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zoom RSS 旧養老公園 祈りの小径

<<   作成日時 : 2017/11/29 15:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 37 / トラックバック 0 / コメント 10

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おっしょべ公園から山の方に登ると長い散策路になります。別名・祈りの小径
前ブログでも書きましたが、本来はのとやの側道から登った所にある粟津の守護寺・大王寺からが順路になりますが、今回はおっしょべ公園から逆に進むことにしました。ただ、ちょっと後悔したのは、最初の三叉路までの登り坂が結構きついんですよね。日ごろの運動不足がこんなところに出てしまいます。
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祈りの小径には西国三十三観音が道伝いに配されています。落ち葉の中の石仏は少し寒そうですが、なかなか良い雰囲気で静かな山道を石仏を眺めながら進むことができます。案内板には総延長630メートルになっていますが、側道とかもありますから実質的には倍以上はあると思います。起伏があるので運動靴が良いですねえ。
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画像はおちょぼ滝 手前が29番・馬頭観世音菩薩坐像 奥は不動明王像
おっしょべ公園から最初の登りでクランクの曲がり角の広場にあるのが、おちょぼ滝
。残念ながら、水は流れていませんでしたが、流れた後がありますから雪解けの春先頃には滝の流れも観られるかも。。
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広場には日露戦役の慰霊碑が。。山陰に建っています。日露戦役では金沢の第九師団は乃木希典の第三軍の主力で旅順攻略、奉天会戦で多くの犠牲者が出ています。石川・福井には日露戦役の慰霊碑が多く各地にあります。
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急勾配の登りに、やっぱり順路通りにするべきだったと後悔しながらも三叉路に、右に登る道が泰澄上人像や岳山への登山道のあるところ、ますます厳しい登り坂になります。ヒイコラ言いながら登り切った先には大きな泰澄上人像。ここから更に進むと岳山の登山道になりますが、、、、
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眺望も良い場所で、画像右に見える白い屋根は運動施設の小松ドーム。見にくいですが、左手奥に片山津の柴山潟が観えます。
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東屋もあるので景色を見ながらひと休憩。。東屋には幸せの梵鐘、鳴らしましたがあまり大きな音はしなかったなあ。。僕のいる間は鳥の声だけが聞こえていました。
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泰澄上人像は北陸には幾つかあるんですが、いずれも厳つく歳をとった姿が多いのですが、ここの像は若いお顔をしています。泰澄が白山を開山したのは35歳ですから、若い姿の方が当時に近いと思われます。
粟津温泉のシンボルとなる泰澄上人像は、国道8号線から見えるあわづ温泉の文字の台座上の右手を挙げた像が知られていますが台座が高すぎて観難いし、こちらの像の方がはっきりして良いし、お顔も良いですねえ。。
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前に来た時は気づかなかったのですが古い顕彰碑が二つありました。一個は倒れたまま草むらの中に「温泉会碑」の文字、画像では小さく見えますが1.5メートルほどある大きなもの、円形は漢籍で書かれています。摩耗したり変色があって読みにくい物でしたが、泰澄による粟津温泉開湯の由来と繁栄、粟津の風光明媚な立地と歴史、その起源となる泰澄の顕彰が書かれています。文中に「〇高十六尺建銅像」があり銅像が約4.8mで、「公衆遊歩之地名養老園」、この祈りの小径は粟津岳山遊歩道が正式名ですが、明治期には養老園、その後は養老公園と呼ばれていたようです。

撰書には「明治卅六年秋九月撰併誌 正三(二?)位子爵菅原朝臣利鬯」 年月は明治36年(1903年)9月、菅原朝臣利鬯の前田利鬯(としか、1841〜1920)は大聖寺藩14代当主で最後の藩主になります。この時期には東京に移住しています。官位については藩主時代は従五位だったと思いますが、明治20年に子爵位になると共に正四位で、死去時は正二位ですから時期的には正三位が正解か。。明治期には北陸本線の延伸運動に努力したと伝わります。この運動の際に訪れた先で出されるお菓子を詳細に記述論評した日記を残すほどの甘党。宝生流謡曲の名手で250曲をそらで歌えたと云われます。
ただしこの辺りは、昔日は大聖寺藩の領地ではなく、加賀藩三代・利常の隠居領であり、死後には加賀藩に戻されていました。利鬯の来訪と撰書は風流人としての名声が大きかったことによると思います。
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前回はあまり詳細を書きませんでしたが、粟津温泉を開湯した泰澄(たいちょう)上人(682〜767)は越前国麻生津(あそうづ)で地方豪族の次男として生まれたと云われます。麻生津は現在の福井市三十八社町、浅水町近辺と云われています。生まれながらにして白髪の異形の主とも伝わっています。

