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<<   作成日時 : 2018/01/10 23:04   >>

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更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。

機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。

2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から

脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋)
椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。
こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓がある経王寺があります

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H25.12.14撮影 経王寺門内五重石塔 銘に「宝暦第六暦五月二十九日」とあります。1756年。宝暦の大火を潜り抜けた石塔です。
経王寺は日蓮宗の寺院ですが、加賀三代藩主・前田利常の母・寿福院(千代保)と彼女の菩提寺・妙成寺の14代住職・日淳上人により創建されています。二人は越前朝倉氏の家臣・上木家の出身で異母兄妹になります。
寿福院は加賀藩江戸屋敷で亡くなっていますが、金沢での葬儀・法要は経王寺で行われ、現在も位牌所となっています。寺院は度重なる火災で再建を繰り返し、現在は門構えは古風ですが建物は鉄筋コンクリートで近代的な物になっています。前述の寿福院と日淳の出身となる上木家の菩提寺は一乗谷にあったそうですが、朝倉氏滅亡後に府中領主となった前田利家によって武生に再建されています。武生菊人形展が行われる会場の近く、旧北陸道沿いに現在も健在です。その名も同じ「経王寺」。寿福院の越前への思い入れが覗われます。ちなみに、武生の経王寺には江戸中期(正徳元年1711年頃)の府中(武生)の詳細が書かれた「 府中惣絵図」があることで知られています。往時は前田利常の生母の位牌所として広い敷地を有していたようで、現在の金沢大学付属病院や金沢美術工芸大学のキャンパスも経王寺の境内や墓地になっていたようです。
現在は金沢大学医学部との間に大きな道路が出来ましたが、石引交差点から行くとトンネルに降りる本道の右脇に或る寺院から道路を隔てた場所に墓地があります。ここに加賀騒動の悲劇のヒロイン・真如院の墓があります。

加賀騒動は江戸時代の黒田騒動・伊達騒動と並べられる三大お家騒動とされています。仙石騒動が加えられる時がありますが、僕個人の意見では黒田・伊達・仙石のお家騒動が三大で、加賀は幕府という中央機関が介入していませんから別種と言えると思います。

加賀藩という大藩を維持するだけでもタイヘンなことですが、伝統・体面を維持する費用や幕府への協力には大きな財政支出がありました。またその運営のための組織は藩主を中心に加賀八家と呼ばれる家老衆と人持組(68家)の有能者の中からの数名による合議制を採っていました。合議制の良い面は制度や運営を維持する保守には最適なのですが、財政改革などの変革を行うには不適な面が多いことです。
合議制は幼い5代藩主・前田綱紀が藩主となった際に後見となった前田利常・保科正之などによって構築されたと見られますが、長じて綱紀の長い治世時に藩主権限は強化されたとはいえ、合議制は崩されていませんでした。藩の支出が増大するのに対し、金銀を含める鉱山の減少などで収入は減少していました。この不均衡により財政は急速な悪化をきたしていました。6代藩主・前田吉徳は、藩財政の改善のためには藩主独裁による権限強化で急速な改革を目指します。
画像画像は、歌川国芳(一勇斎国芳)作 大月傳蔵錦絵 石川県立歴史博物館収蔵 、名前を一文字変えているのが味噌
吉徳が藩財政強化に抜擢した人物が大槻伝蔵。大槻伝蔵は後に脚色された小説や浮世絵の加賀騒動では大蝦蟇に乗ったり妖術を駆使し藩主を殺して藩を乗っ取ろうとした大悪人として描かれています。戦後の研究では大悪人どころか優秀な経済・政治家と名誉復活の機運があります。

大槻伝蔵は鉄砲足軽280石の家に三男として生まれ、幼児期に波着寺(現・金沢市石引)に小僧として入れられています。つまり、家を継げなく口減らしになったと見られます。名前は朝元(ちょうげん)。この名は元日の朝に生まれたためにつけられたと伝わっています。その後叔父の養子として加賀藩に努めていた時もこの名を踏襲して「大槻伝蔵(または内蔵允(くらのすけ))朝元(とももと)」と名乗っています。
ちなみに、この波着寺は今は商店街の裏側にひっそりとありますが、江戸期には金沢城下では最大の白山信仰の寺院で、往時には現在の兼六園地内に前田家菩提所・宝円寺と共に祈願所として置かれていた寺院です。現在地に移ったのは3代利常の時代で敷地1万坪を誇り、旧町名・白山町と呼ばれた元になった寺院です。
明治に白山比盗_社の白山寺破却の際に、寺物が払い下げられている金沢では貴重な寺院です。本堂内の白山の扁額が有名。機会があればまたご紹介します。

出世の切っ掛けは6代藩主・前田吉徳が当主になる前の波着寺での出会いと云われ、13歳で御居間坊主として吉徳に仕えています。この御居間坊主は世継ぎの若様の身辺世話係、そういえば小姓と同義に聞こえますが、小姓は家老など有力者の子息で若様や殿様の側近として仕え、将来は最側近衆としてのエリート候補生。御居間坊主は単なる若様の道具や衣類を整理する使用人で、若様や小姓ともまともに話せることは無く、出世には関係ない存在でした。しかしその精励ぶりと端正な顔立ちが吉徳の目に留まっていたようです。7年後、吉徳が6代藩主となった際に、改めて還俗して「大槻伝蔵朝元」として側近となる御用部屋詰めとなっています。

