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zoom RSS A高山右近 前田利長時代

<<   作成日時 : 2017/09/10 21:55   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 42 / トラックバック 0 / コメント 11

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。
しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。
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H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像
恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。
利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。


いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ役の奥村永福の出家隠退が悔やまれます。後年、永福の三男・奥村栄頼の謀略・出奔を問題化せず、三代・利常就任時に永福を筆頭家老として復帰させ、篠原・横山両家の仲介役というか押さえにしたのは利長の最期の功績と云えます。

利長はこの家臣団の不和に大きく悩んでおり、慶長14年(1611年)重病で倒れた際に遺言状を書いていますが、その中で横山長知と神尾之直(かみおゆきなお)・山崎長徳、高山長房(この名は右近を指すのか、息子を指すかは不明)と篠原長次の不仲は深刻だと名指ししています。病状回復後に横山・山崎家の婚姻などで修復を図っていますが、前田家臣団の混乱は関ケ原後も続き、関ケ原から大阪夏の陣までの間も多くの家臣の出奔・離脱が相次ぎ、大きく揺らいでいます。これでよく江戸期を看過なく過ごしたと思えるほど。。

ちなみに、神尾之直は尾張堀田家の四男で神尾甚右衛門に養子となり、養父が利家付で府中時代には利長付となっていました。実務・才能豊かで実は前田利長からは横山長知と共に両輪として期待されていた人物でした。ところが遺言通り、長知の重臣抜擢に反発して犬猿の仲に、、結局、最後まで修復はかなわず、利長時代は芽を出せませんでした。利長死後は奥村栄明の配下として大阪夏の陣で活躍、1万1千石に累進しています。
元和2年(1619年)病気で長子に家督を譲り京都に隠居隠棲。本家の老中・堀田正盛が寛永15年(1638年)大政参与(大老格)として10万石信濃松本藩に昇格した際に、大政参与として国元に居られない正盛の城代として再三要請を受け、3年後、次男を連れて移っています。之直は2年後に死去。その後、堀田正盛は下総佐倉藩に移封。加賀藩の長男、下総佐倉藩の次男の双方の家系は明治まで続いています。

横山長知の父の横山長隆(加賀八家・横山家祖)は美濃出身で稲葉貞道に仕えていましたが、同僚との諍いで越前に出奔、その後、金森長近に仕え致仕、浪人となっていましたが、府中で前田利家に仕官して旗奉行200石。同時に長子・長知は利長配下として仕えています。その後、賤ケ岳の合戦で長隆が戦死。長知は家督を継いで利長近習として地位を固めていきます。とはいえ身上は200石。周りが陪臣扱いした軋轢の原因です。

徳川家康の謀略で前田家謀反の工作がされ、その弁明に向かったのが横山長知と高山右近でした。
しかし、家康は右近との接見は拒否。右近の智謀と力を警戒したためと言われます。その後、大阪での家康との交渉は長知に一任されます。金沢に戻った右近は前田利長に報告すると、利長の指示で篠原一孝と共に金沢城の新丸拡張・石垣整備、大手堀の作事および城を囲む惣構掘の整備に着手し、防備を固める準備にかかります。つまり、長知の弁明交渉、金沢決戦の両面に備えたわけです。
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H29.4.28撮影 玉川公園東通り 西外惣構堀跡 左が加賀八家・長家の屋敷跡の玉川公園 右が前田土佐守家の屋敷跡地
右近の手掛けた惣構掘内惣構と呼ばれるもので、尾山神社の南面を起点に主計町西の浅野川の西惣構・主計町東から現在の小将町中学までの東惣構の二筋で、けっこう長距離に渡りますが1カ月余りの短期間で仕上げています。慶長15年(1510年)に篠原一孝によって、高山右近の築いた内惣構を囲むように外惣構が築かれています.つまり、金沢城は城郭を囲む百阮x・宮守(いもり)堀・白鳥堀、同時期に作られた大手堀、名前は忘れましたが尾山神社と玉泉院丸の間の通りもお堀で囲まれていました。つまり、金沢城は内外惣構と堀で3重の堀を持ったわけです。
惣構は長大なものですが、完成当時はいずれもかき上げの空堀だったとも思われます。浅野川の水を利用したとも見られるので一概には言えませんが。。

