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zoom RSS 林西寺

<<   作成日時 : 2017/07/22 02:19   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 41 / トラックバック 0 / コメント 10

白峰関連が続いています。。たった一日に廻ったのに、いったい何話書くんだと云われそうですが、笑っておつきあいください。

白山山頂の管理権問題が三番場で争われている最中、天文12年(1543年)牛首・風嵐(平泉寺後援)VS尾添(白山寺後援)の杣取権(木材の伐採・加工権)がこじれ、江戸期に入っても越前松平藩VS加賀前田家の領土係争地になっていました。明暦元年(1655年)に前田利常が尾添に杣取を命じたことから急速に悪化。両地の抗争が両藩の領地抗争に発展します。そして加賀藩が訴える形で幕府裁定に持ち込まれます。
しかし、この領地争いは前々ブログで書いたように。元は加賀領とはいえ柴田勝家時代に白山麓16か村は越前領になっており、その後一向宗討伐の流れで加賀領になっていた経緯、室堂の社屋建築の実績なども牛首・風祭にあり、尾口・尾添は別にして、白峰・西谷は越前平泉寺に親密感を持っていたようです。これに加えて親藩VS外様では加賀藩は不利な立場と言えました。

ちなみに白山麓16か村の内訳は牛首・風嵐(かざらし)・島(桑島)・下田原の白峰四村、深瀬(ふかぜ)・鴇ヶ谷(とがたに)・釜谷(かまたに)・五味島・二口・女原(おなはら)・瀬戸の尾口七村、大日川上流部の新保・須納谷(すのだに)・丸山・杖・小原(おはら)の現小松市の西谷五村。今訪れても山深い山村で多くが過疎やダムの影響で無人村ですが、瀬戸・女原・二口の様に伝統的行事が受け継がれ集落が残る村もあります。

ところが歴史の機微と云いますか、抗争が激化している最中に、加賀藩では隠居後見の前田利常が死去(万治元年(1658年)。跡を継いだのが若干15歳の綱紀。そもそもの抗争の主犯が消えちゃったのです。
対する福井藩(この時期は福居?)では、4代・光通(24歳)の時代で親政を始めた頃ですが、光通は優秀な人材で武辺の福井藩を税制改革などで基盤を固めた人物ですが、度重なる天災で財政は火の車、江戸期初の藩札発行など財政・税制改革に忙殺されています。更に藩内の後継者問題で義兄・姑との確執、さらに正室との確執と気を休める暇などない状態。この頃は大野藩主の叔父に委任していたとはいえできれば白山麓にはかかわりたくない状態でした。余談ですが、光通は延宝2年(1674年)に39歳の若さで亡くなっていますが、この嫁姑との確執が原因の自殺でした。福井藩主の永代墓所になった大安禅寺の創建は松平光通の創建に寄ります。松平光通の霊廟の厨子を観たことがありますが絢爛な装飾です。

白山麓問題は重大事に発展していましたが、この時期双方の思いでは係わる暇などない状態でした。しかし、大名間戦争にも発展しかねない、放って置くわけにもいかない外交問題でもあったわけです。
この二人の若い有力大名二人の間隙を縫うように、この問題を処理して解決に導いたのが保科正之でした。
保科正之は徳川秀忠の隠し子(母親は大工の娘)として生誕し、お江与の方(秀忠正室)の嫉妬を逸れ見性院(穴山信君正室、実際、お江与の正之への干渉を拒否しています。お江与には秀忠が外に女を作ることを許さず、正之の前に大奥で秀忠が他の女に産ませた男子を殺した前科があります。)に養育され信濃高遠藩の保科家に養子として入り保科姓を継いでました。義弟と知った徳川忠長から父の形見分けを受け、同じく兄の家光に見出され参政として幕閣入りし、4代将軍・家綱には大政参与として補佐役になっています。敵対しあった兄二人からも好かれ才知は評価されていたようです。本来、松平姓に復帰するはずが保科家への恩から生涯固辞した義理堅さを持っていました。会津松平藩の始祖としても知られ(会津の松平姓は後世2代後のもの)、幕末の最後まで幕軍の雄としての国是の源を造った人物です。