吉徳の父・5代藩主・綱紀は4歳の時に父・光高が早世し藩主に就任、祖父・利常(3代)、大政参与・会津松平家初代・保科正之の後見を得て、在位80年の長期政権を保ち加賀藩100万石を確立した大立者です。天下の書府・金沢と呼ばれたのも綱紀の時代になります。徳川光圀・池田光政と共に江戸初期三名君と呼ばれており江戸幕府に対して加賀百万石を確定させた人物です。子の吉徳に藩主を譲る頃には幕府から家格を上げられ、準御三家待遇になっていました。この家格と百万石の格式を維持するということは、幕府への奉仕・儀礼・儀典だけでも大変な歳出超過となり、併せて領内鉱山の枯渇や領米収入の頭打ちなど歳入は減少しつつあり、綱紀末期には大きな財政赤字に陥っていたのです。

大変な情勢にあった時に時代を継いだ吉徳は大幅な財政改善の政策を急速に推し進めるために、変革に向かない加賀八家合議体制から藩主独裁体制に進めます。その際に旧来の派閥を廃して、前述の御用部屋の側近衆のみの独裁体制を敷いたわけです。その御用部屋で突出して政策を進めたのが大槻伝蔵でした。
大槻伝蔵は大倹約令で儀式・儀典の出費を抑え、いくつもの新しい税を創出、それまでの藩蔵米の投機は決まった日を選んでいたものを、米価格を調査・時期を見る売買に変換、さらに米・銀相場で歳入を増やすなど。。この施策では完全とは言えないまでも藩財政は立て直しの軌道に乗り始めていました。行政面でも火消しに足軽隊を編成して消火隊を作ったり、また、逸話の域ですが、石川郡の強訴による武装百姓一揆に対して、要求に武力鎮圧・様子見で混乱する藩を代表して単身乗り込んで決着を図り、代表者15名の自首と引き換えに要求を入れるという離れ業も演じています。以前まで旧松任市内に犠牲となった庄屋15名の慰霊碑があり10数年前に観たのですが、場所が思い出せずにいますが。。。これらの政策がもう10年もあれば固定化できて財政基盤がある程度は整ったかもしれません。。
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H25.6.27撮影 法船寺庫裏 金沢市中央通町 大槻伝蔵の屋敷玄関門が移築されています。法船寺門前は寛永の大火の出火元としても知られています。
前田吉徳の期待に応えて大車輪の活躍を果たしたわけです。御居間坊主という茶坊主からのゼロに近い地位からスタートしながら、吉徳在世の20年間、毎年昇進・加増を受けること22回。最終的には加賀藩内では名門しかなれなかった人持組(68家)の一員となり3800石取になっていました。現在の大和アトリオ横の中央公園(四校記念館の辺り)が屋敷地跡で広大な敷地と邸を構えていました。
しかし、こういった急激な改革は既得権益を侵された旧勢力や名門家の反発を招くことになります。それでも嫌われながらも公明正大で政策官僚として表に出すぎなければ、みなも我慢したかもしれませんが。。と、言いながら保守的な加賀藩では誠実剛健な寺島蔵人(競)のような頑迷な告発者も排斥されていますが。。

加賀八家では最大扶持の本多家の始祖・政重の父は徳川幕府草創の立役者・本多正信になります。この正信が述べていた座右の銘・遺訓に「軍領とは違って、官僚・政治家は国を治める事が本分・報酬であり、慈しみと育成を本分とする、このように国事に奉仕するのが本分で、人気や地位を求めず公明正大・清貧自重に努めねばならない。権謀を弄して政権を実するならば、他者が羨み怨む大領の封地や報酬を受けてはならない。」としています。実際に関東移封後の徳川家康時代には隠居していた酒井忠次(子の家次・臼井3万7千石)を除いて、本多忠勝(大多喜10万石)・榊原康政(館林10万石)・井伊直政(高崎12万石)などの四天王に匹敵する功績を持ちながら、玉縄1万石(2万2千石?)を受けて以降は江戸幕府での関東総奉行などの幕府要職など政治の実権を持ちながら、封地や扶持・報酬は死ぬまで辞退し続けていました。また官位も従五位下と朝廷直接交渉の出来るぎりぎりのラインになっています。戦国ファンには陰湿で陰謀家・影の大策士として嫌う人が多いですが、軍師・官僚としては最高の人物と僕は思っています。現代の政治家や官僚にはお手本として実践して欲しいものです。

嫡男・正純(まさずみ)にも遺訓として「将軍家には釘を刺してはきたが、わしの死後に幕府から功労として増領の話が出るだろうが、受けずに済むなら良いが、受けざる負えない場合、官僚として家を残したいなら3万石以上を受けてはならない」と言い残しています。しかし、正純は宇都宮15万5千石を受け、更に幕府実権を握ろうとして周りから排斥を受け、釣り天井事件で出羽国横手に幽閉され本多本家も断絶しています。
ちなみに次男・政重は加賀本多家の始祖として重きをなしています。初めは軍事の勇名で再仕官した者ですが、その後は対幕府・他大名といった対外交渉で功績をあげて加賀藩内最高扶持6万石を受けていました。ただ、外様家臣ということで当初は藩内での立場や交際に苦労したようです。越中返上の回避の功績で更に3〜5万石の加増を辞退しています。受けていれば10万石の家臣誕生でしたが、そこは父の遺訓を受け継いで加賀藩筆頭家老の家を現代に繋いだと云えます。本多博物館にこの時の加増の代わりに拝領した「村雨の壺」があります。

