荒山砦(荒山城址)

前田利家が全山焼き討ちした石動山攻めで重要なポイントになったのが、桝形山の山頂にあった荒山砦です。能登と越中の国境上にある荒山峠・桝形山は現在は「荒山城址」と中能登町や氷見市がパンフレットや観光案内・登り口には表示されていますが、昔の文書や歴史小説などでは「荒山砦」と記されている物が多いのでここでは「荒山砦」とさせてもらいます。
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氷見の阿尾城と能登の鹿島口を繋ぐ街道の国境線上にあります。現在は県道18号です。なかなか急峻でカーブの連続ですが思ったより走り易い道です。石動山の出城とも言われていますが、元々は阿尾城の菊池氏の持ち砦だったようです。

阿尾城に関しては以前、記事に書いていますのでこちらをどうぞ
               http://72469241.at.webry.info/201208/article_57.html

そもそも石動山合戦の原因は本能寺の変に乗じて、上杉軍の後援を受けた畠山氏旧臣の温井景隆・三宅長盛が旧領復活を狙い、同じく寺領復活を狙う石動山に入ったことにあります。ちなみに景隆・長盛は兄弟です。その後、2人は桝形山に砦構築を始め普請を始めます。

魚津から信長横死を聞き急遽戻った前田利家は石動山天平寺に僧侶として入っていた七尾の氷見屋の息子から情報を得、加賀の佐久間盛政に協力を要請し、石動山と桝形山の中間に秘かに3000の軍勢で布陣します。翌日、石動山から桝形山に向かう三宅軍4300を急襲し三宅長盛を討ち取ります。勢いに乗って佐久間盛政は荒山砦を攻め、籠る温井景隆を討ち取ります。前田利家は石動山を焼き討ちし全山を焼亡・なで斬りを行っています。石動山は2日間燃え続けたそうですが、これを観た上杉軍援兵3000は引き返したそうです。
なお前田軍圧勝の要因となった前田軍に通報した氷見屋の息子は天平寺に戻った際に天平寺僧兵に殺されています。

荒山砦のある桝形山の登り口に略歴案内が書かれていますが、「豊臣秀吉の命」など時代考証が誤っていますんで省いて読んでください。
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その後、前田・佐々が交戦状態の際には佐々側の最前線基地として佐々成政降伏までつづきますが、目立った交戦はなく、前田利家が越中領有後、廃城となっています。

今回は時間もなかったので山頂の砦跡には登りませんでしたが、以前登った際は250メートル四方の単郭のようにだだっ広く感じました。(実際には下層にも曲輪があるようで連結式だそうです。)模擬櫓が組まれていて、なかなか雰囲気もあります。
能登の山は500メートル弱程の物が幾つも続く感じですが、その中では高い部類になることもあり、ここも眺望のよい場所です。能登部や邑知潟が遠目に広がって見えます。
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旅行日 2011.11.02

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