つとつとのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 実性院B 大聖寺藩主墓所

<<   作成日時 : 2017/10/18 17:13   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 38 / トラックバック 0 / コメント 7

実性院の左脇の裏山に続く参道を登ると、大聖寺藩主の墓所があります。この墓所も前回紹介していますので、詳しくはこちらをどうぞ ⇒ 山ノ下寺院群A 実性院 (H27.11.3) 
画像
藩主墓所に登る参道沿いには、家臣団の墓地があります。実性院の真裏に当たる山上の位置にあるのですが、時代ごとに墓石の形態は変わりますが、山上に近づくごとに墓標が大きくなっていきます。特に最後の石段前の脇道、実性院の本堂の上に当たる位置には、藩主墓と同形態の墓があります。大きさも側室・子族並みの大きさがあり身分の高さが窺えますが、碑文が摩耗していて判読できませんでした。。

大聖寺藩主墓所
画像
梅芳院の五輪塔 空・風・火・水・地が鮮明に彫られています。梅芳院は後述していますが、7代利物(としたね)の側室、9代利之(としこれ)の生母

前ブログでも書きましたが、大聖寺藩主の墓は石垣の土台の上に五輪塔を重ねたものです。石垣の中はどうなっているかは解りませんが、江沼神社の利治を主祭神ににする神殿の様に南加賀の神社の神殿も石垣造が多く、石垣の形態が似ています。五輪塔は元々は仏教のストゥーパ・五重塔から変形したものと云われますが、この形態は日本特有のものです。大きくは名前の通り、空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)の五行を表していると云われます。発案者は空海とも云われていますが、古くから宗派を超えて広まっています。
画像

画像
藩主墓所入り口の灯篭土台 上部が無くなっています。

ちなみに加賀本藩の野田山墓所の藩主墓は古墳のような土饅頭で空堀を配して、入り口に鳥居を置いています。ただ、前述したように加賀前田家は明治初頭に神道に改宗しており、仏教色の構築物を排除したと云われています。前田家内では別格として大蓮寺が管理する豪姫の墓や、加賀八家の横山家や村井家を見る限りは、本来は土饅頭の上に五輪塔が建っていたと思われます。富山藩主の長岡御廟の藩主墓では小山のような土饅頭の上に笠付墓標が立てられています。高岡にある加賀藩2代・利長の墓所の墓標は重厚な基壇(石垣?)の上に笠付墓標が立てられています。ちなみに利長の墓所の本来の墓域は戦国武将中最大規模と云われています。
大聖寺藩主の墓はこの利長の基壇石垣と野田山の五輪塔を参考に合わせたのではないかと思われます。

ただし、平安期以降に建てられた正式な墓標としての五輪塔は、五十回忌を持って立てねばならないと云われています。三代利常の正室。珠姫の墓所は当初は天徳院に在ったものを、改めて野田山墓所の現在地に五十回忌を以て改葬しています。このことから五輪塔説が有力になります。
しかしながら大聖寺の藩主墓は、初期は不明ですが、後期は死去すぐに同形の墓を作製して納めていたようです。
画像
大聖寺初代藩主・前田利治の墓 加賀藩3代・前田利常と珠姫(徳川秀忠次女)の三男。父の隠居と共に21歳で大聖寺藩7万石を分封され立藩。享年43歳。
画像

大聖寺藩主墓所左(西)面 右奥から初代・利治、梅芳院、7代・利物、三代・利直




画像
初代・利治墓前の一石灯籠 一石は約150キロ 墓所の各墓前には飾り灯籠が左右一対が建てられています。石灯籠は二代・利明の大きさが目立ちます。
初代・利治の墓が最大の大きさで石垣も最多の6段、二代以降の藩主の墓は一回り小さく同規模の大きさです。更に正室・側室(生母)が同規模で、正室は藩主の真後ろに、殉死者が初代・利治を囲むように置かれ、側室や子族が一回り小さくなって藩主の後方や入り口手前の左右に置かれています。初期は入り口から見ると、左奥から作られ、二代が初代から対角の右手奥、三代が左手前、四代以降は正面に作られていったようです。ただし10代以降は、空いたスペースを埋めるようにランダムに建てられています。
画像