篠原一孝の緻密な工事も早いのですが、高山右近の土木工事も早さには定評があります。後年の高岡城の築城も200日で完成したと云われ、尋常ではない工事期間の突貫工事です。時代は下りますが辰巳用水の完成など、他の加賀藩の土木・建築工事は工期の期間が異常に早いのです。かといって、手抜き工事どころか完成度も高く、もちろん完成後の補修を続けたと思いますが工期短縮の技術・研究は、今後の検証に期待します。
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H19.9.14撮影 せせらぎ通り 西外惣構跡
惣構掘(そうがまえぼり)とは、名前の様に溝のように掘り下げた堀を造り、掘った土を内側(城側)に積み上げた土居に木々や竹を植えたものを惣構。二つ合わせて惣構掘となります。泰平の後には崩されたところが多いですが今も地形が残る部分も多く観られます。土居の高さは堀下から10mほど、掘り幅は5〜10m。壁面に石垣を施したのは慶長15年以降、現在は用水路になっている部分が多いのですが、水が通されるようになったのは、辰巳用水開通後の寛永年間以降(1632年〜)と思われます。
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H29.4.28撮影 加賀八家屋敷跡案内図 画像アップすると八家の配置が解ります。
寛永の大火後、金沢城内に住んでいた家臣団は市街地に居を移していますが、この内外惣構・犀川・浅野川の間・外の拝領居住地が、身分・職域によって分けられていました。つまり、城に近いほど身分・格式が高くなります。しかし、一部例外もありますが。。ちなみに加賀八家で城郭に一番近いのは前田長種の前田対馬守家で大手門前にありました。以前、書いたことがありますが、前田長種は尾張に本拠を持っていましたが、小牧長久手の前哨戦で徳川・織田信雄軍に敗れ、能登の前田利家を頼って家臣になった経緯があります。元々は前田利家の本家筋の家系になります。また墓所も八家では唯一野田山ではなく野町・玉龍寺になる別格の家です。野田山と言えば、最高部にあるのは利家の兄・利久で、利家夫妻・利長はその下段になりますが、序列を重んじる加賀前田家の格付け意識が窺えます。

結果的には、長知の弁明交渉が功を奏し、芳春院の指示もあって徳川恭順となり、加賀藩は徳川方に旗幟を鮮明とします。これによって利長の長知への信頼度が大幅にアップし、重臣へと引き上げます。しかし、旧前田利家家臣団には反徳川派が多く、この人事によって軋轢はますます肥大化したと云えます。利長は急先鋒の太田長知を誅殺して、前田利長・横山長知の徳川恭順路線を強化していきます。この間、右近は大聖寺・越前攻めに従軍しています。

元々、利長・右近は非常に仲が良いところに、長知も右近を尊敬していたようで、嫡子・康玄(やすはる)に右近の娘・ルチアを正室に迎えています。この婚姻は長知からの申し入れで客分格の右近はこれを理由に断ったと云われますが、利長の勧めもあって受け入れています。これによって、利長・長知・右近更に篠原一孝の主導体制が出来上がったことになります。数年で右近に替わり息子・長房が参加したようですが、詳細は不明。