話が本多家に行ってしまいましたが。。大槻伝蔵という人は本多正信のように陰に徹することが出来なかったようで、自分を大言壮語したり屋敷をデカク派手にしたり、八家老にも上から目線になっていたようです。
財政縮小で既得権益・職務を奪われて不満がたまっていた保守派重臣ですが、財政・行政面のそれなりの実績があっても大槻伝蔵への恨みは極限に達していました。後ろ盾の藩主の御威光は大きかったと云えます。
伝蔵の最大の政敵にして、最後には排斥に追いやった前田土佐守家(加賀八家)の前田直躬は、そんな中でも四度に渡って吉徳の息子・宗辰(むねとし)に大槻伝蔵の弾劾状を出していますが、ことごとく藩主・吉徳に擁護・反対され、家老職も罷免されています。。。自分の手記も残していて、「伝蔵は足軽の三男の上に、性格は悪い、淫乱だし、大酒飲みのくせに、我々と同等だと思っている」と書いています。ちなみに、この弾劾状や手記は長町の武家屋敷の入り口にある前田土佐守家資料館で観ることができます。

延享2年(1745年)、藩主・前田吉徳は55歳で病死します。7代藩主を継いだのが前述の前田宗辰でした。宗辰は吉徳・伝蔵コンビの政策に対しては反対派だったと云われます。吉徳の一周忌後、宗辰と前述の前田直躬を筆頭とする保守派によって大槻伝蔵に対して「先主(吉徳)に対する看病不十分」という言い掛かりともいえる理由で、藩主命令で蟄居を命じ、2年後に禄没収と共に五箇山に流罪となります。ちなみに加賀藩の流罪地として知られるのは越中五箇山と能登の能登島が知られています。特に重罪の流刑人は御縮(おしまり)小屋と呼ばれた流刑小屋に入れられていました。特に五箇山は重罪犯扱いで8カ所あったと云われていますが、小屋に渡る庄川には一切橋を渡さず孤立化させていました。このため流刑小屋のある場所は別名・人喰い山と呼ばれていました。大槻伝蔵の入れられていた流刑小屋は不明ですが、昭和40年に倒壊したものを復元した小屋が全国唯一の流刑小屋の文化財として残っています。以前見たことはあるんですが画像がないので、興味のある人はこちらをどうぞ ⇒ こきりこの里・上梨 流刑小屋 HP

大槻伝蔵を蟄居させた前田宗辰ですがその半年後に急死します(享年22歳)。後を継いだのは異母弟・ 前田重煕(しげひろ、利安)17歳。つまり、大槻伝蔵を流罪にしたのは重煕の代で、まだ江戸在府の時期のため執政の前田直躬によると思われます。
伝蔵が五箇山に配流されて2か月後、後年「加賀騒動」と呼ばれる事件が江戸屋敷で発生します。
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H26.4.15 経王寺墓地 真如院墓所
江戸屋敷の重煕の茶室に毒が入れられた暗殺未遂事件が発生、さらにその一週間後に同じように吉徳の側室・浄珠院(宗辰の母、重煕の養育者)の部屋でも発生。これが同じ毒物で、容疑者として捕縛されたのが同じ吉徳の側室・真如院の娘・楊姫付き奥女中・浅尾が実行犯として捕縛、金沢に護送されます。浅尾の自供により主犯は真如院と判明します。その後、浅尾は処刑され、真如院は金谷御殿(現・尾山神社境内)に幽閉となります。
更に真如院の部屋から大槻伝蔵の不義密通の恋文が発見され、尋問の末に真如院は不倫を認めたと発表されます。
真如院の捕縛幽閉を伝え聞いた大槻伝蔵は流刑小屋で自刃します(享年46歳)。伝蔵の死を伝え聞いた真如院は自ら希望をして加賀藩士の手によって縊死させられています。

一応、加賀藩の公式発表は、主犯は真如院。自分の息子・利和(吉徳四男)を藩主にしたいために、不倫関係にあった大槻伝蔵の陰謀に乗って重煕(吉徳次男・8代藩主)・浄珠院の暗殺を謀った。二人の男子の出生にも疑いがある。また、吉徳・宗辰の死にも関与した疑いがある。証拠は浅尾の自供・毒物(浅尾の部屋からも発見)、発見された大槻伝蔵の密通を匂わす恋文、真如院本人の自供といったところ。

吉徳と真如院の間には二男三女の5人の子が生まれていましたが、息子・利和(四男13歳)は藩主後継候補から廃嫡、小立野の牛坂付近に幽閉され25歳で病死。八十五郎(六男7歳)は加賀八家・村井家への婿養子は解消、金谷御殿に幽閉、大火で高畠家に移され2年後に病死21歳。二人は没後、天徳院墓所に葬られていましたが、昭和に復権するまで除籍扱いで前田家の供養にも外されていました。復権後に野田山・前田家墓所に改葬されています。
女子は総姫(次女)が富山藩主、楊姫(三女)が秋田・久保田藩主と婚約していましたがお構いなし、(五女は夭逝)
真如院は経王寺墓地の現在地、浅尾は処刑後は経王寺の別場所(現・金沢大学病院敷地下、行方不明)に葬られています。
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H20.3.12撮影 妙成寺墓地 大槻伝蔵墓 戒名 将落院朝露日竹居士
大槻伝蔵は能登の妙成寺墓所に葬られています。ただ、この墓に関しては供養碑という説もあります。
大槻伝蔵の親族・家臣団50名も全員処刑。その他の関係者も改易・放逐など大槻一派・関係者は徹底的に排除されたわけです。この辺りはH26公開の映画「武士の献立(上戸彩・高良健吾主演)」が加賀騒動に時代背景や主人公を絡ませて多少の脚色はありますが、作られており解りやすい作品になっています。