また、大聖寺藩では特別な存在のはずの初代・利治、三代・利直の間に、9代利之の生母・梅芳院(7代利物側室)と7代を並べて建てるなど、理解に苦しむ配置も、、、ちなみに、指示したであろう9代は本藩の要請とはいえ10万石の高直しを行っていますから、少し考え足らず、と考えられますね。。三代・利直は5代将軍・徳川綱吉に重用され、外様では異例の譜代扱い・奥詰め側近となった人物です。晩年、奥詰めから左遷帰国、藩内の派閥争い、分藩した弟の刃傷事件など、不遇でしたが、格式と幕府待遇では歴代藩主では最高位ともいえる存在です。
画像
画像
画像
上:大聖寺藩主墓所 右(東)面 中央の僅かに大きいのが二代・利明墓 初代・利治の異母弟(利常・四男) 子のなかった利治の養子となって跡を継いでいます。兄の事蹟を引き継いで藩の基礎を築いた大聖寺藩一の名君。享年54歳。
中:大聖寺藩主墓所 入り口左手(南面) 子族墓
下:大聖寺藩主墓所 北東・蓮光寺墓地入り口から


画像



大聖寺藩の戦略的観点から集められた山の下寺院群ですが、裏山を共有しているために境界線が入り組んでいます。前に全昌寺に訪れた際に、山中温泉で別れた芭蕉・曽良一行が、行き違ったお寺ということで、裏山の墓地にも上ったんですが。。芭蕉が泊まった前夜に曽良が詠んだ名句、「よもすがら 秋風聞くや 裏の山 ♪」に釣られたとも言えるんですが、ウロウロしているうちにお隣の正覚寺・宗壽寺の墓地や敷地に入り込んでいました。

今回も藩主墓所の奥にある山への登り道と柱碑があるので、釣られて登ってみたのですが、登り切った場所に大きな墓がありました。岩原家累世の墓・・お隣の蓮光寺の墓地のようで、入り込んでしまったようです。後で知りましたがこの墓地の見学は蓮光寺の許可が必要だったようで事後報告になってしまいました。。この岩原家の墓には三人の俗名が刻まれていますが、最初の名は岩原謙三とあります。

この岩原謙三は、大聖寺藩士の家に生まれ、大正13年(1924年)、日本初の放送局・東京放送局の理事長に就任、翌翌年、東京・名古屋・大阪放送局の解散合同で日本放送協会(NHK)が発足した際の初代会長になり、各地に放送局を建設をして放送界の先駆者となった人物です。昭和11年7月12日、会長のまま死去。享年73歳。放送事業の他、芝浦製作所(現東芝)・足利紡績・小野田セメント・台湾製糖・日本無線電話などの会社社長を歴任しています。3年ほど前に、祠のような顕彰碑が蓮光寺門前に建立されています。

                          

実は、いつものように順路に沿って、文を書いていたのですが、、、、またかと云われそうですが、ついつい横道に逸れたまま長い文章を書いてしまいました。。江戸期初期の藩主の殉死者についてです。興味のある方はどうぞ、、相変わらず、ちょっと長ったらしく、あっち飛びこっち飛び、支離滅裂にしています。
画像
初代・前田利治の墓

画像が消えていまして載せられませんでしたが、最後の石段脇には初代・前田利治の四天王の一人と呼ばれた青山新右衛門の墓があります。初代・利治が死去した際に、他の四天王・三人は殉死しています。
                                              二代・前田利明の墓
画像





