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zoom RSS 倶利伽羅 猿ケ馬場

<<   作成日時 : 2017/05/29 03:14   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 33 / トラックバック 0 / コメント 10

倶利伽羅公園側の山塊が平家軍撤退戦の最激戦地で、源平両兵士の巨大な供養塔(昭和49年建立)や奮戦した平為盛の墓(源平盛衰記では戦死、平家物語では生存。平清盛の弟・頼盛の次男)など、顕彰碑や歌碑が点在します。

倶梨伽羅合戦における平家軍の布陣は、猿ケ馬場に本陣を置いて街道沿いに東、また街道から尾根筋の源氏ヶ峰の尾根筋にL字の形で布陣していました。この布陣は北陸道や大池経由の山道を登ってくるのを迎え撃つ形でした。位置的には街道を見下ろす立場で、実際に北陸道の進軍や山道からの義仲軍を補足して矢合わせは優位に進めたとされています。
逆落としや峠道を塞ぐことを狙うには間違った布陣場所ではありませんが、大人数が留まるには不都合でした。峠上の街道は尾根筋も、3.4人横に並べば満杯の狭い道伝い(しかも片側は谷)に布陣しており、大軍では身動きも不自由だったと思われます。

戦国時代の佐々成政が、後に源氏ヶ峰砦(城)を街道を塞ぐ要塞に改造して、少人数での籠城戦を狙ったように、進軍を防いだり籠城には向きますが、大人数が留まる場所としては、宿営地となる広場もなく不向きとしか思えません。やはり、後の祭りですが、倶利伽羅峠の出口(竹橋口)での待ち伏せか、もしくは峠越えでの正面衝突が最良の策だったでしょう。

平家軍の布陣ミスもありますが、義仲軍の勝因は夜間の奇襲攻撃が効果絶大だったのもありますが、最大の勝因は別動隊・樋口兼光軍が竹橋口に回り込んで後方から攻撃できたのが最大要因と云えます。この狭い街道では身動きできなかった平家軍は前後から迫る源氏軍に谷に追い落とされて敗北します。はっきり言えば、完全な平家軍の布陣のミスと云えます。
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天田峠の棚田風景と峠道(倶利伽羅不動近くからの眺望)

別動隊の樋口兼光の軍が回り込んだのは天田峠越えという説もありますが、前述の源平盛衰記で平為盛を打ち取ったのは樋口軍ですから、竹橋口からの方が有力と思われます。前述の平為盛は源氏の包囲網を脱出できず、翌日に50騎で突撃を敢行したと云われていますから、場所的には九折からの天田峠に向かう道とは違う竹橋口に向かう山肌でしたから。。。やはり竹橋口が有力ですね。

樋口軍は険しい山越えをいくつも越えて後方に回り込んだのですから、まず大軍とは思えません。大軍なら発見されやすいし、また道なき道の山越えを多数とはおおよそ考えられません。後方の軍勢を発見できなかった平家軍、更に後方防御も遅れた事実は、敵が少数であり、本陣が尾根筋や街道脇の混雑状態の陣地に問題があったとしか考えられません。
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平家軍の平維盛などの首脳部が本陣を置いたのが猿ケ馬場と呼ばれるこの地と云われています。長楽寺から僅かに東に行った地点ですが、わずかに広がりがあった部分です。元々から旅の馬を繋いで休ませる馬場に使われていたようです。



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猿ケ馬場の名は後年の江戸期になるそうですが、本陣の床几の代わりに使われたという巨大な一枚岩は古くからあったと云われています。画像では解り難いと思いますが、けっこう大きな岩で真偽はともかくとしても、珍しい一枚岩として観る価値は十分にあります。
側に座席表の図がありますが、これは僕の子供時代にはなかったと思うので近年の物だと思います。でも、ここに立つと平維盛以下の武将連が眼に浮かんでくるようです。
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猿ケ馬場とは道を挟んだ所には芭蕉の句碑があります。猿ケ馬場の木々の中にある方が芭蕉塚と呼ばれて古いのですが摩滅で読み取れません。 義仲の 寝覚めの山か 月かなし
平維盛軍と北陸の源義仲軍が戦った合戦の総称を北国合戦と呼ぶのですが、その初戦となったなったのが越前・今庄の燧城(れき・ひうちじょう)の戦いになります。実は芭蕉がこの句を詠んだのは、奥の細道でも同行の曽良と別れて単独旅となった終盤に近い燧城の地でした。 北国合戦の燧城の戦いは少しですが、以前に少し触れています。 ⇒ 根上(ねあがり)の松
松尾芭蕉は平家物語の源義仲の大ファンでして、奥の細道でも、燧城址だけでなく義仲所縁の地の多くに立ち寄っています。また、遺言で近江・膳所(ぜぜ)の義仲寺に葬ることを願い、義仲の墓所の隣に葬られています。