加賀騒動は事件性の割には不明な部分が多く、真相究明は昭和まで持ち越されています。
他の江戸期三大騒動の伊達・黒田・仙石騒動と違って、幕府の調査・介入が行われておらず、身内で修めてしまったために真相が闇の中に隠されていました。派閥争いと家督騒動が絡んだのは間違いはないのですが、、
真相がはっきりしない中、端正な顔立ちで才色兼備と云われた出頭人・大槻伝蔵。藩主・・吉徳に多くの側室の中でも一番寵愛を受けた真如院。奥女中の浅尾といった具合に悪役が美男美女ということ。
吉徳の病死にはじまって、その子の7代・宗辰(長男、1年半)8代・重煕(次男、6年)9代・重靖(五男、4カ月)10代・重教(七男、18年)11代・治脩(はるなが、十男、31年)と実子のないまま兄弟相続が続く異常事態。例外として11代・治脩の跡には先代・重教の次男・斉広(なりなが)が養子として藩主についていますが、実は兄の斉敬(なりたか)が次期当主として養子になっていたのですが早世したというおまけつき。。この呪われたような相続。。特に7.8.9代は若くして亡くなったために、葬儀・藩主交代の手続き・儀式の費用は莫大な歳出になり、10代・重教は銀札発行で歳入をカバーしようとして超インフレを巻き起こし農民一揆が頻発、藩内は大荒れに揺れ、財政逼迫は幕末まで影を落とします。これらを市政の人たちが真如院と大槻伝蔵の祟りだと見たのは当然の結末です。

小説や講談・演劇には打ってつけの素材として、異様な脚色がなされて巷に流行って行ったわけです。この脚色がますます加賀騒動を不明な世界に置いてしまいました。特に真如院・大槻伝蔵は加賀藩を転覆する大悪人、この事件を担当・捜査指揮を執って収束させた前田土佐守直躬が危機を救った大ヒーロー。浅尾に対する蛇攻めの処刑。。何せ脚色が強すぎて。。それだからこそ、いろいろな巷説と共にこの加賀騒動が江戸期三大お家騒動に挙げられ後世に残ったともいえます。

ここからは特に個人的な見解や解釈が多くなります。異論もあると思いますがご容赦ください。
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H26.4.15撮影 経王寺墓地 真如院墓所
加賀騒動の真相はといえば、状況証拠と言える毒物や不義の恋文が発見されたというだけで、どのような毒物か恋文の内容については一切公表されていません。捕縛・幽閉後の真如院と浅尾の自供のみの証拠です。この為に当時から保守派の事件のでっち上げが噂されていました。
前田吉徳・大槻伝蔵の改革派VS前田直躬の保守派の抗争、前田家当主の家督争いが複雑に絡み合った結果、混乱しきった藩内政治の方針統一のために執政となった前田直躬による策謀と処断によって改革派を一掃したと云えます。それに伴って改革派・大槻伝蔵を擁護する真如院親子を犠牲にしたと考えられます。
現在は前田直躬の保守派と奥向きの一番の権力者・浄珠院が結びついて事件をでっち上げたというのが有力です。しかし、それは考え過ぎじゃないかと思われます。直躬のこまめな性格ならば、そんな危険は侵さなくても時間をかけて改革派を潰していったでしょう。また後後に尾を引くような奥向きとの連携を好むタイプではありません。たまたま家督争いの毒置き事件の発生で、それを利用したと考えた方が自然です。

まず大槻伝蔵と真如院(お貞の方)の不義密通について・・・伝蔵は主君・吉徳の身辺近くにまで寄り添った仲で、男色の関係にあったとも云われています。これに関しては実証はありませんが、十分考えられることで打ち消すことも難しいです。
金沢城にしても江戸屋敷にしても、真如院のいた奥向きは藩主以外は幼児を除いて男子禁制。特に加賀藩は将軍家の大奥と同等以上の厳しさがありました。いくら側近とはいえ伝蔵が奥向きに立ち入るのは至難の業です。忍び込んで不倫に及ぶ危険を犯すかは疑問です。また犯したとしても1.2度ならともかく複数回は不可能だと云えます。

ちなみに吉徳と真如院の間に誕生した二男三女ですが、事件発生時(寛延元年(1748年))の名と年齢は・・・次女・総姫15歳(富山藩主・前田利幸正室)、四男・利和13歳、三女・楊姫11歳、五女・益姫(夭逝、死産?)、六男・八十五郎7歳でした。この内、伝蔵との不倫の子とされたのが利和と八十五郎でした。総姫はお構いなし。楊姫は事件の4年後には秋田・久保田藩主・佐竹義真に吉徳の娘として正室として嫁いでいます。残念ながら夫・義真は翌年死去、病状や周囲の状況からこちらこそ毒殺を疑われています。楊姫は1年で後家さんとなって10年後に世を去っています。
利和と八十五郎が事実上の除籍扱いなのに、二人の娘は関係なく富山・秋田久保田両藩からのクレームや離縁もありません。男は駄目で女はOKなどとあざといことは言いたくありませんが、真如院の男子を後継候補から外したいという家督争いが見え隠れします。