このために、一人生き延びた青山新右衛門は藩内では相当非難を浴びています。「中沢や小沢、小栗にやひば立ち 青山が腹に青蝿が立つ」とまで非難中傷を浴びたと云われます。青山新右衛門は12年後病死しています。気の毒な話ですが、大聖寺藩の次期当主は加賀藩から養子で入った弟・利明で彼には未知の世界です。前藩主の側近が全員死なれては堪ったものではありません。逆に言えば利治の遺訓や施策を伝えるものがいなくなります。当然ながら利明が兄の政策を引き継いで、完成できたのは青山新右衛門の存在が大きかったと云えます。主君の側ではありませんが、藩主墓入り口に墓所があるのはその功績を認められていたと云えます。

しかし、殉死者の三人の墓は藩主・利治の側に、小振りながら殿様と同じ形態の墓として葬られており、差をつけられたのは確かです。このために、現在の大聖寺でも青山新右衛門の名誉は回復されておらず、悪口が書かれることが多いままです。殉死するよりも、その後を託される方がどんなに大変か。。想像に難くありません
画像
大聖寺藩四天王・中沢久兵衛の墓 山の下寺院群の全昌寺で殉死しています。享年35歳。小沢三郎兵衛49歳、小栗権三郎22歳と働き盛りにこれからという人材でした。墓所入り口の青山新右衛門が加わります。
大聖寺藩草創期の人材ですから大きな損失となりましたが、時代を継いだ二代・利明にとっては青山新右衛門が留まってくれたのはせめてもの救いだったと思われます。


殉死に関してですが・・・武士の発生以降、早い段階から主人の討ち死・敗戦によって自害した時、家来が後追いの討ち死や切腹をする、その場でなくとも後で追い腹という行為も行われていました。ついでに言えば、壇ノ浦、鎌倉北条などが語り継がれるように、妻子・家臣・従者が後を追うと云うことも美徳とされていました。

ただし中世・戦国時代には、主人が病死・自然死ではこの追い腹という行為は行われていませんでした。
あくまで主人の討ち死や敗死=自家・自軍の滅亡に係る場合に限られたわけです。主人の病死・自然死による殉死は江戸時代に入ってからの話になり、始まりは慶長12年(1607年)徳川家康の四男・松平忠吉の死に際しての三人と云われています。ただし、忠吉の死は関ケ原での受傷が元とも云われ、討ち死に近く責任を感じたともいわれますが、父親の家康はこの殉死の報に将軍・秀忠を怒鳴りつけたと云われています。・。。。肝心な徳川家康の時は、駿府の馬の口取人一名のみ。。ところが、秀忠の際に現役老中一名、家光の際には老中・老中経験者5名と増えています。まあ、家光に関しては、殉死した老中たちは、小姓時代、夜のお相手経験者で、男色の心中とも云えるんですが。。

殉死者の最多は、有力大名としては伊達政宗の時に直臣15名+殉死の殉死5名が最多で、阿部一族で知られた熊本の細川忠利には19名が続いています。ちょっと質が悪いのは政宗で、生前、自分の死後も伊達家に忠誠と力を尽くすのが筋として殉死は禁止と言明していたのですが、へそ曲がりの悪い癖で「殉死が流行ってるけど、わしが今死んだら、何人ついてくるかなあ^^」と、軽口を叩いたわけです。これが外部に伝わって、これだけの殉死者を出して、助長してしまったわけです。政宗の死去後、将軍家から殉死禁止令が出たにもかかわらずです。殉死の風習に拍車をかけた張本人と言えます。おかげで変な風習が出来上がった仙台藩は二代・忠宗の逝去の際にはまたまた殉死者16名(直臣12名、陪臣4名)を出しています。武家諸法度の禁止令発布後の三代・綱宗の際には14名が出家しています。主君が偉大過ぎ、掌握しすぎてもこれです。

森鴎外の阿部一族がどこまで真実を語っているかは異論があるようですが、熊本藩・細川忠利の場合は、次期当主の光尚から禁止令が出ていたと云われますが。。殉死のほとんどが忠利の代の新参の直臣で、古参直臣からのプレッシャーややっかみが多かったと云われています。細川家は忠利の前に、祖父・藤孝、父・忠興と自己主張の強い家ですが、忠利の兄には父・忠興と喧嘩別れで廃嫡された忠隆(後に和解、しかし家には帰らず)、同じく廃嫡で大坂の陣で豊臣方に立った興秋。とにかく癖の強い人が続いています。それに揉まれた古参の部下に対する掌握は穏やかな人柄だった忠利以降も苦労しています。

