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zoom RSS 倶利伽羅 山頂本堂

<<   作成日時 : 2017/06/01 20:32   >>

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長々と倶利伽羅峠の周辺を書いてきましたが、最後は倶利伽羅不動寺・山頂本堂です。
一番最後にしたのは、前に書きましたが撮ったはずの奥の院が消えていたせい。。5/26に改めて撮り直してきたので。。

倶利伽羅不動寺の入り口は二つありまして、倶利伽羅トンネルの手前・九折(つづらお)口から右折して天田峠越えで登って、倶利伽羅古戦場展望台近くから長い階段を登る倶利伽羅不動寺の表参道。国道がバイパス化される前は、ここがメインの登山道でしたから、僕の子供時代はここからがほとんどでした。途中には棚田の風景も見られる道です。急激な坂道でカーブだらけ、帰り道は要注意。倶利伽羅トンネルが開通する以前はこの道が富山に抜ける唯一の道路でした。下り坂で崖に落ちる車の多い難所でした。
もう一つは、手向神社で紹介しましたが、倶利伽羅駅の東口から出た坂戸口から登る手向神社の表参道から入る道。以前はとんでもない狭い道でしたが、現在は整備されて、桜並木が見られるのでこちらが主なメインの道になっています。
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倶利伽羅不動尊に参拝するなら、まず最初に訪れて欲しい場所があります。手向神社の参道前駐車場の奥に、それはあります。この駐車場、そもそもが舗装処理されていないので、みなさん入り口付近に停めてしまうので、ほとんどの人が気づかずに山頂本堂に向かうか帰ってしまうんですね。

西之坊鳳凰堂のブログにも書きましたが、倶利伽羅不動尊の起源は。。倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(718年)元正天皇の奉安で開基されたと云われています。弘仁3年(812年)、弘法大師(空海)が全国巡礼の際に立ち寄り、彫像に感激して同体の不動明王像を作って前立てとして、善無畏の彫像を秘仏として封印。長楽寺を開創したのが始まりとされています。
善無畏(ぜんむい)三蔵は、真言宗では真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に係わった人物として、「伝持の八祖(八祖大師)」の第五祖に挙げられる人物です。印度の貴族階級の生まれで顕教・密教両教を兼修。唐に渡って大日経の漢訳などを伝えた訳経僧、三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)に精通するとして玄宗皇帝から三蔵法師の尊称を受けています。(三蔵法師は尊称で、西遊記の玄奘三蔵も尊称を受けた一人、日本では最澄・空海と共に渡海した法相宗の霊仙のみです。)来日説もありますが、善無畏が印度から唐に移ったのは80歳の高齢ですから、ちょっと無理があるかも。。(西之坊鳳凰堂のブログからコピー)

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僕もここは久しぶりだったんですが、以前は、山の中の窪地の溜め池という感じだったんですが。。石段が整備され池には遥拝所が置かれ石垣で池が整備されて見違えるように整備されています。降りてみると、けっこう高低差があります。しかし前述の善無畏三蔵が倶利伽羅不動を感得したのが、この不動池だと云われています。つまり、本当の倶利伽羅不動尊の発祥地はここになるということです。
手向神社の表参道ですし、ほとんどの観光の人は不動寺の表参道から入りますから、そのまま帰ってしまうし。
駐車場に停めても気づかない人も多いですし、実際、遥拝所以外に目ぼしいものは何もないんですけどね。。
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倶利伽羅峠の北国街道沿いには幾つかの茶屋や店舗が建っていたようです。手向神社参道の入り口に蜀山人(大田南畝(おおたなんぽ)、本名・大田直次郎)の狂歌碑が建てられています。
くりからの 餅の大小 不同あり 客がこむから 亭主せいたか
茶店で出される名物の餅の大きさが不揃いで、皮肉った歌のようですが、、、なかなか、凝った歌で不同=不動、こむから=矜羯羅童子(こんからどうじ)、せいたか=制多迦童子(せいたかどうじ)、不動明王には八人の眷属がいて、脇侍として立つのがこの二人の童子になります。不動明王図などの三尊図では不動明王を中心に左が制多迦童子、右が矜羯羅童子になります。つまり、餅に倶利伽羅不動明王図を織り込んだ作品です。

