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zoom RSS 旧山岸家住宅

<<   作成日時 : 2017/07/29 19:29   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 36 / トラックバック 0 / コメント 10

山の民の里とされる白山麓ですが、戦国の混乱は牛首村にも及んでおり、白山平泉寺と越前・加賀一向一揆、更に再侵攻した織田方の柴田勝家軍の間で揺れ動いています。まず時代は越前朝倉家滅亡の頃に遡ります。
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ついでに散りばめた画像は林西寺の側の食堂・「みのすけ」さんで食べたお昼の食事で「温そば定食」+100円の大盛で1180円。白山麓のじわもの料理(地産地消)^O^ 祖父と同じ名前で釣られてはいっちゃいましたが、古くから観光事業に尽力している老舗食堂。味も素朴で美味しいお薦め品。文章とは合わないですがご勘弁^^





お隣の越前・勝山の地名の由来ですが・・・織田信長軍が一乗谷を滅ぼして朝倉義景を自害に追い込んで引き上げた後、越前の統治は恭順した朝倉景鏡(あさくらかげあきら、朝倉家滅亡後は土橋信鏡、)に本領安堵と共に一応任せた形をとりました。ところが、部下の相克から土一揆が発生。更にこれに一向宗が加わって一向一揆に変貌します。いつしか一揆衆の標的は景鏡に移っていきます。

元々、朝倉家と一向宗には長い抗争と和平の繰り返しが過去にはあったのですが、そうした朝倉家への恨み辛みの上に、更に織田家に朝倉家及び越前を売った景鏡を標的にするのは自明の理でした。
全盛期の朝倉家ならともかく単なる代官的力しかない景鏡に全面対決する力はなく、一族を率いて逃げ込んだのが白山平泉寺でした。当然ながら越前一向宗は景鏡の引き渡しを要求しますが平泉寺はこれを拒否。平泉寺VS越前一向衆という戦いにまで発展したのです。
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みのすけさんの食事処は大広間のお座敷 入り口の上がり框には囲炉裏が設えていて、冬場には囲炉裏を囲んでお茶するのも一興

平泉寺の勢力も(僧兵八千とも云われていました。)侮りがたく、越前衆は加賀一向衆に合力を要請します。これに応えた加賀衆は谷峠越えで参戦し、平泉寺を挟み撃ちにして攻め滅ぼし、景鏡は討ち死に、幼子二人も殺害されています。これによって、朝倉家・平泉寺・一向宗の絶妙なバランスが崩れ、第二の百姓の持ちたる国が誕生したわけです。
白山平泉寺を攻めるために谷峠を越えて、加賀衆が拠点にしたのが谷峠にあった谷城や、北谷を越えた平泉寺の西方・御立山でした。御立山は眺望が良く勝山市内や越前平野が一望できる眺望ですが、平泉寺攻めの勝利の端緒はこの山であったために、一揆衆では「ここから勝った山。かちやま。」として勝山として地名が残ったものです。一向宗関連の造語ですが、どういうわけか、その後に入部した柴田勝家も勝政も、結城秀康もそのままこの地名を継承しています。。
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みのすけさんでは、注文は自分で選んで、注文紙に鉛筆で書いて店舗兼調理場に持って行くことになっています。僕たちは、たまたまご主人がお冷を持ってきてくれた時にお渡ししましたけど^^;紙がカレンダーの裏というのが微笑ましいでしょ^^;

余談ですが、朝倉景鏡は当人も詳細が解らないうちに、部下の争いが発展して、みんなの標的にされ殺されたのですが。。悲劇的で同情論が出てもおかしくないんですが、越前国内では現代でも評判は最悪の人物です。
景鏡は朝倉義景の従弟にあたり、当時は義景の嫡子も幼く朝倉家のNo2で軍事面の責任者でもありました。一乗谷での屋敷地も判明していて、外城戸側になりますが非常に広いものです。朝倉家の衰亡の原因は当主(朝倉義景)の読みの浅さと政治・軍事からの逃避が主原因ですが、景鏡にも相当の責任がありました。

