称念寺① 新田義貞墓所

称念寺は時宗の寺院です。福井の丸岡町長崎の地(現・坂井市)にあります。
泰澄大師が阿弥陀堂を建立したのが始まりと云われています。
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時宗については名前を聴けどあまり知られていない宗派の一つです。特に北陸ではなじみの薄い存在になっています。しかし、江戸期以前は全国で一番流行った宗派は時宗といわれています。
開祖は一遍(智真)、元々は浄土宗に学んだ人ですが、浄土宗の基本の「信心の表れが念仏」に飽き足らず、簡易・掘り下げて「念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になる」と説きました。民衆への衆生済度のために、全国行脚(遊行)をして「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」という札を配る「賦算(ふさん)」と踊り念仏を広めました。
時宗では1日を6分割して交替で念仏を唱えるため大勢で遊行しましたから、室町時代以前は時衆とよばれていました。またこれに関しては開祖・一遍が独自の宗派を作る気はなく、あくまで浄土宗の一部であり、市井の上人と云われた空也を手本にしたためとも云われています。一遍は全国行脚を行ったこともあり遊行上人と呼ばれ、以降の時衆のトップは代々遊行上人と呼ばれることとなります。
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一遍死後、時宗はバラバラになってしまいましたが、それを改めて宗派としてまとめ上げたのが、2代遊行上人・他阿真教になります。現在の各宗教団にはこういった中興の祖となった人物がおり、その後の発展につながっています。曹洞宗の瑩山紹瑾・浄土真宗の蓮如・日蓮宗の日乾などがその例です。
現在でも時宗では一遍と真教を祖として並べているところが多いのです。

その他阿真教が越前に遊行した際に地元の称念坊の3兄弟が帰依して資金提供・伽藍整備を行い時宗の念仏道場・長崎道場となりました。それ以降、14世紀半ばまで時宗の有力道場として本山的な立場にありました。
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時宗は先に書いたように信心とは別に念仏を唱えることが宗旨ですので、鎌倉末期からの混乱期において、戦争などで戦う修羅の道を行く武士にとっても帰依しやすい宗旨でした。
また、その布教活動は大勢で徒党を組んで歩く遊行がメインでしたから、国々やその土地々々の大名や領主に許可を得る必要がありました。このため、鎌倉から室町期にかけてはその布教先が武士階級になって行ったのです。このため大政奉還後、武士階級が消滅したため、明治以降に時宗が宗教界に目立った存在になれなかった原因にも繋がっています。
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鎌倉期以降、武士階級に急速に浸透した時宗の僧侶は武士との関係上において、軍団のなかで軍僧として従軍することが多い門派でした。軍事を使わされるのではなく、戦傷者の看護・戦死者に十念を与えたり、家族への報告と云った赤十字的任務、講和の使者といったのが大きな役割になっていたようです。
中には諜報・謀略や軍師的役割を担ったものもいたようですが、本山から何度も限定の教示が出ていますから、時宗本体はそれにこだわっていたようです。そのために各地にあった道場は中立非武装・不可侵を保てたのだと思います。称念寺に新田義貞の墓所があることはこの時宗と無縁というわけではありません。
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新田義貞については以前にも一部(新田塚藤島神社)書いているので省略しますが、越前で勢力を回復しつつあった新田義貞は寝返った平泉寺門徒が籠る藤島城攻めの偵察行動中、燈明寺畷(現在の福井市新田塚)で延元3年(1338年)7月に討ち死にしました。

太平記によれば新田義貞の首は朱の唐櫃に納められ京都に送られました。その後、都大路を引き回され、陽明門近くに晒されたそうです。それを観た後醍醐帝から降嫁された義貞の最後の妻・勾当内侍(こうとうのないし)が泣き崩れ、京都嵯峨の往生院(祇王寺)で義貞の菩提を弔って余生を過ごしたそうです。
ところが太平記の記述はここまでで、義貞の首の行方は不明となっています。
別の説では新田義貞の旧臣が晒された首を盗み出し、持ち去ったというものです。これは結構真実味がある説になっています。
信心深さでは自他ともに認める足利尊氏。あれだけ確執のあった後醍醐帝の霊のために天龍寺建立、一旦は晒し首にしましたが河内の親族に首を丁重に改め贈り届けられた楠木正成。最大の好敵手だった義貞の首をほったらかしにするとは怨霊信仰や地蔵菩薩信仰からも考えられないのです。不明になったとしか考えられないのです。
有名な所では群馬・桐生市の善昌寺などがありますが、それだけでなく京から新田の庄の群馬まで10以上の首塚が存在しています。
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称念寺にあるのは一般的に胴塚と呼ばれるものです。
これまた太平記によれば、新田義貞敗死を聞いた称念寺二世・薗名白道(えんなはくどう)が八名の時衆と共に、白木の棺に納め輿に乗せて称念寺往生院に葬ったとされています。宗派の違う時宗門徒が平泉寺門徒からそんなに簡単に敵大将の遺体を受け取れるものかという異論も多いようですが、敵味方に関係なく十念を授けると云う時宗独自の戦場での公的存在が敵味方に浸透していたことを考えれば、ある程度納得がいきます。
義貞が戦死した同じ年の四月に称念寺において六→七代遊行上人の相続が行われていました。その後、七代遊行上人・託何(たくが)は冬まで越前国内を遊行して布教に回っています。当然ながら、先に書いたように遊行は領主の許可が必要不可欠であり、託何と義貞が顔を合わせており、時宗の最高トップが当地に居た事実は、新田義貞の遺体回収と埋葬は時宗トップの指示と思われます。平泉寺にしても時宗トップの意向を無視するのは避けたかったと思われます。更に新田義貞の死後、残された部下100名が称念寺に入り、出家したとされています。