関ケ原戦によって加賀藩に所縁の深い大名が取り潰されていますが、これによって加賀藩にも多くの有力武将や家臣団が流入しています。特に西軍の副将・宇喜多秀家には豪姫が嫁いでいた関係で、有力な人材が加賀藩に入っています。豪姫は宇喜多家改易後は高台院(豊臣秀吉正室)に保護されていましたが、滞在中にキリシタン入信をしたと云われています。その後、実家である加賀藩に戻っています。以前にも書いていますが、豪姫はあまり表に出ていませんが、後の利常の三代就任時などでの芳春院への説得・家臣への発言力は大きなものがありました。当然ながら高山右近の後ろ盾にもなったと思われます。
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H24.4.13撮影 黒門緑地 豪姫邸宅跡
宇喜多家からの人材では、上杉家から宇喜多家に移り関ケ原で右翼を努めた本多政重(本多正信次男、加賀八家筆頭(八家筆頭はあくまで石高の筆頭)・本多家開祖)、豪姫の側近・中村刑部(家正、次郎兵衛)・一色主膳、宇喜多一族の宇喜多休閑など。右近を小豆島に匿った小西行長の家臣・内藤如安(ジョアン)。ちなみに豪姫の入信を仲介したと云われる内藤ジュリアは如安の妹で、同時期に金沢に入っています。

内藤如安は朝鮮出兵の後始末に北京にまで出向き、明との和平交渉を努めたほどの人物。中村刑部、宇喜多休閑も高山右近とは旧知の仲と云われており、高山右近のキリシタン派閥の人材は大きく伸びたことになります。しかし、内藤如安(4000石)・宇喜多休閑(1500石)の事蹟がほとんど残されておらず、これまた詳細は不明。ですが、この頃に出された利長への家臣団の奉状には高山右近が筆頭で出されたものが存在するそうです。金沢での教会建設は利長時代からですが。。利長自体がキリシタン入信の意志があり、豪姫をはじめ家臣団に多くの信者が増えて行ったという要因が大きかったようです。
ちなみに右近の屋敷も利長時代には移転して、尾山神社の近くゆうちょの貯金事務センターの辺りと云われています。この地は外惣構の内側であり、右近が厚遇されていた証明ともいえます。

高山右近がマニラ追放となった加賀藩では、翌年にはキリシタン停止の高札が立てられ、高山右近を始めとしたキリシタン関連の焚書、建物や遺構が取り除かれています。僅かな書簡とローマへの宣教師・管区長の報告書に頼ることになるのですが、これまた誇大表現が多く眉唾物が多く存在します。とはいえ、全部が出まかせと言えないのが辛いところ。

加賀藩時代の右近の事蹟も推測の域を出ません。例えば兼六園・石川門に向かう際に茶店が並ぶ紺屋坂の下、兼六園下の大きな交差点辺りに、南蛮寺(司祭館・教会)が慶長8年(1603年)に建てられたと云われていますが、その詳細もはっきりしていません。更に能登の知行地に二つの教会(七尾・志雄(しお))があったと云われますが、これまた場所は特定されていません。ただ七尾に関しては能登の本城・小丸山城の南西に山の下寺院群という寺院を集積した場所がありますが、その中心にあたる本行寺(現・日蓮宗)が有力です。ただ、七尾の本行寺の規模・造りや伝書を観ると修練所の規模にも見られます。

ところで、数年前に復元された五十間長屋の北端にある菱櫓が、南蛮図屏風やその他の絵図に描かれている南蛮寺にそっくりだと話題になっています。一部学者や歴史好きの間で話題になっています。(菱櫓の画像は獲ったはずなのに見当たらずで、石川県のHPにリンクしています)
もちろん復元の五十間長屋・菱櫓は高山右近から200年近く経った文化6年(1809年)の絵図面を基に復元されたそうです。金沢城の全体的なデザインとしては、白漆喰に海鼠(なまこ)塀・鉛瓦に外面に黒い隅柱が配されて白い姿が浮き立つように見える演出が施されています。本来、建物の外郭を支える隅柱は壁の内側に隠すものですが、金沢城は隅柱に関しては防御面を度外視して外側にむき出しで黒く塗られています。この黒い外枠が白い壁を際立たせています。

