1531年に守護追放がありましたが、実際には守護の二男・富樫晴貞が継ぎ富樫家は守護職待遇として存続していて1570年まで続いています。
その加賀守護家が本拠を構え政務を執っていたのが「富樫館」と呼ばれたこの場所です。以前から江戸時代の文献や古図からこの辺りではないかと推定されていたのですが、平成6年(1994年)の発掘調査によってⅤ字形の幅6メートル・深さ2.5メートルの大規模な堀跡や白磁器・鏡が発見され特定されました。特に鏡は奈良の法隆寺に奉納された物と同じものだそうです。古図や測量図から館の規模は1.5町四方(164メートル四方)在ったとされています。


写真で解るように空き地奥の窪みが堀跡で、その向こうの家からが館跡とされています。なぜに今まで特定できなかったかといえば、富樫家亡きあとは中心地が野々市から金沢御坊(金沢城)に移り荒廃したことと、江戸末期から明治初期にかけて野々市全域に大火を浴び、その後の急激な住宅化が進んでしまったことがあります。現在も館跡と推定される部分は住宅地のど真ん中で今後の課題になっています。
北陸鉄道の野々市工大前駅の横に「冨樫館址石碑」がありますが、これは昭和42年(1967年)に富樫卿奉賛会と金沢工業大学によって設置されたものです。題字は富樫家の子孫で福島の富樫六郎夫妻の物だそうです。
当時はこの辺りと推定していたのですが、実際にはこの石碑から南に400メートルほど離れていました。

旅行日 2012.01.11
この記事へのコメント
富樫晴貞没後450年の現在、新型コロナウィルスの影響で様々なイベントも中止・延期となっていますね。
つとつとさんもどうか予防策を講じ、健康にご注意されて下さい。
巣鴨介
鹿児島ではまだ感染者の報告はありませんが、時間の問題かと思います。仕事柄、休業と言う事がないので、私自身も予防に努めていますが、どうなっていくのか。
義綱さんとの野々市訪問もなかなか難しい状況ですが、堀跡始めいろいろと冨樫家関連史跡を訪ねたいものです。
つとつと
毎年の事なんですが、春先は仕事のかき入れ時で、ブログや史跡巡りから少し離れてしまうのですが、次回作は富樫氏とは僅かながら関係のある寺院を書く予定にしています。政親を滅ぼした富樫泰高が戦後に、高尾城から2キロほどの寺領を寄進して、寺院が成立した蓮如所縁の寺院です。
コロナ騒動はしばらく尾を引きそうですねえ。。
こちらの発症者は6人ですが、東京出張した県職員家族とフランスに出張した企業職員2名、滋賀県の出張者と外からもらってしまった人ばかりですが、もう大騒ぎで学校関係や施設の自粛が相次いでいます。仕事柄保育園や学童クラブに訪問が多くて今回はもう参っています。先々週からそういう施設に入るごとに、アルコール消毒をさせられて、日に5.6回以上で手がカサカサ^^;水分油分を取られて指がさかむけだらけでイテテ。。TT
しばらくは苦労しそうですが、早く心置きなく動きたいものですねえ^^