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zoom RSS 宮崎城址

<<   作成日時 : 2017/08/17 09:49   >>

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平安末期から鎌倉初期にかけて、越中最東部・黒部川東部一帯を支配していたのが宮崎党でした。北陸宮の御所警護の名目で築かれたのが、城山(当時は八幡山、脇子山)山頂の宮崎城になります。

宮崎氏は藤原鎌足の末裔を称していますが、藤原氏荘園の代官的存在、そこから台頭した土着の豪族、在地領主だったと思われます。ちなみに、この黒部川東部には宮崎・入善・南保・佐味・大家庄・五箇荘などの荘園地があり、そこから発生した各在地領主が武士団となって、勢力争いを繰り返しながら、その中から宮崎党が台頭支配していったようです。
この地には、宮崎浦、泊、入善など良港があり、交易が行われていたと云われます。また信濃路からの貢納品や物資を送る、都への出向港にもなっており、その交易料は大きな収入源となっており、経済力と共に大きな武力も備えていったようです。

宮崎長康の出自は、前述の荘園のうち「大家庄」と云われています。大家庄は朝日ICの南、小川(名前は小川ですがけっこう大きい川です)の対岸にありました。田園の中の墓地に井口城址という石碑がありますが、そこが井口館跡とも云われています。井口氏は南北朝で桃井直常と共に名が出る家柄ですが、そこから東部に分家した各支族が派生したようです。後年の義仲上洛戦では、宮崎党は主力部隊として、その前哨戦となる礫城(火打城)の戦いでも、人造湖を造るほどの大掛かりな合戦でしたが、越前に出陣していますから早くから源義仲と誼みを通じていたようです。

これはあくまで一部の異説なのですが、越中国で早くから義仲に味方した土豪一族の有力者には、宮崎氏と福光(越中西)の石黒氏が挙げられます。
ここで伝わる異説は義仲の女性関係です。義仲の正室と云われるのは藤原伊子と、上洛までの山吹御前と云われ、巴御前・葵御前が側室と云われています。ところが平家物語などではこの女性陣に、これまで出展したこともない言葉「便女(べんじょ)」が当てられています。文字通り見れば都合のいい女性になり、下賤で身分の低い女性や遊女になりますが、平家物語の中でも義仲の登場までこの言葉は見当たりません。それに、彼女たちの身分を観ると便女では通用しないのです。同じ平家物語に登場する遊女的存在の白拍子でもモノホンの遊女や夜鷹でも、この言葉は当てていません。義仲の巻だけで、今もって解らない言葉です。
藤原伊子は義仲が上洛後、味方となった内大臣・藤原基房の娘でこの関係から義仲に嫁いだものです。ちなみに義仲死後に村上源氏長者・源通親(土御門・久我)の側室となり、曹洞宗・永平寺開祖の道元の母として知られています。山吹御前の父は前のブログで笹川諏訪神社を勧請した諏訪大社大祝・金刺盛澄と云われています。この二人と巴・葵御前は「巴塚・葵塚」で触れています。葵御前は倶利伽羅峠で戦死し、詳細は信濃の人としか解っていません。

問題は巴御前で通説(源平盛衰記)、義仲を匿っていた中原兼遠の娘とされています。兼遠の父・兼経は元・正六位下・右馬少允。河内源氏の嫡流を称するとはいえ家無し子の義仲は、格は中原家の方が上になります。しかも匿い育ててくれた家で、とても便女ではありません。その家の実娘に手を出して、ただで済むわけはなく、そんなトラブルも聞こえてきません。みなさんもご存じだと思いますが、ライバル頼朝が北条政子と出来ちゃったときの大騒ぎは有名なお話。その時の政子の父・北条時政は無位無官、それでも大騒ぎになっています。ところが義仲には騒動が起こっておらず、中原家がすんなり受け入れるとなると、巴が実子でなく、他家から義仲に嫁がせるための養女だったという話になります。吾妻鏡には石黒氏は巴の従兄に当たると記されています。となれば、石黒氏や同族の宮崎氏・福光氏から中原家への養女だったともいえます。そうならば、この越中三族が挙兵時から義仲に味方をした理由の要因ともいえます。まあ推論の域ですが。。。

