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<<   作成日時 : 2017/10/31 21:24   >>

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以前も書いていますが北陸道の国名は越の国と云い、分割された国名は若狭(嶺南)、越前(福井嶺北)、加賀、能登、越中、越後、佐渡となります。若狭は北陸道ですが、京都の外海として畿内に含まれることが多く、佐渡は離島ですから、越前・越中・越後北陸道とすることが多くなります。三国に分立したのは天武末期から持統天皇の時代と云われています。
元は越前・越中・越後の三国でしたが、国域や国境も何度か変遷しています。越前の最大域は嶺北に能登・加賀を含めた領域、越中は新潟の上中越を含んだ領域という時代もありました。

養老2年(718年)、越前国から四郡(羽咋(はくい)郡・能登郡(鹿島(かしま)郡)・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)を分離して能登国が誕生しています。天平13年(741年)一旦、越中国に併合していますが、天平宝宇元年(757年)に改めて独立して能登国が再誕生しています。能登が越中時代、国司で赴任したのが28歳の大伴家持(746〜749年)で、家持はこの赴任期間に223首の和歌を作っています。
能登巡行の際にも幾つか読んでいます。 (万葉集から)

※之乎路(しおじ、志雄路)から 直越えくれば 羽咋(はくい)の海 朝凪したり 舟梶もがも
※妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川(にぎしかわ、仁岸川) 清き瀬ごとに 水占はへてな
※珠洲(すず)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり
※香島)(かしま、鹿島)より 熊木をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ
※とぶさ(鳥総)立て 舟木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びそ


語について、、、、

志雄路  ・・・越中国府のあった伏木から氷見を経由して南羽咋・気多大社に出る山越え道
仁岸川  ・・・奥能登門前のなき砂浜(朝ドラOPでまれが踊っていた砂浜)に注ぐ川
長浜の浦・・・見附島を含む10数キロの海岸線
香島   ・・・鹿島、後に能登国府が置かれた地、当時は能登郡家
熊木   ・・・能登中島地区 七尾内湾に注ぐ熊木川を遡ったようです
鳥総   ・・・木立の繁った天辺やこずえ、木を伐採した後に切り株に木の天頂を挿して山神に捧げること、ここでは後者


ちなみに加賀国は平安時代に入ってからで弘仁14年(823年)、越前国から江沼郡・加賀郡を分割独立させたものです。加賀国が国内では最後に誕生した国です。

能登と加賀の境界はと云われると、石川県人でも意見が分かれます。河北郡をどちらにするかということです。
発足当初の能登では含まれておらず加賀郡に含まれていました。その後、江沼郡から能美郡、加賀郡から石川郡が分離したため室町期までは加賀郡でしたが、いつしか河北郡の名が出たと云われています。戦国時代に前田利家が能登国を領国とした際に、この河北郡(現かほく市・津幡町・内灘町)までを領有して能登国の一部になったわけです。江戸期、加賀藩が能登・加賀・越中を領有して金沢を藩都にすると、浅野川以北が河北郡になったという経緯があります。このために加賀藩時代は加賀とすることが多かったようです。しかしこういった経緯で現代でも能登と加賀を表す際にはどちらにも河北郡が含まれて表示されています。ただし河北郡の内灘町は金沢圏内として加賀になっています。
おかげさまで、河北郡出身の僕は県外の人に、能登出身ですか加賀出身ですかと聞かれると、困ってしまって答えられないんですよね。。。
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能登国総社 表参道 鳥居

話が変な方向に行ってしまいましたが、今回は総社の話ですから奈良・平安時代ですので、前述の四郡時代の能登国になります。総社については、以前にご説明しています ⇒ H28.06.27 石部神社 加賀総社
国司(国守)の最も重要な仕事に国内の主要神社に参拝するというものがありました。現在もそうですが、神社は地域に密着しており、地域の人心安定には欠かせない行事ともいえます。ところが毎月行われるこの行事ですが、広い国内に幾つもの有力神社が存在したわけで、毎月これを行っていては国司の業務や体力に支障をきたします。そのために考え出されたのが総社(惣社)でした。ちなみに今回の能登國には当時43座の神社があったようです。これを毎月廻るというのは不可能に近いですし、費用も労力も嵩みます。