経王寺墓地 真如院墓所 地図
真如院の俗名は貞(さだ)といいますが、元は江戸芝神明宮(現・芝大神宮)の神主家(大禰宜家)の娘でした。ちなみに吉徳の嫡男・7代藩主・宗辰の跡を継いだ次男・重熙の母は彼女の姉に当たりますが、三男出産時に亡くなっていたようです(三男も夭逝)。つまり重熙に万一の際には次期当主は四男・利和になっていたわけです。しかし加賀騒動時の当主・重熙は19歳、叔母を自身の手で葬るというのは考えにくい面があります。逆を云えば真如院が重熙がもっと歳を重ねて成人で子を生したというならともかく、毒殺するという動機が薄いともいえます。重熙は元々虚弱だったようでこの事件の5年後に亡くなっています。讃岐高松藩の長姫と婚約はしていましたが、輿入れはまだで正室はなく当然実子もいませんでした。ちなみに重熙を後見していたのが宗辰の母・浄珠院でした。浄珠院は7.8代の生母・後見となっていたわけで、仮に利和が9代になっても彼女の権勢は変わらなかったと思います。となると、9代・五男・重靖の母・善良院の方がよほど動機があると云わざる負えません。妙成寺の大槻伝蔵の墓(供養塔)を建立したのは、善良院の一族だと伝わる由縁です。ここで、日本史の鉄則なんですが、不幸や無念を飲んで亡くなった人物で、親族や所縁・僧侶以外の者が墓や供養塔を建てた場合、往々にして犯人や黒幕がほとんどということをお忘れなく。。
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H24.10.24撮影 尾山神社摂社・金谷神社 金谷御殿旧庭園・響遠瀑 旧金谷御殿跡に建てられたという金谷神社 前田家2代当主から先代当主(17代)までと正室を祀っています。拝殿内には当主の肖像画や遺影、御蓮が祀られています。
毒殺未遂事件の際、真如院はどうしていたかといえば、前述していますが六男・八十五郎の村井家婿養子が決定していて、幕府許可を得て金沢に向かう道中の途中にありました。アリバイを作ろうとしたとも考えられますが、真如院が重熙殺害を狙ったのなら利和の後継になる八十五郎を養子に出すことは考えられません。家臣の養子になるということは後継から外れますし、自身、奥向きから婿養子と共に外に出されるという危険をはらんでいますから。。第一に教唆犯は事件の結果を知るために江戸屋敷にいた方が確実です。実際には彼女は江戸からの使者に拘束されて金沢に連行され、そのまま金谷御殿の縮所(ちぢみどころ、牢座敷)に入れられています。

戦後になって大槻伝蔵や真如院が復権してきた要因は、三田村鳶魚「加賀騒動」海音寺潮五郎「大槻伝蔵」などが加賀騒動を逆の面から検証し、それまで悪人の代表とされた大槻伝蔵を優れた改革者の代表として扱った所からと云われています。更に金沢大学教授の若林喜三郎「加賀騒動」などで広まって見直され、石川県や前田家でも除籍扱いの前田利和・八十五郎が復権・野田山前田家墓所への改葬に繋がっています。
大槻伝蔵が見直されたおかげで、それまで正義のヒーローだった前田直躬は政治を旧弊の家老制に戻し、加賀藩財政を窮乏に陥れ、弾圧家、更には毒殺未遂まで黒幕とされてしまいました。

昭和以前までの解釈の加賀騒動と昭和戦後の解釈の構図を簡略化すると

事件現場:加賀藩江戸屋敷                            ⇒同地
被害者  :前田重煕(8代藩主、毒殺未遂)、浄珠院(7代生母、8代後見) ⇒前田重煕・浄珠院
実行犯  :浅尾(楊姫付き奥女中)                    ⇒不明
主犯   :真如院(楊姫母、江戸→金沢道中)                  ⇒浄珠院?善良院?
指示教唆:大槻伝蔵(五箇山監禁中)                        ⇒前田直躬?善良院?
                            

前田直躬を擁護すれば・・・

前田直躬は加賀八家の一つ、前田土佐守家の5代目当主になります。始祖は前田利家の実子で能登太守・前田利政。利政は関ケ原戦では仮病で出陣せず、処分を受けて浪人となり京都で終生を過ごしています。母・芳春院は利政の復帰を願っていましたが本人はそれを拒否、息子・直之が芳春院に引き取られて養育され、2000石で伯父・利長の家臣となっていました。芳春院の死後、化粧料7500石を相続して1万石を領する家になっていました。実質は始祖は直之ですが、土佐守家では利政を始祖としています。加賀八家では始祖・利家の血を引く唯一の直系のために筆頭重臣の立場にある家です。
芳春院の遺領には近江塩津にもあって遺領の管理はこの家でしたし、利政が京都で晩年を過ごしたことから、対朝廷政策や対応は土佐守家の役割が大きかったと云えます。当然、朝廷や京都に係るため、加賀藩内の儀式・儀礼にも大きく係わる家でもあったわけです。
ちなみに2.3代は無官、父・直竪は近江守、直躬が初めて土佐守を任官され、土佐守家の名前は直躬以降に呼ばれたものです。

前述の様に前田吉徳・大槻伝蔵の急進的な政策でも、儀礼・儀式を抑えられることが担当責任者の土佐守家にとっては死活問題でもあり、何度も弾劾状を出したり、罷免を食らうほど反発したのは致し方なかったと云えます。

加賀藩の成立からになりますが、藩祖・前田利家が自分の軍団を持つようになったのは北陸方面軍の軍監・与力として、越前平定後の府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治、三人合わせて10万石)と呼ばれた時からになります(天正3年(1575年))。9年、織田信長から能登一国23万石領有を許可(鹿島郡5万石は長連竜領有)。11年加賀半国27万石加増(金沢城入城)。12年、佐々討伐(富山の役)により越中3郡を領有(前田利長名義)。15年、佐々成政が肥後に転封されて越中新川郡20万石が利長に。利家死後の時点で83万石、利長の時代になると慶長4年(1600年)東軍に所属して戦後翌年には加賀南半国を加増されて120万石になっています。利常の代に富山・大聖寺・小松が分藩されて60万石超の時代もありましたが、綱紀時代に小松領復帰、長家が完全臣属で領地没収で鹿島郡が加賀藩に吸収されて、能登石崎藩1万石・土方氏、幕府天領を除く能登・加賀・越中・飛騨北部を領する大大名になったわけです。