佐久間盛政が金沢御堂を破壊して金沢城を建て、それを引き継いだ前田利家の時代の金沢城は、当時流行していた黒っぽい城だったと云われています。高岡の瑞龍寺のような黒っぽい頑強さが際立っていたようです。
慶長7年(1602年)金沢城天守に落雷、城の全てが全焼したと云われています。後年書かれた「三壺聞記」によれば、旧暦10月30日(新暦12月13日)、落雷で天守が炎上、その火が大台所に延焼、本丸の御新宅(本丸御殿)も全焼、更になぜか火の粉が散って、鉄砲の丸薬蔵に引火して大爆発。弾き飛ばされた人間が三階建て櫓の上に九の字に折り重なるように引っ掛かるなど、多数の凄惨な死傷者が出たと云われています。
これはこぼれ話ですが、金沢城炎上の知らせは加賀藩江戸・大阪屋敷よりも先に、越前藩・結城秀康から徳川家にいち早く報告が届いており、加賀藩は赤っ恥をかいたと云われています。金沢城の天守が再建されなかったのは、知らせが届く前に徳川秀忠・家康から見舞われた屈辱からとも言われてもいます。

太平洋側の人にはピンとこないと思いますが、冬の北陸では地走りと呼ばれるほど低い雷が多く、夏よりも落雷被害が多いのですが、今も昔も冬の稲妻は凄まじいですね。
金沢城は慶長・元和・寛永と大火を繰り返し、寛永9年(1631年)辰巳用水の水を導入し、武家屋敷も城外に出して大改修を行っています。煙硝蔵も小立野や土清水と郊外に移設しています。
それでも、夏のフェーン現象の宝暦大火(1759年)で全焼、文化大火(1808年)で二の丸御殿全焼。トドメは明治の軍隊の火の不始末で全焼と、大小56回の火事に祟られているそうです。

金沢城のデザインがいつから白を基調に黒枠、鉛瓦で白を強調するような仕様になったかは、まだまだ研究中のようですが、石川県では白漆喰、海鼠壁、鉛瓦の横の線を重視したと云いますが、縦の黒の隅柱が強烈なアクションをもたらして見えます。菱櫓を見る限り、京都の南蛮寺を含む近畿圏の影響が強いようです。となれば、慶長8年(1603年)から再建された金沢城は前回の補修を担当した高山右近篠原一孝が行ったと思われます。河北門石垣積の際に、右近の用意した石を見て正門の石には小さくみすぼらしすぎると一孝が異議をたてて、交換させたと云われています。となれば、関西圏に詳しく南蛮寺の内部を知る利長か右近の意匠と考えてもおかしくありません。
また金沢城の絵図などから各火災の消失後の復興は、色までははっきりしませんが以前のものを踏襲していることが窺えるそうです。
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H24.4.13撮影 紺屋坂下交差点
紺屋坂にあった教会や司祭館は菱櫓を見る限り、このような形だったのではないかと思われます。慶長12年(1607年)豪姫や宇喜多休閑が金沢に入った後、加賀藩内のキリシタンが充実した時に教会が立てられたと云われています。教会建設の年から急激に家臣団の受洗者が増えたと云われています。

翌年のクリスマス。右近は自費でご馳走を用意し、招待状を手ずから作成送付、ミサとクリスマスを祝っています。これが日本初のクリスマスミサ・パーティと云われています。この時期が金沢のキリシタンの春だったと思われます。後のイエズス会年報にも「金沢教会は日本で最も繁栄した貴族宗団である」と報告書にあるそうです。この文章によれば、右近の布教の多くは家臣団に留まったとも言え、民衆までは波及していなかったことが窺えます。追放後の見事なまでのキリシタンの影が観られないのはこの要因が一番大きかったと云えます。

高山右近がもたらした金沢城の惣構堀による町割、金沢城の建築様式。
利長の跡を継いだ利常は京都から招いた裏千家の祖・仙叟(せんそう)宗室、仙叟宗室が連れて来た大樋焼の祖・大樋(土師)長左衛門による金沢茶道文化。京都・江戸から金工師の上下後藤家、加賀蒔絵の祖・五十嵐道甫。九谷焼の基礎を築いた清水九兵衛などを招き、細工所を造るなど金沢文化を起こしていますが、幼少から当主を継いだ時期の利長・右近の影響が大きかったと思われます。