国内にある有力神社の祭り神を分霊合祀して、国府の近くにまとめとなる神社を創建して、毎月国司が参拝するようにしました。つまり、総社(惣社)は各国の総まとめ神社として国家が創建した官営神社になります。
国司が政務を行う国府の政庁正倉・地元神を祀る総社・聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺国分尼寺(北陸道の国分尼寺は若狭を除いて不明で、そもそも建てていないという説が有力です。)。この三施設は国府を中心に国司の奉仕作業の中心となっていました。
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ところが朝廷の力が弱くなってくると、いずれの施設も衰退していきます。国府も平安末期以降、荘園領主の浸食、源平の争乱、幕府地頭の台頭、戦国期と時代を経るごとに国府は衰退・消滅していきます。後ろ盾の国府が消滅すれば、後ろ盾を失った総社・国分寺も衰退・滅亡或いは退避のために遷座していきます。この三施設がはっきり元の場所位置の特定がなされている国は数少ない事例と思います。

一番最後に国となった加賀国府は、白山勢力との争いで平安末期には衰亡しています。更に中心地が北の野々市や金沢に移ったために歴史の土に埋もれ、推定はされていますが政庁は行方不明です。国分寺も既存の寺院を国分寺としたためにこれまた行方不明。辛うじて、石部神社が村の社として続いていたおかげで、丹羽長重・前田利常によって再興された程度です。
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律令制度では国の分類国力(大国・上国・中国・下国)と、畿内からの距離(近国・中国・遠国)で等級分けされていました。北陸道では若狭(中国・近国)・越前(大国・中国)・加賀(上国・中国)・能登(中国・中国)・越中(上国・中国)・越後(上国・遠国)・佐渡(中国・遠国)となります(これは10世紀頃の基準です。)。ちなみに加賀は発足は下国でしたが数年で上国に格上げされています。この国力・距離の等級の組み合わせで、派遣される国司の職位・位階が定められていました。

能登国は加賀国に比べて、歴史的には長い分、能登国分寺の所在ははっきりしていて、発掘によって規模や伽藍配置が判明しています。能登国分寺は創建から400年程栄えたこともあり、江戸時代から場所は特定されていて、昭和45年(1970年)から発掘調査が行われ、昭和49年に国史跡に認定されています。平成4年、一部復元も施され史跡公園として公開されています。
能登国分寺跡には史跡公園になって、七尾にたまたま住んだついでに、すぐに見に行ったことがありますが、中国とは言え下国に近い扱いの能登国ですが、国分寺の規模面積の広さには驚いた記憶があります。当時は無かったのですが、展示館も造られたそうなので再訪の機会があれば紹介します。

能登国府は残念ながら行方不明ですが、七尾市府中町(七尾湾、食祭市場の前)の印鑰(いんにゃく)神社が国府の正印と正倉(租庸調を納めた倉)の鍵を祀っていることから府中町近辺という説、神社は大手町(七尾駅前)から現在地に移転記録があり、文禄年間(1593年)この印と鍵が発掘された赤間田という地名が解らず場所は特定されていません。地名に府がつく町名も多いことも災いしています。印と鍵が埋められたのも緊急避難的要素が強く、通常通りなら国分寺と総社の分岐点の古府(ふるこ)町交差点辺りが有力だと思うんですが。。
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肝心な能登国総社国分寺跡から東方約1キロの石動山への登山口にあります。往時はもっと大規模な造りだったと思いますが、江戸初期に再興され、明治には村社とされています。この神社には七尾市に1年程住んだことがあり、けっこう近くに住みながら、初めての来訪になります。