実質25年間で3万石から120万石に急成長したわけです。このために、利家・利長・利常時代に多くの旧領尾張・北陸旧勢力(朝倉・佐々・佐久間などの家臣)、他藩浪人やスカウト、急速に人材を集めたわけです。
このために利長・利常時代には知行1万石以上の大名クラスの家臣団が15家以上が存在したわけです。簡単に言えば、加賀藩は前田本家の元、15以上の大名連合の政権国家だったわけです。利常・光高・綱紀の時代を経る間に領地持ちをなくして知行米扶持として金沢城下に集めた中央集権に変えていったわけです。その後の論功行賞や罰則などが相まって石高・分家・廃絶の変遷がありますが、軍団長となる八家老(加賀八家)の人持組頭。その頭下に配される人持組68家、この中から八家老と人持組からの有能者数名の合議制をとって国の運営に当たったわけです。

内訳としては石高(本多、長は元大名格)・身内の本多家5万石、長家3.3万石、横山家3万石、前田対馬守家1.8万石、村井家1.6万石、奥村宗家1.3万石、奥村支家1.2万石、前田土佐守家1.1万石の加賀八家老家。人持組1000石以上ですが八家並みの今枝・青山・津田・八家分家などの1万石以上も含まれますが、関係なく68家から選抜されています。八家が行政決定者であり軍事の軍団長でもあり、ある意味では殿様より権限を持っていたわけです。それだけの理由と力、更には自負を持っていたのです。

大きな問題は前述したように財政改革のような急務重要事項を決定するには、この協議制や全員連署といったことが障壁となったわけです。これに風穴を開けて藩主独裁で急激な改革を行おうとしたのが、6代藩主・前田吉徳であり、その前線司令官が大槻伝蔵だったわけです。
この大胆な政策は吉徳の死と共に大槻伝蔵の失脚で幕を閉じたわけですが、黒字化には届きませんでしたがそれなりの成果が出ていたわけで、その政策にも賛同者や協力者がおり、伝蔵も後ろ盾の真如院の子・前田利和の藩主誕生によって復権を期待していたと見られます。しかし、この野望に立ちはだかり打ち砕いたのが、加賀騒動を利用した前田直躬を代表する加賀八家だったわけです。

どちらが善で悪と決めつける訳にはいかないのですが、伝蔵たちの残したここまでの改革は決して無駄ではなく、直躬にしてもここまで進んだ改革の成果(新税導入、米相場)を崩さず、格式・儀礼の歳出を多少増やす程度の感覚でした。直躬の第一義は両派に分かれてしまい不協和音を治めるには出過ぎた出頭人を排除するという道しかなかったと云えます。でも、ついていなかったとしか言いようのない出来事が連続して起こってしまったのです。

予期せぬ大きな出来事は二つありました、この二つの重大事はその後の加賀藩に取り返しがつかない程の負担をもたらすことになります。まずは直躬が大槻伝蔵を失脚させて半年の出来事から始まりました。
6代藩主・吉徳に嫌われて罷免された直躬は父親の政策に反対だった嫡子・宗辰に接近。吉徳死後の一周忌後に、7代藩主・宗辰(むねとき)に大槻伝蔵を失脚させて政権に復帰します。ところが、さてこれからという所で肝心の宗辰が病死します。在位1年半、年齢22歳。あまりの突然死に毒殺が噂されましたが、文献の看護状態では病死で間違いないようです。8代藩主には毒殺未遂事件で加賀騒動の被害者で主人公の一人・重熙(しげひろ、吉徳の次男)。加賀騒動の心労が祟ったのか在位6年、25歳。9代藩主は重靖(しげのぶ五男)加賀騒動で四男・利和が廃嫡されたために藩主に。。なんと在位は5カ月、19歳。江戸から金沢に帰国する道中で発病(日本脳炎と云われています)し金沢を見ぬまま死去。あまりの早世で死去を一週間ごまかして金沢到着後の発病・死去にして次弟・重靖を末期養子として将軍に拝謁させて、取り繕っています。

三代続けて若い藩主が短期間で亡くなって藩主交代を余儀なくされています。加賀藩の藩主が亡くなって行われる葬儀は幕府重臣・近隣の大名を集めて行われますし、兄弟間の末期養子の手続きの煩雑さと幕府への付け届けは大変な出費になります。藩主就任の挨拶・礼状・礼物・儀礼なども大変な出費になります。
ただでさえ、儀礼・儀典の格式を重視した前田直躬を始めとする前田本家・加賀八家にとっては、吉徳のようにケチるわけにはいきません。野田山の墓所に行けば解りますが、さすがに三人の墓所は近接して他の藩主より小降りになっています。他人に見られない墓所を小さくするくらいしか節約はできず、前田藩主の就任・葬儀などの費用は莫大なものになっています。

更にこの後の藩主も10代藩主は七男・重教(しげのり)在位17年・46歳、11代・十男・治脩(はるなが)在位31年66歳。なんと五代に渡って兄弟間相続が続きます。治脩に至っては、まさか十男にまで回ってくると思っていなかったこともあり、越中勝興寺に出家していたのを還俗させて藩主としています。
更に12代は、10代重教の隠居後の子供で、治脩の養子となっていた長男が直前に亡くなったために、同じく養子の次男・斉広(なりなが)が就任。治脩にも男子はいましたが2歳で、逆に斉広の養子としましたが6歳で夭逝しています。ついでにいえば、この斉広は藩政改革に着手していますが途中で挫折。逆に自分の広大な屋敷・竹沢御殿と広大な庭園「兼六園」を完成させています。つまり挫折と共に趣味・放蕩に走って、ますます藩財政を苦しめています。ただ、側近に木屋藤右衛門・銭谷五兵衛など北前船主を使いこなした奥村栄美がいてこそでした。
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H24.10.24撮影 尾山神社の東神門 実はこの門は宝暦の大火で焼け残った数少ない建築物です。元は二の丸門だったものです。建築年は不明ですが、桃山風御殿様式の唐門で、金沢城現存最古の建築物と云われています。
そして、もう一つの大きな災厄、宝暦9年(1759年)4月10日午後4時に発生した宝暦の大火です。
金沢という町は冬は落雷、春夏のフェーン現象の突風によって江戸期には何度も大火に見舞われていますが、江戸期を通じて100戸以上が焼失した大火は50回以上、500戸以上が20回と云われています。その中でも最大の被害を出したのが宝暦の大火になります。

以前紹介した野町(寺町)の玉龍寺の塔中(たっちゅう)舜昌寺から火災が発生、折からの強風で燃え広がり、金沢城を含め10500余戸が全焼。金沢の8.9割を焼き尽くすという大惨事が発生したわけです。
この時の藩主が加賀騒動の余波を引きずる前田重教(10代)。重教はこの時、江戸屋敷に在府中。。
あまりの惨状と金沢城の焼失に、失火元の本寺が菩提寺で御城方御用・前田孝昌(八家・前田対馬守家)は「復興の目途もつかない程町が焼け、城も守れなかった。。あまりに責任が重い」辞職願を提出して慰留されています。城が焼失したため政庁は加賀八家・長家屋敷に移されています。政庁が城外に出たのは史上初ではないかと思います。ひっ迫状態にあった藩財政では復興が難しく、江戸在府の重熙は蔵米放出と倹約令を命令すると共に、被災状況を幕府に提出して5万両の借り入れを行って急場をしのいでいます。
この大火の被害は10500戸全焼の規模は、石川県内でいうと現在の輪島市や内灘町が一ついきなり消えたことになり、被害総額は40万石に達するとされ、現在価額で2.5〜3兆円にはなると云われています。更に復興予算や借財が加算されるわけで加賀藩は大きな負債を抱え込んだわけです。

ついでながら、この時は加賀騒動の影響で関係者の処分が続けられていた時代でした。
また間の悪いことに、火災の翌日は加賀騒動の一方の被害者・前田重熙(8代)の七回忌法要日で、その準備の真っ最中の出火でした。この為に、当初は大槻一派の腹いせの放火説、果ては非業の死を遂げた大槻伝蔵・真如院・浅尾の怨霊説が流布されたと云われます。実際には、火災は寺の火の不始末でしたが、、
しかし、火災の災害規模があまりに広範囲で悲惨な状況で、そのような噂も消し飛び、加賀騒動自体もこの火災で消し飛んで収束しています。政争や家督争いもへったくれもすべて消し飛んだというわけです。
ここから加賀藩は復興に向けて官民一同で動かざる負えなかったのです。
否応なしの重大事の負の遺産となる歳出は幕末まで藩財政を苦しめることになります。

復興が落ち着いた頃、ふと振り返ってみれば、藩主様の若死にの連鎖、考えられない五兄弟相続。祟りとしか思えない宝暦の大火。。すべてが加賀騒動に繋がってくるのです。小説・講談・浄瑠璃・浮世絵・錦絵に脚色や妄想が加わって、加賀史上最悪の反逆の徒・大槻伝蔵が誕生したわけです。おかげで大槻伝蔵や真如院・利和の関係先は一種の魔所として昭和戦後しばらくまではあまり人が立ち寄らない場所になっていました。今回紹介した尾山神社の裏門になる東神門や金谷神社、中央公園東端などは金沢市民にはちょっと避けられてきた場所です。見直しと共に人が訪れるようになってきています。まだ他にも大槻伝蔵の屋敷から移築された門や金沢のシンボルとなっている対の椎の木、五葉松など機会があればまたご紹介します。

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護国山 宝円寺
お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。 ...続きを見る
つとつとのブログ
2018/01/28 02:54

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コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
新年の御挨拶と応援コメント頂きありがとうこざいます。

いつの世いつの時代にも御家騒動は存在する様ですね。

出所の身分が低いからという事だけで、せっかくの優秀な人材を潰してしまう保守勢力というのも今も昔も変らない様です。

本年もよろしくお願い致します。
kazukun
2018/01/11 13:12
大槻伝蔵・・・見る側が反対になればよい人も悪い人に・・・
伝えられている話と現実は違うこともたくさんあったのでしょうね
がにちゃん
2018/01/11 15:22
kazukunさん
こちらこそよろしくお願いします
封建時代、特に加賀藩は家臣に領地を持たせず、一部の城地を除いて金沢に集めていましたから、政事に参加することがメインになってきますから派閥争いは、とてもシビアだったようです。ですから人持組以外からの出世はあり得なかったので尚更風当たりが強かったようです。保守勢力の自覚も大事ですが、のし上がった方もそれなりの気配りがないと潰されてしまうようです。両方の教訓ですね。
つとつと
2018/01/11 20:48
もう1月も半ば 左義長の時期ですね
今年も ときおりお邪魔させていただきます  よろしくお願いします
加賀騒動については ほとんど知りません  こちらのブログにて教えていただきます  錦絵も興味湧きます

