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zoom RSS 以仁王と北陸宮

<<   作成日時 : 2017/08/06 22:36   >>

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富山県の最東部・朝日町の朝日ICから国道8号線を新潟方向に進むと城山を貫く笹川・城山の二本のトンネルがあり、抜けると左手に翡翠がとれる別名・翡翠海岸と呼ばれる宮崎海岸の海岸線が観られ、それまでの暗く狭い道がいきなり開けたような穏やかな平地に変わります。この平地帯は東端の境川で越中・越後の国境になります。この境川の地は国境の緩衝帯であり、国境の係争地でもありました。江戸期の加賀藩の境関が出来るまでは越中側の国境警備・防御は、この城山の山頂にあった宮崎城が果たしていました。
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散らした画像は、笹川郷の総氏神の笹川諏訪神社です。寿永元年(1182年)源義仲が諏訪大社の大祝(おおはふり)・金刺盛澄に銘じて勧請して建立・創立した神社です。全国にも広がる諏訪神社の中で創立者・創立年が明確なのは笹川諏訪神社が唯一だそうです。この地で源義仲が烏帽子親となって元服式が行われ、正式に北陸宮という名が誕生した地です。



この宮崎城を築いたのは地元の豪族・宮崎長康ですが、城としての防御機能を持たせるようになった最初の事由が、朝日将軍・源義仲がこの城山の裏側に御所を造営して以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、その防御の役割として城山の山頂に築城を命じたのが始まりと云われています。今回はこの北陸宮の出自と父親の以仁王について。。。名前は「以仁王の令旨」として平家打倒の旗印としてよく知られていますが、どんな人と云われると意外に知らない方が多いですからね。。
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治承4年(1180年)5月、以仁王は打倒平氏の令旨を全国の源氏勢力・大寺社に発し、挙兵を計画しましたが発覚。共に立った源頼政が宇治で時間稼ぎの間に、大和興福寺に向かいますが追討軍に追いつかれ討ち死にして挙兵は彼の死によって終わります。ところが、以仁王が発した令旨は全国に廻り3か月後には伊豆で源頼朝が、その翌月には木曽で源義仲が挙兵します。

日本の政治制度上では、本来は天皇が最高位になります。万世一系など天皇は侵すべけからずの立場になります。中国などでは易姓革命という、つまり権威と道徳を失った皇帝は能ある皇帝に獲って替わるか禅譲するという考えです。ところが日本では前述の様に万世一系では天皇至上主義ですからこれは通用しません。となると、陪臣は天皇を引きずりおろすわけにはいかず、天皇をそのままに補佐する形で政務を独占するしかありません。

藤原氏の摂関政治は天皇の補佐として政治を取り仕切るために、網の目のような姻戚関係で天皇の姻戚として摂政・関白となって実務をとる体制にしたわけです。摂政は幼い天皇や女帝の補佐であり、関白は成人天皇の補佐になるわけです。天皇は飾り物となって権威を失ったわけです。しかし、このような血脈に頼る体制は必ず破綻をきたす時が来ます。自分が付けた天皇がいつまでも幼いままや、ちょっと足りない人物、自分の言うことを聞くとは限りません。更に子供が生まれなければ、藤原家の娘に関係しない皇子が天皇位に付くこともあるのです。
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藤原氏としては禁忌な事態ですが、この兆候は摂関政治全盛の道長の時代から見られたのですが、歴代天皇に嫁いだ藤原の皇后から男子が生まれず、そうこうしているうちに皇后を二人も送り込んだ後冷泉天皇が無子のまま崩御。皇位に付けるのが皇太弟ながら藤原氏に冷遇された後三条天皇(父・後朱雀と母・三条帝内親王)となったのです。後三条天皇は先帝の関白からの冷遇・嫌がらせを受けており、母方の祖父・三条天皇も藤原道長に眼病による再三の譲位勧告を受け、最後は病状悪化で退位、長子の皇太子を廃され、命脈を断たれています。
こうして真空状態に出た後三条天皇は半分恨み骨髄で藤原家の力を弱めようと図ります。この人が短い期間ですが荘園整理令と共に院政を開始したのです。その息子の白河上皇は藤原家の皇后の娘から生まれ、関白も側に置きますが、父の目指した脱藤原といえる院政を確立します。