南北朝の争乱は1392年に足利義満による詐術で南北朝を統一しましたが、正確には1457年赤松残党が南朝行宮を襲って「神璽」を奪った「長禄の変」が南北朝の終焉だと云えます。この時の天皇は後花園天皇、将軍は足利義政の時代です。ちなみに1467年に応仁の乱が勃発し戦国期に突入しましたから、室町幕府の単独政権は実質この10年しかなかったともいえます。
この10年の間に将軍から寺領を受け将軍の祈願所になっており、天皇からも綸旨(称念寺に実物があります。)を受けて勅願所となっていました。つまり称念寺の絶頂期は同じくこの10年と云えました。
その後、戦国期に入ると越前は朝倉氏が台頭し同じく勢力を伸ばす一向門徒勢力がぶつかることになり、朝倉氏がこの寺に長崎城を作ったことにより戦乱に巻き込まれ、義貞の墓所を除き称念寺は金津東山(現・あわら市東山)に疎開避難しましたが、その間に長崎城は焼き討ちで燃え落ち堂宇を失った時期もありましたが総じて朝倉氏の保護を受け続けていました。織田信長の勢力圏になってからも、越前入国した大小名達から寄進を受けていたことが記録されています。

関が原後、越前に入部した結城秀康が寄進後は福井藩歴代藩主に厚く尊宗され、寄進や寺の整備が進みました。徳川家は新田源氏を標榜しており、そのことからも保護は厚い物でした。特に8代将軍・徳川吉宗は全国の新田義貞の関連施設を調べさせており、それは墓や首塚を掘り起こす大掛かりな物でした。
その中で称念寺を新田義貞に一番縁深く、重要な所と断定しています。
更に元文2年(1737年)に幕府から老中連署の香典目録と白銀、更に福井藩主を檀那として、記録上公的な「新田義貞400年忌大法要」が行われました。現在(2013年現在)新田義貞戦死から676年を数えますが、江戸期には50年ごとに盛大なと年忌法要が営まれています。その度に寄進を受け、最盛期には境内30,000坪・大伽藍含む30の建物がありました。
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新田義貞の墓所の墓石は天保8年(1837年)の500回忌に福井藩主が建立したものです、旧の墓石はこの下に埋められています。高さは2.6メートルの五輪塔です。左の灯籠の頭がないのは、福井地震により倒壊破損したためです。墓所内には九重の石塔や新田一族・家臣関連の墳墓もあります。
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明治初頭は新田塚・藤島神社と並んで保護されていましたが、神仏分離令により没落しました。先に述べたように時宗が寺機能としては一般民衆に浸透していなかったため、地元住民にも檀家がいなかったのが痛手でした。版籍奉還により大檀那の福井藩を失い無俸禄となってしまい墓所に関しては地元住民や新田義貞の信奉者によって手入れされていましたが、寺院は無住職寺となり討ち捨てられた状態となり、明治末には寺院跡は芋畑と化していたようで、更に廃寺届も出され、新田義貞の墓所の売出し、寺宝の売却などに繋がってしまいます。更には義貞の墓自体にも論議が及び、往生院と称念寺は別物という論議を提出される始末、それに対して反論すべき称念寺自体が無住で沈黙するしかなかったのです。
大正3年、ここに至って時宗総本山より派遣された高尾察玄により、現在の称念寺を再建したそうです。察玄師は新田義貞への思い入れが厚く、幅広い人間関係を使って、政財界や新田義貞信奉会などに協力要請し、新田公墓所の修理整備・寺宝の買戻しなど相当の苦労を重ね、大正13年に寺院再興と伽藍整備が完成されました。更に600年忌法要も観覧者数万人と大成功を納めます。その後、昭和19年に足下位(次期遊行上人の位)に選出された察玄師は、高尾察良に称念寺の後事をゆだね山梨県甲府市・一蓮寺に移りましたが、空襲による消火作業中に亡くなっています。

称念寺も福井空襲・福井地震により壊滅的な打撃を受けましたが、高尾察良師が奔走して現在の称念寺の姿へと整備し、現在へと繋げています。新田義貞の墓所を前面に出し、640年忌法要後は10年ごとに変更して発展させてきており、徐々に元の姿へと進めています。

旅行日 2013.03.31






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