瑞龍寺

今年の初詣は高岡市の瑞龍寺に行ってきました(平成21年)。
瑞龍寺は、加賀前田家の2代当主の前田利長の菩提寺です。
弟の3代利常が兄の為に建てたものです。
画像

瑞龍寺は、加賀前田家の2代当主の前田利長の菩提寺です。
弟の3代利常が兄の為に建てたものです。

利長は初代の利家亡き後、混乱期を乗り越えて加賀百万石の礎を築いたと人物として知られています。また、隠居後は高岡に移り住み、高岡城を中心に町の整備発展に尽力しています。高岡市は昭和の40年代まで富山第一の都市でした。

妾腹の利常を利家は正妻のお松の方の手前なのか、晩年まで親子の対面を果たしていませんでした。その対面の労をとり本来当主になることはないはずの利常をバックアップし、当主の座まで譲っています。
これに大きな感謝の意を感じていた利常は、本来の前田家の墓所ではなく利長の愛した高岡の地に本墓所を作ったそうです。もちろん金沢の野田山の前田家墓所にも生母の芳春院(お松)の横にもあります。

瑞龍寺の伽藍は質実剛健な造りです。伽藍配置も変わっていて、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配置してそれを廓回廊で囲んでいます。山門・仏殿・法堂は国宝指定を受けていますし、その他の建物も重文指定を受けています。
画像画像
画像

山門も豪壮な造りですが、仁王さんの顔もいいんですよ。ちと金網が無粋ですが。。。仏殿は白灰色の屋根瓦を施しており、これは金沢城のものと同じものです。鉛で出来ていて戦時には鉄砲の弾にするためのものでした。一番奥の本殿とも云える法堂は狩野派天井画もありますが、長大な長廊下と利長の位牌のある仏壇・残り全てが畳敷きの書院造です。

利長の正室は「永姫」と言って織田信長の娘でした。
もちろん舅ということもありますが、先代の利家と信長の親密関係もあり、利長も信長を尊敬しており本能寺の変後、分骨して信長親子の菩提を弔っていたそうです。
それもあって、瑞龍寺にも石廟があります。法堂の脇から出て見る事が出来ます。利家・利長親子、信長・信忠親子、信長の側室吉乃、5つの石廟があります。作られたのは利常の時代です。つまり徳川政権下。住職の建立と云う建前ですが、一大名が織田家の廟を建立したのは珍しい事例です。必見です。" />

利長は初代の利家亡き後、混乱期を乗り越えて加賀百万石の礎を築いたと人物として知られています。また、隠居後は高岡に移り住み、高岡城を中心に町の整備発展に尽力しています。高岡市は昭和の40年代まで富山第一の都市でした。

妾腹の利常を利家は正妻のお松の方の手前なのか、晩年まで親子の対面を果たしていませんでした。その対面の労をとり本来当主になることはないはずの利常をバックアップし、当主の座まで譲っています。
これに大きな感謝の意を感じていた利常は、本来の前田家の墓所ではなく利長の愛した高岡の地に本墓所を作ったそうです。もちろん金沢の野田山の前田家墓所にも生母の芳春院(お松)の横にもあります。

瑞龍寺の伽藍は質実剛健な造りです。伽藍配置も変わっていて、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配置してそれを廓回廊で囲んでいます。山門・仏殿・法堂は国宝指定を受けていますし、その他の建物も重文指定を受けています。
山門も豪壮な造りですが、仁王さんの顔もいいんですよ。ちと金網が無粋ですが。。。仏殿は白灰色の屋根瓦を施しており、これは金沢城のものと同じものです。鉛で出来ていて戦時には鉄砲の弾にするためのものでした。一番奥の本殿とも云える法堂は狩野派天井画もありますが、長大な長廊下と利長の位牌のある仏壇・残り全てが畳敷きの書院造です。

利長の正室は「永姫」と言って織田信長の娘でした。
もちろん舅ということもありますが、先代の利家と信長の親密関係もあり、利長も信長を尊敬しており本能寺の変後、分骨して信長親子の菩提を弔っていたそうです。
それもあって、瑞龍寺にも石廟があります。法堂の脇から出て見る事が出来ます。利家・利長親子、信長・信忠親子、信長の側室吉乃、5つの石廟があります。作られたのは利常の時代です。つまり徳川政権下。住職の建立と云う建前で繕っていますが、一大名が織田家の廟を建立したのは珍しい事例です。必見です。
画像


瑞龍寺 http://www.zuiryuji.jp/

旅行日 2009.1.4