プライドを持った天皇や自身の権威を持ちたい天皇としては親政を望むわけで、考え出されたのが天皇の職務を経験した天皇が次代の天皇を摂関家に替わって補佐するという院政でした。天皇位を離れた天皇は太上天皇、上皇、出家した法皇と呼ばれ、更に治天の君・院の君として君臨したわけです。文字通り最高位の上に最高位を作って皇族権威を引き上げたわけです。院政を行う上皇・法皇は天皇を経験したことで摂関を必要としない独裁者が誕生したのです。現代に言い換えれば社長と社長代行の上に立つ執行権を持つ終身会長が院政だと云えます。
当然と云えば当然ですが、皇子は天皇になって数年で譲位して上皇になって院御所を開くのが至上になっていきます。保元の乱は鳥羽上皇の死による崇徳上皇と後白河天皇の院御所開設争いだったとも言えます。
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中・高校生の歴史では解りやすい表現の大和・飛鳥時代から興味を持ち始めた生徒が、奈良で少し違和感を感じ、訳の解らない貴族政治の平安時代、更にややこしい特異な形態の摂関政治や院政に差し掛かって、嫌いになっちゃう人がいかに多いことか。摂関にしても院政にしても、現代では悪いイメージの比喩にしか使われませんからねえ。。血脈に頼るのには変わりはありませんから。。

とはいえ、藤原氏の根強い体制や源氏・平氏の台頭があるとはいえ、この時代は院御所全盛の時代でした。
最初の独裁者となった白河法皇は天皇位20歳から15年・院政43年、堀河・鳥羽・崇徳の三代の天皇に対して院政を敷いていました。白河その後の鳥羽、後白河、後鳥羽の初期が院政の全盛期とも言えます。
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以仁王は後白河法皇の第三皇子として誕生しています。長兄は二条天皇。次兄は仁和寺門跡。母親も藤原北家の一門で、元服後は八条院ワ子内親王の猶子となっており後ろ盾もしっかりしていました。ちなみに八条院ワ子内親王は鳥羽上皇の皇女で、母親の美福門院・鳥羽上皇双方の荘園を相続しており、一生を独身で通していますが朝廷内最大の荘園主でもありました。後白河の陰のスポンサーであり、二条天皇も猶子となっており自分の准母としていたため発言権もあり、専横を極めた平清盛の最大の障壁でもありました。ちなみに八条院御所跡は京都駅の東半分の敷地にありました。これ以外に京都各所に別宅を何軒も所有しており当時、都一番の分限者でした。
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後年ですが、以仁王が討ち死にした後、その子女を匿ったことでも知られ、長女の三条姫宮に所領の大部分を生前贈与しています。三条姫宮は8年後に亡くなっているため所領は自身に戻っています。
また、平清盛にも負けない対応から反平氏の人材が集まっており、以仁王の令旨を全国に伝えた源行家は八条院の蔵人。以仁王の盾となって宇治で討ち死にした源頼政、源義仲の兄・仲家(以仁王と共に討ち死)も八条院の蔵人でした。

以仁王は八条院の後ろ盾もありましたが、自身の能力にも自信があり、八条院の猶子・後白河の実子双方の兄である二条天皇が亡くなり幼い六条天皇が継いだ際に、自他ともに皇太子有力候補でした。ここで元服を二条帝の太皇太后御所で強行したのですが、この行為は後白河法皇の逆鱗に触れ側近の謹慎・降格、太皇太妃は出家。寵愛を浴びた建春門院(平滋子)によって異母弟の高倉天皇に奪われ、自身も親王宣下もうけられずに終わります。ちなみに太皇太后は藤原多子のことで、六条・二条の二代の天皇の皇后になっておりこう呼ばれていました。
治承3年(1179年)平清盛のクーデターで後白河法皇が幽閉、以仁王自身の荘園も没収されます。さらに臣籍降下処分が検討されます。ここに至って、自ら親王を名のり挙兵を計画し、ことが露見してあえなく討ち死にします。
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補足説明 養子と猶子の違い・・・この当時の養子は家を託する実子と同じ扱いで相続権を有していました。猶子は一代限りの家族扱いで、相続権はありませんでした。以仁王は猶子ですが、八条院は以仁王と三位局(八条院女房の筆頭)の間に出来た三条姫宮・若宮(後の仁和寺別当、大僧正、天皇護持僧となる導尊。)を養子として過ごしています。