山岳修験道では役小角(えんのおづぬ、役行者、631?〜701?)が始祖とされていますが、泰澄は中興の祖とも呼ばれています。しかし、この二人が僅かの期間ですが道連れになった期間があります。また別伝承では同時代人ともされています。

有名な伝承としては7世紀末、京都嵐山の愛宕山。60代の老境の役小角とまだ駆け出しながら俊英の10代の修行僧・泰澄の二人はコンビを組んで愛宕山の悪霊を駆逐しながら清滝に訪れた際に、日本一の天狗とされた愛宕山太郎坊と出会い神髄を受け愛宕山の悪霊を完全に退治します。この功績により役小角と泰澄の名は一気に高まります。

しかし、そのすぐ後に、葛城山の役小角は讒言によって伊豆島(現・伊豆大島)に流罪。1年半ほどで大赦を受けていますが、帰国半年後に亡くなったと云われます。その死の一年後、大宝2年(702年)文武天皇によって、愛宕山の悪霊退治の功績を認められ、泰澄は大天狗と出会った清滝の大杉の地を清滝四所権現、朝日峰に愛宕権現(愛宕太郎坊)の神廟(現・愛宕神社)の創建を命じられています。この時に弱冠20歳で鎮護国家法師に任命されています。
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また別伝承では、役小角は死んでおらず、その後も葛城山に隠棲して修行を続けていたという前提のものです。
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泰澄の白山開山・粟津開湯の後の話ですが、その後、泰澄は都や越前を離れ各地の山を巡って開山や布教の浪々の旅を続けていました。
養老6年(722年)元正天皇が重病に陥った際、朝廷の医術・祈祷が行われましたが一向に回復しません。更には世上の名高い医者や祈祷師も地方から呼ばれましたが一向に回復しません。ついには葛城山の老齢91歳の役小角も呼ばれますが、体力不足であと一歩のところで失敗に終わります。昔コンビを組んだ泰澄ならばという推薦の言葉を残して去ります。それを聞いた朝廷が必死に探し回って呼び戻され登場したのが泰澄になります。泰澄の施術は大成功で、元正天皇は本復を果たします。この功績によって神融(じんゆう)禅師の称号を与えられています。名前の通り、神と融合した禅師という至高の名称。
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ちなみに元正天皇は、史上では4人目の女性天皇になります。それまでの推古天皇(敏達天皇の妻)、持統天皇(天武天皇の妻)、元明天皇(草壁皇太子の妻)は夫の代行的立場で即位しています(元明は息子・文武の後任)。もちろん、この三人はそれぞれが天皇の内親王(欽明⇒推古、天智⇒持統・元明)という事実があって可能だったわけです。元正天皇は早世した文武天皇の姉で日高内親王と呼ばれていました。父は天武・持統の子で草壁皇太子、母は阿閉(あへ)皇女(元明天皇)になります。文武天皇の忘れ形見・首(おびと)皇子(聖武天皇、当時14歳)が幼かったため独身のまま史上初めて母から娘に譲位された天皇です。初期には藤原不比等、長屋王、新田部(にいたべ)皇子、譲位後には病気がちの聖武天皇に代わって、晩年まで橘諸兄(葛城王)、藤原仲麻呂と錚々たるメンバーに支えられて公務を執行していました。このメンバーを見ると解りますが、敵対関係の人たちがこの天皇に対しては一致協力しています。人望・統率力ともに優れていたようです。