偏った風習になる殉死を憂えた幕府は度々禁止令を発していますが、なかなか収まらず、そもそも徳川家光の死去の際にもトップの老中や老中経験者が殉死する始末。元々、殉死に関しては幕府への許可を求めよという命令まで発していましたが、四代・家綱の代に武家諸法度に殉死禁止の法度を定めています。この後に発生した宇都宮藩二代・奥平昌能の時に家臣・杉浦某が追い腹したのですが、奥平家は10万石から8万石に減俸、宇都宮から出羽山形に転封し処分を受けています。この処分は温情処分で、本来なら取り潰しでした。昌能が家綱の守役の一人で幕府連枝衆に連なっていたためと云われます。
ただし、この殉死事件は、そもそもが藩主・昌能の性格に問題があったわけで、この追い腹は昌能が杉浦に強要したものでした。杉浦は禁止令を承知しながら主君の命を優先しただけです。
昌能は将軍守役を務めた人物なのに粗暴で偏った判断を下す人物でした。特に喧嘩両成敗を怠った興禅寺刃傷事件での片手落ちでは藩主を見限って退出した家臣は40名以上を数えます。まだ戦国期風の残る江戸初期とはいえこの数字は異常です。この退出した元家臣は、江戸三大仇討・浄瑠璃坂の仇討ちを引き起こしています。この仇討は昌能の死去3カ月前の出来事で、全く反省なく殉死事件を引き起こしたわけです。

中には純粋なものもありまして、上田・松代藩の初代・真田信之は長く治世を見たことと、長寿で知られています。父は真田昌幸、実弟・幸村と共に真田太平記の主人公の一人です。徳川家に散々逆らい・恐れさせた父弟を持ち、自身も多くの戦場を駆けています。そんな信之が明治まで真田家を存続させた手腕は驚異的です。
中年以降は病気がちながら92歳まで現役藩主を努めています。隠居後1年余り93歳で亡くなっていますが、有名戦国武将では北条幻庵97歳には及びませんが、龍造寺家兼、松平忠輝と並ぶ驚異的な年齢です。

隠居後は川中島の八幡原東方の柴村の屋敷に隠居していましたが、体力的には弱っていたようで、庭園の築山を登るにも疲労困憊だったようで、、、「こんな築山を越えるだけで、この体たらくでは死出の旅も思いやられるなあ。。あの世の山はどのくらいの高さなのかなあ。。」
同じく近くに隠棲して屋敷に通っていた鈴木右近忠重がこれに応えた言葉が、「何を弱気なことを。。その時には私がお供をして手を引いて差し上げますよ。ご一緒に死出の旅に出ましょう」という約束を交わしていたわけです。この約束を盾に幕府に殉死願を提出、忠重が84歳と高齢であり、約定も重いということで許可が下りています。柴村屋敷は大鋒寺(だいほうじ)という寺になり、二人はそこに眠っています。

ちなみに鈴木忠重は真田家の家臣で名胡桃城主・鈴木重則の長子でした。6歳の時、北条氏によって名胡桃城が落城、父は切腹、母と共に捕虜となっています。解放後10数年間、真田兄弟と共に真田昌幸に育てられた経緯があります。何度も真田家を出奔していますが、信之の影だったとも云われています。上田藩・松代藩でも重臣として勤めています。