景鏡は軍事責任者としては決して無能とはいえず、当主名代の総司令官として、金ヶ崎での織田軍追撃、志賀の陣(比叡山籠城戦)など数多の合戦に司令官として出陣しています。当主と溝が出来始めたのは織田信長が浅井氏の小谷城攻めに虎御前山城を築いた辺りから、朝倉軍は景鏡を主将に小谷城の後詰として2度に渡って援軍に出ていますが対陣のみに終わり、二度目には前波吉継(桂田長俊)・富田長繁・毛屋猪介が織田軍に寝返っています。ちなみにこの三人が後に仲間割れで、前述の越前土一揆の原因を作ることになります。
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この二度の不調で大きな溝となったようで、三度目の小谷城救援には連続出陣の疲弊を理由に出陣拒否。合戦参加の少ない義景が主将の朝倉軍は小谷救援を逆撃され織田軍侵攻を招き、刀根の戦いで大敗(この戦いで旧大名・斎藤竜興が討ち死を始めとして朝倉中核の武将が多く討ち死にしています。)。そのまま一乗谷に撤退します。勢いに乗る織田軍は更に一乗谷陥落を目指して侵攻、小谷城攻めのさなかに風雨を突いて逆撃、更に敵本拠深くまで侵攻した織田信長も、危険を冒した乾坤一擲の勝負といえます。もし留守居の景鏡が、残存勢力で木ノ芽峠の余呉か刀根、せめて府中もしくは今庄まで救援・後詰に出ていれば、朝倉家の滅亡は防げたと思われます。
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左から岩魚の甘露煮、油揚げと蕗き、漬物 甘露煮は頭から尻尾まで食べられる見た眼の堅さより柔らかい、僕は塩焼きよりこちらが好き

一乗谷に撤退した義景は一乗谷城に籠って最期の防衛戦を行うつもりでしたが、一乗谷に迎えた景鏡は自分の勢力圏の大野に引き捲土重来を主張、義景を賢松寺に入らせます。そして手勢の軍勢で寺を取り囲み義景を強制的に自刃に追いやります。更に自分の伯母に当たる高徳院(義景の母)・小宰相(義景側室)・愛王丸(義景嫡男・3歳)他近習を捕縛して織田信長に差し出し、自身の助命と家督相続を願い出たわけです。この人質は全員が美濃への護送中に密命を受けた丹羽勢によって暗殺されています。
この出陣拒否・本軍を見殺しにし、主殺し・幼子を含む婦女子の捕縛、挙句に自身の命乞い、国の売り渡し行為は国内外から白い眼で観られていたのです。小谷攻めを急ぐ信長は一度は景鏡を謹慎させてはいますが、最終的には越前を任せますが大失敗だったのは前述の通り。更に先に寝返った三将を同列で越前に戻したのがさらなる大失敗。信長の計画通りだったのか、せっかく自身の才覚で獲った国を奪われた激情か、その後の越前一揆衆根切の大量殺りくに繋がります。
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ナメコ入りそば やはり大盛りは大盛り、丼が深くて見た目よりボリュームあり

天正2年(1574年)第二の百姓の持ちたる国などと書きましたが、実情は本願寺派遣の大坊主の支配で、朝倉以上の重税で他宗だけでなく、一向宗内からも反発。。この脆弱な土一揆の国はわずか1年後の織田軍侵攻に足並みがそろわず2年持たずに滅亡。。この時の真宗の城の根切は殺戮といって良い事態で、打ち取られた数1万2500以上、美濃に送られた捕虜奴隷3万以上。このことは織田信長から村井貞勝への書状は有名ですし、府中の小丸城址から発見された瓦には「前田利家が一揆衆千人を磔・釜茹でにしたことを後世に記録する」という恨み言が書かれたものが昭和初期に発掘されています。
この侵攻で泰澄が開いた越前の白山信仰の発祥地と言える豊原寺も焼亡しています。跡地に柴田勝豊によって山城が築かれたのですが、これが丸岡城の前身で、その後、現在地に移築されたと云われています。
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堅豆腐の刺身 白山麓を代表する食の名産品と言えばこの堅豆腐と栃の実・栃餅 個人的には中宮の堅豆腐が好きですが、白峰も絶品です。生絞りの製法で作られたこの豆腐は重しをかけて水分をしっかり抜いたもの、昔は荒縄で縛っても型崩れしないので、縄で結んで販売していました。生の刺身が多いですが焼いたり、水炊きにしても美味しい