平安期以降の藤原氏の摂関政治や上皇の院政で、天皇の即位は幼年の印象を持つ人が多いと思いますが、飛鳥から奈良時代にかけての天皇は、経験・実行力を要求される30歳前後が暗黙の適年齢とされていました。当時の文武天皇の14歳即位は異例だったわけですが、皇后の不在・不明(正妃は弓削皇子と不倫騒動を起こした紀皇妃だったとも云われています)、更には政治逃避が窺われ、挙句に24歳とこれからというときに早逝。。女帝が続いたのは、文武更にはその父・草壁皇子の死による朝廷のトラウマが大きく影響したようです。
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譲位後は聖武天皇がいますが晩年の仏教導入以外のおおきな公務のほとんどは元正天皇・上皇(仙洞)が執っており、その後に続く5人目の女性天皇の孝謙天皇に繋がっています。これほどの天皇ですから、その重病は国家の一大事だったわけです。泰澄はその後、天平9年(737年)疱瘡流行を治め天下一等の法師とされ、孝謙から藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を経て称徳天皇が復位した際(天平宝宇8年(764年))に、正一位大僧正に任命されています。

大僧正位は日本では僧侶の最高官位ですが、現在は各宗教や各宗派の最高位に冠されることが多く安っぽく感じますが、当時は仏教、宗教の僧侶は一部の私度僧を除き国家に属していたわけで、その国家組織の官位としては最高位になります。全ての僧職を監督・教育する全権を持っていたと思ってください。

ちなみに日本での大僧正の始まりですが、思ったよりも古く推古32年(624年)に百済からの渡来僧・観勒(かんろく)が推古帝から僧正に任命されたものと云われています。観勒は僧正になる20年ほど前に百済から来日、朝廷で暦法(歴本)、天文遁甲・方術(道教思想)を教授していたのですが。。この時代は、まだ渡来僧や遣隋使僧からの教えでなった俄か私度僧が多くいました。つまり、正式な戒律は伝わっておらず、いうならば俄か坊主が多く出たわけです。ところが、この年に僧侶が自分の祖父をぶん殴る事件が発生。怒った推古帝は僧侶全員の解職・処刑を命じようとしましたが、これを諫めたのが観勒でした。ここから僧位・僧綱の礼が定められ、初代僧正を観勒として最初の僧侶の綱紀の任に当たらせたわけです。この時から国家が僧籍を認める傍ら、私度僧を禁止したわけです。しかし渡来僧や遣隋使や遣唐使帰還の私的な受戒や詐称僧侶などであまり効果は無かったようですが。。
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ちなみに、推古天皇がブチ切れて、僧侶を全員処刑しようとした行為を疑問にする学者が多くいますが、、同時代に崇仏派筆頭の聖徳太子や蘇我馬子がいたおかげで、仏教が珍重され流布されて行ったのですが、彼らに担がれた推古天皇も崇仏派と見られがちですが、推古天皇は元々は廃仏派だった敏達天皇の妻だったこと、蘇我氏が物部氏との抗争に勝つまでは、穴穂部皇子の殯宮(もがりのみや)レイプ未遂事件・その後の強要をうけて物部氏に担がれていたこと、更に蘇我馬子とは土地問題で対立が多かったのをお忘れなく。。

更に僧正から大僧正に名称が変わって、最初の大僧正になったのは、聖武天皇が東大寺造立のために任命した行基になります。ところが元々、行基は私度僧集団の頭目だったわけで、それまでは国家から弾圧されていた存在でした。聖武天皇は大仏建立で後世に名を残しますが、行基の抜擢や智識寺保護は国家的には矛盾するもので、天皇の暴走として朝廷では大問題だったわけです。

ちなみに、日本に正式な戒律が伝わり、戒壇で受戒を受けた出家者が僧になるという秩序が構築されたのは、鑑真が来日して戒律と共に戒壇を設けた天平勝宝6年(755年)孝謙天皇(聖武天皇は上皇)の時代になります。この後、最初の東大寺大仏殿に戒壇を築いたのを皮切りに、大宰府観世音寺・下野薬師寺に戒壇が築かれて国内に広がって行きます。泰澄大僧正就任は戒壇が設けられて以降の正式な任官になり、山岳修験者(正式な受戒は受けたと思われます)が、鑑真来日以降に大僧正位を受けたという事実は注目に値します。

