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zoom RSS 倶利伽羅公園A 篠島清了の墓所

<<   作成日時 : 2017/05/23 20:48   >>

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前のブログを書いていた際に、画像を大きめで挿入したために、容量オーバーで入りきらなかった続きです。
ついでに悪い癖ですが、私的偏見的に加筆しています。。。

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手向の神とは関係ありませんが、倶利伽羅公園の万葉歌碑の隣りに小さな五輪塔の墓があります。この墓の主は篠島織部清了(ささじまおりべきよのり)。
と言っても、名前を知る人は小矢部市石動地区の人か、北陸史に相当詳しい人くらいでしょう。




倶利伽羅山系の東端にある今石動(いまいするぎ)城の城主・前田秀継、利秀に仕えた家臣(家老職)です。
前田秀継・利秀、これまた名は全国区ではない戦国武将ですが。。数多くいる加賀前田家の歴代藩主、親族の中で、250回忌、300回忌という途方もない期間の法要を受けているのは、初代・前田利家、三代・利常と秀継・利秀親子だけ。それだけ加賀前田家草創期の立役者の武将ということです。

前田利家の末弟・前田秀継の名が表舞台に現れるのは、、、利家が府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)と呼ばれていた時代。前田利家が初めての万石領地として三人衆相知(三人合わせて)として10万石を受けた際に1000石を受領したという所から、、この1000石は次兄・安勝(前田利家の兄・前田慶次の舅)、青山吉次(利家の股肱の臣、後の魚津城主)と並ぶ前田家内の最高額。すでにそれなりの活躍を見せていたと思われます。他人の言うことを聞かない頑固者の利家が、末弟の秀継に対してだけは唯一、謙虚に意見を聞き、ほとんど逆らわなかったと云われます。

その後は主要戦場の最前線司令官として活躍し、津幡城・今石動城の城主として8000石、対佐々の最前線での活躍によって、越中平定で4万石と前田家内では最高断トツの持ち高の領主となっていました。そのまま、健在で順調に進めば、前田家の重積として豊臣秀吉・前田利家の死後の前田家の混乱の体たらくを演じなかったかも。。
しかし、越中平定後、天正13年(1586年)木舟城を主城として入城、僅か2カ月後に天正大地震に遭遇、夫婦共々圧死しています。享年は生年不詳で不明。

前田利家を含め兄弟姉妹は父親の利春を含め全員不明。。以前書いていますが、尾張の前田家としては傍流になるため、前田利家でさえ天文5.6.7年説(有力なのは7年、1539年)があってはっきりしません。ちなみに父・利春の死去年は永禄3年(1560年)、利家は四男で秀継は六男、下に妹がいます。19歳の息子がいますから秀継の享年は若くても37、8歳から40前半の働き盛りだったと思われます。

秀継の息子・利秀は14歳の石動山・天平寺攻めの初陣以来、父と行動を共にして最前線に立ち活躍、16歳時には末森城の戦いで第二陣の侍大将も経験。越中平定戦の初戦では今石動城に父と共に入城。1500の城兵で佐々軍5000を敗退させています。
越中平定後は今石動城代として残ったため、地震の被害からは逃れていますが父母を失い、弱冠19歳で今石動城主として父の遺領を継いで、小矢部の町割りに尽力しています。また、地震で灰燼とかした木舟城下の住民も石動に移住させて発展させています。その後も小田原攻めで、松井田城攻略の指揮をとり、八王子城攻略で活躍と前田家随一の武功を揚げています。しかし、朝鮮出兵で名護屋城への途上に発病、帰京の途上で死去。弱冠26歳。利秀には子がなく断絶を余儀なくしてしまいました。