しかし、幕府のキリシタン追放令が慶長19年(1614年)正月に発令。前前年から幕府では禁教令を直轄地に出しており、翌年には京都・長崎の南蛮寺教会の破壊を命じています。そして、金沢にも教会破壊と高山右近の京都送還への命令書が届きます。期日の余裕もなく一昼夜で高山右近は一族と共に京都に退去となります。そのまま身柄は長崎に送られ謹慎処分で沙汰待ちとなります。内藤如安・高山長房(生死不明)は長崎に送還。宇喜多休閑はなぜか一人東北流罪となりその後の消息は不明。

キリシタン追放令の大きな要因として考えられるのは、明石全登などの多数のキリシタン浪人が開戦前の大阪城に多数入城していたことが考えられます。ただし、右近の正式な処分が1年近く伸びたのは、右近を処刑などすれば、これらの大阪方キリシタンを憤激させ、更に数が増すのを恐れたのと、大阪方との交渉待ちではないかと思われます。11月に右近のマニラ追放が決定、船が去ると同時に大阪冬の陣が開戦されています。追放後、思い直した徳川家康は右近乗船の撃沈を命じていますが、一歩間に合わなかったという逸話があるそうです。

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H27.5.31撮影 篠原出羽守一孝の屋敷地があった出羽町・県立美術館
金沢城の基礎を築いた高山右近篠原一孝の別れの逸話が残っています。前田利長の慶長14年(1611年)の遺書にあるように右近の長子・長房と一孝の弟・長次の不和が書かれたように、二人の関係は良好とは言えませんでした。幕府協調路線の横山派の右近、対幕府強硬派の重鎮・一孝と正反対。ところが金沢城の補修、新丸造成、惣溝堀にしても内堀が右近、外堀を一孝が担当するなど火急の共同作業も多かったことから、信義と出しゃばらない性格の右近、同じく信義を重んじ無口で頑固者の一孝は表立って対立はしていなかったようです。ただ、社交面では付き合いはさすがになかったようです。
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H26.3.15撮影 金沢市出羽町 金沢市道
高山右近の金沢退去の際の護送役が篠原一孝でした。加賀藩が用意した囚人護送用の籠を見て「加賀藩に多大な功績を示した高山右近に対して、無腰でこんな物に乗せるのは言語道断。途中で逃げたり、刺客に襲われた時は、私が責任を取って切腹すれば良いだけだ。」として、上級武家の輿を用意させ、自分の大小刀を右近に差し渡そうとしたそうです。さすがに右近も「ご厚意はかたじけないが、殿(利長)や若殿の意に反する。」と大小までは辞退したと云われています。主義や立場での反目はあっても二人はお互いを認めていた故実と云われます。この行為よって武士の鏡として加賀藩では篠原一孝は尊敬と称賛を集めたと云います。

ちなみに藩政を司っていた横山長知・康玄親子は右近退去の翌月、奥村栄頼の策謀と暗殺計画に憤って、利長・本多政重の慰留も聞かず加賀藩を退去。ちなみに康玄は右近退去の際に妻・ルチアを離縁していました。前田利常が冬の陣に向かう道中に帰参して、夏の陣の功績で参政復帰を果たしています。奥村栄頼の策謀もあったかもしれませんが、右近との関係解消に姿を消したとも云われています。

右近を重く用い、自身もキリスト教入信の意志があったとされる前田利長は、右近退去の半年後に死去しています。長く患った梅毒、腫瘍の悪化と云われていますが、病状悪化からの発作、大坂の陣による大阪・江戸の板挟み、高山右近退去の教会閉鎖などの心労で服毒自殺とも伝えられています。