以仁王の第一王子・北陸宮は、以仁王が八条院の猶子となった後、八条院女房(藤原傍流の娘?)との間に出来た王子です。この当時の女房は院や御所に努める使用人ですが、貴族の子女が行儀見習いを兼ねて女房として勤めていました。三条姫宮・導尊の母親・三位局(父は伊予守高階盛章とも平教盛(清盛の異母弟))の様に名が残らぬので有力家ではなかったようです。つまり庶生かもしれません。

以仁王の挙兵時には北陸宮の居所ははっきりしていませんが、有力説.では大和にいたと云われています。乳母の夫が同行しているのでその縁か、以仁王と落ち合うためかは不明。。ただ元服前なので後者は考えにくいかも。。


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前述の第二王子・若宮(導尊)は八条院御所に居ましたが、八条院の養子として皇族扱いで、平家首脳部でも対処に苦慮したと云われ、捕縛後は仁和寺に出家となりましたが、後白河法皇の第一皇女・亮子内親王・殷富(いぶ)門院 が自分の御所を蓮華光院という寺院に変えて導尊(当時4歳)を迎えて養子としています。


治承4年(1180年)5月、大和にいたと思われる北陸宮と乳母の夫・讃岐前司重秀は以仁王の討ち死を知ると、北陸宮を出家させ、越前国に逃れようと図ります。途中、近江高島で討っ手に襲われながらも逃亡に成功します。9月に木曽で源義仲が挙兵し信濃を席巻すると義仲に庇護を求めて北上しています。寿永元年(1182年)越後から北陸道に進出した義仲は北陸宮を庇護します。
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以仁王の令旨で挙兵した義仲にとって、以仁王の忘れ形見で第一王子の北陸宮は格好の錦の御旗になりました。庇護を即座に了承すると、越中東端の豪族・宮崎太郎長康に笹川渓谷の宮崎館を改造して御所を造営して北陸宮を迎え入れます。城山(当時は脇子山、八幡山)山頂に鎮座していた脇子八幡宮の祠前で還俗式を行い、笹川の奥に諏訪大社を勧請した諏訪神社を勧請建立して、義仲が烏帽子親となって元服式を行っています。この北陸宮元服と義仲陣営への動向に驚愕したのは平家以上に源頼朝でした。同じ以仁王の令旨で挙兵した身としては、義仲が主導権を握ることを大いに恐れていたのです。以仁王生存説を流したのも頼朝と云われています。
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ちなみに、神前で北陸宮が還俗した脇子八幡宮は、源義仲が京都上洛を目指す出陣前に勝利祈願として宝刀を一振りを奉納したと云われ現存しています。城山にある現在の小振りな祠は昭和52年(1977年)に奥宮として旧社地に建立されたものです。現在の本宮は天正年間(1573年〜1592年)に、泊駅から2kmほど東の横尾に遷座して泊地区の氏神となっています。




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北陸宮御所は城山を南に降りる一の坂から笹川の里の入り口にありましたが、この笹川渓谷は高い山に囲まれ周囲からは隔絶された隠れ里でした。出入り口も城山の厳しい山岳路しかなく、宮崎城はこの渓谷を守るには最適な城でした。城山トンネル途中からの登山道の途中に笹川渓谷の集落が眺望できる地点があり、説明板がありました。北陸宮の御所跡は画像では右の木に隠れて観えませんが現在も山間に囲まれ難儀な山越え道でないと入れない集落です。
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笹川渓谷の眺望
全長5.89km、流域面積16.3kuの大部分が山地となる笹川は、黒菱山(標高1042.4m)に端を発し、四十分の一急勾配で北に流れて笹川渓谷を刻んだ。浸食した跡は河岸に開かれて水田となった幾段もの段丘に残る。
170戸の家々は右岸の段丘に集まり、軒を接して上流へと連なっている。
狭い谷間の村は、鎌倉時代以来、宮崎城とのかかわり合いで集落を形成し、それぞれ氏神を祭り、一村一家ともいえる共同体的な活動を持続することで、厳しい山村の生活に堪え、静かで美しい自然の緑を守り育ててきた。