津幡城の津幡町、今石動城の小矢部市。秀継・利秀親子によって町割りや基礎を造られた両市町は、県境の倶利伽羅峠を挟みながら、古くから親交が深いのもこの親子のおかげと云えます。
金沢に入城して加賀に基礎を築いた前田利家。高岡・富山を造り上げた前田利長。金沢・高岡・富山以外では、ちょっと嫌われ気味の利家・利長親子よりも能登・河北・小矢部では秀継・利秀親子の方が圧倒的に人気が高く、なんとか加賀藩が支持されたともいえます。特にこの二人の領有した小矢部更に先の城端を含む砺波、また以前の津幡や北金沢もそうですが、北陸真宗教団の本拠地であり、根強い信仰の地区でした。ここで信頼を勝ち得た二人の努力と信望がいかに大きかったかを物語ります。
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人気の高かった秀継・利秀親子を失った今石動城を継いで、小矢部(石動)の城下町を統治したのが、倶利伽羅公園に墓所のある篠島清了(ささじまきよのり)になります。
加賀藩としては前述の様に、人気の高かった秀継・利秀親子の領土統治の成果維持は、前述したように真宗の潜在勢力が強く、他国者を嫌う傾向が強い越中西三郡には苦慮したようです。異例の抜擢ですが、秀継・利秀親子の家老として町割りや殖産に努めた篠島清了を3000石の扶持を与えて今石動城代・奉公として利秀の旧領の管理を任せます。更に射水・砺波郡の軍奉公・郡奉行も兼ねさせています。動員能力は陪臣としては異例の数値になります。加賀八家の初期の長家を除いて家臣団に領土をを持たせなった加賀前田家としては、土地及び軍務の人員管理のすべてを、加賀八家でもない陪臣に任せるということは何度も言うように異例の抜擢だったのです。
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今石動奉公篠島清了以降の篠島家の統治は5代117年に受け継がれていました。宝永7年(1710年)石動町奉行が置かれるまでの長きにわたりました。
この辺りのことは、県文化財指定の篠島家文書というのがあるそうですが、詳細は未読・・

それもこれも篠島清了の人柄と実務能力、秀継・利秀親子を尊称し続けたことが、安定をもたらしたのだと思われます。
墓の規模も質素で、墓石も秀継夫妻と同じ形態であり、更に一回り小さくなっています。そういう所が100年を超す石動奉公職を遂げさせたと云えるのかもしれません。篠島清了の墓は長らく不明だったのですが、倶利伽羅公園造成時に発見されたものです。この地は長楽寺の墓所だったようで、更に奥に行くと長楽寺中興の祖・秀雅上人の墓を始めとした長楽寺住職の代々墓があります。
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篠島清了については詳しい業績・経歴その他は僕も詳しくないのですが、経歴としては元々は越前朝倉家の家臣だったようです。朝倉家滅亡後に前田利家に仕官して前田秀継付になり、秀継死後は利秀付の家老職となっていたようです。

画像は墓所発見後の昭和55年(1980年)に建立された篠島清了の顕彰碑で、「天地悠々 桜花復還」と記されています。漢詩の引用とは思いますが、ちょっとそぐわない文言。。どういう意図か詳細は不明。。

利秀没後は、篠島清了は前田利長の組下になっており、更に五代を務めた石動奉公職の終了後は、篠島家は金沢に入ったようです。古地図に金沢駅前に屋敷地があり、幕末の侍帳には人持組・篠島鍛冶郎2500石の記載があるそうです。加賀藩では幕末に至るまで篠島家が重用されていたことが窺えます。

加賀藩では人持組は時代によりますが、約70家で千石から1万石前後の扶持持ち、他藩でいう上士のワンランク上の上級武士といえます。実力によっては家老・若年寄として藩政に参画しています。人持ち組以下を統制するのが加賀八家と呼ばれた人持組組頭になります。

要約すると、人持組頭(8家)→人持組(約70家)→平士(約1400家)→平士並(?)→与力(約400家)→御歩(約300家)→御歩並(400家)→足軽→中間・小者
加賀藩は大別すると加賀八家の元に八つの軍団に大別され、各軍団に人持組振り分けられています。兵士並までが殿様へのお目見得になります。そして、足軽以上が庭付き一戸建てに住んでいました。

※前田秀継・利秀関連には、けっこう多くアップしています。興味のある人はどうぞ。。このサイト以前の物をコピーしてるので、画像はあまり多くありませんが。。。

旅行日H23.11.26 ⇒ 今石動城
               ⇒ 高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所
                ⇒ 真光山 永傳寺
               ⇒ 前田利秀の墓所
旅行日H24.02.19 ⇒ 木舟城址

旅行日 2017.05.03

 