前置きが長くなりましたがもう少しお付き合いを、、この第二次侵攻後、北陸方面軍として北ノ庄に入ったのが柴田勝家でした。勝家の一族の柴田義宣が勝山方面軍として、先述の御立山山頂の村岡山城を居城に谷城・谷峠を越えての白山麓を経由させ、三坂峠越えの本軍で加賀衆山之内衆の根拠・鳥越攻略を挟撃として図ったわけです。谷城には越前衆の残党で北谷の土豪・七山家が立て籠っていたのですが、これを攻略しようとした義宣が牛首から救援に駆け付けた西脇惣左衛門(七山家の家臣とも云われています。)によって討たれてしまいます。出鼻を挫かれたと云えます。この失敗から柴田軍は金沢御堂を先に陥落させ、白山麓に一向宗を孤立化させていきます。

勝山方面軍では柴田勝家の養子となっていた柴田勝安(後に勝政)を義宣の跡を継がせ、村岡山城に入った後、平地部に勝山城を築城、本城として白山麓を平定しています。これにより鳥越城・二曲(ふとげ)城の孤立に成功しましたが、頑強な抵抗に手を焼いて松任城での講和会議でだまし討ちにして鳥越一向宗の首脳を殺害して落城させています。鳥越城陥落の天正8年(1580年)に、柴田勝家は恩賞として勝山・大野に加え白山麓16か村を勝政に与えて越前領として取り扱います。この措置はその後の白山麓16か村が越前領として江戸時代初期まで続く先鞭となります。
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ちなみに柴田勝政が築いた勝山城は、現在模擬天守&博物館がある勝山城の場所ではなく、勝山市役所・市民会館の場所が城跡になり領主は松平・天領・小笠原など変遷しますが、幕末まで再築・修築が施され存続しています。
柴田勝政は同じく勝家の養子だった柴田勝豊とは不仲で、賤ケ岳前に勝豊が長浜城ごと寝返った要因とも云われています。自身は賤ケ岳の合戦で討死にしたと云われています。遺骸が確認されておらず行方不明ですが、生前、勝山に養父となる義宣の菩提寺(墓所は谷峠)として義宣寺を建立していますが、勝政の墓所があります。
元々は勝政は佐久間信次の三男で、兄には初代金沢城主・佐久間盛政、信濃飯山藩祖(幕末まで存続)・佐久間安政、弟に信濃長沼藩祖(四代で改易)・佐久間勝之がいました。ちなみに佐久間勝之は、北ノ庄陥落後は安政と共に北条氏を頼り、小田原陥落後は秀吉に降伏、家康に仕えて関ケ原戦で活躍して大名格になっていました。上野公園にある東照宮への寄進のお化け灯篭が有名ですが、南禅寺大灯篭・熱田神宮大灯篭も勝之の寄進です。つまり日本三大灯篭は全て勝之寄進のもの。南禅寺の大灯篭だけ見たことが無くて、いつか見たいなあ^^;