前田利常の幼少期も何度か書きましたが、不遇の幼少期、父親の顔も死の寸前、正室と母の確執、似た者同士というよりそっくりです。そんなこともあり、意気投合した二人の交わりは深いものがありました。
4代光高が39歳で早世したため、僅か3歳で藩主となった綱紀(綱利)の後見役として復帰した利常は、政務の傍ら帝王学を施しますが、綱紀が江戸詰めの際には盟友の保科正之に綱紀の教育係を依頼しています。綱紀の正室には正之の四女・摩須を迎えています。
利常の死去の際には、正之に綱紀の後見役と加賀藩の政治の助言役を託しています。その期間は正之が眼病を患い隠退する前年・寛文9年(1669年)までの11年間に及びます。この間に綱紀や筆頭家老・本多家と正之の間に多くの書簡が残っています。この当時、加賀藩が抱えていた大きな問題がこの白山争論と加賀藩で唯一の領地保有の長家の処遇問題ですが、この両問題解決に正之の助言と行動が大きな役割を果たしています。

現状のままでは、どう贔屓目に観ても越前藩領有が確定的でしたが、ここで捻り出した奇策。
白山麓16か村が越前領となると、加賀禅定道の登山口の荒谷・尾添は飛び地となり孤立化、白山への影響力を失ってしまいますし、第一に敵対勢力の拡大を招くことになります。また二度と領土が戻ることはない。これだけは加賀藩としては絶対に避けたかったわけです。ならば中立的な天領を緩衝地として置く方がましだし、領土問題も棚上げできるわけです。と判断したわけです。
ここで、飛び地となって費用や労力が嵩む荒谷・尾添も一緒に差し出して白山麓18か村を幕府直轄の天領地としたわけです。当然、幕府への配慮にもなります。この裁定が出たのが寛文8年、正之隠居前年の出来事です。

この天領になったことで、越前でも加賀でもない独自の文化がこの白山麓に誕生したわけです。封建制の導入や能登への移住などで出小屋や山の民が流出して減少しましたが、現在でも特殊な伝統や生活が残された要因となります。
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同年、白山山頂の祭祀権は平泉寺となったものの、仏教宗派は一向宗の影響で、熱烈な真宗信徒がほとんどで、一向宗最強と言われた山之内衆とも関わりが深い白山麓のために、白山麓18か村を一国天領の扱いとして真宗寺院・林西寺を東本願寺の総坊(別院)として別格指定とします。人口の少ない村落にしては大きな本堂と庫裏を併せ持つ事情はこういう所にあります。
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本堂内の「親鸞聖人真向きの御影」と外延鎧戸の本山のみ使用の抱牡丹紋がそれを表すそうです。

現在の本堂は嘉永6年(1853年)から11年の歳月をかけて建立されたもので、寺伝によれば牛首村御三家の一つ木戸口孫左衛門が私財を投じたと云われています。林西寺を囲む石垣積みは木戸口家から移築したと云われますが、なかなかの高度な石垣積みで目をひきます。段差が激しく積雪の多い白峰では村内には石垣積みが多く観られますが、林西寺の石垣はその中でも綺麗で高度な積み方です。ちょうど、修繕の後か先か番号を振ってありました。木戸口家についてはよく解らないのでまたの機会に。。上記の件は林西寺の由緒書に書かれていました。

「無量光山 林西寺」 由緒書

養老元年(717年)、越前の僧・泰澄(たいちょう)白山開闢の折、御前山の麓 御前林の西に草庵を占め給いしを以て開基とする。

恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂)、弓削道鏡との政争に敗れて都を落ち、越前竹原にて泰澄の弟子となり、泰澄の造った牛首村の草庵に住み白山別当を名告る。その子孫連綿として林西寺を相伝。37代・無量光院弘泰 文明5年(1473年)、越前吉崎にて蓮如上人に謁して白山天台より真宗に帰依し、淨教坊淨融(じょうゆう)と法名を賜る。坊守の法名・性融と共に今に伝来する。

白峰は元来 越前国大野郡牛首村であり、江戸100年までは越前領だったが、白山争論の末 越前領16ヶ村に加賀2ヶ村を加えて白山麓18ヶ村は、寛文8年(1668年)に天領となる。林西寺は天領における総坊(別院)の指定を受け、嘉永6年(1853年)に再建に着手、11年目の文久3年(1863年)に竣工。大工棟梁は永平寺の玄之(くろの)源蔵・源左衛門父子、そして本堂唐狭間の龍は源左衛門嫡子・師彭(しほう)の作。