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
加賀前田家の知らない逸材。興味深く拝読させていただきました。私も九州人でもあまり知らない九州の武将とか大好きなのですが。参考になりました。私も九州の武将シリーズに走ろうかなと思ってきました。
tor
2017/05/24 21:35
torさん
全国的にはマイナーな武将でも、地方によっては有名武将や藩主より人気があったりで、なかなか面白いです。元々、北越前・加賀・越中西部は真宗勢力(一向一揆)の真っ只中で、百姓の持ちたる国なんて呼ばれていたところ。。おかげで、前田家の宗教政策は穏やかなものにならざる負えなかったんです。ついでにいえば、前田利家はよそ者という意識がみんなにあったようです。
秀継や利秀は確かに不幸な死に方で同情票もあるんですが、それでもこれだけの人気を集めたのは面白いですねえ。加賀藩当地の初期段階ではこの人気は無視できなかったようです。
つとつと
2017/05/25 09:14
篠島織部清了さんて方は、よほどすぐれていられたのでしょうね  今の時代にも政治家として欲しい方ですね・・・いないねぇ こんな方は
がにちゃん
2017/05/25 14:01
がにちゃんさん
旧朝倉家の家臣出身の人は結構、活躍してるんです。加賀八家に迫る1万4千石で大聖寺城攻めで活躍した山崎長徳。北前船の豪商・銭谷の先祖もそうだという説が。。加賀藩の金沢城や高岡城、富山城といった名城の縄張りは大名から客将になった高山右近。文中の不破光治の息子も前田家に仕官しています。けっこう外来の力で今の土台ができているんです。
名よりも実もとらずに、領地の安定と秀継・利秀の遺志を引き継いで維持した功績は大きいですね。加賀藩での異例の扱いは砺波郡が特別異例な地ということを示していますね。。ちなみに隣町だった僕の子供時代は金沢より石動・高岡に買い物に行ってましたね^^
つとつと
2017/05/25 20:05
前田家にそのような逸材がいたとは。
秀継・利秀親子の名前は、初めて
聞きました。後の世にも大きな影響力を
与えた人たちだったんですね。
前回の手向け神社の話も興味深かったです。
yasuhiko
2017/05/26 22:42
yasuhikoさん
加賀藩と云えば前田利家なんですが、金沢入城後は、国内統制と対佐々がメインになっていて利家は前線に立つのはあまり多くないんですが、その代わりを果たしたのがこの末弟でした。あの天正地震での死が無ければ、、、面白い存在になっていたでしょうねえ。。秀継・利秀親子の跡を継承した篠島織部清了の管理した射水・砺波郡は石高40万石で、利秀の管轄は加賀(45万石)本国とは同等に近かったんですが、これだけでも自重要視された親子で、返す返すも二人の早世は加賀藩の痛手でした。
つとつと
2017/05/27 05:30
ざっくり加賀100万石という事くらいしか知りませんでしたが なるほどです

横浜の鶴見に総持寺という金沢由来?のお寺がありますが またそちらに行きたくなりました

石川県情報って身の回りで少ないので こちらのブログが楽しみです
メミコ
2017/05/28 10:19
結構、石川って江戸期以降はマイナーな感じですからねえ。。特に僕は中心部はあまり回りませんから、なおさらかも。。
曹洞宗は元は道元の永平寺なんですが、道元死後に、スポンサーや信仰対象をどうするかで意見が対立して、越前から加賀・能登に出たのが、鶴見の総持寺の元になるんです。金沢の大乗寺・羽咋の永光寺・門前の総持寺祖院が鶴見の総持寺の源流と思って頂ければ、、、明治に祖院が火災で燃えて鶴見に総本山を移したんです。。。。そうそう、加賀藩関係では金沢の天徳院も総持寺関係ですね。
祖院は10年前の地震で壊れた山門を境内に移動して修理中です。
今は永平寺の第二道場ですが、福井の大野市の山中にある宝慶寺も、総持寺の瑩山に所縁があって双方から重視されているお薦めの寺院です。
この六寺は曹洞宗には重要な聖地ともいえる寺院です。どれも伽藍を観るにはお勧めですよ^^
つとつと
2017/05/28 11:00

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