名前はよく聞くと思いますが、蜀山人を詳しく知る人は少ないと思います。蜀山人こと大田直次郎は徒士(御目見え以下士分)の家に生まれ、若くして(19〜40歳頃)田沼時代には田沼家家臣の後援もあって、狂歌三大家の一人と呼ばれる作者として一大流派(山手連)を起こして名を馳せ、それまでは捨て歌と呼ばれた狂歌を、大衆だけでなく士分階級にまで歌会開催・狂歌集出版を通じて芸術の域まで引き上げた功労者です。しかし、田沼政治の終焉と共に、松平定信の寛政の改革による風紀取締や言論統制で、後援者や版元を失い、自身も取締の対象となり、しばらく筆をおきます。

その後、家を継いだ直次郎、田沼政治に染まった経歴から、出世は無理だと周囲から思われていたのですが、寛政の改革でお目見え以下からの人材登用を目的にした日本版科挙(学問吟味登科済)に応募。首席合格で登用。2年後には御目見え以下では最高位ともいえる支配勘定に任用されています。5年後には大阪銅座に赴任、この頃から狂歌や随筆の作家を再開しています。蜀山人の名もこの銅座に関連して中国の銅山名・蜀山に由来しています。その後も幕府役職の長崎奉行所・玉川巡視役を務めるなどしながら、作家活動も行っていました。家督事情もあって隠居はせず、死ぬまで職務についていましたが、登城中の転倒がもとで死去75歳。辞世の歌が振るっていて。。今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん

倶利伽羅峠には、湧水が湧くところが多かったせいで古くから茶店が数軒あったようで、天正13年(1585年)に佐々討伐の富山の役では、豊臣秀吉は倶利伽羅峠に本陣を置いていますが、佐々成政の降伏交渉は茶屋を使ったと伝わっています。また、弥次さん喜多さんの東海道中膝栗毛の作者・十返舎 一九(じっぺんしゃいっく)が合巻旅行随筆「金の草履」に倶利伽羅の餅と茶店のことを書いています。文学碑あり。
倶利伽羅峠の茶店は砺波山の近くに昭和末期の近代まで存在していました。(天池茶屋)
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天保7年(1836年)蜀山人が食べたであろう門前の峠茶店からの出火により、不動寺の前身であった長楽寺に延焼。山門や不動堂が燃えたまま再建はされず、明治2年(1869年)に神仏分離令により廃寺、寺仏も河北郡内・金沢市に散逸、石堂神殿が手向神社として残っていました。昭和24年(1949年)、高野山真言宗管長・金山穆韶(かなやまぼくしょう)の発願と倶利伽羅村・小矢部市住民によって再興されました。仮落成が昭和28年、正式な境内整備完了は昭和35年。
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改めて倶利伽羅不動尊の表参道から。。こちらから入るのは、僕も5年ぶりになるかも、そういえば大人になってからは5年に一度ずつかも。。毎回来るごとに何か増えてるような気がします。子供の頃は、長い石段と屋根とお不動さんの手水舎しか記憶にないんですよ。今は石段も広く改修されて登り易くなっています。この長い石段を登るのがやはり倶利伽羅不動に来たと感じられます。
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手水舎の水掛不動は古くからあるもので、山頂よりも厳めしい良い顔をしています。
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5/3撮影画像
山頂本堂は、昭和26年(1951年)、金沢の卯辰山にあった招魂社の忠魂祀堂(石川護国神社の前身)を解体移築したものです。招魂社は明治3年(1871年)に加賀藩14代・前田慶寧が北越戦争での加賀藩戦死者107名の霊を祀るために建立したもので、その後の西南の役、日清・日露戦役の石川県英霊と第九師団の英霊が祀られていました。昭和10年(1935年)に現在地の石川護国神社に移転されるまで使用されたものです。
現在の中村神社拝殿(旧金沢城舞楽殿)のように金沢城や竹沢御殿から移築されたものもあるので、建築年ははっきりしません。
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本堂の前には、大きな鼎が置かれ、縁日や初詣の時季はモウモウとした香の煙で覆われています。
堂内は以前は撮影OKでしたが、今は撮影禁止。。堂内では日に2回の護摩炊きと5回の祈祷が行われ、敬虔な老若男女が参列しています。時間がうまく合ったので僕も護摩木を奉納して燃やして貰いながら参列してきました。堂内は外陣から内陣が思ったより近い造りですから間近で、護摩の炎が見られます。以前は28日に前立像の開帳日でしたが今はどうなんでしょうね。。不動寺では山頂本堂には空海作の倶利伽羅不動明王前立像があると伝えてます。