本堂、再建には、江戸時代 牛首御三家の一つ、木戸口孫左衛門が私財を投じて事業を推進し、林西寺境内を取り巻く石垣も木戸口家から移設した。

林西寺が別院である証しは、慶応元年(1865年) 本山より下付された「親鸞聖人・等身真向きの御影」と、御本山のみ使用の抱牡丹の御紋が外縁の鎧戸に彫られてある。

山頂には極楽浄土があり、弥陀ヶ原・釈迦岳・念仏尾根などの名称で知られる如く、白山は浄土信仰の山として栄えた。泰澄以来、千年の間に6〜7000体の石佛が奉納されたが、明治維新の神仏分離令により石佛は全て廃佛の憂き目に遭い、越前禅定道と共に、白山の平泉寺領や天領は石川県に併合された。天台宗であった越前馬場の平泉寺、加賀の白山寺、美濃の長瀧寺も廃仏毀釈運動により神社に転宗。白山嶺↑の九体の尊像(御本地佛等)は、林西寺真宗17代・可性(かしょう)法師が政府へ下山費を献納し拝受している。

庫裏は 安政2年(1855年)、書院は 文政9年(1826年)の建設で、加賀藩の絵師・村東旭、佐々木泉景が襖絵を描いており、初期の井波彫刻の欄間が設けられている。

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一部補足説明です。
恵美押勝(えみのおしかつ)は本名を藤原仲麻呂といいますが、史書では藤原南家・藤原武智麻呂の次男。
藤原四家の当主が相次いで病死(長屋王の祟りとされています。)によって後ろ盾を失った聖武天皇の皇后・光明子の引き立てによって兄・豊成と共に実力をつけて、聖武天皇引退後は孝謙天皇に移った時代には紫微中台(皇后直属の政務・軍事機関)令、中衛大将(近衛軍長官)を兼任。橘諸兄、実兄・藤原豊成を圧倒して光明皇后と共に実権を握ります。当時は孝謙天皇(重祚して称徳天皇)とも関係は良好、大宝律令に続く基本法律・養老律令は仲麻呂のの手によるものです。

さらに孝謙天皇の皇太子に自邸で養育していた大炊王(淳仁天皇・淡路廃帝)をつけ即位させています。この時に恵美姓と押勝の名を受け、鋳銭と出挙の権も掌中にすると皇族以外では初の太師(太政大臣)となります。仲麻呂は極端な唐風主義で官位その他も唐風に改めており、最終的には帝位(天皇ではなく皇帝)も狙っていたとも云われています。

しかし光明皇后の死去と極端な派閥政治で反対派が増え、道鏡・吉備真備を側近とした孝謙上皇とも反目。上皇に天皇の御璽・駅鈴(天皇の政務軍事の認定権・駅舟・駅馬の徴発権)を奪われて、起死回生の手で諸国に動員令を発してクーデターを画策しますが密告で発覚。越前国に逃れて再起を期しますが、先回りした官軍に瀬田の唐橋を落とされ、越前国司は謀殺され、愛発関で敗れて迂回した湖西の途上で阻まれ近江の高島・三尾で斬罪となったと云われています。ちなみに当時の越前国の国司は仲麻呂の八男・辛加知(しらち)でした。藤原仲麻呂:享年58歳。
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林西寺の伝承ではこの藤原仲麻呂は単騎逃れて、越前国(当時は加賀も越前)深くに逃れ、越前竹原(現永平寺町竹原)で泰澄に縋って仏門に入り、山深い牛首の草庵(薬師堂)に白山別当となって過ごし、その子孫が林西寺住職だと伝えているわけです。林西寺が越前特に永平寺・平泉寺寄りの印象を受けるのはこのためともいえます。


まあ、伝承としては面白いですが、その後の仲麻呂一族の処分や淳仁天皇の皇位はく奪と配流をみれば(淡路廃帝、歴代天皇として復活したのは明治時代)、隠棲して仏門に入った、はともかく、白山別当を公に名のるなどという行為はちょっと無理が多いかも。。
なにはともあれ、泰澄が開いた前々回紹介した薬師堂から発展した寺院ということで、お隣の八坂神社とは兄弟・親子のようなもの。。
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豪雪地の北陸の寺社の社殿は床下を深くとって、社殿を高い位置にすることが多く、床下は物置の代わりになります。林西寺の床下は大人が立って歩けるほどの高さがあります。