柴田勝政に協力したのが牛首村の土豪・加藤藤兵衛でした。これによって白山麓16か村支配の代官的存在になっており、時代が変わって慶長6年(1601年)越前藩初代・結城(松平)秀康からも16か村支配の安堵状が出されており約150年以上に渡って、越前藩をバックにした加藤家の支配が続いていたことになります。
ところが前回に書いた白山争論における尾添との武力衝突で兵を動かしたということで、白山麓16か村と尾添・荒谷が天領となると、加藤家は追放処分となります。
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天領となった白山麓18か村の総取次元になったのが牛首村の大庄屋・山岸家でした。寛文8年(1668年)から明治維新までの200年間、幕府は白山麓には代官所を置かなかったために、地元の資産家で人望のある家を庄屋として村々の取締・運営を任せていました。そしてその庄屋たちの総代となる大庄屋として山岸家が代々取次役を担ったわけで、前に書いたように加賀・越前でもない伝統と文化が独自に発展していったのです。
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白山麓の行政面(警察・裁判権を含む)一切を取り仕切ったのがこの山岸家になります。ちなみに牛首・桑島にある商業面を取り仕切ったのが桑島の杉原家になり、商店・行事伝統・文書面を担ったのが白峰の街道沿いにあった織田家だと云われています。林西寺では山岸家・織田家に加えて自寺に貢献した木戸口家を御三家としていますが、木戸口家に関しては勉強不足で知りませんでした。国道157号を挟んだ先に白山ろく民俗資料館がありますが、織田家・杉原家の豪邸が見学できます。この三家の住宅に共通するのは、巨大な主屋と三階層建て、黄土色の土壁、縦長の窓に、玄関口の上部にはもう一つの出入り口、屋根まで伸びる大梯子など、三階は養蚕の作業場となっており山間の奥地には珍しい大仕立ての建物には驚きを興じます。

白峰の村内は古くから統一された住居や店舗が立ち並び、重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、旧山岸家住宅はその大きさ、石垣や門、庭園、更に納屋・蔵など中心的存在感を放っています。
建物は昨昨年まで山岸家が居住していたため、屋内は整理修繕中でしばらくは観覧できませんが、最奥の仏間・和室部分が庭園から観覧できます。

江戸時代、山岸家は代々当主は「十郎右衛門」を襲名していました。地元での屋号は「じゅうろも」。前述のとおり白山麓の絶大な権限を持っており、白山麓では殿様格と言って過言ではありません。明治以降も有力者として村の行政・産業発展に尽力した家です。そんな偉い一族には全く知り合いがいるはずはなかったのですが。。今回、僕は山岸家の敷地に初めて入ったのですが、嫁さんの方は何となく見たことあるという顔でキョロキョロ。。
白峰の村内には雪だるま祭りの時しか連れてきた記憶がないんですが。。案内スタッフの人との会話をしていて、裏の庭園と仏間を観て完全に記憶が復活したようです。

もう20年近く前まで前職ではあっちこっち転勤で移動していた僕は、新潟から故郷石川に転勤、旧松任で過ごしながら金沢・野々市の店舗を巡っていたのですが、(内心、ここで会社をを辞めようと思っていたんですが、、娘は幼いし、嫁さんも喘息のひどいころで、我慢したんですが、、、)3年満たずで、またまた遠距離転勤で滋賀県に、、娘も保育園の2年と小学校の一学期で転校してしまいました。。その後、滋賀県から能登の七尾を経てまた金沢に戻る際に、高学年に差し掛かる娘の要望で松任の同じ校区を選んで戻ったわけです。滋賀に行ったおかげで、嫁さんの重症の喘息も収まり、改めて理想をなくして絶望的で、もう嫌で嫌でしょうがなかった前職とも、一年足らずでオサラバしたわけです。

しかし、4度の転校は娘には相当の負担で、僅かになじみの残る学校に戻ったとはいえ、不登校になったことがありました。その時、娘は学童センターに行っていたんですが、その時の指導員の先生がこの山岸家からお嫁に出た方だったんですね。その課外旅行なのか、遊びだったのかは覚えていないんですが、嫁さんと娘は山菜取りにセンターの仲間と先生数名で行ったわけです。山ではカモシカに出会い、山菜も山ほど抱え、先生の御実家で休憩にお茶&お宅拝見してきたというご報告。。三階建ての古くて大きな豪邸だった。。場所を聞くと、石川に戻って間もなく地理・地名や歴史には疎いふたりはチンプンカンプン。。同僚の先生たちには日頃から〇〇先生は、世が世ならお姫様なんだよって言われていたそうです。。僕も話を聞いてふ〜〜んで聞き流してましたねえ^^;
まあ、それから15.6年は過ぎているわけで、、、なんと、身近に中を隅々まで見てきたのがいたんですねえ・・
そんな凄い家の娘さんだったんだあの先生@@というわけです^^;
ただ、現代では広すぎて、土間付きの台所など昔のままで住みづらいのは確かで、2年前にご両親は違う場所に新宅を建てて引っ越したんだそうです。家財道具や資料の整理が出来ていないので内部は非公開。。