倶利伽羅古戦場も当然通っているのですが、相当急いでいたようで当地では句は残していません。なにせ高岡を早朝に出て金沢に(約4,50キロ)午後2時に到着したと云いますから、相当急いだようです。
前日には二上山などによって、氷見にも行こうかと考えていたのに、なぜこんなに急いだかは不明。。

曽良旅日記には・・  
十五日 快晴。高岡を立 。埴生八幡を拝す。源氏山、卯の花山也。くりからを見て、未の中刻、金沢に着。
京や吉兵衛に宿かり、竹雀・一笑へ通ず、艮(即)刻、竹雀・牧童同道にて来て談。一笑、去十二月六日死去の由


埴生八幡は源義仲が本陣を置いて、倶梨伽羅合戦の戦勝祈願をした神社。源氏山は源氏ヶ峰。卯の花山は古来は倶利伽羅峠の山全体を指す歌枕でしたが、芭蕉の頃は砺波山を指す言葉のようです。
金沢到着後、浅野川沿い(旧森下町、現・東山)の京屋吉兵衛方(酒屋)に投宿して到着の知らせを竹雀と一笑に届け、すぐに訪ねて来た竹雀・牧童と話した際に、この旅路の目的の楽しみだった一笑との会合だったのに、その一笑が前年12月に亡くなったことを知ります。

津幡宿の俳人・河合見風(芭蕉門下の末流)がこの句を刻んだ芭蕉塚をこの地に宝暦年間(1751〜1764年)に建立、その後にもう一つの芭蕉塚を金城馬佛という人物が再建。別名を目覚め塚とも呼ぶそうです。
河合見風は津幡宿のおやど橋近くに居を構えていた十村役で、芭蕉門下の末流ながら芭蕉を尊敬していて、有磯海にも句碑を建立しています。また、書家としても知られていて、冷泉為広の墓所発見の縁で冷泉家に弟子入りしていました。また、金沢のひがし茶屋街の浅野川対岸の並木町に別荘があり、前田土佐守家とも交際を持っていた文化人。

ちなみに十村役(とむらやく)というのは、前田利長の創始で三代・前田利常が確立した十村制によって誕生した役職です。今でいう市町村長のような役どころです。加賀藩では初期を除いて以降は家臣団には扶持米や扶持金を支給して領地は持たせていませんでした。たとえば加賀藩家老で最大の本多家は5万石ですが、金沢市内の拝領の居住・執務用土地(まあ、町名が残るほど広大な広さでしたが。。)があるだけで、5万石はそのまま扶持米・給金支給で領地は持っていませんでした。

加賀藩領は前のブログでも書いたように、百姓の持ちたる国と呼ばれた真宗王国でした。それは能登・加賀・越中全域に渡るものです。織田勢力に敗退した際に行われた大虐殺は、深い恨みとして残存していた事情がありました。その制圧戦の先兵となったのは前田家で、初期には当然ながらそんな奴の統治に従いたくないということで、年貢拒否や逃散が横行したわけで、大規模一揆は発生寸前と云えました。当然ながらそんなことになれば、大きな口実を得た幕府は加賀藩取り潰しに出るに決まっています。

加賀藩では、軋轢の生じやすい直接支配を避け、藩内の各地の地元有力者を任命して一人当に十の村の取り纏めを委任していました。一応、規模や村の状況に応じて3ランク9段階に分けており、その取り纏めは多少違っていました地元有力者には、奥能登の時国家、中能登の北村家、口能登の岡部家のような元武家階級もいましたが、多くは豪農が選ばれていました。その取り纏めの役目は年貢の徴収、村内の治安警備、逃散の防止監視業務はもちろんですが、雑役派遣、要望申請、新田・殖産開発などの行政の大部分を委任したわけです。実務の補佐業務として代官(代官補佐)を十村役屋敷に派遣していました。一種の行政の民間委託と云えますが、十村役には名字帯刀を許し、収入は藩から扶持米を給金として支払って藩士並みの扱いにしています。十村役の権限・分限は非常に大きかったのです。どちらかといえば簡単に言えば現代の国・県と市町村の関係が、簡易ながらも近いと云えます。