泰澄上人像の脇から粟津岳山への登山道が続いています。銅像から約1.5キロで大きな堤を経由して山頂に行けるそうです。低山がいくつも連なる粟津の山並みですが、粟津岳山は標高169メートル。粟津では一番高い山になるそうです。春の花咲く頃はハイキングで賑わうそうです。

平日ということもあり、途中で出会ったのはカメラと三脚を抱えたおじさんとカップル一組でした。一番の眺望の泰澄上人像のある頂の道をフウフウ云いながら登っていましたねえ。。下りを降りる僕はとっとっと「こんにちは^^/」と声かけてすれ違ってきましたが、それ以降は誰とも出会いませんでした。
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元の三叉路に戻って先を進むと、道脇に幾つもの観音や石仏に出会えます。他にも寄進されたと思われる記念碑や石祠、石仏・石塔が散在しています。台座に下山の文字が書かれたものが目立ちます。泰澄上人の白山からの下山を表すものだと思います。画像の石塔のような祠も泰澄だと思ったんですが、横には花山法皇の御製歌(おほみうた、ぎょせいうた)が彫られていましたから花山法皇の旅姿かも。。泰澄が開創した近くの岩窟寺院・紅葉の名所・那谷寺の名づけ親です。粟津以外にも小松や加賀に多くの伝承が残っています。 一度ブログでもUPしています ⇒ 花山神社 菩提町
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三叉路からは平坦な道ですから散策には打ってつけ、もう少し早ければ紅葉も目立ったんでしょうが、すっかり落ち葉の色になっていました。






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粟津白山神社にもう少しで着くという道から観える谷底に赤い屋根@@実はこれ粟津温泉相撲場の跡になります。

以前にも書きましたが、石川県は古くから相撲が盛んな所でもあります。相撲の競技会も大小合わせると、20試合前後が年間に開催されていると云われています。能登・羽咋市の2千年の歴史といわれる唐戸山神事相撲を筆頭に神事・仏事・祭礼相撲の盛んな能登地区はピーク時には60以上は祭礼相撲があったと云われています。現在は大きなものでは前述の羽咋市の唐戸山神事相撲・宝達志水町の蓮華山大相撲・七尾市の明治記念愛宕山相撲が継続開催されています。
加賀でも相撲は盛んですが、今は競技相撲のみといって良いかも(一部、白峰などで神社の奉納相撲が開催されています。)。。代表的なものでは金沢卯辰山相撲場などは毎年、全国高校相撲大会が開かれています。僕が高校生の頃は能登の高校が強かったのですが、今は金沢市立工業・金沢学院東といった金沢勢が活躍していますねえ。。大相撲の遠藤はH20の第92回大会で金沢学院東で団体・個人のダブル優勝を果たしています。

昭和30年頃をピークに昭和末期までは、加賀地区でも祭礼相撲や虫送りなど行事に合わせた寄合相撲が盛んだったんですが、娯楽の多様化、都市部への人口流出、相撲人気の低落で、ほとんどが姿を消していきました。しかし、古い神社や学校にはまだまだ相撲の土俵が残っています。今、大相撲は大揺れですが、早く問題処理を収めて、人気復活を果たして欲しいものです。やはり地域相撲にしても大相撲の人気に影響されますから。。
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加賀でも祭礼相撲が華やかだった時代。ここ粟津温泉でも大掛かりな相撲場がありました。この相撲場がその夢の跡です。その規模は小松・加賀地区では最大規模でした。現在は谷底のように見えますが、この谷のような斜面全体が観覧席になっていました。