今回の前置きが長すぎましたねえ、本文の方が短くなりますが、スタッフの方と嫁さんが僕が移動すると二人でニコニコ会話で側に来るので画像が少ないし、お見苦しい姿が写り込んでいますがご勘弁を^^;
スタッフの方と嫁さんの説明とパンフから、いつもなら僕が嫁さんに説明ガイドなんですが、今回は全く立場が逆^^;
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山岸十郎右衛門家住宅の説明・・

主屋は三階建の母屋と屋根が一段低い付け座敷(二階建)から構成されています。母屋は天保11年(1840年)に横垣という場所に山岸家の分家が建てた物を明治25年(1892年)に移築したものだそうです。主屋側に水盤がありますが天保年間の記名があり、横垣で使われていたようです。付け座敷はそれ以前からの建物の改築か、明治24年に購入した住宅の移築かは判然としないそうです。主屋に付け座敷が食い込むような造りです。付け座敷の二階縁側部には柵を設けてベランダの様になっています。
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仏間天井の朱漆吹上、格天井の金具や装飾は、以前観た呉竹文庫の熊田源太郎の書斎天井はこれから取り入れたと感じます。ということで、明治初中期の近代和風仏間の装飾化の先駆け的な存在だそうです。仏壇上部のがま口も見事な装飾です。画像はありませんが、白峰の住居の特徴で建物後部にせり出しがあって大型仏壇が入る工夫がされています。
内部は仏間・寝室・奥座敷が観られますが、嫁さんが観た時はここに襖があって、プライベート部分に当たり、寝室の襖を開いて奥座敷でお茶したそうです。奥座敷の先には建物の幅いっぱいの大広間、建物の割には小さい土間口があるそうです。
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主屋は正面から見ると、白峰の特徴ともいえる大窓兼出入口が観られます。豪雪時にはここから出入りできます。基本的に豪雪地帯のために一階窓は小さくなっています。逆に2階は通常の生活スペースで窓は縦長の大きいものとなって明り取りになっています。3階は養蚕の作業場になるので、窓は小さくなり飾り窓的です。
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全体的には蔵造りで全体を黄土色の梁や柱を厚さ15センチ以上の土壁(どかべ)で覆い尽くしています。土壁は室内温度の調整機能が高く、夏涼しく冬暖かくなるそうです。まあ、土壁特有のにおいは個人の好き嫌いが出るかも。。一階部分や正面・裏面など雪の当たる部分は板を張って保護しています。
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屋根部分は元は木羽葺でしたが、平成5年(1993年)桟瓦葺に改築されています。その際に煙出しの越屋根が取り除かれたそうです。囲炉裏や台所のかまどの使用頻度が減れば、通気の木羽や越屋根より瓦葺が丈夫ですからね。