総社由来碑
能登国内四十三座の神を祀るほか、 一九〇七(明治四十)年合祀した諏訪神社の建御名方神を祀る、旧社格は村社。能登国の総社である。
総社は平安中期から後期にかけ国司が管内の官社などの神霊を国衙(こくが)に近い地に勧請して奉幣参拝の便をはかったのに起源するという。
社伝によれば往古大穴持命を奉祀 したのに始まり、源順が能登守の とき再建して能登国中の式内四十 三座の神を勧請したという。
「能登国式内等旧社記」には「惣社矢田郷古府村鎮座、称惣社明神或云惣座宮、往古国府神拝之惣社也」とある。
春祭四月十八日、秋祭十月十八日。
一六三八(寛永十五)年の三番叟図額、 三十六歌仙額や一六四一(同十八)年 の絵馬額がある。


駐車場に本殿・三十六歌仙額・三番叟図額が説明書きされていました。この神社は三十六歌仙所縁の神社ですから、実物をいつかは見たいものですねえ。。七尾市指定文化財。
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総社由来碑にあるように創建は、大穴持命(おおあなむちのみこと、大国主)が能登を平定した際に、腰掛けた石をご神体にして祀ったのが始まりとされています。北陸道には大国主の伝承が多く残っています。
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天元3年(980年)、能登守として赴任した源順(みなもとのしたごう)能登43座の式内神を勧請して能登の国魂神(くにたまがみ)として再建したものです。この時から能登国総社として奉幣を司る能登の守護神社となっています。ちなみに、式内神はこのブログではお馴染みの延喜式神名帳に載る神社の祭神で、延長5年(927年)以前に存在を国から認められている神社の主祭神を挿します。つまり源順が赴任当時、能登に43座の神社があったことを示します。

また能登国総社のもう一つの名前は「能登国魂(くにたま)神社」といいますが、国魂は国や国土そのものを神格化したものを云います。近世でも北海道開拓時代の神社、戦中の海外の群島や占領地の神社、近代でも海外の神社に米国国魂神といった具合に神社名や祭り神として表されます。総社はその地を代表する別格の神社だとなります。

源順(みなもと したごう)ですが、まあ、あっさり名前を読める人は少ないと思いますが。。前述のとおり、三十六歌仙の一人に数えられる宮廷歌人でもあります。以下は能登守赴任の際の一条家に残した送別の歌
  「越の海に むれは居るとも 都鳥 みやこの方ぞ 恋しかるべき」
  「まつ人も  見えぬは夏も 白雪や なほふりしける  越のしらやま」
  「神の座す 気多(けた)の深山木(みやまき) 繁くとも わきて祈らむ 君が千載を」

これ以降、源順は和歌を詠んでいません。任地の能登で亡くなっている上に、仕事に追われたか和歌を発表しなかったのか。。とはいえ、認地に赴く前の作品ですが、まだ見たこともない気多大社の原生林、白山を見事に歌い込んでおり、能登・加賀の名所として都にも知られていたことを示しています。
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源順(したごう)は、源姓が示すように嵯峨天皇の皇子から臣籍降下した大納言・源定(みなもとのさだむ)の曾孫にあたります。しかし、父親が散位(役職なし)で正七位下で急死していることから、下級貴族の無位無官からのスタートでした。ちなみに、よく殿上人と云いますが、これは元々は朝廷の中枢となる清涼殿の殿上の間に昇殿を許された者を指します。通常位階でいう4.5位以上、秘書官や給仕人となった昇進候補生の6位蔵人30人まででした。貴族社会は父の職位位階は子について回ります。つまり、源順は昇殿までに5段階以上も下の身分でした。
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ところが源順という人は今でいう早熟の天才でした。平安期の中でも屈指の天才学者・多芸の芸術家とも呼ばれています。20代前半の源順が現代にも名を残すことになったのが、「和名類聚抄(和名抄)」。和名類聚抄日本初の分類辞典で、今でいう漢和(漢漢)辞典になります。この功績は大きく、今日の英和・漢和・百科辞典などの源流で、語順は違いますが現在の辞書の基準を最初に作った人です。この和名抄は、皇族・貴族の必須条件の漢詩・漢文・和歌の辞書に当たるわけで、後世の朝廷・貴族邸でもテキストや判読の必需品となって残り続けてきました。

