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zoom RSS 高山右近の碑B

<<   作成日時 : 2017/09/18 23:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 27 / トラックバック 0 / コメント 10

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天正19年(1614年)にマニラに退去させられた高山右近でしたが、乗船した船にはすし詰めの乗員数で劣悪な環境状態。途中、高齢の三人の宣教師が死亡したと云われています。定員オーバーの為、通常の倍以上の日数を掛け、マニラに辿り着いたというのが実情でした。しかし、先駆けの伝達で「日本の殉教者的武将」の名は知られており、マニラ総督府の祝砲と大歓声と共に、大歓迎を受け、総督からはスペイン人しか許されないイントロラムス内に邸宅と十分な援助を与えられたそうです。
しかし、この過酷な船旅に消耗した身体は癒えることはなく、熱病に侵され到着40日後、帰らぬ人となっています。マニラでの高山右近の葬儀は10日に渡り盛大に行われたと云われています。旧暦慶長20年(1615年)1月6日(新暦2月3日)享年63歳。福者記念日は逝去日2月3日。

高山右近に同行した一族や仲間には妻のジュリア夫人、娘で横山康玄に嫁いでいたルチア、長子・長房の子が5人と云われています。高山右近の家族構成については色々な説や伝承があり一致は見ないのですが、マニラに向かった一族は右近と7人の家族と云われています。

長子・長房(ジョアン)については死亡説があって慶長13年(1608年)夫婦共々亡くなった(病没)というものがあります。そうなると、利長が同年に書いた遺言状の不和を嘆いた「高山長房・篠原長次の不和」は右近本人になってしまいますが、この点は大きな疑問が残ってしまいます。この頃の金沢での右近の公的な事蹟は高岡城築城くらいで、伝わるのは教会や茶の湯といった私的行為で隠居状態と思われます。また篠原長次はこの時はちょうど二十歳前の若造。年齢的に張り合うような差ではありません。右近よりも息子の方が合います。

長房という名前は高山家当主に受け継がれる名前のようで、5人の孫の内、後に戻った一人(フランシスコ)も長房を名のっています。右近自身も使用していた事実があります。ただ、右近の諱としては多くの資料は重友がほとんどで。。息子に名を譲った時点で前田家内では長房は息子と認識されていたと思われます。また右近自身は加賀藩時代は「南坊」「等伯」を使用していたようです。

ただ、幕府が京都所司代への引き渡しを名指しされた名は長房であることは、右近説の大きな根拠になるとは思います。ただ記憶しておいてほしいのは三人(ジュスト・ジョアン・フランシスコ)の高山長房が居たということで、このような混乱を招くことになったと思われます。希望的な推測ですが、ジョアン長房は加賀藩に残り、能登の所領に隠棲したのではないかということです。そう考えれば、マニラからの帰国したフランシスコ長房が、すんなりと能登に住むことができた理由づけになりますから。。
もう一つ、ジョアン長房夫妻が亡くなったとする理由づけに、右近が身内の不幸を嘆いた自作の歌があるとしていますが、これはあくまで目録につけた古歌で、息子夫婦の名前を題しているわけではないようです。

高山右近一族8名、同じく加賀からは内藤如安の一族9名と、二人の家臣団数人の武士が同行したとされています。内藤一族には妻子および妹・ジュリアが含まれていました。ちなみに内藤ジュリアは、日本初の女子修道会(ベアタス会)を設立した初期メンバーで、多くの子女を受洗させていますが豪姫(洗礼名マリア)もその一人。マニラ退去後は、マリア伊賀(筒井定次の娘?)と共に女子修道会を兄の作った日本人村・サンミゲルで設立したと云われています。布教活動を行った日本女性としては一番著名な人物かも。。兄・内藤ジョアンもサンミゲルやディラオを築いており、兄妹揃って行動力と能力を持っていたようです。右近の陰に隠れていますが内藤兄妹の行動実績は右近を上回るものがあります。
冷静な評価を下し、日本史を書いたルイス・フロイスが「日本人キリシタンでは最高の鑑(かがみ)」と評したのが内藤如安ということからも、日本キリスト教史では最高評価を受けてもおかしくない人物です。