各地で源氏勢力が蜂起した大きな理由ですが、在地勢力(武士団)の朝廷、特に藤原氏などの荘園独占に反発したことにあります。

元々、飛鳥時代から聖徳太子・曽我・天智・天武・持統天皇と政権は変わりましたが、内向き外向きの政策の違いはありましたが、朝廷は律令国家を目指したわけです。律令国家は簡単に言えば公地公民というように、国家は律令という法律の下に人民と領土を管理するという考えです。名目上、領地は全て公領で、そこから上がる税や労働力は中央政府に集まり、政府はこれを適宜に再配分していくというものです。
ところが、新田・新畑開発が進めば開墾した在地勢力としては、いくら自分が開発したとしても全てお国のものになるわけで不満が噴出します。本来ならば摂関家として政府の中心にある藤原氏はこれを取り締まったり、国として管理を強化する立場だったのです。ところが「三世一身の法」「墾田永代私有令」など開発地の私有を認め、自ら新田・新畑の開発に乗り出し自身の私有地を増やしていったわけです。更に平安中期までには特権階級(皇族・高級公家・寺社など)に私有管理権を認める荘園制度をつくります。更に悪質なのは、私有地に対して免税権を持たせる「不輸の権」、国家役人の接触・立ち入りを禁ずる「不入の権」の法律を作って完全私物化します。

荘園の発生により、増えない公領に派遣された国守以下の国家役人は逼迫する国家財政の為、少ない公領に重税を課して搾取することになります。当然、重税に苦しむ農民は跳散して荘園に逃げ込むか野盗に落ちることになります。以前書いていますが平安時代は国家軍隊は存在しません、朝廷の自警団的なものしかないのです。要は地方では自分で自分を守るしかないわけで、ここから自衛のための武士が発生、集団として武士団が誕生したわけです。

この武士団の頭領となったのが、臣籍降下した親王や王が朝臣として地方に散って土着した豪族で、源氏・平氏が代表的なものです。清和源氏とか桓武平氏という名は清和天皇や桓武天皇の皇子が臣籍降下したことを指し、河内源氏・多田源氏・伊勢平氏などは土着した先を示します。代を繋ぐごとに朝臣としての身分も血筋も薄れ土豪・豪族となっていったわけです。

当然ながら土豪・豪族は特権階級でないですから、土地を所有できても荘園ではありませんから、自分の土地の上りは納税することになります。ところが適正な額や品数なら良いですが、前述の様に国守・国衙からの重税になってくると軋轢が出ることになります。武力を持っていますから非常に質が悪い。平将門の乱は元を質せば、国衙と地元武士団の頭領・将門のトラブルからですから、、同時期の藤原純友は列記とした高級貴族出身(藤原北家)の地方官(伊予掾)から土着して海賊になったものですが、これまた地方の土地や交易に端を発しています。

この重税を逃れるために、在地勢力は有力者にそれなりの上りと労力を払うことで、自分の土地名義を寄進して、荘園として税金を免れる者が続出します。本来あるべきものが無くなるのですから、国庫が無くなるのが解ると思います。平安中後期に至って朝廷は権威だけでほとんど機能せず、この時期に建てられた寺院などはほとんどが個人・寺社といった荘園主が費用を出しています。

朝廷が機能したのは実質都だけで、地方政治は在地勢力が警備を含む管理を行っていました。つまり町内会や非合法組織が国の政治の肩代わりを行っていたことになります。この歪んだ形では不満は溜まっていきます。
非合法はあくまで非合法で本来は何の資格も権限も認められていないのです。しかも一部の権力者に媚びるこの形態は異常で、自治権の確立と公的保証を求めるものが現れます。それが在地勢力(武士団)で、代表として担いだのが平氏や源氏で、平清盛や源為義・義朝は彼らにとって希望の星だったのです。

ところが保元・平治の乱を勝ち抜いて頂点に立った平清盛が行ったことは藤原氏に獲って替わっただけで、荘園も平氏に替わったまま、在地勢力にすれば武力を持つ荘園領主になった分、悪化したともいえます。当然ながら期待が大きい分、憎さ百倍、平氏は裏切り者とみるのは否めません。
以仁王の令旨によって立った源頼朝・義仲などが、自分の家人もいないのに挙兵したのは、周りの在地勢力に突き上げられたためともいえます。しかし燎原の火の様に兵力が加速的に増加したのは、それだけ在地勢力が不満を爆発させたともいえます。