慶長19年(1614年)は金沢キリシタン文化には悪夢の年でした。キリシタンを保護した前田利長が死に、高山右近・内藤如安・宇喜多休閑が金沢を去り、横山長知・康玄親子は比叡山に退去。翌年には加賀藩ではキリシタン停止の高札が立てられ、受洗した家臣団は表向きも含めほとんどが棄教・改宗しています。そして高山右近の痕跡やキリシタン関係の建物、書簡・資料が葬られています。このキリシタン弾圧を主導したのが横山親子だったというのは皮肉です。ちなみに横山康玄は長知の跡を継ぎ、藩政の重鎮となって活躍していきますが、父より先に逝去しています。横山家文書では康玄の履歴詳細の多くが切り取られ、活躍の割に不明の部分が多い謎の人物です。しかし、妻ルチアとは次回に書きますが、後にも運命の糸のいたずらが待っています。
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H22.1.19撮影 傅燈寺 隠れキリシタン洞窟 中が十字の通路になっています。
家臣団の多くが改宗していますが、棄教・改宗を拒否した津田玄蕃正勝の正室・海津夫人、長好連(連竜の嫡子・長家21代)夫人(前田利家娘・福姫)の松寿院、娘・菊姫など20数名が七尾に送られ、右近が教会・修導所を建てた本行寺他に一代預かりとなっています。本行寺の海津夫人の墓標はゼウスの塔と呼ばれ、隠れキリシタンの聖地とされていたということです。
津田玄蕃正勝は前田家家臣団でも特に熱心なキリシタンと云われていましたが、その後も藩政に参画、江戸期を通して重要な位置を占めていました。墓所は夕日寺地区の傅燈寺にあります。こちらにもキリシタン隠し洞窟の伝説が残っています。津田玄番家は明治まで残り、屋敷は現在の兼六園管理事務所となっています。

思いつくままに書いていたら、相変わらず長くなり、年代も行ったり来たり^^;
予定の志賀町に行きつけませんでした。。次回に続く。。。ということで。。

一応今回の利長時代を年順にすると、、、、

天正16年(1588年) 高山右近、家族と共に来藩
慶長 4年(1599年) 3月 前田利家死去 利長に宛てて遺戒をのこす。
                8月 前田利長、金沢に帰国 前田家謀反の噂が大阪に流れる。

               9月 横山長知、高山右近を申し開きに派遣。高山右近、家康の面会拒否で帰国。
                   高山右近、帰国後、金沢城、内惣構を構築整備 大手堀・新丸増築
                  石垣の段差をなくす。石川門を搦め手に確定。
                   芳春院の江戸人質、家康の孫・珠姫利常の婚約で収拾
慶長 5年(1600年) 8月 前田利長、東軍として小松城攻め、大聖寺城攻め、北越前侵攻 右近従軍
               9月 徳川家康の要請で再出兵 利政の仮病で西軍加担を訴え、後継を利常にする。
慶長 7年(1602年)     金沢城、落雷で全焼。
慶長 8年(1603年)     高山右近娘・ルチア、横山康玄の正室となる。
                  高山右近、司祭館を建設(現・大谷廟所地)。加賀藩の教徒1500名の記載あり
                有馬晴信庇護下の旧小西行長家老・内藤如安が右近の世話で客将仕官
                能登七尾・志雄に教会を設置
慶長 9年(1604年)  京都からの宣教師が金沢に初来訪。利長以下、加賀藩での歓待を受ける。
慶長10年(1605年)  前田利長隠居して富山城に移る。前田利常11歳。実権は死去まで利長。
慶長12年(1607年)  豪姫、金沢に帰藩。前年キリシタン入信。伝手で宇喜多休閑が来藩、客将となる
                   利長、紺屋坂下に教会建設。教会受洗者50名。
慶長13年(1608年)  日本初のクリスマス・ミサ、パーティが右近の自費で開催。教会受洗者140名。
慶長14年(1609年)  富山城焼失。利長、魚津城に移る。
                右近、高岡城を縄張りから築城を200日で完成。利長、高岡城に移る。
                   この年から追放まで右近の資料が出て来ず、能登に隠居?
慶長15年(1610年)  篠原一孝、金沢城外惣構を構築
慶長19年(1614年) 正月 幕府からのキリシタン追放令 右近・如安の家族、長崎に退去。休閑は東北流罪
              2月 横山長知・康玄親子、奥村栄頼の策謀で加賀藩出奔、剃髪して比叡山に
             5月  前田利長死去
              10月  高山右近、マニラ追放が決定、即出航。 横山親子帰参
              11月 大阪冬の陣
              12月 高山右近、マニラ到着
慶長20年(1615年)  1月 高山右近死去
                   加賀藩内にキリシタン停止の高札が立つ
元和 2年(1616年)     篠原一孝死去
正保 2年(1645年)     横山康玄死去
正保 3年(1646年)     横山長知死去