この内藤ジョアン・ジュリアの兄妹の父親・内藤宗勝の旧姓名は松永長頼と云います。戦国武将の中でも極悪非道な謀将と呼ばれた松永弾正久秀の実弟になります。戦国史でも、最低評価の伯父と清廉なキリシタンの兄・妹この辺りが歴史の面白いところ。。
松永長頼は兄・久秀と共に三好長慶に仕えていましたが、謀略系の兄とは逆に武勇が強いタイプで、単純闊達の面が強い武将だったようです。明暗が分かれる兄弟ですが、三好長慶の信頼度が高く出世に関しては、兄の上を行っていました。久秀が出世できたのは弟の軍に帯同した成果のおかげで、弟の七光りと陰口を云われていたと伝わります。久秀が一気にのし上がったのは三好長慶が隠居したあたりからで、全盛時の三好家では長頼の方が上で、主には丹波攻略の最前線に立っていました。

三好長慶も後世の評価は悪く云われていますが、阿波の孤児の立場から中央に復帰進出、権謀術数を駆使して、近畿圏を制圧し君臨していました。後年の織田信長に隠れていますが、近畿のほとんどを抑えた力量は高く、信長の版図と比べても見劣りはなく、周りを見れば三好長慶の方が全盛時の政治実権は上だったかもしれません。この三好家の中で丹波攻略の前線に立っていたのが松永長頼だったわけです。三好家は家督を譲った義興の死をはじめ、名目上の主君とした管領の死を始めとする相次ぐ近親者を失い、隠退状態の三好長慶の判断力低下で自ら指名した後継者の後援者も自分の手で失うなど失意のうちに死去。後継となった義継が幼いために、家老に急昇格していた松永久秀・三好三人衆が後見しますが、家老内の争いで松永久秀が義継を担いで台頭、独立を遂げています。

丹波に派遣されていた松永長頼ですが、敵対していた丹波守護・細川晴元の配下国人・波多野氏の八上城攻め(この時も軍団には兄が与力していました)。この間に細川軍に、味方の丹波守護代・内藤国貞の八木城を攻め落とされます(内藤国貞討死)。急遽、引き返した松永長頼は八木城を奪還しています。この後、城主・守護代の国貞の娘と結婚して婿入りして内藤宗勝と名を改め、落ち延びた国貞の幼い嫡子を主座において後見執政になっています。後年、宗勝の死後にこの嫡子と如安(忠俊)のどちらを当主にするか家臣団で争いがありましたから、長頼こと宗勝が実質の守護代に就いていたと思われます。三好長慶からの信頼が厚く、全盛時の三好家の後援と共に細川・波多野を掌握して丹波攻略後は、丹波の守護代・領主的存在で若狭攻略に取り掛かっていたわけです。織田信長政権下の明智光秀に近い軍団長と思えば早いかも。。

暗転したのは、永禄8年(1565年)若狭攻略で武田義統・朝倉義景連合軍に敗北。前年に三好長慶が死去しており、三好家の援軍・権威も衰退、この敗北で丹波国衆の蜂起で黒井城攻めの最中に内藤宗勝が討ち死。当主は国貞の嫡子、家督は如安(忠俊・15歳)、如安はこの前年にルイス・フロイスによって受洗を受けキリシタンになっています。四面楚歌の状態でしたがよく持ちこたえて、永禄11年、織田信長が足利義昭を擁した入洛で、丹波守護代として足利義昭の旗下になります。
ところが、義昭と信長が対立、如安は義昭が宇治の槙島城に籠った際に味方し敗北。八木城も落城。内藤家も所領没収となります。如安は義昭と共に備後・鞆の浦に移っています。

天正13年(1585年)小西行長に仕官し、重臣に抜擢されます。この時に小西姓も拝受しています。
ちなみに小西行長は備前の商人の養子から宇喜多家で武家になった出自ですが、元をたどると如安の母方の祖父・内藤国貞の弟・行正の家系に当たります。つまり、小西行長と内藤如安は又従兄弟になるわけで、小西行長にとっては如安は本家筋の直系になるわけです。いきなりの重臣として迎えたのはこの理由が大きいようです。豊臣秀吉の朝鮮出兵の和平交渉・事後処理もこのコンビが大きな役割を果たしています。