北陸の地は元々から朝廷に対しては親和的な土地柄です。院御所の親衛隊と云われる北面・西面の武士と呼ばれた武士団には北陸の武士が多く所属していました。そんな土地柄に以仁王の令旨・北陸宮の到来は、日頃は他者とは間を置きたがるけれど、一旦団結すると固い勢力になる北陸の気勢を揚げさせたと云えます。
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北陸宮を迎えて、宮崎長康が築いた境目の城・宮崎城は標高249mの城山の尾根にありますが、宮崎岬の突端にせり出した山並みの上に当たります。後方の山はいきなり1000m近くの高山となり、見事に国境を遮断する好位置。後方の渓谷の北陸宮御所の守りにも最適地でした。この絶好な位置の為に、後年には承久の乱・南北朝・戦国と何度も合戦地となっています。また日本海の中間地で海に突き出した高山であることから第二次世界大戦時には無線傍受塔が建てられ、空襲の警戒傍受地となっていました。このために時代ごとの改修が加えられたために、初期の城跡を伝えるのは三の丸土塁だけになります。しかし、その土塁もなかなかの長さと高さがあり注目できます。

史上の宮崎城の経歴を簡単に振り返ると・・・
※寿永元年(1182年)宮崎長康が築城。北陸宮御所の警護及び越中・越後の交通監視の砦だったと思われます。越中国最古の山城の一つ。
※承久3年(1221年)城主・宮崎定範が後鳥羽方として籠城防衛戦。北信濃の仁科氏と連合しましたが北条義時に敗北。
※建武2年(1335年)頃、北朝方の長尾景忠が南朝方の籠る宮崎要害を破る。その勢いのまま、能登の石動山を攻略。
※正平5年(1350年)頃、観応の擾乱(足利尊氏・直義の内紛)時、越中守護・桃井直常が富山城に本拠を移し宮崎城を出城とする。
※戦国期は椎名氏の持ち城となっていました。椎名氏は松倉城を主城にしており、鎌倉末期は越中守護・北条(名越)朝時、能登越中守護・畠山氏、越後・長尾氏と主君を渡り歩いています。椎名氏は裏切りの連続で、北条の被管から畠山氏の新川の守護代でしたが神保氏と共に独立を画策、畠山氏に味方した長尾氏に攻められ降伏、許されて新川における長尾家の又守護代になっていました。最後は永禄11年(1568年)武田信玄の調略を受けて越中一向宗と結んで上杉氏を離反。元亀4年(1573年)上杉謙信の侵攻で宮崎城・松倉城と攻略されて行方不明。
※前述の後、上杉謙信の西方進出の中継・境目監視の城となります。
※天正11年(1583年)佐々成政の越中一国守護で富山城の支城になる。翌年、佐々討伐で上杉景勝に攻められ落城。佐々成政の新川郡安堵でも目付城として上杉景勝の家臣が入っています。
※上杉景勝の転封により加賀前田家の持ち城となり、高畠定吉・小塚秀正が城主として入っています。佐々成政の転封、関ケ原戦後、加賀前田藩が越中支配となると境関所を造成、宮崎城は廃城となります。
※太平洋戦争中、陸軍によって空襲傍受アンテナ塔・研究所が建てられたため、外丸・本丸・外郭に削平や改修の手が大きく加えられています。

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外曲輪のあった上の山駐車場からが大手道に当たるようで、階段状に外曲輪・三の丸・二の丸、本廓・谷を挟んだ外郭が尾根上に配されています。今回は南側の城山公園駐車場から、つまり宮崎城の裏から回り込む形になります。今回は、ここに到着までにちょっとやらかしていて時間が無くなっていたんですが。。。
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宮崎城は長い期間の間に何度も改修の手が加えられています。境目の城だけに越中と越後の間で何度も獲ったり獲られたりが繰り返されており、その都度改修が加えられたようです。中でも戦国末期の上杉時代が長かったせいか、階段曲輪の向き、山頂付近の切岸はやはり越中方向に大規模な手が加えられています。さらに太平洋戦争時の無線傍受塔の設置工事は大きく姿を変えさせています。現在も別地点ですが城山には無線電波塔が設置されており、電波中継の好位置になることを物語っています。
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まずは城山公園の入り口、大きな広場になっていますが、ここは元々は谷間を挟んだ尾根の小高い位置を旧陸軍が大規模に削平したものです。戦国期には櫓台が置かれ、外曲輪・見張り台の役を果たしていたようです。外周に大規模な切岸が施されているのが解ります。また西側には畝状空堀が施されています。櫓台の形跡はありませんが、この削平地からは越後方向の境の街道、越中方向の街並みと海岸線が一望に出来る好眺望。見張り台としては最高の立地です。この広い削平地は、戦後には憩いの広場として遊具が置かれ、眺望の良さで文人も訪れたようで、多くの歌碑や詩碑が設置されています。
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画像 削平地から、、、上は、越中方向、中央を流れるのが笹川、大きな建物は朝日中央病院。中は親不知方向、奥の霞んでいる海岸線の山は親不知。
右は詩人で朝日出身の作詞家・舟川栄次郎の詩碑。 秋深き親不知 君ときて 佐渡をば 呼べり 君遠し 海は鳴れども とどろきて 心打つのみ 山の鳥〇 小鳥〇 鳴かず 人物は知りませんが、ナイーブな良作。。