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5/26の画像 再訪問の画像です 参拝客がいないと、とっても静か・・
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施無畏堂(せむいどう)は奥の院の前に建つ拝殿になります。地元の人たちは本堂よりこちらに参拝します。
昭和39年(1964年)建立の当時の寺院には珍しい鉄筋コンクリート造り。名前の意味は「畏れ無きことを施す」というらしい。知らんかった==ずっと、善無畏三蔵から取ったんだと思っていました。。まあ、個人的にはあまり好きじゃないけど。。キラキラ過ぎて。。金銀のカエルなんて最悪。。来るたびに賑やかになってるのは気のせい。。じゃない。。堂内には不動明王の壇が組まれており、金ぴかの不動明王も平成に入ってからの物だと思う。厄除けの錫杖(智杖)や巨大数珠もあります。天井には寄進された灯篭がズラリ@@




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倶利伽羅不動明王の本尊が納められているのが奥の院。この建物も昭和25年に高松小学校(現・かほく市)にあった御真影奉安殿を移築したものです。3年に一度、御開帳されています。今年がちょうど開帳の年に当たります(10月28日)。奥の院の扉前にレプリカの前立てが置かれていますが、剣に炎の倶利伽羅剣の姿@@
奥の院は石川・富山の県境の上に建っています。つまり、倶利伽羅峠を挟む津幡・倶利伽羅村と小矢部市を繋ぐお不動様ということです。

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※ここからは偏見と私見です。。
倶利伽羅不動寺に訪れるたびに感じる違和感というのがあります。再建から100年に満たないせいか、後付けの構築物が良く言えば豪華絢爛、真言宗寺院は華やかな構築物が多いのが特徴的ですが、訪れる人に違和感を持たれるのは何とも言えません。山頂本堂と施無畏堂・奥の院、長い石段の表参道だけの時代から知る僕の目から見れば、多くの寄進を受けて発展していくのは結構なことですが、何でもありという姿は足を遠のかされてしまいます。いくら倶利伽羅不動尊が剣に巻き付く黒龍とはいえ、異常にでかい剣とか五重塔などは木造ならともかくコンクリート造りなどは違和感だらけです。昨年亡くなった母親は、もう一度、倶梨伽羅の不動さんに行きたいと云っていましたが、10年ほど前に西之坊鳳凰殿の花と倶利伽羅峠は見せてあげましたけど。。足が弱って歩けないからと不動寺は自分で諦めていました。でもね、、今の倶利伽羅不動寺なら見ない方が良かったかなと。。

昭和44年に和光塔が出来た時などは、母親はこんなしょうもないもの作ってと吐き捨てたくらいで(倶利伽羅周辺の人も眉をひそめた塔)、最初は僕が見たがって一緒に登りましたが、二度と見ようとはしませんでしたね。それまで毎年行っていたのに、たまにしか行かなくなってしまいました。今の施無畏堂や表参道入り口の恵比寿・大黒像を観たら卒倒するかも。。それでも、やっぱり母は津幡が好きで信心深く、宗派は違っても倶利伽羅不動寺には思い入れが強かった。もう一度連れてけなかったのは心残りです。

一応、不動寺を弁護すれば、和光塔は金沢工大の教授がデザインして芝ずしの社長が寄進したものなんです。どちらもなかなかの人物ですが。。その形態も法隆寺の百万塔をベースにしたものです。戦後、山の上に建てられた白の巨大な仏舎利塔を想像してもらえば(想像つかないならこちらをどうぞ⇒金沢仏舎利塔、、仏舎利塔と違うのは、中は四国八十八カ所の本尊が置かれて一周したら四国霊場巡りというもの。教義的には間違ってはいませんが、場を壊す存在感はなんともはや。。
仏舎利塔もどきを建てておいて、そのお仲間ともいえる五重塔を造ったのはどういうことと云いたくなります。
真言宗寺院は境内や庭園は観るべきものが多いのですが、やりすぎの機来が。。目立ちます。教義的には密教を重視しても幅広い宗派ですが、やりすぎの傾向と寄進なら何でもが。。。透いて見えます。せっかくの古い歴史を再興した功績を自ら壊す暴走はやめて欲しいものです。地元民の意見をちゃんと聞いているんでしょうか。。