領民も不満や要望を嫌いな加賀藩に言うのではなく、気心の知れた十村役にぶつけられるので、割合受け入れやすかったようです。もちろん問題がなかったわけではなく、十村役は不満の矢面になりやすく、十村役が先導した浦野事件や後期の疑獄事件でゆらいだことがあります。また、藩士の方にも地位が固定されて柔軟な配置転換や抜擢、政策転換ができないという難点が噴出しました。
.しかし十村制のおかげで、初期段階の民政安定は成功しましたし、加賀藩は安定した年貢徴収を受けられ、前述のような一揆も農民間の闘争として処理できたわけです。つまり対外政策や管理政策に専念できたというわけです。

ただし、金沢はこのことで行政文化都市として発展しましたが、他町村には肝心なところで金沢を嫌う、もしくは無視、加賀前田家の金沢は自分たちとは別物という、真宗時代以来の自立意識が高い精神的なものが発生し潜在して行きます。現在はだいぶ解消されてきているとはいえ、平成の大合併で政令指定都市を狙った金沢が、声をかけた他の市町村すべてに袖にされたように、根深いしこりを残しています。

またまた話が大きくそれてしまいました。。
猿ケ馬場の由来ですが、倶利伽羅村の伝承がありまして
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猿ヶ馬場の祠

倶利伽羅山頂の猿ヶ馬場に建つ「猿ヶ堂」

 津幡町倶利伽羅地区の原区に、倶利伽羅山頂の猿ヶ馬場(さるがばば)に建つ「猿ヶ堂(さるがどう)」にまつわる伝説が残っています。
 その昔、原に甚兵衛(じんべい)という子供のいない炭焼きの夫婦がいました。ある時、山で泣いている子ザルを拾って帰り、自分の子供のように可愛がっていました。1年、2年と経つうちにサルはすっかり利口になって、人の言葉もわかり、炊事の手伝いもするようになりました。その後、その家に赤ん坊が生まれました。赤ん坊はどんなにむずがっていても、お湯で行水させると気持ちよく手足を動かしていました。
 ある日、甚兵衛はサルに留守を頼んで山に出かけました。サルは赤ん坊と遊んでいましたが、そのうち赤ん坊は火のついたように泣き出しました。すっかり困ってしまったサルは、お湯で行水させると喜ぶことを思い出し、湯をわかし、タライに赤ん坊を入れたところが、お湯かげんを知らなかったため、やけどをさせて死なせてしまいました。
 山から帰った夫婦はこれを見て腰をぬかさんばかりに驚き、カンカンに怒ってナタを振り上げました。やっと自分のしたことが分かったサルは、目に涙を浮かべて見上げました。甚兵衛はさすがに、サルを殺すこともできずに追い出すのが精一杯でした。
 山に帰ったサルは日がたつにつれてボスザルとなり、畑を荒し旅人を困らせるなどいたずらばかりしました。そこで、殿様にお願いして、戸田影切(とだ・かげきり)という剣豪(けんごう=剣の達人)にサルを退治してもらうことになりました。影切は「お前は人に育てられた恩も忘れて、悪事をするとは何事だ。お前を退治に来たが、悪い事をしたと思って、いさぎよく殺されるなら、その心に免じて祠(ほこら)に祀(まつ)ってやるから、早く降りてこい」というと、サルは甚兵衛夫婦に可愛がられたことを思い出し、今までの悪事を悔いて、木から降りてきました。
 この素直なサルを見た影切は、可愛そうになりましたが、その首を討って帰り、ありのままを殿様に報告し、約束通り小さな祠を建てたのが、猿ヶ堂であるといわれています。また、1782(天明2)年の仲秋(ちゅうしゅう)に猿ヶ馬場において、越中戸出の俳人沢田蚕臥(さわだ・さんが)は「梨喰ふ 越の猿聞け 加賀の人」と詠んでいます(倶利伽羅地区の伝説「猿ヶ馬場の祠」の話より引用)。
 同集落の長谷川重次家は、甚兵衛の末裔といわれています。同家には、赤ん坊をやけどさせ死なせてしまったお詫びに、サルが持ってきたといわれる馬の鞍が残っていますが、残念ながら損傷が激しく一般公開していません。また、このサルを祀った「猿ヶ堂」の辺りには、峠を登ってきた馬がたくさんつながれていたところから「猿ヶ馬場」と呼ばれるようになりました。
   津幡町観光ガイドHPから引用