ちょっと小難しい話ですが。。白山信仰では三地方三馬場それぞれで特色ある信仰が流行ったのですが、初期は白山山頂の白山坐神(はくさんいますかみ)としていたものが、白山比盗_・白山妙理大菩薩(権現)・貴女・伊弉諾尊・伊弉冊尊・菊理媛・九頭竜王などの神話の神に準える登場がそうです。伊弉諾尊(いざなぎ)を除くとその多くは黄泉の世界または入り口を表す神々です。伊弉諾尊は元々の伊弉冊尊(いざなみ)から長い期間の間に変質や誤解したのではないかと思われます。
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往古の白山麓の人間(山の民)にとっては白山は神の山・結界の山であると共に、山の民にとっては先祖の霊・最期に自身の魂が帰る地でもありました。
狩猟や樵師・木地師など死穢(しえ)に係わることから、平野部の農耕定着民(特に平安貴族以降)からは賤民・被差別民と蔑まれる山の民にとって白山の清冽な白い姿は眼の前にあり、憧れでもあって精神的にも、現世とは違う他界(別世界、あの世)そのものだったのです。白山神(白山神社)が後世でも山の民や被差別民に信仰を受けた大きな理由と云われています。
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修行過程において胎内回帰による擬死と再生を模倣する山岳修験道が結びつき、自然崇拝的な要素が強まり他界の地として強調されていきます。仏教面では初期は自己修業を規範にする密教系の天台宗・真言宗と結びつき、平安末・鎌倉期には神仏習合思想や阿弥陀思想が融合していったと思われます。また禅宗である曹洞宗永平寺も白山神を守護神・鎮守としています。仏教との融合は偶像崇拝を広めることになり由緒書にあるように、仏像や石仏が6.7000体が白山に置かれていたと云われています。

ところが明治初頭の神仏分離・廃仏毀釈の嵐は白山にも吹き荒れました。時の石川県令・内田政風はその急先鋒でもありました。だいぶ前にUPした能登の石動山天平寺では僧侶全員の還俗、堂宇の売却・取り壊しだけでなく墓標に至るまで破壊しつくされていました。その哀れな姿は今でも目に焼き付いています。
白山でも石仏は破壊され、仏具は廃棄、木造・金属製の仏像は下山されて鋳つぶして廃棄の方針が指示されていました。これに対して、白山信仰でも熱心で熱烈なために長い期間白山争論で争った白峰・尾添、白山麓18か村総代が仏像の下山残留を陳情したわけです。白山信仰の危機に両村が協働歩調をとったことは、信仰心の厚さを表すといえます。

下山運搬の費用を負担してまでの熱意に押され県も容認して、護応石、天池金剱宮にあった仏像が集められた檜新宮の仏像12体と銅鐘が尾添区に引き渡され、尾添白山社内に白山下山仏社として安置されています。檜新宮の本地仏は地蔵菩薩のため12体中7体が地蔵菩薩像。他には阿弥陀如来立像・観音菩薩坐像・十一面観音座像・不動明王立像・金剛童子像など、鎌倉から江戸期のものがあります。
その後の石川県からの廃仏毀釈措置の復活を恐れ、眼を避けるために秘仏として白山社を建立したと云われ、尾添では高台の白山社を「高の神様」、鎮守神の加宝神社を「下の神様」として信奉してきました。昭和59年(1984年)尾添発電所の建設記念に現在の檜新宮が建設され、地蔵菩薩像一体が檜新宮に戻されています。
下山仏社は正月くらいしか開帳されないのですが雪深い地でなかなか機会が得られずにいますが、今年白山開山1300年の一環で夏のツアーで夏の特別観覧、秋には白山市立博物館で10月21日(土)〜11月26日(日)に特別展示が行われるそうです。こちらはまたご報告するつもり。。

