)で逮捕獄死したと云われています。家持もこの事件での関与を疑われていますが、加担は認められず無実とされています。
その後も数々の政争に遭いながらも、官位を上げ続け、67歳で死去しています。最終官位は従三位中納言、早良親王春宮大夫(とうぐうたいふ)、征東将軍兼鎮守府将軍。赴任先の陸奥で亡くなったとも、在京中とも云われています。
死後僅か20日余り後の藤原種継暗殺事件の首謀者として位階はく奪・埋葬禁止の追い罰を受け、息子・永主は家族と共に隠岐流罪になっています。遺骨も隠岐に家族と共に持って行かれたと思われます。

延暦4年(785年)に起こった藤原種継暗殺事件ですが、、、、時の桓武天皇は平安京遷都で知られますが、それまでにも平城京⇒恭仁宮⇒信楽宮⇒平城京⇒長岡京⇒平安京と都を転々と変えていました。一般には旧天武系の南都勢力からの離脱などと云いますが、実際には何かから逃げているとしか思えない慌ただしさです。

事件は遷都した長岡京で起きています。慌ただしい遷都で都の建物はまだまだ未完成で造営中の真っ最中でした。その造営奉行が藤原種継でしたが、その種継が弓矢によって暗殺されたのです。ちなみに種継の娘が薬子(くすこ)といって、後に平城上皇と醜聞を醸して藤原仲成と薬子の乱を起こしています。
その嫌疑をかけられたのが、天皇の同母弟の皇太子・早良親王でした。早良親王は東大寺・大安寺に入った後に還俗して皇太子になった関係で南都との繋がりが深く、遷都には反対していたためと云われますが、実際には桓武天皇が幼少で立太子を見送った実子を跡継ぎにするために罪を被せた、というのが真相のようです。早良親王は強く否定しましたが、結局は早良親王の皇太子廃嫡・淡路島への流罪となります。家持は春宮大夫、つまり皇太子宮の一等長官だったため首謀者とされたわけです。早良親王は終始無実を訴え、流罪決定後は絶食で抗議。護送中の河内・高瀬橋で餓死憤死しています。

早良親王の遺骨はそのまま淡路に流されたのですが。。その後、長岡京では皇太子となった安殿親王(あて、後の平城天皇)が発病、桓武・早良の実母・高野新笠が病死、桓武の妃が三人立て続けに病死、更には疫病が流行、そして洪水の発生と災厄が立て続けに起こります。桓武天皇は御霊会を開いたりで怨霊鎮護に努めますが治まらず、長岡京を諦め平安京を建都して移ります。しかし、災厄は収まらず、ついには自身も発病。。延暦19年(800年)早良親王を慰撫するために崇道天皇号を追称、奈良に陵を築いています。また、父親(光仁天皇)の正妃で謀殺された井上内親王も復権させて陵を造っています。朝廷の公文書に初めて御霊(怨霊)として名前が載せられたのが、この二人になります。それでも足りず6年後には藤原種継暗殺事件の関係者を全員恩赦で復権させており、家持もここで名誉回復されています。しかし桓武天皇は回復はならず逝去。

話が横道に逸れちゃいました。
越中国府は現在の高岡市伏木にあり、船出という航路もありますが、都との往還の決まりや池主との交わりからも、砺波の関から倶利伽羅峠を越えたと思われます。そしてこの手向神のあったとされる国見山の裾野にある北陸道を通過したとされます。

倶利伽羅峠では現在は不動明王がメインになっていますが、江戸期には参勤交代の休憩地であり、北陸道が健在だった時期にあっては、この手向の神が更に重要な存在だったのです。それを示すように、江戸期には加賀藩主の参勤交代の休憩地として五社権現が置かれ、明治・大正期にも国見山頂に皇族も訪れて休憩所の記念石柱が建てられています。明治に伏見宮から分立した賀陽宮(かやのみや、2代恒憲王、戦後皇籍離脱)、秩父宮(昭和天皇の次弟)。共に大正、昭和に訪れています。

旅行日 2017.05.03

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 31
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
倶利伽羅公園A 篠島清了の墓所
前のブログを書いていた際に、画像を大きめで挿入したために、容量オーバーで入りきらなかった続きです。 ついでに悪い癖ですが、加筆しています。。。 ...続きを見る
つとつとのブログ
2017/05/23 20:48
倶利伽羅 山頂本堂
長々と倶利伽羅峠の周辺を書いてきましたが、最後は倶利伽羅不動寺・山頂本堂です。 一番最後にしたのは、前に書きましたが撮ったはずの奥の院が消えていたせい。。5/26に改めて撮り直してきたので。。 ...続きを見る
つとつとのブログ
2017/06/01 20:32

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
確かに 若い頃には平気だった山道が・・・
津幡・砺波辺りも見ごたえのあるところが多いのですね そちら方面に行ってもなかなかこの辺りは通り過ぎていました  一度ゆっくりとおと連れてみよう
がにちゃん
2017/05/21 22:10
がにちゃんさん
10代の頃はどこまででも歩けたんですが、今は車ばかりでちっとも歩いてなくて。。たまに坂道やこんな階段登ると筋肉痛や息切れが。。
なかなか良いところでしょ、通り過ぎちゃうことが多い町ですが、なかなか見どころの多いところです。。それでも倶利伽羅は4月末がお薦めですね
つとつと
2017/05/22 11:20

コメントする help

ニックネーム
本 文
倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園@ つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる