金沢大野からくり記念館

からくり」と聞けば、多くの人が連想するのが茶運び人形・弓曳き人形などのからくり人形達です。英語でKarakuriは日本のからくり人形を指すそうです。特に江戸期以降は鎖国政策もあり、僅かに伝わる海外技術と自己研究・開発によって独自の発展を遂げました。
本来の「からくり」は機械・模型を指していたそうです。からくり名人と呼ばれた人たちは単なる単一職人ではなく研究・開発の為に多種の学問にも通じた総合技術職人というのが共通していました。
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からくり名人として代表される三傑は、土佐の「からくり半蔵」こと細川半蔵、久留米の田中久重、京都生まれ加賀の大野弁吉とされています。

細川半蔵は郷士身分の大工職から始まり、京都・江戸で暦学・儒学を治め、他にも物理・数学にも通じ、和時計・からくり人形を作成し、晩年は江戸に出て幕府の歴作方となって「寛政の改暦」に参画しています。半蔵が高く評価されているのは「機巧図彙(からくりずい)」という自分が作製した4つの和時計と9つのからくり人形の仕組み、諸元寸法、製法を記述した機械技術書として残したことです。これによって、後に続くからくり職人の手本となり現代の職人の復元・技術継承に繋がっています。また、後に出た田中久重・大野弁吉もこの書を模写し参考にしたそうです。

田中久重は「日本のエジソン」「からくり儀右衛門」の異名が知れ渡っています。
社会科の教科書にもよく載っているので、ご存じの人も多いと思いますが、鼈甲職人の息子から始まり、天性の才能か子供の頃からからくり人形を作り、九州・大阪・京都・江戸で興業をして「からくり儀右衛門」として全国に成人前から名前を売っていました。成人後、京都・大阪で天文学・蘭学を治め、最高傑作と云われる「万年自鳴鐘」という置時計を作製しています。この時計は和時計・洋時計など七つの機能を一度に示す画期的なものです。国の重文・機械遺産として国立科学博物館に展示されています。その後、肥前鍋島藩に仕え幕末技術先進国と呼ばれた基盤を築き、故郷の久留米藩に戻り軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり殖産興業等にも貢献して幕末を過ごします。明治に入り、東京に出て珍器製作所という工場を創立、電信機を作製します。その後、銀座に電信機関連機械の田中製作所を設立。晩年は電信・電話に力を注いだようです。これがその後、芝浦に移り東芝になります。現在も東芝は田中久重を創業者としています。

華々しい生涯の田中久重と同時代を生き、正反対の生き方をしたのが今回の「からくり記念館」の主人公「大野弁吉」です。
彼の異名は「幕末の平賀源内」「北陸のダヴィンチ」。異名が示すように弁吉は独創性に優れ、その範囲は多岐に渡りました。
大野弁吉は羽子板職人の子として京都に生まれます。身分的に低かったためか若い時(30前半まで)の記録があまり残っていません。二十歳で長崎に行きオランダ人に弟子入り、ここで医学・理化学・天文学など西洋科学を習得。絵画や彫刻も学んだと云います。更に使節団の一員として対馬・朝鮮に渡り帰国後、紀伊に赴いています。この間に砲術・馬術・算術・暦学を極めたと云われます。
30歳で指物師・中村屋の娘・うのと結婚し婿入りします。その後すぐに妻の里の大野村に移り生涯を指物師として過ごしています。42歳の頃、長崎に遊学していますが、それ以外はこの地から動いていません。

指物師というのは家具職人のことですが、弁吉は更に依頼を受けて獅子頭や社・祠・根付けなども制作しています。加賀・金沢は獅子舞が盛んで祭礼における重要な行事ですが、その中心になる獅子頭は各町会が自慢し大事にされています。弁吉は加賀獅子頭の製作者としても三名人に数えられ、現在も20頭程が弁吉作として伝わっています。

本業の合間にからくりの研究・開発に没頭していたようです。
大野弁吉の言葉にこんなのがあります「知と銭と閑の三つのもの備わざれば究理発明すること能わず」
結局、弁吉は知と閑(時間)を取ったようです。金は自分を堕落させ、地位は奉仕を強いられ時間を奪われると考えていたようです。からくりによって全国的に有名になり、加賀藩から20人扶持で登用要請があっても謝辞した理由も製作・研究時間を惜しんだ為といわれます。生活は質素で貧しいままで生涯を終えています。
近くに住む銭屋五兵衛・喜太郎親子と親交が深く、銭屋の注文に応じて多くの羅針盤・三角測量機・芸術作品を提供しています。特に貝の細工根付は精巧を極めたものですが、南太平洋にしか存在しない白蝶貝が使われており、銭屋のバックアップは大きいものがあったようです。ただ原料・素材の提供は受けたようですが、代金以外の金銭の施しは拒否していたようです。
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弁吉が残した覚書綴り「一東視窮録」にはエレキテル・色ガラス、火薬の製法・大砲・色ガラス製法・細工・写真機・湿版写真更には梅毒研究・各種医薬品と多岐に渡っています。「北陸のダヴィンチ」といわれる由縁です。
長崎に遊学した際に銀板写真をみて触発を受け写真機を作製使用していますが、特に湿版写真と思われる妻(1849年の日付)、本人の肖像写真・弁吉と銭屋喜太郎の並んだものが残されていましたが、近年静岡の旧家から弁吉・喜太郎の原板が発見されています。喜太郎が投獄されたのが1852年9月ですから、それ以前に弁吉が湿版写真技術を使ったのが確認されて話題になりました。ちなみに世界公認はイギリスのアーチャーによる1851年とされています。もし一東視窮録の記載が正しければ、公認記録よりも2年も早く弁吉が湿版写真を作製使用したことになります。

藩の役職は断りましたが、加賀藩の西洋の軍事研究と訓練を目的とした学識研究機関といえる「壮猶館」には化学助手資格で後進を指導しています。ちなみにこの時の教授格はジアスターゼの研究開発で有名な高峰譲吉の父「高峰元ぼく(精一)」でした。
性格が職人肌で人を寄せ付けない所のあった弁吉ですが、「壮猶館」や自宅で何人かの弟子を育て、各分野に成功者を輩出していますが、一番有名な人物としては津田吉之助があげられます。津田吉之助は尾山神社の山門の建築棟梁で絹織物織機のトップメーカー「津田駒工業」につながる人物です。

尾山神社  http://72469241.at.webry.info/201208/article_45.html

「からくり記念館」は加賀藩が砲台を設置したお台場の突端にあり、設計は世田谷美術館などの設計で有名な内井昭蔵。北前船をイメージして作ったもので、斜めに組んだ柱の奥に障子を組み合わせたような建物です。
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展示物は大野弁吉を中心に、弁吉が模写したからくり半蔵の「機巧図彙」に始まって、からくり儀右衛門のからくり人形なども展示されています。実際に触ったり動かしたりできるものも多いです。
また館内には、からくり箱やパズルが多くあり挑戦できるようになっています。面白いのは意外に老若関係なく男性陣が真剣に格闘している姿が多いのが特徴。
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金沢大野からくり記念館  http://www.ohno-karakuri.jp/

旅行日 2011.12.18




からくり師大野弁吉とその時代 [ 本康宏史 ]
楽天ブックス
技術文化と地域社会 本康宏史 地方・小出版流通センター発行年月:2007年12月 ページ数:446p



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