猿ヶ堂については、近江の日枝大社を勧請したとも云われています。

倶利伽羅山不動寺にも、古くから似た話がありまして、別の猿の話が存在します。さすが山中の自然の宝庫です。今もときどきですが、人影のない所でお猿さんが出没しますが、近頃はクマ出没注意の看板も見かけるようになりました@@;
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倶利伽羅山不動寺のお話は‥
昔、倶利伽羅山頂で悪さをする猿たちにそこを通る旅人達はほとほと困っていました。 ある日、和尚さんにお不動さまからのお告げがあり、赤く塗った餅を猿たちに与えたところ、それをおいしそうに食べ、それからというもの二度と悪さをしなくなったそうです。

この赤く塗られたお餅は、いつしか「厄除けのお餅」として名物になり、八重桜まつりの以前は4月29日でしたが、今は28.29日両日に山頂本堂の境内で法会と餅つきが行われて「念仏赤餅」として振舞われています。
ここ何年かですっかり知れ渡ってしまって大勢の人が訪れるので午前中に行かないと貰えませんから要注意。
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まあ近年は、山頂本堂の売店食堂や鳳凰殿でも買えます。今は色を塗る餅ではなく、食紅を混ぜた赤餅です。
加賀では正月の鏡餅は紅白が当たり前になっていますが、その赤い餅の方と思ってもらえばよいかも・・いたって普通に観る僕に比べ、新潟生まれで、かき餅くらいしか赤い餅を観たことない嫁さんは@@;いまだに紅白の鏡餅には違和感を持つていて、正月前に鏡餅を用意するときはブーたれています。一度、白白にして僕ににらまれてからは、黙っているけど。。
まあ6個買って、車で嫁さん1個、2個は僕のお腹に^^家に帰って、また2個がお腹に^O^ もう1個は娘に^^ 少し塩味が効いていておいしい^^

ちなみに加賀の鏡餅は紅白重ねですが、神棚などに供える鏡餅は本来は白2個を使っています。紅白が当たり前みたいに思われて、神棚にまで紅白にするのを見かける時がありますが、これは大間違いの仕様です。

旅行日 2017.05.03   05.26

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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
まず紅白重ね鏡餅に驚きました。雑煮の餅が丸だったり四角だったり餡が入っていたり…。私たち夫婦も育った県が違うので時々つとつと様ご夫婦みたいな騒動が起こります。合戦の場へ失際に行ってみると見えることがありますね。西南戦争では田原坂が有名ですが、高瀬の戦いでは西郷小兵衛が戦死しています。私が行ったとき郷土史に詳しい方と偶然お会いして熱く語っていただきました。ブログ読ませていただき、また行ってみたくなりました。加賀藩の統治の大変さも…。佐々成政は熊本では功を焦ってか統治に失敗しました。先日アイラトビカズラを見に行った所の近くに肥後国衆一揆で挙兵した隈部親永館跡があったりして、こちらも行ってみたいと思っています。面白いですね。
tor
2017/05/29 20:10
お餅にも惹かれましたが 俳句のお話にも惹かれます

こちらは源氏ゆかりの地ですが そちらは平家のゆかりの地 

興味わくお話ばかりです
メミコ
2017/05/30 09:39
源平合戦と言えばついつい西の方角 壇ノ浦や屋島を思ってしまいますが、こちらの方も激しい戦いがあったのですね
がにちゃん
2017/05/30 13:38
鏡餅のように統治独特の物もありますが、食べ物に関しては石川という地は、関西の影響が強いとはいえ、関東・中京の影響も色濃く出ています。torさんの言われる餅の形も□対〇は6.5:3.5と丸も検討しています。
嫁さんは新潟なのでどちらかといえば関東・東北系。。とにかく僕に合わせるのに苦労したみたいです。 以前というか前サイトで紅白の鏡餅をアップしてました。玄関先に置いた市販の安価なものですが。。。http://72469241.at.webry.info/201210/article_82.html
区画整備や道路整備で開発が進んで、地形的なものが大きく変わっているところが多いんですが、倶利伽羅の様に、歴史的な激戦地が当時とあまり変わっていない所もありますから、その場に立つと感覚が違って感じられます。
田原坂の前哨戦で知られますが、稲荷山を抑えられずに包囲網を完遂できなったのが敗因くらいしかよくわからないのですが、この戦いが西南戦争の帰結を決めたと云えますねえ。。佐々成政は肥後で生涯を終えていますが、秀吉に降伏した経緯でまだまだ安定してない場所で無理な検地をさせられて、混乱を招いた無念の死でしたね。越中では独自路線をとって最後まで抵抗していますが、けっこう富山地区では人気がある武将の一人です。こちらでは無骨・純情を絵に書いた武将として語られています。