山岸家を囲む石垣ですが、道路拡張のために3mほど主屋側に移動させたそうです。
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このため狭く感じますが、江戸時代には、行政関連、特に警察取り調べ、裁判にはこの広場が使われていました。建物中央に式台と石橋がありますが、この石橋の前がお白洲になっていました。山岸家が白山麓の警察・裁判権を持っていたことを示します。ちなみに非公開になっていますが屋敷裏から登る裏山には牢舎が幾つかあったそうです。嫁さんの話ではまだ建物があると云われたそうですが。。裏庭ににバンガローがありますが、そこも軽犯罪の牢舎のあった場所だそうです。
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道路面石垣の間に門が二つありますが、屋根付きが殿様門(勅使門)。使われたことがない開かずの門だそうです。
奥にある二本柱の門が本来の玄関門になり塀重門(へいじもん)と呼ばれてます。左右に開閉する板戸があって、閉じると屋根付き門になる優れものです。ちなみに塀重門は中・上級武家や貴族階級が使用したものですから、山岸家の格式の高さが窺われます。これ以外に蔵・土蔵に繋がる門が二つあります。
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仏間の縁側外に泉水の庭園、作庭は山岸家が取次元になった時(17世紀後半)と云われています。泉の中心に亀石が置かれ、これを中心に長い期間改修が加えられたそうです。山岸家ではこの亀石は相当貴重だったようで嫁さんは御当主に長々とウンチクを聞かされたと云ってました。でも亀石の名前しか記憶にない嫁さん。。脇に村一番の巨樹があったそうですが、住居にかかりそうで今年、伐採されたそうです。

山岸家住宅には三つの蔵が現存しています。
いずれも三階構造で、その高さには驚かされます。塀重門の画像の門の向こうに立つのが、左が「味噌蔵」右が板蔵になりその大きさ・高さが解ると思います。いずれも白漆喰に格子板張りに置き屋根構造。

板蔵・・・弘化2年(1845年)築。山岸家の蔵としては最大の大きさで梁行4間(約7.2m)X桁行8間(約14.4m)。桁行に二つの入り口があって内部で2分割して使用されていました。北半分が米蔵、南半分が板蔵と呼んでいたそうです。
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味噌蔵・・・明治9年(1876年)までに建てられた蔵で、母屋から一番近い位置で、近代には手前に
木造車庫が増築されています。本体の大きさは梁行2間(約3.6m)X桁行3間(約5.4m)。

浜蔵・・・慶応2年(1866年)築。道路を挟んだ場所に立っています。白峰では牛首川沿いの急斜面を浜と呼んでいました。この蔵は斜面の際にあるので浜蔵と呼ばれていました。土蔵の扉も頑丈な造りで、接待道具・花嫁道具・文書類が納められていたそうです。梁行3間(約5.4m)X桁行4間(約7.2m)。置き屋根を頬杖(ツカセ)が3尺間隔で支えているのが特徴的です。

白峰シリーズもやっと終了。。山間の中で独自の文化が育った白峰の重伝地区は一味変わった旅情を味わえると思います。

先々週、上越まで行ってきました。
その途中で久しぶりに山城に登ってきました。。北陸の宮関連の城です。前回、食べ損ねたタラ汁もたらふく食べました^^大失敗も2度ほどしたけど。。

旅行日 2017.06.11






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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
朝倉家と一向宗の抗争と勝山のいわれ。いつもながら興味深く読ませていただきました。山岸家もすごい屋敷ですね。そして不思議な巡りあわせというか…?驚きました。「みのすけ」さんの温そば定食美味しそうですね。「堅豆腐」はこちらの泉村の「かずら豆腐」みたいなものかなと想像しました。かずらでくくって軒下へ吊るして保存しても崩れないそうです。五木村に八百年続くという「山うに豆腐」というのも有りますがどちらも平家落人の里ですよ。
tor
2017/07/29 20:58
torさん
白峰は通常の積雪が4mに及ぶために、2階が生活スペースになるため建物の高さが高くなり出入りできるようになっています。消火では養蚕の作業場も家に作るので、三階建てになるようです。おかげで凄い建物になっていくようです。
今は絹ごしや木綿が主流ですが、本来の豆腐はこの堅豆腐でした。山間の隔絶したところでは自家製や運搬からこの豆腐が残ったようです。かずら豆腐は大きいことで知られていますが、同じだと思って結構ですよ。たしかかずら豆腐の名は熊本と徳島が有名ですねえ。こちらの堅豆腐は別名は岩豆腐といって、代表するのは白峰と五箇山になります。山うに豆腐は知らなかったんですが豆腐の味噌漬けなんですねえ。。豆腐も奥が深いですねえ。
つとつと
2017/07/30 08:33
盛りだくさんの内容のブログに ご馳走様です