粟津温泉の相撲大会は「全国大寄合相撲」と銘打って毎年8/27、粟津温泉の湯の祭りに合わせて行われていました。その発祥は不明ですが、名前は寄合ですが、温泉の守護寺・大王寺の本尊・薬師如来への奉納祭礼相撲でもあったことから、少なくとも明治初期に遡り、古い歴史を持っていたことが窺われます。開催日の書かれた石柱がその古さを伝えています。粟津温泉の全盛時には近在近郷は元より全国から観客が集まり、数千人の観客で賑わったと云われます。昭和49年(1974年)大寄合相撲の幕を閉じ「全国選抜都市対抗相撲大会」と変わり5年間開催されたのですが昭和54年に幕を完全に閉ざし、ときたま使用された時もあったようですが、いつしか打ち捨てられた状態で現在に至っています。
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今は荒廃しきった相撲場を載せてしまいましたが。。粟津温泉は着実に復活の道を開きつつあります。
同時期に粟津温泉を訪れていたgoさんが復活した「粟津演舞場」を紹介していましたが、この演舞場の復活は画期的だと思います。しかし、更に古い歴史を持つ粟津温泉の公園(養老公園)の整備は粟津温泉完全復活の必須になると思います。その道のりの困難さを象徴するような遺物です。
小松市には末広運動公園に屋内・屋外相撲場があり、JR粟津駅の西側に同じ名を冠した粟津公園という総合公園があります。相撲場の復活は現実的に無理としても、せめて養老園としての復活整備は急務になるでしょう。祈りの小径自体はとても良い雰囲気の散策路ですから。。

旅行日2017.11.09

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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
泰澄さん 男前ですやぁ〜ん  京都の愛宕山にも深い関係があるのですね
結構山深い感じですね  歴史と信仰と・・・山岳修験者気分で 
紅葉もきれいですね
疲れた時にお花や紅葉は疲れを取りますね  頑張りました(笑)パチパチパチ
がにちゃん
2017/11/29 15:36
白山を開山した若き頃の泰澄上人像ですね。良いお顔をされてますね。紅葉もあり見所もありで楽しめますね。歩いた後は温泉もありますから最高ですね。
tor
2017/11/29 21:09
がにちゃんさん
あっちこっちで泰澄さんの像を観ていますが(実はこの後すぐにもう一回出会っています。)今まで見た中ではこの像が一番かっこいいかも^^
山裾ですからこういった雰囲気ですよ。でも気持ちよさそうでしょ。もうちょっと早ければ、紅葉ももっとよかったんでしょうけどねえ。。
それにしても逆回りしたのは失敗でした^^前に訪れた時は、順路通りでそうは思わなかったんですが、今回は大失敗の良い足腰の運動になりました^^;