白峰に下山した仏像が置かれたのが林西寺でした。尾添に保存されたのは加賀禅定道の道筋にあったものですが、林西寺に置かれた仏像8体は白山三山(御前峰・大汝峰・別山)、室堂、千蛇ヶ池、越前旧道、市ノ瀬に安置されていたもので白山信仰の中心的なものになります。
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林西寺では以前までは「白山本地堂」という別建物の座敷に本地仏を安置していました。ですから、自分と同じ目線で仏像を観る形式でした。現在は内部を改造して、舞台を設えて上段に仏像を安置しています。つまり仏像を見上げる本来の形式です。実際に目の前で観ると威圧感や荘厳性が増しますねえ。仏像の目線は慈母的な少し下眼使いですからこの方が良いと思います。以前の形式ではパンフレットや図鑑を観るのと変わりませんからね。。とはいえ、撮影禁止のために平面なパンフレットの画像で。。実際に目の前で見て頂きたいものです。下山仏拝観料500円。

下山仏の詳細ですが、、、、パンフレットからの画像と説明に少し付け足しで、、体高は光背を含まない本体の高さのようです。
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※木造泰澄太子座像・・・この像は林西寺の本堂に安置されていて無料で拝観できます。元は慶長16年(1611年)平泉寺で作製され、弥陀が原の御前室堂に安置されていたものです。体高60.6p。
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※木造釈迦如来像・・・泰澄自作と伝える唯一の木造座像。元は越前禅定道旧道の檜木宿に安置されていたもの。風化が激しく摩滅しています。体高43cm。
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※木造薬師如来坐像・・・元は市ノ瀬の温泉源泉の山田屋の薬師堂に安置されていたもの。正徳2年(1712年)越前の仏師・河瀬庄三郎の作。作者の詳細については勉強不足で不明。体高36cm。
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※銅造聖観世音菩薩坐像・・元は別山山頂に安置されていたもの。背銘に「渡部藤兵衛」。文政5年(1822年)藤原朝臣家次によって鋳造されたそうです。 名前から推測すると、渡部藤兵衛と藤原朝臣家次は同一人物で越前芝原(現・越前市芝原、家久町近辺)で、代々梵鐘造りに名人と呼ばれた鋳物師と思われます。体高62.7cm。
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※銅造十一面観世音菩薩坐像・・・元は御前峰山頂、現在の奥宮のある場所に安置されていたもので、白山では最重要仏像で泰澄の木造に始まって、安元2年(1176年)平重盛が銅造にして以来、風化のたびに鋳直されて受け継がれてきたものです。今は江戸末期に焼失していますが、平泉中尊寺の鎮守・白山神社の本尊は、藤原秀衡がこの像を鋳写して安置したと伝わっています。現在の尊像は文政7年(1824年)平泉寺で鋳造されたもので、総重量207キロで白山山内では最大級。体高109cm。
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※銅造阿弥陀如来坐像・・・元は大汝峰山頂の奥の院に安置されていたもの。文政5年(1822年)作者は聖観音と同じ藤原朝臣家次渡部藤兵衛。施主は越前勝山藩主・7代小笠原長貴。体高89cm。
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※銅造十一面観世音菩薩立像・・・国指定重要文化財。元は旧室堂に安置されていたもので、別鋳組合せ造りの初期型で、当時としては珍しい大型の仏像ということで国指定を受けています。11世紀後半の金銅仏で、木彫の原形を直接原型に使うという製法は、国内ではこの仏像以降のものになるそうです。体高71cm。
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※銅造地蔵菩薩坐像・・・元は千蛇が池に安置されていたものです。寿永2年(1183年)奥州・藤原秀衡が施主寄進したもので当地(千蛇が池)で鋳造されたと云われています。体高78.8cm。