殉死が流行った理由は色々ありますが、まずは合戦自体が無くなったことにあります。だれもが平和な世界を求めるのですが、合戦というのは自分の名や家名を一気に挙げるにはこれほどの機会もなかったのです。一介の出自もはっきりしない男が城持ちや領地持ちになるなどは、戦国ならではの事例ともいえました。また、自分の名や技量によってはより実力者に自分を売って、更に高みを目指すことも可能だったのです。
ところが合戦が無くなれば、幕府にしても藩にしても、身分や身上は固定化されることになります。また、頂点の藩主や領主にしても、いざとなれば兄弟の長幼よりも能力だったため、兄が駄目なら弟がという風に、一族内でも次々に自分の番にという機会が多かったのです。嫡出長子相続となると、能力に関係なくすべてが順番になるわけです。しかも余程の事情がない限りスペアはスペアのまま、ゴクつぶしという状態になってしまいます。身分が固定してしまえば、組織は安定しますが、立身出世や他に移るというのは難しくなります。

ところが、この安定時代に唯一の名前や家名を挙げるチャンスが、殉死だと見られたわけです。。現実として大聖寺藩でも見られるように殉死者は殿様の側に墓が置かれ、後世に名が残るのです。うまくすれば自分の家名も上がるわけです。それまで先代に尽くした自分を使うかなどは次の当主次第、ならば、、、という刹那的なものです。ただこれに関しては、殉死者の家系が引き上げられたという事例はないようです。変な前例は藩主にも後々響きますから。。

これに輪をかけて殉死を流行らせたのが、無嗣断絶という決まりです。藩主や家長の跡継ぎがないまま死なれれば御家断絶。お家に仕える家臣はその日から路頭に迷うことになります。どうせ、先がないならというわけで、当主と共に自分も死んじゃえというものです。
幕府では次期藩主予定者を届けねばならないと決めていました。つまり、次期藩主は事前に将軍御目得えか届けのなされた者が藩主に成れ、後継者変更も後継者の死か、容認されても儀礼(偏諱や位階)が必要で容易なものではありません。後継者の決められていない場合は、たとえ子だろうが兄弟が居ても無嗣と見做されたわけです。これは幕府に逆らう者を藩主にしないための防衛策でもありました。
ならば藩主や家長が決まったら、年齢に関係なく、養子を決めて次の藩主を用意すればとなるんですが、若い当主には子が出来る可能性が高く、お家騒動の元になってしまいます。先述した真田家にしても、信之死後にお家騒動が幕府を巻き込んで勃発して、松代藩と沼田藩に分裂しています。この辺が難しく、江戸初期に断絶改易した大名家が多いのはこれが第一要因です。

幕府は武家諸法度の殉死禁止令と共に、末期養子という緩和策を認めているのはこのためです。
秀忠・家光時代の大名取り潰し策などと云いますが、幕政違反は当然ありますが、実際にはこの厳格な無嗣断絶が大きかったと云えます。徳川家内でも初期には武田信吉の常陸水戸15万石、先述の松平忠吉の尾張清洲藩52万石が無嗣断絶となっています。まあ、後に異母弟に相続させていますが。。。ある程度、関ケ原・大坂の陣の論考賞罰も落ち着いた家綱・綱吉時代には自分たちにも係わる話ですから、末期相続の緩和などを策しています。

さて、この無嗣断絶による改易に関しての、一番の被害者はいきなり藩主が無くなって、翌日には無職になる家臣団。。このため、先がないんだからといった刹那的な理由で、殉死が流行った一面がありました。浪人の大量発生は更に桃山期の傾奇者の出現に観るように治安の悪化、天草の乱・由比正雪の乱に観るような浪人の団結は幕府の危惧するところです。ある程度、関ケ原・大坂の陣の論考賞罰も落ち着いた家綱・綱吉時代には自分たちにも係わる話ですから、末期相続の緩和や改易後の旗本並みでの藩主一族の復帰などの緩和策と、武家諸法度による殉死全面禁止の二枚看板。付け加えれば、生類憐みの令も刃傷などの人命軽視の戦国期風の刷新を図ったともいえます。ちなみに、家綱・綱吉共に男子後継がなく二人は兄弟で末期養子縁組ですし、綱吉の後継も兄・綱重の長子・家宣(綱豊)を養子としています。家綱が亡くなった際には、鎌倉幕府の様に皇族から宮将軍を迎えようという意見も出ています。かほどに後継問題は幕府・大名にとっては厳しい問題でした。