torさん
若き頃の泰澄さん 役小角との道行きや白山開山 僕の知っている伝承は泰澄さんが若い頃のものばかりです。まだ、晩年を過ごした泰澄寺を訪れたことがないんで、いずれはと思っているんです。老境の泰澄さん、また見る眼が変わるんでしょうが>>>泰澄さんは多くの山に登ったようですが、伝承では阿蘇の山にも立ったと云われています。
つとつと
2017/11/30 12:54
こんばんわ。
ところで、おっしょべとはどう言う意味なのですか。
山道の途中によく石仏があるのは旅の安全を、守るためなら一か所に集中していないでしょうしこのような配置は何を物語っているのですか。当然地元の村人の安全や幸運を願って設けてあるのも考えられますが、はたまた道しるべなる考えもあるのでしょうか。
素人故の疑問につきお教えいただければありがたいです。
ゆらり人
2017/12/01 21:36
なるほど、「祈りの小径」とは、
西国三十三カ所を表す石仏巡りのミニコースでしたか。
温泉治療のついでに回るには、けっこう
ハードな道程のようですが、実際に巡礼旅を
する事を思えば、助かる方も多かったんでしょう。
泰澄上人という方は、伝説によれば、
役小角の後継者のような立場の方だったんですね。
修験道の歴史は詳しくなかったので、
両者をめぐるお話、とても参考になりました。
yasuhiko
2017/12/01 22:10
ゆらり人さん
このひとつ前のブログに書いていますが、江戸初期に粟津温泉の温泉宿に努めていた二人の男女。竹松とお末(おすえ)。この二人の恋物語が語り継がれているんですが、加賀地区では女の子の名に「べえ」という愛称をつけるんですが、巷の「〇〇ちゃん」みたいなものですね。「おすえべえ」が訛って「おっしょべえ」「おっしぇべ」になったみたいです。石川は大きく分けると奥能登・能登・金沢・小松・加賀で大きく方言が変わるんです。加賀の方言だと、娘・さん=にゃあ・にゃ、で、加賀温泉の名物土産に娘娘饅頭(にゃあにゃあ・まんじゅう)があります。僕の好物の一つです。
前に加賀言葉とこの饅頭のことを書いています。http://72469241.at.webry.info/201212/article_20.html 加賀温泉のお土産はこれがいち推しです。
つとつと
2017/12/02 14:12
ゆらり人さん
北陸の寺院や温泉地に並ぶ観音像は西国三十三観音といって、近畿+岐阜の33か寺の観音本尊を模したものです。四国のお遍路が有名ですが、この33の寺を1番からすべて巡礼すると、今まで犯した罪業が消滅して極楽往生が遂げられる、と云われています。この西国33カ所巡礼を創始したのは真言宗・長谷寺(八番)の徳道上人。その後長く廃れたのを花山法皇が再興したと云われています。
でも、ただでさえ遠い近畿の寺(2府4県)しかも33カ所。そうそう回れるものではありません。そこで考えられたのが一カ所に33の観音像を置いてそれを拝めば西国を巡ったことになる、一日一度で罪業消滅・極楽往生を願えるという信仰です。ちなみに、一生に一度は信濃の善光寺参りと言われますが、この西国33カ所巡りの達成を一光三尊阿弥陀如来に報告して浄土に導いてもらうと意味から発生したものです。
文中にも書きましたが、北陸特に加賀地区では北陸巡行をした花山法皇の人気が高いんですね。このため、花山法皇や真言宗寺院、他宗派の寺院にも西国三十三か寺の観音像を巡礼できる区画を作っています。この粟津のすぐ近くにある那谷寺は、泰澄が創建した「巌屋寺」でしたが、花山法皇が訪れた際にこの山と寺に西国三十三カ所の全てが揃っているということで、一番・那智山青岸渡寺 、三十三番・谷汲山華厳寺の名から一字ずつを取って「那谷寺」としたと伝えられています。
つとつと
2017/12/02 15:19
yasuhikoさん
順路通りに廻れば、登りのきついのは泰澄像までの道だけなんですが、今回は逆から廻ったので全て登りになっちゃいました。普通に廻れば結構楽な散策路です。お越しの際にはのとやの脇を大王寺から歩いてみてください。温泉あるからいいかも^^北陸の各地に西国三十三カ所巡りの観音様が随所にあります。特に加賀には多く見られます。ゆらりさんに書いたように罪業消滅がメインですから、日々の煩悩を治める目的だったかも。。
山岳修験者は本来は個人として動いていたようで、役小角にしても泰澄にしても、アウトロー的に動いていたようです。役小角が愛宕山に向かう際には泰澄は稲荷山で修業中でしたが気が合って同行したようです。
ついでに文中で行基のことを書いていますが、白山開山から8年後に、朝廷からの弾圧を受けて諸国を回っていた行基と泰澄が白山の山頂で会合して、将来極楽浄土で会おうと約束したという話が伝わっています。当時の僧侶の多くは小乗系の仏教者で厳しい修行を是としていましたから、多くが山岳修業に係わったと見られます。
つとつと
2017/12/02 19:05
役小角といえば伝説上の人物かと思いましたが、泰澄上人も同時代の人なのですね。
役小角はいろいろと超自然的な伝承がありますよね。
しかし泰澄は白山開山・粟津開湯となると、まさに加賀にとっては大恩人といった感じですね。
家ニスタ
2017/12/03 23:34
家ニスタさん
役小角にしても泰澄にしても伝承の方が独り歩きしていると云えるかも、僕はどちらも実在と思っていますが、、鎌倉・室町期に相当の脚色が施されているようです。伝承については相当差っ引かないといかないでしょうね。さすがに空を飛んだとか大島から富士に毎日往復などは眉唾物ですから。。
越前・加賀・越中・飛騨・近江・越後での泰澄の足跡は非常に多くありますが、さすがにすべてというのは信じられませんが、多くの地での人気は思ったよりも大きいですねえ。特に加賀や越前の寺院は半分以上、泰澄との係わりを唄っていますから。。ちょっと悪口は言いづらいところです。
つとつと
2017/12/04 08:45

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