                     高山右近 利長時代の屋敷地




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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
堀 大変な工事だったのでしょうね  現在でも用水路として使われている かなりしっかりとした工事だったのでしょうね  
豪姫がのち キリシタンに入信されていたことは知りませんでした  
がにちゃん
2017/09/11 11:31
今回も興味深く拝見しました。工期の短い土木工事が手抜きでないのは・・・?秀吉みたいに作業員に特別の褒賞があって競争させたりしたのてしょうかね。キリシタン関係で、こちらの新聞に千々石ミゲルの墓と思われる石碑周辺の発掘調査で棄教説のあった彼ですがロザリオなどが見つかったそうです。実は棄教していなかったのかもしれませんね。
tor
2017/09/11 21:18
何時も緻密で奥深い記事に感心しています。
これだけの記事を書かれるには相当の歴史通かその研究をされているのですか。
 私は歴史には疎く、学生の頃の受験勉強に必要な程度ぐらいで上っ面しか分かりませんが、一人一人を探っていくことによってこれだけの記事をお書きになれるのでしょうね。
案外キリシタンに入信していた人は多かったのでしょうね。
しかも隠れてまでもそれを信じるだけの魅力があったのでしょう。
 関係ないかも知れませんがキリスト教のお葬式に参列した時、仏教とは違う個人の思い出や愛おしさの事に多くの時間を費やし仏教の様にお経を聞いて終わりみたいなことではない事に これが本当に終りの儀式の様に思えたことを。
 少しではありますが読ませて頂いてその人の人生に色々な事があることがよく分かりました。
是非今後も読ませていただきます。
ゆらり人
2017/09/12 10:32
がにちゃんさん
豪姫の洗礼名はマリア様です^^キリシタン停止以降は改宗したようです。
惣構の発掘調査も進んでいて、一部で再現復元もするそうです。
香林坊から西に降りていくと外惣構堀や用水路が観られます。なかなか風情のある通りですよ。機会があったら歩いてみてください^^
つとつと
2017/09/12 18:39
torさん
以前の辰巳用水の開削もそうですが、惣構堀の規模や構造を見ると、最低でも火に1000人近くの作業員が必要だったと思います。給金を考えると膨大な金額になると思います。高山右近や篠原一孝がどのように運用したのか、興味は尽きませんねえ。
千々石ミゲルのニュースは知らなくて、torさんのコメントを見て慌てて、検索してしまいました。そちらのニュース報道の映像を見て大掛かりな発掘に驚きました。あのような大きな岩が墓に使われていたんですねえ。反キリスト、親キリスト教徒にも見限られて、侘しい最期と定説では云われていて僕もそう認識していたんですが、あれだけ立派な墓に入っていたのなら、それなりの身分か後援者がいたと思います。しかも顎の部分にロザリオが掛けてあったそうです。そうするとキリスト教は個人では捨てていなかったようです。定説が崩れ去りましたねえ。
そうすると、スペイン・ローマで宗教を先兵に侵略国家だとしてイエズス会を自ら脱退した行為は義憤で、純粋な人だったんでしょうね。
つとつと
2017/09/12 19:07
ゆらり人さん
ほめ過ぎですよ^^豚が木に登っちゃいます^^;
僕は小学校の頃から歴史ものが好きで、神話のイーリアスなどのギリシャ神話から始まって、古事記・日本書紀、聖書どんどん広がっていって、中学・高校の頃には社会科特に歴史はは90点以下がないくらいに^^Vでも、国語が普通でTTその他の科目は50点もやっとの劣等生で偏った人間で数学や英語はびり争いでした。おかげで、大学も科目試験の少ないもう一つの趣味で、ゆらりさんの近くの大学に^^;葛城山や金剛山の近くに大学があったのですが、その周辺が聖徳太子の墓所・推古天皇古墳や河内源氏墓(源頼信・頼義・義家)が近くにあって、歴史好きが再燃、学業はほったらかしでした。