本当は藩主墓所を紹介するつもりで書き始めたのに、殉死の話が長くなってしまいました。
藩主墓所は先述したように、石垣の上に五輪塔を乗せたピラミッド型の形態で、加賀藩・富山藩とは姿形には異なった大聖寺藩特有の形を成しています。江戸期においては三藩の前田家は当主は曹洞宗を信仰していました。正室も基本的には曹洞宗寺院に菩提寺を置いています。

ただし、一部というより多くの婦女子には日蓮宗信者が多く観られます。元々、前田利家夫妻は日蓮宗(法華宗)の影響が強く観られます。このため前田家内をはじめ家臣団には日蓮宗も多かったようです。正室ではありませんが、前田利家の側室で三代・利常の生母になる寿福院(千代保)の菩提寺・妙成寺は能登にある日蓮宗の北陸本山になります。鎌倉から室町にかけて一番隆盛した日蓮宗の中心地のひとつです。

寿福院は元々、芳春院(お松の方)付きの女中でしたが、利家が朝鮮出兵の名護屋城滞在中に世話係の寿福院に手をつけてしまった関係です。このため、芳春院と寿福院の関係は最悪で、遠慮した利家と利常が父子対面したのは利長の仲介で5年後の利家死去前年でした。また、芳春院と寿福院の関係修復は利常の藩主就任で江戸屋敷に寿福院が入り、交代で芳春院が金沢に戻る際の対面だったと云われています。
ちなみに芳春院の菩提寺は京都の大徳寺芳春院(臨済宗)、能登門前の総持寺祖院(曹洞宗)になります。

またまた横道に逸れてしまいましたが、加賀藩内では寿福院を代表するように婦女子に日蓮宗信者が多く、江戸期は大聖寺では家臣団には曹洞宗が多く実性院や全昌寺にありましたが、婦女子は日蓮宗信者が多く、同じ山の下寺院群の宗壽寺(そうじゅじ)に墓所がありました。このため、前者を男墓、後者を女墓といって夫婦で墓所が解れる家が多く存在しました。明治以降に家族内のどちらかに統一されるようになり、墓地も統一されて来たそうです。

夫婦で宗派が違う場合の生活様式や結婚葬儀などの祭礼もどうしていたのかは興味がありますが、まだ調べたことがないので不明。。僕の祖父母もどうも宗派は別だったようで、祖母の時は真宗、祖父は平素は真宗寺院につきあっていましたが、葬儀は真宗・曹洞宗双方(メインは真宗)が共催の形でした・・でも事情は不明・・墓所は真宗ですけどね。。

旅行日 2017.09.12






テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 38
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた

コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
大きな五輪塔が並んでいますね。歴代ごとにじゃなくて無秩序にというのが理解不能です。ただ全員がそろっているところがすごいですね。「阿部一族」の舞台は地元ですので一通りまわっています。おっしゃるとおり次代のために残らないといけない部下も必要だし、殉死しないで生き延びてブレーンとしてやっていくのは大変な事だと思いますね。ちなみに細川氏の墓所は妙解寺跡と泰勝寺跡の二か所です。忠利公の霊廟と殉死者の墓は妙解寺跡にあります。泰勝寺跡は細川護熙氏の熊本宅があり幽斎公、同夫人、忠興公、ガラシャ夫人の霊廟がありますよ。
tor
2017/10/18 22:21
torさん
5代までは、規則的な印象を受けるのですが、その後の位置はどうも決まり的なものを感じません。特に7代はこれといった実績もなく、緊急的なつなぎの藩主で、実績が少ないのです。息子は大聖寺藩を10万石の高直しを行った9代で、父母を敬うのは解りますが、、、、位置と規模を見ると藩主の行跡が影響するのが解り、興味ぐ買物があります。
大聖寺の他にも、墓所関係を回ると殉死者の墓がよく見かけるので、一度見直したいと思っていました。でも結局は殉死は潔く感じますが、損失も大きかった。。純粋なものは少ないというのが結論で、やはり無理で不毛な流行と言えたと思います。細川氏の墓所は二カ所ですか、細川氏の自邸や幽斎の墓は映像で見たことはありますが、やはり直にみたいですねえ。加賀藩の菩提寺は利家を初代にして代数の奇数が宝円寺・偶数が天徳院になっています。墓所は野田山、、こちらは広すぎて一日では回り切れません^^;
つとつと
2017/10/19 06:56
見渡せばお墓  一族揃ってのお墓なのですね
今と違って詩の世界にも身分が・・・付いてくる  でも さびしくなくて良いですね  
がにちゃん
2017/10/19 14:35
がにちゃんさん
加賀藩や大聖寺藩の前田家の墓所は殿様の墓所に行くまでに家臣団の墓所もあって、墓石の造りの違いにも興味深いものがあります。大聖寺は基本的に曹洞宗オンリーですが、、金沢の野田山に行くと全宗教が集まった感じで、数は15万以上と云われてますからビックリすると思いますよ^^なにせ、前田家は神道で、そこに行くまでに仏教だけじゃなくてキリスト教・ギリシャ正教の墓地までありますから^^
賑やかすぎて、やかましいかも^^
つとつと
2017/10/19 20:41
五輪塔がずらりと並ぶ風景は、
何か特別なものを感じさせますね。
大聖寺藩主とその一族の墓は、みんな
この様式で統一されてるんですか。
殉死の話は、私にとってただ痛ましいもの
にしか思えません。先の大戦の数々の悲劇も
思い出されてしまって…。
yasuhiko
2017/10/21 11:59
先代の側近が全員殉死してしまっては、その後の藩政に支障をきたすのは明らかですね。
周囲の誹謗中傷に負けずに初志を貫くのは、なかなか難しいことだったでしょうね。
日本では同調圧力が強いというか、「他が殉死しているのに・・・」といった周囲の空気のようなものがあり、それに負けて殉死してしまった人も多いでしょうね。
空気で命を絶つとは、日本独自と思いますが・・・。
それにしても政宗はひどいですね。
自分が死んだとき誰も殉死しないのは、それはそれで寂しいものなのかもしれませんが・・・。
家ニスタ
2017/10/21 15:13
yasuhikoさん
前田家だけでなく北陸には墓所が固まって存在しますが、一族・同宗派になると同じ形態で揃うので、一種特有の墓所が出来上がってきます。
江戸期の大聖寺の藩主と一族については、同じ形態で造られています。ただ現在は神道に改宗して東京に移っていますから、江戸期から明治初期までです。加賀藩の野田墓所は墓所全体が神道に改められていますから、現代の当主は東京在住ですが野田山に葬られています。現当主の墓地も準備されています。
殉死という行為は、どう飾ってみても、悲惨さと後に残るものに苦い味をもたらしてしまいます。特に江戸初期の50年間の殉死は一部を除けば、逆の意味で人間のいやらしさが垣間見られます。

家ニスタさん
全くその通りで、変な風潮に流されたり、他人を中傷する風潮が日本人には顕著です。あれだけ命のやり取りをした応仁以降の武将たちの中で、主人の自然死に付き合った人は少なく、後を盛り立てようとした人が多かったと思います。
文中の家康と秀忠の逸話にあるように、殉死者を褒めた秀忠に戦国たたき上げの家康が怒鳴りつけた逸話は典型的です。それと江戸初期の藩主墓所に観る殉死者は、古参の家の人はあまり見られません。ほとんどが新参の家臣がほとんどで、古参の家臣団はあまり見られません。やはり変な風潮と周囲の空気としか思えません。この短い期間の流行が、明治以降の軍国に影響したと思われます。
つとつと
2017/10/22 17:56

コメントする help

ニックネーム
本 文
実性院B 大聖寺藩主墓所 つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる