銭屋五兵衛記念館

加賀百万石と云われた大藩の歴史の中には、豪商と呼ばれた商人も多く輩出されています。その中から石川県人に一人挙げろと言われたら、10人中9人以上がこの人物を答えると思うのが「銭屋五兵衛」です。別名は「海の百万石」「豪商 銭五」。
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実は銭屋五兵衛という名前は3人います。
元々、銭屋家は越前朝倉家を祖に称する一族で、越前から初代・吉右衛門が能美辰口・金沢の大野・宮腰(現在の金石町)へと移住し両替商を営んだのが始まりです(別説では、白山市鶴来の舟岡山城の家臣一族が出自とも言われています。)
銭屋の名はこの両替商からそう呼ばれたようです。その後、5代目五兵衛が商家を大きくしたことから、銭屋家では当主は五兵衛と名乗ることになります。6代目は両替商の他、質屋・醤油醸造と徐々に多角化を進め、7代目に至って両替商・質屋の他に材木・生糸・海産物・米穀の問屋など多角化し、海運業にも乗り出します。
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先に書いた「海の百万石」と呼ばれた銭屋五兵衛とは、この7代目五兵衛を指します。
銭屋五兵衛は幼名を茂助と云い17歳で銭屋家当主となっています。
39歳時、質屋の関係で質流れとなった120石船で米を運ぶ海運業を始め、54歳で当主を長男・喜太郎に譲り(但し、商家の実権は五兵衛が持っていました。)本格的に海運業に乗り出します。
その後20年間で、日本各地に支店34軒、1000石以上の船を20隻以上、総持ち船200隻以上、使用人120人という江戸期屈指の海運業者にのし上がります。更に時の最大権力者・奥村栄実によって加賀藩から銀仲棟取(ぎんずわいとうどり)・問屋職・諸算用聞上役の諸役に付いて加賀藩の金融経済にも関わっています。ちなみに銀仲棟取とは米の仲買人に資金を貸し付ける仲買人の総取締・主任格です。

加賀藩の御手船(大名の持ち船)を建造し、加賀藩御手船裁許の役目も受け永代渡海状(加賀藩の船として全国どこに寄港しても良いという許可状)・十村役・苗字帯刀も許されています。
銭屋五兵衛の足跡として有名な所では北海道の礼文島にも碑文があることでも知られています。

銭屋から加賀藩への献上金・運上金は膨大なもので、献上金は9度行っており数字の判明している2度は軽く10万両以上、総額にすると100万両(現在価値・1兆円以上)これとは別に、膨大な運上金・御用金も収めていたと言います。

加賀藩を後ろ盾にしたとはいえ、国内交易のみでこれだけの金額を藩に収めるのは到底無理だと思われ、銭屋五兵衛は密貿易(海外交易)を行っていました。このことは公然の秘密になっており、加賀藩も黙認していたと云われます。実際、本宅には海外品専用の蔵が存在したそうです。
銭屋五兵衛の海外交易の伝説は真偽はともかく数多く残されています。南樺太からロシア沿海州のロシア交易、竹島から朝鮮・清との交易、アメリカとの海上交易、香港を拠点にした東南アジア交易、更には明治半ばに新聞記事になった豪州の南にあるタスマニアでの名入りの石版などなど

隆盛を誇った銭屋五兵衛に影を指したのは、後ろ盾だった奥村栄実の死に始まります。海外交易が幕府に知られつつあったため、後ろ盾を失った五兵衛が次に手掛けたのが河北潟の干拓事業でした。
しかし、この事業は難工事であり、投入された金額は五兵衛自身が「潟の水に金銀が果てしなく吸い込まれていくよう」だと語っており、銭屋の身代を傾けるものだったようです。追い打ちをかける様に、河北潟での魚の大量死、その魚を食べた漁民の死亡事件が起こり、五兵衛が潟に毒を流しこんだと訴追されます。(実際は投入した石灰によるとも言われますが、その後の調査で潟に発生した赤潮による毒性化説が有力です。)
こうなると加賀藩も冷たくなります。奥村の死により藩政を継いだ長連弘率いる黒羽織党により五兵衛一族は投獄されます。

その後、五兵衛は牢死(享年80歳)。河北潟干拓の総責任者の三男・要蔵を含めた有力使用人は磔刑にされています。また銭屋も財産没収・家名断絶となっています。財産はその後加賀藩によって競売に掛けられましたが、総額400万両に昇ったと云われています。
その後、長男・喜太郎の娘・千賀女の奔走などにより家名再興の認可がでますが、隆盛は取り戻せず銭屋はその後2代で消えていきます。

加賀を代表とする豪商・銭屋五兵衛ですが、江戸末期においては権力者に近づき密貿易により巨利を得たと悪徳商人の代表のように言われていましたが、明治・大正期には鎖国期における海外交易の先駆者・地元産業の助成などとして評価が見直されています。

そんな資料や遺品を集めて展示しているのが、この「銭屋五兵衛記念館」です。展示品はそう多い物ではありませんが、なかなか見応えはあります。大野湊緑地公園という泉水を中心とした回遊式の庭園の中に蔵の形をした建物が目印です。
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近くの「銭五の館」との共通入場券で500円  http://www.zenigo.jp/

旅行日 2011.12.10




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著者小西聖一(著) 高田勲(画)出版社理論社発行年月2008年03月ISBN978465201645



この記事へのコメント

  • がにちゃん

    豪商・・・昔の商人は桁違いの金持ちが・・・\(◎o◎)/!
    河北潟干拓・・・成功していれば素晴らしい事業になっていたでしょうに
    高齢になってからの没落はつらかったでしょうね
    2012年10月17日 17:34
  • つとつと

    がにちゃんさん
    ところがどっこい、実は同時期に銭屋を上回る商人がいたんですよ^^
    銭屋五兵衛が当主になる以前、その商家で丁稚奉公していた程の豪商です。また近いうちにアップしますね^^
    やはり封建時代の獄死は悲劇的です。時代で評価も変わってしまうし。。
    2012年10月17日 22:38

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  • 木谷公園 木谷藤右衛門本宅跡
  • Excerpt: 以前紹介した銭屋五兵衛の記事で「加賀の豪商を一人挙げろと云えば、10人中9人以上が銭屋五兵衛と答える」と書きましたが、それじゃ残りの一人以下が答えるのが今回の「木谷藤右衛門」です。
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  • Tracked: 2012-10-22 13:44
  • 海月寺
  • Excerpt: 江戸期、金沢の金石は宮腰(みやのこし)と呼ばれ北前船の母港として栄えました。 そんな金石の東方の一画に海月寺という小さな寺院があります。ここに銭屋五兵衛の三男・要蔵の墓があります。
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  • Tracked: 2013-07-15 22:28
  • 本龍寺 銭屋五兵衛の墓所
  • Excerpt: 金沢西警察署を更に西に向かうと、江戸期に北前船の港湾として栄えた宮の越(金石)の町になります。
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