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削平地から本丸に向かうと綺麗に整地された通路のような土橋を渡ります。元々は谷間を掘り下げて堀切を施した空堀の様になっていたそうですが、太平洋戦争時の無線傍受研究所施設の設置の際に、勤労動員で谷を埋めて水平な通路(土橋)を造ったんだそうです。脇を覗くと結構深かったのが解ります。
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ちなみに僕が歩いてきた笹川口から城山駐車場経由で本丸に向かう道は、この太平洋戦争時に造成された道だそうです。近年の発掘調査で駐車場から削平地にかけても、この道沿いには戦国の切岸や竪堀があることが確認されているそうで思ったよりも大規模な城の規模になるようです。
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左 航空画像:国土地理院 昭和21年(1946年)7月22日 米軍撮影  国土地理院のサイトでは高感度やアップが出来ます。ダウンロードも可能で便利^^V

土橋を通り抜けた先が宮崎城の主郭部になります。中央にある石垣で囲んだ小山が本丸で18X15m・高さ7.5メートルの小山上にあります。。それを囲むように右手に外郭が36X54m。戦時中には外郭幅いっぱい(7.5X30くらいか)の研究棟が外郭北面と土橋正面に立っていました。外郭南に井戸跡が二つ、現在脇子八幡宮のある所に矢倉台があったそうです。外郭は戦国期に大幅な拡張が施されたようです。更に戦時中の整地によって、平場が整理されて広くなったようです。本丸下部及び上部の石垣積みは近世に施されたようですが、上部には古い石垣積みの跡が点在しています。


石積みに関しては、加賀藩の高畠定吉は荒子七人衆の一人。以前紹介した舟戸山城(加賀剣城)の改修を行った実績があり、石垣・石塁の多用の実績がありますから、本丸・二の丸に残る古い石垣の跡、三の丸の石塁はこの人が城将の頃だと思われ、慶長初期の改修だと思われます。
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上中は土橋入り口から見た風景で右に外郭があります。中は奥の小山上が本丸。太平洋戦時に削平が加えられたようで、広い広場になっており戦時中は土橋から本丸を塞ぐように研究棟が建てられていました。
右 前回にアップした脇子八幡宮奥宮のある場所が矢倉台跡地、アップすると解りますが、石でサークルにしてあるのが井戸跡、ここから南に10mほどにも井戸があったようです。
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本丸は城山の最高点に位置します。ここからの景色の眺望は素晴らしく、越中・越後双方の街道筋は一目瞭然です。北陸宮時代には山頂に祭事用の建物を建てたようですが、その頃と敷地面積には大差はないようです。城の規模に対して本丸の広さはそれほど大きくはなく、監視要素の方が強かったように思われます。
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上部の石垣は綺麗で見ごたえがありますが、逆にきれいすぎて、たぶん近世の戦時中か復元整備のように思われます。
のり面の石と上部の石の種類が違うのと、本丸上部及び仮想石垣の石と太平洋戦時の遺構と思われる構築物の石がよく似ています。
右 本丸頂上から北国街道(親不知は右) 手前に観える茶色の道は国道8号の城山トンネルから登ってきた車道。僕はこの道を車で登りましたが、木に隠されたブラインド、急勾配とカーブの連続です。気をつけて走ってください。意外に笹川の抜け道みたいで対向車も来ます。要注意。
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二の丸は本丸から三の丸に向かう途中にありますが、規模は小さく、通路の脇といった印象、通路の曲がり角で、足止めの曲輪規模といった感じ。しかし、左手は切岸が施されています。
小さな曲輪に比して強固な石垣ですが、防御というより二の丸自体を支える土台といった感じで、これまた太平洋戦時以降の石垣のようです。でも、なかなかの趣きと強固さを感じます。
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三の丸は二の丸の数倍の広さがあり、実質の二の丸だと思われます。ここの見どころは前回紹介した北陸宮墳墓と宮崎太郎長康の供養塔。そして宮崎城内では一番古い遺構と云われる土塁&石塁。土塁部分が北陸宮時代からのものと言われ、加賀藩時代に石垣で補強したと思われます。
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少し不思議なのは石の補強は三の丸内側だけで外側には一切施していません。確かに外側には削いだように急斜面の谷落としになっていますが。。。まあ、それでも、宮崎城址の中では確実に古を伝える遺構になります。