いずれも見どころ満点の仏像です。。長く白山を観てきた仏像たちです。

旅行日 2017.06.11




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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
領地争いというのは、昔から厄介なもので、
黙って引き下がる訳にいかないものの、
当事者同士にとっても重荷でしかなかったんですね。
その辺り、白山麓の事情がよく分かって、
とても興味深く感じられました。
明治の神仏分離令の強引なやり方に対し、
白山麓の村々が協力して、仏像を下山させて
いた事には救われる思いがします。
yasuhiko
2017/07/22 10:08
今も昔も権力維持には、いろいろな駆け引きがあったのですね
また白山麓の方々の信仰心の篤さが伝わってきますね
がにちゃん
2017/07/22 17:06
yasuhikoさん
領地の係争はどちらも引き下がるに下がれないという厄介な問題ですね。タイミングが合わないとこんな風にはいかないお思います。加賀藩は家臣には土地を与えない政策で、今でいうサラリーマン官僚のような世界というのも、こういう措置に働いたのかもしれません。ただ、天領になったので白山の管理権も同時に失ってしまったんですが。。神仏分離令での破却措置は貴重な文物を失わせてしまいました。今でも白山や石動山に行くと荒涼とした破壊された石仏や墓標が打ち捨てられたものが見られますが、こういう風に尽力した信仰があったんだとホッとさせられます。
つとつと
2017/07/22 20:30
がにちゃんさん
白山麓だけでなく、加賀・越前・美濃・越中から見える白い山はやはり心の
の原点なんですね。晴れた日に白い頂上が見える時はついつい見とれちゃいます。

初期の加賀藩の土地問題は、第三者的な立場の保科正之の存在が大きくものを言っています。当事者だけではこじれるだけですからねえ。。。
つとつと
2017/07/22 20:35
名君との呼び声も高い保科正之が出てくるとは思いませんでした。九州の祖母山頂も日向と豊後で争われ、お互いに相手の祠を深谷に突き落とし、壊し、また建てるということを続けた時代があったそうです。麓を領する肥後はさすがに絡んでないようですが…?本題とは外れますが、昨夜妻の実家と私の母の実家は共に農家なのですが床下の高さの話になりました。すごいタイミングでした。どちらも寒い地方ではないのですが、妻の実家では床下に潜って遊んでいたそうです。今はどちらも建て替えられているのですが…。
tor
2017/07/23 20:43
torさん
領地争いや管理権・祭祀権更には権益の争いなど、日本各地で見受けられますし、大きな問題になってもいました。各地のものを見ると血なまぐさい嵐にまで発展したものが多く見受けられます。白山麓や能登長家も加賀藩初期の大問題でしたが、どちらかと言えば藩幕府の利常が幕府重臣でもあった保科正之を自分の孫や藩の後見に置くというのは、相当の覚悟と信頼感が見られます。実際当事者間の問題を第三者の目で処理できたことは大きかったと思います。

昔、僕の実家もそうでしたが大きな納屋か、床下が高くとられて物置代わりになっていました。そういえば、僕も遊んだなあ^^ついでに猫も勝手に住家にしていました。
つとつと
2017/07/24 11:44
こんにちわ。
何時も詳細で興味深い記事で私の知らないところの旅をさせて頂いています。
神社仏閣が好きでよく写真や模型を作っていましたが今は一人で出かけることが出来なくなり暫く出かけていないので本当に参考になります。
どうかこれからも素敵な情報と記事を書かれることを楽しみにしています。
ゆらり人
2017/07/24 18:36
ゆらり人さん
やはり地元ですから、なんだかんだと歴史や地理には詳しくなっちゃいました。
ただ、仕事の関係もあって、日帰りで行ける範囲にしか出られないのが辛いところです。それでも、営業仕事で外回りに動いたときにちょっと覚えて時間のある時に行くようにしています。
あんまり褒められちゃうとすぐ木に登っちゃうんで^^;
つとつと
2017/07/25 22:49
保科正之、いろいろなところに出てきますが、やはり頭のいい人物だったのでしょうね。
越前領や加賀領になるのと、天領になるのでは、やはり文化が違ってくるのですね。
興味ぶかいです。
林西寺にはたくさんの仏像があって、見ごたえがありそうですね。
家ニスタ
2017/08/05 11:51
家ニスタさん
保科正之は加賀藩にとっては一番難しい時代に一種の救世主的存在でした。
前田利常はバカ殿さまを演じねばならない程、反幕を疑われた人物でした。親幕府で家光の養子候補にもなった光高で修復しかけたところに早世。結局疑心を持たれた利常が復帰しなければならず、次期当主も幼いまま。。このかじ取りを幕府重臣に託した先見が利常にはあったようです。加賀藩と会津藩はその後の親交も深かったようです。会津藩が京都守護の時には軍事財政両面で支えています。
やはり、国の違いと同じく藩が違うことは、風俗両面でちがってきます。ここに来ると同じ市内とは思えませんから^^;
つとつと
2017/08/05 19:52

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