西之坊の時にチラッと書きましたが、中学生の頃、住職の話を聞いた時には奥の院に納められているのは、空海作の前立像で滅多に観られないご本尊。善無畏作は絶対の秘仏で奥の院の更に先の洞窟内という話でした。それに今は3年ごとの開帳と云ってますが、以前は毎月28日に開いていたような気がします。僕の聞き間違いや勘違いかもしれませんが、どうも本尊も安っぽく扱われているような気がします。

小矢部の人たちはもちろんですが、倶利伽羅に関係する津幡町の住民にとっては、倶利伽羅不動尊は身近で親しみを持つ存在です。決して嫌いな宗派ではありませんが、真言宗という宗派をあまり前面に打ち出すのは勘弁してと云いたくなります。真言宗の個人的修業の厳しさと、他へ示す大らかさは理解できますが、真言宗の檀家などは北陸ではそう多くないんですから。。しばらくぶりに、訪れて倶梨伽羅という存在が少し離れた存在に感じてしまった僕。。もちろん、母と同じく倶利伽羅には結構思い入れのある僕、ついつい辛口になっちゃいます 反省

旅行日 2017.05.03    05.26




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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
本当に倶利伽羅通でいらっしゃいますね

何度訪れても また 何か見いだせるのが こうした所なのでしょうね

蜀山人は聞いたことがあるような 無いような で 今回改めて知りました
メミコ
2017/06/02 13:22
子供のころ遊んだお寺 最近は観光地と化して 綺麗にはなって行くのですが、なんだかなじめないところがありますね
写真ではなかなか立派な建物に見えますが・・・鉄筋コンクリートなのですね
ちょっと残念 
がにちゃん
2017/06/02 17:53
倶利伽羅シリーズ楽しみに拝見させていただきました。行ってみたいなと思っていましたが…。近代建築の後付けなのですね。ちょっと複雑な心境ですね。
tor
2017/06/02 20:06
メミコさん
そりゃ、僕の準地元ですから、倶利伽羅近辺は詳しいですよ。ガイドが必要な時はいつでも言ってください^m^これ以外に北陸街道が整備されて、10キロちょっと歩けますから、散策にも打ってつけのところです。
蜀山人は、
元々は江戸の人ですが、けっこう職務関係で全国を回っています。狂歌や随筆より名前の方が有名な人物ですね。

がにちゃんさん
そうなんですよ。子供の頃よく遊びに来てたお寺ですから、あんまり観光地化して欲しくはないんです。鉄筋コンクリートは味気ないですが昭和30年代のRC造りは珍しい構築物で、逆に面白いかも、ただ中身は新しすぎてきらびやかですね。
それでも不動寺自体の山頂本堂や護摩炊きは間近に観られて迫力満点ですよ。

torさん
そうですね。。山頂本堂は長く荒廃していましたから、構築物が少ないために徐々に増えて行っているという感じです。ただ、山頂本堂や手向神社は観る価値は十分にあります。ただし、中に入らなければ、その価値が解らないんで、28日の行事日やGW、お正月が狙い目です。
つとつと
2017/06/03 12:53
蜀山人は、実際にここまで旅をして、
茶屋の餅の不揃いに文句を言ってるんでしょうか。
「くりからの…」の歌、「不同」「こむから」と
洒落のめす才気煥発ぶりに、思わず
うまいと唸ってしまいました。
yasuhiko
2017/06/03 14:05
yasuhikoさん
倶利伽羅の茶店の餅は中の評判だったらしく、十返舎一九も旨かったと書いてますが、実際は来訪したかは不明。。
でもなかなか洒落が効いてて、不動明王を読み込むなんぞは、本当にうまいですねえ。堅い仕事をしながら、こんな作品がひねり出せるんだからすごいですねえ^^
つとつと
2017/06/04 12:40

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