それだけのものを、まだ奨学院通いの学生の(下級貴族の子息がここに入るだけでも大変なんですが、、)20代そこそこの若者が作ったわけです。内容も和漢東西の地理・歴史から漢字の意味まで網羅したもので、弱冠20歳の源順は、その歳で和漢の地理・歴史・その他知悉していたことになります。しかも、この作製は源順が、醍醐天皇の第四皇女・勤子(きんし・いそこ)内親王のサロンに通って命じられた私的なものでした。ちなみに勤子内親王は後に藤原師輔に嫁いでおり、史上初めて臣下に降嫁した内親王です。35歳の若さで亡くなっています。源順は内親王とは、はとこの遠い縁戚関係で、それを伝手にサロンに通っていたようです。
その他にも多才性を発揮していたようで、宮廷内では若いながら当代一流のたいへんな才人として知れ渡っていました。作者不明と云われる清少納言や紫支部に影響を与えた「うつほ物語」「落窪物語」「竹取物語」の作者ではないかと云われています。

その後、その学才を買われて、40歳で無位無官・学生としては異例ですが、村上天皇の命で和歌所の寄人に任命されて、有名な「梨壺の五人」の一人として、万葉集の解読・訓点作業・後撰和歌集の撰集作業に従事しています。
ちなみに「梨壺の五人」の内訳ですが・・・年令は寄人に任命された年令
大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)・・・30歳。三十六歌仙の一人。大中臣家は古くから朝廷の祭祀を司る家(中臣神道)でしたが、平安中期から伊勢神宮祭主を世襲して、江戸期に姓を藤波に改め、明治維新まで続いていました。神社神職に藤波姓が多いのはこの一族の流れ。  小倉百人一首・・・「みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼はきえつつ 物をこそ思へ」
清原元輔・・・43歳。三十六歌仙の一人。この時点では従七位か。。娘は枕草子で有名な清少納言。この寄人を機に昇進を重ね、河内、周防の国司に叙任され、晩年は肥後守として任地で亡くなっています。肥後でも和歌を多く残していますし、女流歌人・桧垣との交流は有名です。肥後の清原神社の祭り神とされていましたが、現在は熊本市の北岡神社に合祀されて境内社になっているそうです。  小倉百人一首・・・「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」
坂上望城(さかのうえもちき)・・・不明(40前後か)。2年前に越前掾(じょう、三等官)ですから、6.7位か。三十六歌仙・坂上是則が父親。
紀時文・・・29歳。父は三十六歌仙の一人で、土佐日記の著者として知られる紀貫之。かな文字も使い分けた父の血を引いて文字と書の大家。

この五人の為した万葉集の解読と訓点(訓読み分)の成果は、漢字の当て字だらけで、難解なな暗号文とまで言われた万葉集を誰れでも読めるようにしたことです。万葉集が長く伝えられ、現代でも誰れでも読めるようになったのはこの五人の功労といえます。
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これだけの成果と多彩な実績を挙げた源順(みなもとしたごう)ですが、彼が奨学院で認められて文章生(一種の学士号)になったのはこの2年後です。当時は藤原氏が貴族の上位を席巻し始めた頃で、文章生や文章博士には有力貴族(藤原氏)・皇族が優先されていましたし、広範囲な彼の才能が中国史と漢文に固執する教師に疎まれたともいわれます。彼が初任官するのは更に歳を重ねた45歳(従6位下)になります。ただ、才能豊かな人として各貴族サロンにはひっぱりだこだったようです。そのおかげか、10年程で殿上の従5位下に昇任、下総権守(権守は赴任しない国司)、和泉守を歴任します。