さらに前職が店舗での接客販売で、転勤が多かったので、その土地土地の歴史やご当地の歴史の有名人を調べてから赴任してたんですっかり蓄積されました^^;それに少し肉付けしてるだけです^^;
つとつと
2017/09/12 20:11
ゆらり人さん
日本に限る考えですが、日本人の根底の宗教は古代の神道(今の中臣神道ではありません)で大まかにいえば自然崇拝で草木・風・地・水、果ては精神的なものや亡くなった人、要はなんにでも神様なんです。死体も墓になっても魂が籠った神様的存在なんです。ところが、この神様が時として祟るんです。祟りとか穢れとか災害など、、子の祟りとか穢れは、お神酒とか神棚で祀ったりとかしても効果がなく、それを抑えて良い神様にする方法は日本に無い異教を持って来たのが仏教。要は儀式要素が強いのはそのせいです。家に神棚と仏壇があるのは、そのためだと僕は思います。
蛇足ですが、キリスト教やイスラム教、ユダヤもそうですが、人間は創造主(神様)が土塊から作ったもので、周りの自然も同じく神様が作ったものなんです。ですから、死んだらただの土塊。。精神と霊魂が昇華されるという考えです。ですから肉体はどうでもよくて、その人との精神・思い出が重視されるようです。ゆらりさんには耳にタコの話ですがどちらが良いかはその人次第ですが、僕はそう感じています。
つとつと
2017/09/12 20:12
高山右近がどれほど傑出した人物で、
周囲の信頼が篤かったか、前回の記事と併せ、
よく分かったような気がしました。
それにしても、家康の謀略あり、それに対する
前田家臣団が一枚岩になれないという状況下で、
加賀百万石がよく保たれたものと思います。
駒場にある前田侯爵邸は、私の好きな
建物の一つ(現在修理工事中)なので、
よけいそうした事を感じました。
yasuhiko
2017/09/13 23:18
yasuhikoさん
加賀藩前田家に関しては金沢の人間を除くと、地元ではそれほど人気が強くはないのですが、その政策や家臣団の扱いは精緻をきわめています。家臣団に土地を与えずにサラリーマン化した手腕は利長・利常の時代に基礎ができたといえます。
前田侯爵邸ですか立派な造りで文化財ですからねえ^^前田侯爵邸を建てた前田利為の功績は、この屋敷を残したこともですが、育徳会という財団法人を設立したことですねえ^^このおかげで、前田家の宝物や書物類が散逸しなかったんですから。
つとつと
2017/09/14 22:16
「加賀百万石」というとなんだかずっと安泰だったような気がしますが、内実はそうでもなかったのですね。
これだけ家中が不和だと、関ケ原合戦時に家康に対抗するなど、夢のまた夢ですね。
西軍ファンとしては、利長が西軍についてくれれば西軍の勝ちだったのに、という恨みはありますが・・・。
たしかに江戸時代を通じて百万石を維持したのは、奇跡に近いですね。
家ニスタ
2017/09/16 23:17
家ニスタさん
僕も西軍についていればと思いますねえ。もし西軍になっていれば、政治闘争が増え、関ケ原自体なかったかもっと後年だったと思います。
それにつけても、二代目の人事が大変だというのは、どこをみても思いますね。
加賀藩の家臣団は、現代のサラリーマン社会とほとんど変わらないのですが、ここまで徹底したからこそ、続いたんでしょう。もし、元禄以降に軍事が起こっていたらあっさり潰れていたでしょうね。
つとつと
2017/09/17 07:20

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A高山右近 前田利長時代 つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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