北陸宮がこの御所に滞在したのはわずか一年足らず、長くても2年程でした。寿永2年(1183年)7月義仲が京都に入京、平家を西国に追い落としたため、北陸宮も加賀国まで出て滞在していたと云われます。、ただこの事蹟ははっきりせず加賀での滞在地の伝承も不明です。この間に義仲は安徳天皇に替わる天皇位に北陸宮を推挙しますが、後白河法皇は拒否、四の宮(後の後鳥羽天皇)を三種の神器なしで天皇位につけます。
皇位継承は不調に終わりましたが、北陸の宮は2か月後に入京し、法住寺 (現在の法住寺及び後白河法皇法住寺陵)に同居していました。年末に起こった法住寺合戦の義仲の法住寺攻めの前日、逐電して行方をくらまします。姿を隠した2年間はようとして行方知れずとなっています。

後に頼朝の後援で京都に戻ったので頼朝に匿われていたともいわれますが、義仲が京都で微妙な立場になったとはいえ、いきなり競合相手のもとに行くには、ちょっと無理があります。笹川及び越中の伝承ですが、都落ちした北陸宮は笹川の北陸宮御所に戻り隠れ住んだとしています。宮崎城城主・宮崎長康を始めとして、舟見城主・嫡男の入善小太郎為直(源平盛衰記では安家)、一族の別府次郎為重(盛衰記では南保次郎)などの越中東部衆は寿永2年の北陸宮帰洛に同行しており、義仲敗死時には地元に戻っていた事実からです。この宮崎一党と宮崎の地に戻ったと推測されます。このことからも後者の方が説得力がありそうです。

北陸宮が再び姿を現すのは、文治元年(1185年)11月、平家滅亡から半年余り、なんと義仲のライバル・源頼朝の庇護・後援で帰洛したものです。法王との面会で臣籍降下を願い出ていますが拒絶され、嵯峨野・野依(のより)に隠棲し、野依宮となって中御門宗家(藤原宗家)から妻を迎えますが実子はなく、土御門天皇の娘を養女に所領の一部、残り大部分を弟の若宮に譲っています。しかし前述のとおり若宮(後に安井宮)こと道尊は正式に仏僧となったために朝廷に返納。享年66歳。ちなみに北陸宮が過ごした野依は現在の太秦御所ノ内町ではないかと云われており、松竹京都撮影所の辺りになります。

墓所は不明ですが、前述の相続関係で導尊(安井宮)の太秦安井の蓮華光院の安井宮墓地に葬られたと云われます。元禄8年(1695年)東山で応仁の乱で荒廃した崇徳天皇を祀っていた光明院観勝寺に移され、門跡寺院として蓮華光院は存続していました。明治になって蓮華光院は廃されて安井神社に改称。戦後に現在の安井金毘羅宮に改称しています。

ちなみにこの安井金毘羅宮の主祭神は崇徳天皇ですが、合祀の祭神には金毘羅神(大物主神)。そして以仁王の盾となって、宇治平等院で自刃した源頼政が祀られています。なんといっても日本の大魔王・崇徳天皇の御廟所があるほどですから、悪霊退散・縁切りに強いご利益があるんで心構えを持って行きましょう。
とはいえ光明院観勝寺は、崇徳天皇がめでた藤があった堂宇で、崇徳天皇が寵愛した阿波典侍が移り住み、崇徳天皇の安否を願った所です。天皇の死後、髪の毛を拝受して納めたのが始まりだそうです。仲良しカップルで行っても問題なしと云われていますけど。。。
北陸の宮が眠ると云われる安井宮墓地は明治の神仏分離で南禅寺裏山に移されています。
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城山にある宮崎城の三の丸の端に、北陸宮墳墓と宮崎城初代城主・宮崎太郎長康の供養塔があります。
昭和45年(1970年)に朝日町が平家に追われ宮崎の地まで逃れてきた以仁王の遺児北陸宮を偲んで建てたものです。旧嵯峨御所(大覚寺)の好意で分骨を受けたとされていますが、大覚寺の仲介かはともかく、前述の南禅寺裏山の安井宮墓地の土を甕に納め袱紗で包んで、「北陸宮 以仁王第一王子 寛喜第二年七月八日薨 御年六十六」と記した陶板と共に奉納されているそうです。
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北陸宮墳墓と宮崎長康の供養塔の案内板の後ろに観える土塁は、宮崎城内での宮崎氏時代を伝える唯一の遺構だと云われています。一部には戦国末期の石垣の仕様も見られますが、基礎は鎌倉期のものだそうです。次回は宮崎城址をご紹介します。

旅行日 2017.07.15

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
現在でも皇室問題はいろいろありますもんね 政権を持つ 持たないで人生が変わりますもんね  平安時代は映画などで観ていても晴れやかさがあって でも実際は複雑怪奇などろどろした内情だったのでしょうね  封印されている怨霊など 
京都ホテルの近くに安井の金毘羅さん以上におどろおどろした雰囲気の縁切り寺があります 
がにちゃん
2017/08/07 00:14
以仁王について こんなに詳しい内容をかいてくださり 面白いです

わたしには 名前くらいしか知らない人物に歴史あり(当たり前ですが)ですね

狛犬さんも立派です
メミコ
2017/08/07 09:26
がにちゃんさん
僕、京都で回った中には怨霊鎮魂の寺院や墳墓がけっこうあるんです^^;どうも歴史好きで廻ろうとすると、そういう所が増えちゃうみたいです。崇徳・後鳥羽・順徳なんか良い例です。京都の中で園きりで有名というより、僕の知ってるのは菊野大明神、鉄輪の井戸といったあたりですかねえ。京都は歴史が深いので由緒のある所が多くて、いつもがにちゃんさんのブログで勉強させてもらってます^^

メミコさん
以仁王や北陸の宮は源義仲との係わりが深くて、ついつい北陸に関した部分が多く、人より多少知ってるかなという感じです。巷では最低視聴率で批判だらけだった大河の「平清盛」などはこの分の人物総登場で僕個人は興味津々でしたーー
この正当な狛犬と獅子像が左右で揃う神社は富山では久しぶりでした。それにしてもここまでの道のりはきつい道でした^^;
つとつと
2017/08/07 12:11
以仁王、北陸の宮、源義仲、源頼朝との関係は興味深々で読み進みました。歴史って面白いなと思いますね。笹川渓谷の深い谷と緑も良いですね。
tor
2017/08/07 21:47
torさん
源平戦では北陸は義仲を外すわけにはいかないほど史跡が広がって井枡。
以前の倶梨伽羅の前に礫城・般若野の戦いなど篠原までの義仲の侵攻戦には、宮崎党の活躍があります。北陸宮を擁した宮崎党の本拠がここで、義仲の侵攻にはこの宮崎党は外せない一族です。でも宮を押し立てた後の義仲への態度や承久の変では一貫して宮方ですから、朝廷に信が強かったようです。
笹川は本当に山間の隠里で、里に入るだけで苦労しました。
つとつと
2017/08/08 11:24
以仁王に源三位頼政。何とも
懐かしい名前が出てきて驚きました。
『平家物語』の宇治川を舞台にした
生き生きとした戦闘場面を思い出します。
以仁王の息子の北陸宮は、数奇な
運命を辿った人なんですね。こちらは初めて
知る事ばかりで、興味を惹かれました。
その御所跡や墳墓が残ってる事も驚きです。
yasuhiko
2017/08/11 20:48
yasuhikoさん
平安末期の人物に係わる城跡というのは、あまり残っていませんから、珍しいと思います。新潟方向からは親不知・子不知を越えて来た平坦な海岸線を遮る山上なので、素晴らしい眺望です。
宇治平等院に行った際に源頼政の討ち死にした場所を見ましたが、堂宇の片隅で宇治川を挟んだ地、僕も平家物語や源平盛衰記を頭に浮かべました。
北陸宮は数奇な運命をたどりましたが、20代前半までの激動の北陸宮としての人生と、野依宮として嵯峨野での静かな隠遁生活、どちらが当人にとっては充実したのかは聞いてみたいですね。
つとつと
2017/08/12 07:21
宮崎城、一度訪れてみたいと思っていましたが、なかなか機会がありません。
以前地図で見たかぎりでは、たしか駅からそれほど遠くなかったと思いましたが・・・。
北陸本線も前はJRだったので18きっぷで行けたんですが、3セクになってしまい、僕にとってはハードルがあがりました。
今後行くときには車かなあ、と思っています。
家ニスタ
2017/08/12 14:34
家ニスタさん
さすが家ニスタさん、宮崎城をご存知でしたか^^城跡としては手が加えられていて、どこまでが本来の城跡なのか解り難い城ですが、眺望の良さは絶品です。
なかなか急激な曲がりくねった昇り降りの車道と大型の駐車場がありますから、車の方が良いと思います。上の山・城山どちらの駐車場からでも見ごたえがあります。境関も近いですから、そちらもお勧めです。
つとつと
2017/08/12 18:23

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