しかし、この人気の引っ張りだこは、危険も引き入れ、安和2年(969年)58歳の和泉守在任中に安和の変に巻き込まれます。この変は藤原氏の他氏排斥の陰謀とされますが右大臣・藤原師尹の指示で、多田源氏・源満仲が左大臣・源高明の謀反密告に及び、大宰府に流罪させた事件です。源高明のサロンに頻繁に出入りしていた源順も嫌疑が掛けられます。容疑は晴らされたものの和泉守の任期後は散位のまま、10年近く不遇を過ごすことになります。源順69歳、最後の職制として能登守に補任されます。これは長い散位生活への情実人事だと思われますが高齢での地方赴任、前述の総社創建など文化面の充実に努めながら3年後、任地の能登で亡くなっています。

源順にとっては無念が残る死だったかもしれませんが、奈良時代の当代一流の万葉歌人・大伴家持、平安期最高の才人・歌人と云われた源順、二つの時代に当代一流と云われた歌人・学者を迎えた能登国でした。
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能登國総社能登国府国分寺と共に盛衰を共有していますので国府の滅亡は国分寺の滅亡、総社の衰亡も意味します。
他国の例ではその多くが荘園による土地の蚕食が初因が多いのですが、能登では目立った荘園化は進んでおらず、12世紀になってからと云われていますから、国府が衰亡するのは鎌倉期もしくは鎌倉期を越してからになると思われます。ただ、能登国府の記述がほとんど皆無に近いのと、僕自身も勉強していないので、不明が多く次回に持ち越しにさせてください。ただ、社伝に鎌倉時代、足利一門の畠山泰国(生没年不詳、執権・北条泰時の偏諱を受けているので鎌倉初期の人物、鎌倉初期と思われます。)が「国府守護の神社として、歳時(四季折々)に奉幣を行っていた」という記述があります。鎌倉期の能登守護は初期に北条朝時が越中守護を兼ねていたことが解る程度で、いまひとつ勉強不足です。。畠山氏の関与は確証が持てません。。
能登畠山家の正式な成立は畠山本宗家当主の畠山満慶が兄・満家に当主を譲って、能登守護に入った応永13年(1405年)からで、どうも判然としません。

国府の印と正倉の鍵が緊急避難的に埋められていたことは、戦塵に巻き込まれて焼失したのは確かなようです。
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能登国総社の現在の社殿は江戸初期の寛永14年(1637年)建立、延宝2年(1674年)に少し南に移築したと棟札に記載があるそうです。本殿が「一間社流造・杮葺き」ということですが、残念ながら全体を覆屋(おおいや)で保護しているために、姿形の外観は解りません。拝殿は瓦を見るかぎり新しい建物のようですが、建物部は古式の趣きがあります。また境内地は手入れをされた大木に囲まれているのでなかなかの趣きです。
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狛犬は吽形がピンボケしてしまい解り難いですが、両方に角があるように見えます。コブにも見えるけど。。^^; 髭がユニークでごつい顔を柔らかくしています。昭和10年(1935年)寄進銘あり。
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本殿手前の左手にたくさんの大きな力石が並べられています。能登地区は古くから相撲が盛んで、奉納相撲や力石を持ち上げる競合が行われていました。総社でも古くから能登部他からも多くの力自慢が集まって、競い合ったそうです。案内板を転記すると・・・





力 石 ( 盤 持 石 ) 
幕末時代を最盛時として、能登地方農村地域において力比べとして、盤持や俵担ぎなどが行われた。
当国府町では大正七年(1918年)、唐戸山相撲大関となった中の戸(若虎の子にあたる)が壱石盤(150kg)を軽々と差し上げたと云い伝えられている。この力比べも終戦後は衰微を辿り現在に至っているので最競時の貴重な文化財としてここに保存する。   昭和六十二年 盛夏 古府町 古府明考会