土塁・石塁の更に奥にある前回紹介した北陸宮墳墓・宮崎太郎長康供養塔ですが、昭和45年(1970年)に三の丸奥の山林を切り開いて土地を造成して建立されたものです。
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前回は北陸宮のその後の人生を書きましたが。。宮崎長康に関しては詳細が解っていません。
源義仲の上洛戦では軍師的存在兼先鋒とされ、倶梨伽羅合戦の作戦立案、火牛の計も長康の立案とされています。しかし北陸における源平最終決戦の篠原の戦い で負傷して宮崎の地に戻っています。その後は北陸宮と行動を共にして加賀に留まり、義仲の上洛・平家の都落ちと、落ち着いた時点で北陸宮と共に上洛しています。
しかし義仲の後白河法皇幽閉を狙った法住寺攻め前に越中帰路についています。この時北陸宮も法住寺を退去しており、宮を匿いながら宮崎の地に戻ったのではないかと思われます。義仲の法住寺攻め前の帰郷は、義仲を見捨てたとも、都での兵糧不足の士気低下に苦しんだためともいわれますが、勤皇派の多い北陸勢としては朝廷権威の最高峰の後白河法皇幽閉の暴挙に対する純粋な義憤と諦めからと思われます。

帰郷後、更に義仲敗死後には、源頼朝は義仲残党の討伐令を出していますが、越中国内ではそれほどの処分は行われておらず、上洛戦での主力となった宮崎・石黒・福光氏は討伐を受けていませんし、その後も地元豪族として残っています。このことから北陸宮の居所が越中であることが頼朝に報告され、恭順を受け入れたのだろうと推測されます。

しかし、宮崎長康は帰郷後に嫡男・入善小太郎為直に家督を譲った後の詳細・生死はまったく不明になっています。伝承では家督を譲った後、一族の一部を引き連れ義仲の本拠である木曽に移住して義仲を弔ったとするもの。子孫は宮崎太郎を祖と自称して下伊那郡阿智村に移り、戦国期には武田家に仕え、武田家滅亡後は徳川家康直参となっています。江戸初期にはこの宮崎宗家・宮崎泰景の娘・お仙が徳川家康の側室(泰栄院)となっています。この宮崎氏は泰景のあと二家に分かれていますが、宗円寺と浄久寺に宮崎家の墓所があります。泰栄院は浄久寺に改葬されたという記録があるものの、墓塔はその後の火災や天災で行方不明。
宮崎城址の宮崎長康の供養塔は宗円寺の墓標を模して建立されたそうです。

宮崎城主としての宮崎氏は、長康の後は小太郎為直、宮崎定範と三代続きますが、承久の乱で上皇方につき、北条義時に攻め滅ぼされています。しかし、定範の嫡子・忠範が黒部・荒町に逃れたとされ、一族を継承したと云われています。荒町には宮崎一族の墓所があり、その中には宮崎長康夫妻の墓標があり、更には北陸宮の記銘と伝わる中央墓石もあります。
また、新潟・長野・富山には宮崎太郎を祖にすると自称する宮崎姓の一族が他にも幾つかあります。

追伸 三の丸までで時間が無くなって引き返したのですが、帰り際に上の山駐車場によって、三の丸と外曲輪を隔てる七曲(中曲輪)の空堀を掘り込んだ大堀切も観て来たんですが画像が消えていました。。残念、次回は三の丸から先に進んだ先をリベンジに。。。ついでにその先の休養地も行きたいなあ。。。