関ケ原の小西行長斬首後、有馬晴信によって長崎・平戸に逃れ、その後は加藤清正の客将を経て、高山右近の仲介で前田利長の客将(4000石)として加賀藩に迎えられていました。右近と共に教会や修道所の建設に尽力したと云われますが、記録や文書がほとんどなく加賀藩での事蹟などははっきりしません。
マニラ到着後は高山右近の死後も12年間在住し、日本人村サンミゲル、ディラオを造ったと云われます。
寛永3年(1626年)に病気で逝去、享年76歳。墓所は不明ですが、終焉の地と云われる聖ビセンテ・デ・パウル教会に十字架と記念碑があるそうです。
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画像は金沢野田山の横山家墓所 上が横山長知の墳墓 下の右手前は明治に北陸の鉱山王と呼ばれた横山隆平の墓 康玄の墓は記銘が擦り減って解らず

マニラで高山右近が亡くなった翌年、妻ジュスタ・娘ルチア・孫フランシスコ(長房)が帰国したとされています。このことに関しては帰国許可が下りたと云いますが、幕府かマニラ総督かは不明。
近年になりますが、元和2年(1616年)発の長崎からの宣教師の書簡がスペイン・トレドで発見されているそうです。前ブログで書いたイエズス会年報はこの報告書簡を元に書かれたようですが、その中には
「そこには(加賀?)かつて右近殿も共に滞在していた。私達の主は彼をマニラで御許に召したもうた。彼の妻、娘および、孫たちの一人は日本に帰国しており、秘密ではあるが、キリスト教徒である娘の婿が彼らに会った」

当てはまる三人は前述の通りで、興味深いのは娘の婿に会ったということ。ルチアの婿と言えば、横山康玄(やすはる)のことになります。ただし、この時点で康玄は父・長知(ながちか)と共に、加賀藩のキリシタン停止・弾圧の責任者になっており、微妙な再会だったと思われます。しかし、この三人が志賀町に住めたというのは、康玄の影の力が働いたと推測もできます。同じ志賀町にはマニラ追放の際にルチアが康玄との子供を横山の分家に預けて旅だったという伝承も残っています。

右近の孫・長房(フランシスコ)は、長男・十次郎長房(ジョアン)の長男と云われています。前述の様に十次郎夫妻は5人の子を残して同時期に亡くなったとされており、右近夫妻に養育されていたようです。右近のマニラ追放の際に5人の孫(十次郎の子)も同行したとされますが、残りの4人の詳細は不明です。加賀に戻った三人は志賀町末吉に医師として住んだと云われています。しかし、トレドの報告書以外には実証はなく、横山康玄の家譜も多くが削除されていて不明状態です。
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高山右近の銅像から200mほど西に進むと「高山右近の碑」という道標があり、山に登る細い道があります。
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山頂付近に十字架の碑と小さな五輪塔があります。元々は崩れた小さな五輪塔だけでしたが、十字架は近年になって作られたものです。十五郎が右近の遺髪もしくは分骨を持ち帰り、右近の所領だったと云われる末吉の地に埋めたのだと伝えられています。長く、高山右近の墓所として語り継がれてきたものです。
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近年になって右近の人気と共に真偽を論ぜられるのが面倒で「高山右近の碑」に名称を改めたようです。数年前訪れた時は道標は高山右近の墓所になっていました。十字架には高山右近墓所のまんまです。

真偽はともかくとして、マニラで葬られた高山右近の墓所は太平洋戦時の混乱で、行方不明になっています。多くの好事家がこの右近の遺骨の行方を追っていますが難航しているようです。となれば、今のところ国内ではここが唯一の高山右近の墓所となっています。つまり高山右近は第二の故郷に眠っているということです。ちょっと寂しい場所ですが。。。
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もちろん家系の真偽もありますが、そうそう証明記録が残っているものではありません。。信じるか、研究待ちしかないのですが。。

フランシスコ長房の子孫は四代までこの地に住んでいましたが、禁教時代でありキリシタンは地元住民からも多くの嫌がらせや迫害を受けたため移住(田鶴浜とも北海道とも云われています)。。明治末から大正初めにかけて、七尾市の西・田鶴浜(内藤如安の旧領地と云われています)に戻り、更に末吉から4.5キロ北に離れた代田(しなんた、土田村)という地に戻って医院を開業して現在16代を数えるそうです。しかし、高山家の菩提寺には天保年間(1831年)からの過去帳しかなく、伝わる掛け軸も「先祖は右近の大夫長房の孫たり。。。」と書かれていますが、慶応元年(1865年)のものになります。