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能登は前述のとおり、古くから相撲の人気の高い土地柄で、江戸時代の阿武松(おうのまつ)緑之助(1828年第6代横綱昇進、鳳至郡七海村(現・鳳珠郡能登町七海)、輪島大士(1973年第54代横綱昇進、七尾市) と二人の横綱を輩出しています。小・中・高等学校にも土俵を持つところが多く、相撲人気の高い土地柄です。




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文中の唐戸山大関ですが、正式名「唐戸山神事相撲」といって、羽咋神社の祭神・磐衝別命(いわつくわけのみこと)に奉納される相撲神事の大関です。磐衝別命は、日本で初めて野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)に相撲をとらせた11代垂仁天皇の皇子になり、羽咋氏の祖とされています。皇子も相撲好きで、羽咋を治めた際に、兵士たちに相撲をとらせて体力を養わせたと伝えられています。相撲好きの皇子の遺徳を偲んで命日(9/25)に行われる相撲神事です。上山(加賀・越中)下山(能登)100人ほどの参加力士でそれぞれの大関を「水なし、塩なし、まったなし」で競って決め、最後の上下大関戦は行司を含めて土俵外に全員転がって恒例の同体決着とすると神事です。

大関は、この神事での最高位になったということです。大関は翌年は親方として世話役に廻りますから、、、大関になることは能登では最高の名誉になります。県内の相撲大会では最古の歴史と伝統とされています。
大関・中の戸の父・若虎の顕彰碑が参道入り口に建てられていました。若虎のことは全く知りませんでした。知ってる人がいたら教えて欲しい。。

旅行日 2017.08.19

 




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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
毎回 とても勉強になるブログです  わたしは 読ませていただくだけで精一杯  そんな自分が 1番楽しみにしてるのが 狛犬さんです