旅行日 2017.07.15




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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
義仲さんの女性たちはかなり身分の高い家の方が多いのですね  巴御前は昔の映画なんかもあって 歴史的にに本当かどうかわからないけれども うんうん 知っているって感じですね  
城山 つとつとさんのブログ片手に歩いてみたいですね  
がにちゃん
2017/08/18 15:09
木曾義仲は壇ノ浦前後が主の九州ではあまりなじみがないのですが。私だけかもしれませんが…。宮崎長康、北陸宮との関係とか興味深く拝見しました。また山城の跡を色々と想像しながら歩くのも良いですね。土着の豪族、在地領主が力をつけて、どういう思惑で築いたのか考えたりしながら…。それと平家物語関係で私も面白いものを発見しましたよ。
tor
2017/08/18 21:36
がにちゃんさん
義仲の奥さんは上洛してからの貴族の娘は別にして、その他三人もそれなりの土豪・豪族の娘だと思われます。巴御前は有名ですが、山吹・葵も面をとって戦う戦女だったということ。一人ならともかく全員ですからねえ。強い女が好きだったみたいですね。葵御前は倶梨伽羅の入り口の小矢部口で戦死して墓標がありますし、最後の出陣に病気で一緒に出られなかった山吹御前は大津まで追いかけて戦死したとも出家したとも云われていて、大津駅前に供養の祠があります。 巴御前はもう伝説の女性の一人で、墓所もあっちこっちにあります。ある意味では義仲を上回っているかも^^
つとつと
2017/08/18 21:44
torさん
義仲は平家を都から追い落とした功績は大きいですし、一説では征夷大将軍にも補任されていたと云われています。ただ、都に入ってみると飢饉で食糧難、兵の統制が取れなくなったのが痛かったですねえ。西国進出も備中水島(岡山)までで平家の反抗にあっていますし、後方から義経・範頼の大軍の進出で慌てて戻って平家に追撃を受けています。もし、都の近辺が飢饉でなければ。。どうなっていたんでしょうね。上洛直後までは確実に義仲が天下人に近かったんですから。
宮崎城は平安末期から戦国まで、昭和の戦時中を含め、多くの改修が加えられています。山城は思ったより通路は整備されてますから見やすいお城でした。
平家物語、壇ノ浦後には多くの伝説・逸話が九州に残っていそうですねえ^^
つとつと
2017/08/18 22:06
平安末から鎌倉職にかけて台頭した
宮崎党の話、興味深く読ませて戴きました。
以前、司馬遼太郎の本で、源氏を支えた
東国武士の存在を、専門的な武装集団と見なさず、
「武力を持った開拓農民の頭領」という風に
表現した文章があって、ほ〜と感心した事があります。
つとつとさんの今回のお話を聞いて、
そのイメージが更に具体化したように思いました。
yasuhiko
2017/08/19 11:21
yasuhikoさん
日本の歴史は土地の争いといってもおかしくなくて、特に奈良から平安にかけては、端から見ると訳の解らない過渡期と言えます。yasuhikoさんの言われるように開拓農民の頭領は、自分の権利を主張しだした開拓農民の代表者ですねえ。鎌倉の守護・地頭はその集大成の始まりと言えますね。
つとつと
2017/08/20 06:10
宮崎党の歴史、興味ぶかく拝見しました。
人造湖をつくるほどの合戦って、たいへん大規模なものですね。
秀吉の水攻めの原型が、すでにこの時代にあったということですね。
大堀切の画像、ぜひ見てみたかったです。
ますます宮崎城に行ってみたくなりました。
家ニスタ
2017/08/25 20:21
越前・礫城の合戦は籠城側が人造湖を造って守ったので、秀吉の水攻めとは攻守は別ですが原型には確かになったと思います。ただ、裏切りもあって攻城軍の平維盛が勝利して加賀まで攻め上った緒戦という結果。。賤ケ岳でも、勝家が入っていますから一度、訪れたいと思っている場所です。
余りに様子が変わっていますが、城内よりも外側の畝状や切岸が見ごたえあります。できれば緑が深いので冬枯れの頃が良いようです。道がある程度整備されているので、城内はゆっくり散策できます。
つとつと
2017/08/26 19:21

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