今年も いろんな歴史エピソードを教えてください
メミコ
2018/01/11 20:52
すごい大作での年明けですね。今年もよろしくお願いします。加賀騒動についての詳細を知ることができました。いつの世も改革は今の地位を守りたい保守派の抵抗にあって汚名をきせられることになるのでしょうか…?出る杭は打たれる?それにしても祟りではと思いたくなるほどの災難続きだったのですね。以前いただいたコメントで細川忠孝廃嫡の理由は千代と教えていただいたのですが、千代は忠孝と離婚後、前田加賀八家村井家に嫁ぐのですよね。今年も楽しみにしています。
tor
2018/01/11 21:04
がにちゃんさん
昭和の30年代までは加賀史上最悪の反逆の徒と呼ばれた人物ですが、実際には吉徳のために加賀藩の立て直しに相当頑張った人物です。逆に前田直躬は江戸時代から昭和中ごろまでは正義のスーパーヒーローでしたが、近年では陰湿な黒幕のように云われています。でも、国文学書・和歌集を書くような堅さはありますが、多くの商人と気さくに交流したり、金沢和菓子を考案してレシピ集を残したり、暗いイメージは感じさせません。また部下への気配りの深い人物だと云われています。
その時代での立場の違いで、まったく違う風に観られてしまうようです。
ただこの騒動で多くの人が不幸になったのも事実です。上の乱れは下の不幸の典型のような騒動です。
つとつと
2018/01/11 21:05
メミコさん
こちらこそ、よろしくお願いします。
昨日・今日と強烈寒波で大混乱のこちらです。強風が吹いていて左義長はもうしばらく待ちの状態です。
加賀騒動は小説や映画で以前はよく目にしたのですが、なかなか内容まで知る人は少ないようです。大槻伝蔵の名前はよく耳にするけどというのが、石川県人の正直な感想です。でもあちらこちらに伝蔵ゆかりの建物や気があるんですよ。メミコさんが在住したころの県庁庁舎の前にお椀を逆さまにしたような、大きな椎の木が二
本ありましが、今も金沢のシンボルになっていますが。。実はこの椎の木は大槻伝蔵の屋敷門前に立っていたものを移植したものなんですよ^^
つとつと
2018/01/11 21:20
torさん
こちらこそ、よろしくお願いします^^
年末年始のような時でないと、なかなかこのような長文は書けませんからねえ^^
寝正月ついでに、冒頭部だけだった続きを書いて写真を探し出したんですが、載せたかった椎の木や五葉松、利和の監禁穴の画像が見つかりませんでした。また機会があったら載せますねえ^^;特に椎の木は金沢を代表する名木です。
加賀藩は文内にあるように、人持組頭の加賀八家や人持組の高位以外は、なかなか名前が表に出てこない閉鎖的なものがあります。一芸に秀でた人材が結構いたんですが、なかなか個人資料が出てきませんから抑えられていたようです。
宝暦の大火の前日は8代の七周忌法要の準備中と書きましたが、他にも真如院の息子・利和が2週間ほど前に監禁のまま亡くなっています。ここまでくるとただ事じゃないとだれもが思ったんでしょうね。
そうです。忠隆と離れた後は村井家2代・長次に嫁いでいます。利家の妻・芳春院は子供たちの中でも、京都で隠棲した利政と千代(千世)を溺愛していました。自筆文書が多く残っています。忠隆を保護していた幽斎死後に、忠興との和解・彼に相続が出来るように芳春院が引き取ったようです。長次の父・村井長頼は芳春院が江戸に人質に行く際に同行した人物で芳春院の信頼熱い家臣の家でした。金沢に戻って2.3年で夫はなくしましたが静かな余生を送ったと云われています。文中の村井家はこの家を挿しています。千世姫についてはまた神社絡みでご紹介しますね^^

つとつと
2018/01/11 22:37
丁寧な説明で、「加賀騒動」とは
どういうものなのか、その大筋が
つかめたような気がします。
私も直感的に、でっち上げ説を
支持したいと思いました。出る杭は打たれる
というのは昔も今も変わりませんね。
それにしても、何の罪もない(多分)
真如院というお方は可哀そうに…。
女性の嫉妬というのも恐ろしい気がします。
yasuhiko
2018/01/12 15:19
yasuhikoさん
長文で嫌になるくらいで恐縮です。でっち上げは間違いなかったと思います。
ただ世間の言うような奥向きとの結託は難しかったかもしれません。
映画「武士の献立」では伝蔵と真如院を恋仲にしていますが、それはないだろうとだれもが思ったと云えます。一番の被害者は彼女でしょうね。
ところで、金沢は歴史のままに古い言い伝えや伝承が多いのですが、九萬坊の潜む金沢城本丸と黒壁山・牛の刻参りの猿丸神社・そして真如院が幽閉されて殺された尾山神社の東神門から入った境内が金沢四大魔所と言われています。このブログでは全部制覇しちゃいました^^;
つとつと
2018/01/12 21:45
僕にとっても加賀騒動は、名前は知っているけど詳しくは知らない・・・という事件の代表格みたいなものです。
わかりやすく解説していただきありがとうございます。
伊達騒動の原田甲斐も人によって評価が極端に変わる人物ですが、加賀にもそうした人がいたのですね。
家ニスタ
2018/01/13 23:15
家ニスタさん
加賀騒動に関しては、家督争いと派閥争いを絡ませていますが、実際には双方の動きは別々だったのが、たまたま利用しあったというのが真相のようです。
原田甲斐にしても大槻伝蔵も小説で復権してきたところがありますが、まだまだ真相は正直不明状態。。原田甲斐に関しては僕はあまり好印象は持っていないという所です。肝心な場所での刃傷沙汰は弁護の余地なしですからねえ。。
大槻伝蔵と前田直躬も対立した派閥の領袖といった感じですが、どちらもそれなりに藩に尽くしたのは間違いありません。政治方針が違うだけで、けっこう似た者同士の感があるんですけど。。。
つとつと
2018/01/14 20:59

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