ちなみに、高山右近の直系子孫を名のる家は国内にもう二家あります。次男・忠右衛門が近江野洲・永原一族の永原重信の三女と結婚したという記述が永原文書にあるそうです。野洲・永原は将軍上洛の御湯殿(指定宿泊所)に当たる地です。資料は見ていないので詳細は不明。・・その後、永原から福井に移り、一家を構えたと云われています。(福井市・高山家)。

もう一家が大分市の高山家。最初に高山右近の子孫を主張した昭和初期の大分市長の家系です。大分に伝わ
る家系図では、高山右近が秀吉から領地没収を受けて隠れ住んでいた頃で、三男・亮之進が母少将中川ノ女と共に大友義統に匿われ、その後領地を与えられて高山家墓所と高山南坊の塔が同時期に発見されています。
しかし、高山南坊の塔の銘文は享和2年(1802年)になります。
しかし、こちらも多くの疑問がありまして、大友義統は御存じキリシタン大名の先駆者・大友宗麟の息子ですが、キリシタンにはなっていましたが、秀吉の禁教令で棄教してキリシタン領民を弾圧したと云います。それなのに右近の息子を匿うでしょうか。更に文禄2年(1593年)に改易になっています。この時期には右近は加賀藩で安定期ですからほったらかしというのが解せません。、、、、母・少将中川ノ女、母というのが疑問でカソリックは一夫一婦制で側室は置いていません。侍女や乳母とも考えられます。名前から高山右近とは、摂津・茨木のコンビに扱われることが多い中川清秀絡みとは思いますが、出来過ぎでこれまた疑問の一つ。。

いずれも決め手がないのですが、否定する材料もキリシタン関係の資料が少なく難しいと思います。
以前書きましたが、高山右近にとっての織田家での上司・荒木村重は、織田信長に謀反を起こして敗れていますが、身内を根こそぎ殺されていますが、侍女と共に逃れた村重・ダシの子が岩佐又兵衛勝以として重文系の画家・浮世絵師の祖になったという有名な実例がありますから。。岩佐又兵衛勝以(文が長いので、最期の方を見てください)
こういうことがあるので歴史のロマンとも云いますが、時がたつごとに難しい伝承になっていきます。それでも高山右近に関しては新しい発見も出そうにありませんから。。なぞは謎を呼ぶと云った感じ、、

旅行日 2017.08.22





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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
「高山右近の碑」から内容が広がりましたね。驚きです。小西行長に仕えるようになった内藤如安の話。先日山都町の小一領神社を訪問したのですが。ここは阿蘇氏に関係する神社です。小西領時代に結城弥平次というキリシタンの重臣により破壊されたことをブログに書いた直後で反応してしまいました。松永長頼、久秀兄弟の話など興味はつきませんね。
tor
2017/09/19 21:50
torさん
(笑) 小さな墓標から三話も作ったんですから、とんでもない話です^^:
高山右近などにの高槻では多くの寺社を破壊したという話があります。加賀藩内では、そんな話は出てきていません。能登の教会も元々の寺院を改造した程度です。元々、北陸は宗教色の強い地で、一向宗の支配地だった影響もありますから、加賀藩では政治介入がない限りは宗教の保護政策をとっていました。右近も如安も無理な布教は行えず、家臣団の布教を広げていたようです。それが右近たちが追放後にキリスト教の跡が残らなかった大きな理由だと思われます。松永久秀は智の人で、多聞櫓の考案や奇抜な謀略など当時の最先端を行った人物ですが、いかんせん軍事能力と人気がいまいちで、それを支えたのが長頼だったようです。
つとつと
2017/09/20 06:37
大変な苦労な押して渡られたのでしょうね