どの地にも歴史ありですが  さすがの石川県ですね

わたしは お家のしつらえと 岩魚の甘露煮に興味ありです

メミコ
2017/07/30 09:51
戦国と言えば加賀や越前は一向宗になるのですが、意外に研究は進んでなくて、、まあはっきり言って地味ですからねえ。。でも、知れば知るほど面白いです。
豪雪地ですから1階部分は雪に埋もれてしまいますから、上に持って行くしかなく見上げるような建物になっていくようです。民俗資料館には内部を見学できますからお勧めです。嫁さんなどは川魚の焼き魚は泥臭くて苦手なんですが、これなら大丈夫とニコニコして食べてましたよ^^
つとつと
2017/07/30 18:55
信長激怒・・・そんなわけだったのですね  仏間の天井のしつらえの立派な事  流石は信仰心の深い土地ガラですね   百姓・坊さん 団結すれば・・・強いのです  
がにちゃん
2017/08/02 17:45
がにちゃんさん
人間、一旦自分のものになった時、それを奪われると、怒り倍増になってしまう典型ですね。百姓と坊さん確かに団結すると怖いものです。
明治大正の仏間の装飾は本当に派手な造りです。これに金沢仏壇や美川仏壇の豪壮なものが納められます。明治大正期の北陸の仏間は一般家庭でも素晴らしい造りになっています。
つとつと
2017/08/02 19:31
200年間、庄屋として
村々の指導的立場にあった山岸家。
立派な石垣や門、主屋の建物に、
その力の大きさが偲ばれますね。
「勝山」という地名一つにも、戦国期の
歴史が秘められてるのが面白いと思いました。
縁起のいい名前という事で、その後に残ったんでしょうか。
yasuhiko
2017/08/04 13:55
yasuhikoさん
外からは何度か見ていたんですが、敷地内に入ってみると本当に大きな建物です。
白峰地区の庄屋宅や有力な家はは雪のない時は1階が店舗、2階が生活スペース、3階が養蚕の作業場、それに何と言っても雪が深いので二階に大窓の出入り口が特徴で、建物が高い造りです。こんな山村でというくらい各家の造りは頑丈で大きな家が多いです。でも時代の流れですね、これだけ大きいと今の生活には不便になる死体編だそうです。
織田や豊臣関連の大名は地名を自分流に帰ることが多いんですが、北陸で変更した地名は意外に少ないように感じます。それでも、敵対勢力が付けた地名をそのまま踏襲するのは少ないですねえ^^松平家は北ノ庄が福居(福井)に変えていますが、地名を変えるのが大好きな信長の軍団では珍しいかも。勝山はこれに勝る名前はなかなか思いつかなかったのかもしれませんねえ。
つとつと
2017/08/04 17:28
僕は義景にややシンパを感じる部分があるので、やはり景鏡の評価は最悪です。
しかし朝倉にもチャンスはあったと思うんですよねえ。
信長をあと一歩まで追いつめながら兵を引き、武田信玄に叱責されたのは有名な話ですよね。
このへん、義景が自ら兵を率いて出陣するタイプだったら、朝倉の滅亡はなかったわけで、やはり義景の責任は逃れませんが。
義景の最後は、小山田信茂に居城岩殿に逃れるよう勧められ、結局裏切られた武田勝頼の最後と重なりますね。
家ニスタ
2017/08/05 12:12
家ニスタさん
朝倉義景も若いころは聡明で頭が切れ、行動派だったと云われています。朝倉家の銃砲と呼ばれた朝倉宗滴が亡くなってから、タガが外れた感じです。
たしかに何度もチャンスはありましたが活かせなかったのはやはり当主の責任でしょうし、活かせたとしても内にこもるタイプで越前・近江までが器じゃなかったでしょうか。。それにしても、歴史を見る限り、もし義景が宗滴の半分でも器量があればと思います。
つとつと
2017/08/05 14:35

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