http://72469241.at.webry.info/201210/article_82.html
つとつと
2017/05/31 13:31
メミコさん
http://72469241.at.webry.info/201210/article_82.html
紅白の鏡餅はこんな感じです。僕は子供の頃から慣れ親しんでいます^^
こちらでは、能登の平時忠の時国家、この戦いで敗れた平氏の一族が隠れ住んだという部落が多く語り継がれています。五箇山の相倉、津幡にも平野・平村とかの姓が集まる平村(へいだん)など有名な場所が多くあります。
俳句と云えば奥の細道、その芭蕉がわざわざ埋葬地を指定した義仲のゆかりの地は、多く立ち寄って名句を残しています。また、機会があれば所縁の地を紹介しますよ^^

がにちゃんさん
源義仲と源頼朝の競争は過激なものでしたし、その生い立ちも相容れぬ関係でしたから過激になってしまいました。ただ、スピードと強さでは義仲が長じていて、一早く京都上洛を果たしています。征夷大将軍職(後で旭・朝日に擦り替えられたといわれています)も得ていたと云われています。ただ、膨れ上がった軍勢の掌握と、北陸宮擁立で京都に実権掌握を確立できずに、源義経に敗れて戦死したのが惜しいし、敗残として粗野な賊名を受けたのが残念です。
つとつと
2017/05/31 13:54
さすが
つとつと様ですね。よくご存じですね。西南戦争高瀬の戦いは郷土史の方曰く「西南戦争の関ケ原」だそうです。田原坂以上に重要な戦いで稲荷山がポイントだったそうです。地元民も目は田原坂に向いています。実は先週の土曜日にランニング仲間は熊本駅の北西の花岡山へランニング。西郷軍の砲台跡を見てきたそうです。登山の友人は西郷軍が人吉に撤退したであろうルート霧立越え縦走をしたそうです。今日その話題となり西南戦争つながりとなり盛り上がりました。いろいろと情報ありがとうございます。
tor
2017/05/31 21:11
torさん
実際に現地を観たことはないのですが、西南の役の激戦は各種本などで、眼にする機会が多いですから、おぼろげですが覚えています。でも現地をを観ないとやっぱり説得力はありませんねえ。ただ、どれを読んでも稲荷山の占拠と中村半次郎の戦力不足を主因にするものが多いようですね。現地を観られるtorさんが羨ましいです。
つとつと
2017/06/01 09:24
源氏ヶ峰砦、一度見てみたいとは思いますが、つとつとさんの過去記事を拝見しますと、かなり急峻なところのようで、ちょっと無理かもしれません。
義仲は僕も好きな武将の一人ですので、その足跡をめぐる旅も一度やってみたいですね。
家ニスタ
2017/06/01 23:16
家ニスタさん
僕も義仲の足跡を観てみたいと思っています。近いうちに行きたいと思っているのが、朝日町の宮崎城址。朝日将軍と呼ばれた義仲や北陸の宮所縁の山城です。
源氏ヶ峰は途中の道が狭いですが、思ったよりも進みやすいです高低差はおもったどありませんから。。入り口が解り辛いのでそこだけ注意ですが、横の、平家軍が転落した地獄谷が間近で見られます。
つとつと
2017/06/03 08:58
平家物語の「義仲最期」は、
私の大好きな古典作品ですが、
松尾芭蕉も大の義仲ファンだったんですね。
以前、近江の義仲寺を訪ね、
芭蕉と義仲とそれぞれのお墓に
手を合わせた事を思い出しました。
yasuhiko
2017/06/03 13:59

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