今 京都新聞の小説で宗達が九州の少年たちとローマにわたった話が掲載されています

どこまでが事実なのか空想なのかわかりませんが、宗達が・・・と興味深く読んでます




がにちゃん
2017/09/20 15:33
がにちゃんさん
俵屋宗達が@@ 云われてみれば、宗達も金沢に係わりが深く、右近と同時代を生きていますから係わりがあってもおかしくないですね。
工房は京都でしたが、加賀藩の援助や後援を受けていたので、晩年は金沢で過ごしたと云われています^^う〜〜ん、浪漫ですねえ^^光悦も一緒に居そうですね^^そうそう、右近と同じ号を持つ長谷川等伯も^^みんな利休絡みで顔を合わせていたはずです^^
つとつと
2017/09/20 21:53
おっしゃる通り、世間では松永久秀は極悪非道とのイメージが強いですが、実際には久秀の働いた悪事の多くは誤解か後世の創作であることがわかってきています。
むしろ天守閣や多聞櫓を初めて築くなど、進取の気質に富んだ人物だったと僕は考えています。
このあたりのことは『刀剣と歴史』7月号に僕が書いた記事に載せていますので、もし興味がおありでしたら、お読みいただけると幸いです。
弟の長頼については僕も昔から気になっていたのですが、軍事的才覚が兄を上回っていたのはたしかなようですね。
長頼改め内藤宗勝が荻野直正との合戦で敗死したのは、三好政権にとっては大きな打撃でしたね。
家ニスタ
2017/09/20 23:16
家ニスタさん
僕が小学生の頃、初めて読んだ武将記が松永久秀の多聞山城を中心にした肯定的なもので、信長や謙信・信玄・家康よりも最初に知った武将です。その記事をベースに松永久秀を知るごとに、巷に言われるほど悪逆非道ということはなく、逆に先を読める武将であり、忠誠心もそれなりに持っていたと思います。三人衆と反目しながら義継を担いだり、朽木谷で信長の先駆けを演じたりはできません。唯一の読み間違いは最後の旗揚げですが、あれにしても10中八九は知能派なら仕方ないと思います。信玄がいきなり急死するなんて予測は無理ですからね。
三好家の衰退はあの時点では取り返しがつかず、長頼の死は松永久秀の方がダメージが大きかったと思います。生きていれば、織田勢力の一翼を担う勢力なっていたと思います。外様の一大名に留まったのは、弟の死による軍事力と丹波を失ったことにあると思います。
つとつと
2017/09/21 16:09
高山右近が日本を追放された後、
マニラでどれ程歓迎されたか、
初めての話でしたが、よく分かりました。
今のように情報網の発達してない時代でも、
評判は海を渡るものなんですね。
フロイスから高く評価された
内藤如安、ジュリア兄妹の話も興味深かったです。
yasuhiko
2017/09/22 13:36
yasuhikoさん
当時の60代は老境の域でしたから、劣悪な環境の船旅は応えてしまったようです。
マニラでの歓迎は異常なほどですが、高山右近に関してはマニラだけでなくスペイン本国まで名前が売れていたようです。この直後にも福者の申請がマニラ政府からローマにも送られていたようです。内藤如安・ジュリアもマニラで10年以上を活動に費やしていますが、もっと話題に上がっても良い人材だと思います。ただ、京都の女子修道会のその後はとても悲惨なもので、江戸期のキリシタンの歴史は惨憺たるものです。また機会があったら書こうと思っていますが、幕末から明治の浦上信との話は大きな外交問題として、条約改正や海港にも大きな影響を与えていますから。。
つとつと
2017/09/22 15:08
またまた釈迦に説法のようなことをしてしまい、申し訳ありません。
つとつとさんは先刻ご承知ですよね。
僕も昔から久秀のファンで、世に多い信長信奉者の「天守を初めて備えたのは安土城」などの言動を常日ごろから悔しく感じておりました。
しかも「三大悪事」などのぬれぎぬを着せられ・・・。
これからも久秀の名誉回復に努めていく所存です。
家ニスタ
2017/09/23 23:32
家ニスタさん
家ニスタさんの好きな石田三成も昭和までは悪名が高く語られてきましたが、平成に大きく見直されてきました。
僕も石田三成や松永久秀は好きですし、明智光秀・足利義教など歴史に悪名が高い人物やなぞの多い人物でも名誉を見直されるべき存在はいると思います。僕個人としては足利尊氏も個人的には好きな武将ですが、この人を見ていると後醍醐天皇と足して2で割ればと思ってしまいます。
つとつと
2017/09/24 20:53

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