いろんな狛犬さんを拝見できるのがうれしいです

能登の歴史は どれも初耳なのが多くて新鮮です
メミコ
2017/11/01 10:12
メミコさん
ついつい小難しい文章になるのが僕の悪い癖・・僕の記憶帳みたいなものですから
いろんな神社を回っていると、いろいろな狛犬さんに出会いますが、石川の狛犬はちょっと獰猛なのが多いようです。獅子舞が盛んなせいでしょうかね^^
相模は鎌倉幕府のお膝元ということがあって、相模国府は何度も移転していたようで行方不明のようです。。総社は六所神社ですが、結局国守は名前の通り六カ所の神社を回っていたようです。でも国分寺・国分尼寺跡は日本で最初に国指定を受けていたと思います。訪れると大国ですからビックリの広さだと思いますよ^^
つとつと
2017/11/01 17:07
能登の歴史も相当古いようですね 京都とは、また違った形の歴史を感じますますね 以前友達と能登(珠洲)を回った折に、タクシーの運転手さんからいろいろな話をしてもらいました、面白い運転手だったなぁと思い出しています
がにちゃん
2017/11/01 18:29
がにちゃんさん
能登には真脇遺跡のように高度な縄文遺跡がありますし、九州との交易もあったようです。時代が下ると渤海との交易の玄関もあって、加賀よりも発展していたと思われます。
観光地の運転手さんは、観光案内ができるように歴史に詳しいし、勉強もしているそうですよ^^前にがにちゃんさんが来られた時に、今日書いた場所を結構まわっていて、へ〜〜っと感心したの覚えています^^
つとつと
2017/11/02 04:09
能登国総社、両側を木立に囲まれた
参道に、神さびた趣が感じられますね。
私の地元の隣町である府中市は、
武蔵国の国府のあった所。大国魂神社という
武蔵国の総社があります。祀られてる
神様の中には、秩父神社の神様も含まれますから、
この神社が出来るまで、武蔵国の国司は
大変な思いをして神社巡りをしてたんでしょう。
武蔵国分寺遺跡は現在も発掘中ですし、
国府跡も最近になって場所がほぼ特定されたようです。
お話を聞きながら、つい武蔵国の事を考えてました。
と思ってたら、源順の名前が出て来てびっくり。
私は大変出来の悪い国文科の学生でしたが、
それでも『和名類聚抄』で調べ物をした事くらいは
何度かあります。その著者である源順が、
能登国の国司を務め、しかもこの能登国総社を
国玉神として再建していたとは…。名前だけしか
知らなかった人が、急に歴史上の人物として
実感できる存在になりました。
yasuhiko
2017/11/02 21:48
yasuhikoさん
源順の名前を読める人はなかなかいないだろうと思っていたら、読める人がいるんですねえ^^;しかも和名抄もしっかり読まれてるとは驚きです。国文科出身とお聞きしてなるほどと思ってしまいました。源順は3年間ですが国司を努めながら能登で亡くなっていますが墓所は不明です。国府近辺に眠っているとは思うんですが。。。
武蔵国も国は広いですから、神社巡りは大変だったと思いますねえ。関東は大きな国が多いですけど、特に下野国は12社を巡っていたそうです。しかも国の外周伝いの山岳地帯をぐるっと一周半。。国司は大変な労力だったと思います。しかも令制国なので皇族出身の国司、おぼっちゃまには大変な作業だったと思います。
武蔵国三カ所すべてが判明してるんですねえ@@どこの国も国府の政庁跡がなかなか解らないようですが、すべての調査が終わると素晴らしい成果が出そうですねえ^^
つとつと
2017/11/03 09:37
イータンさん
イータンさんの質問への答え 20年以上前に元紳士服飾販売の僕からメンズとしての答えです。日本でよく使う言葉、ヴェスト(ベスト)、ジレ、ちょっきについて、ちょっきは日本語で直着から来ているみたいでヴェスト・ジレ双方を云う日本語です^^  で、ヴェストはアウターで着る袖なしで前身頃と後(裏)見頃が同じものを総称して云います。ジレはヴェストというのが一般なんですが、3Pスーツやジャヤケットのインナーに切る後(裏)見頃が別生地やサテン・化繊で作られているものを云います。メンズはフランス宮廷が発祥なので王朝貴族の姿がが基本系なんです。
つとつと
2017/11/03 21:11
なるほど、国府と総社、国分寺のすべてがわかっている国は少ないのですね。
以前石岡を訪れたときに、常陸ではこの3つがはっきりしているようでしたが、これは稀有な例なのですね。
以前はあまりありがたみもわからず、ぼんやりと見学しましたが、今度行くときはもっとしっかりと見てくることにします。
家ニスタ
2017/11/03 21:22
家ニスタさん
そうそう、前に家ニスタさんがUPした総社、今も健在で立派な造りでした^^三点セットがはっきり揃った国がありましたねえ@@;
常陸は親王国で皇族の権威が高い土地柄でしたねえ。その影響でしょうか、貴重な存在だと思いますよ^^
今日、家ニスタさんに感化されて、ひさしぶりに10何年振りかで地元の博物館に行ってきました。記憶がよみがえりました。法隆寺の焼失壁画の拓本がコーナーになっているのをすっかり忘れていました^^;久しぶりに観ると感慨深かったです。
拓本とはいえ迫力ありました。^^;
つとつと
2017/11/04 02:47
ちょっと出かけていてPCが使えず本日拝見しました。今回も勉強になりました。偶然なのですが。一昨日公開したのですが、勘違いから国分寺に辿り着きました。意外とこじんまりとしていて…?国府の衰退・消滅のなか国分寺も衰退していったのですね。
tor
2017/11/05 21:50
torさん
国府・国分寺(国分僧寺・尼寺)・総社は三身一体の関係で、国府は朝廷組織の地方機関ですから、朝廷の力が弱まれば国府は衰退や滅亡が待っています。平安末期から鎌倉に至って多くの国府が消滅しています。更に国分寺は国家仏教ですから同じ運命にあります。総社は神社ですから磁場に溶け込む場合が多いようです。国分寺はその後に跡地や別の場所に再興されたものも多くあるようです。
ただ、国政機関ですからどれも大規模なものだったのは窺えます。またブログも拝見させてください
つとつと
2017/11/06 08:59

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