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zoom RSS 平時忠墓所&則貞家

<<   作成日時 : 2013/09/16 15:44   >>

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平時忠(たいらのときただ)という人物をご存知でしょうか?

平清盛の正妻・時子の実弟で、後白河法皇の寵妃・建春門院(平滋子)の異母兄になります。
清盛の台頭と共に、ただの堂上貴族から正二位・権大納言にまで登り詰めた人物です。
「平家に非ずんば人に非ず」という大言壮語を残した人物といえば、大概の人がこの言葉を知っているはずです。

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昨年(H24)の大河ドラマで視聴率の最低記録を作ってしまった「平清盛」の中で、V6の森田剛さんが熱演していました。今まで何人かの俳優が演じていましたが、以前の大河の平家物語(仲代達也主演)の山崎努さんが演じたような重厚な陰謀家が多かったんですが、泥臭くひ弱だから陰謀に走ってしまうというのは斬新でした。
けっして悪い作品とは思いませんでしたが、暗いイメージと複雑な人間関係が視聴者には解りづらくて低迷してしまったようです。

ただ実際の人物像としては、清盛の武闘・豪族的な伊勢平氏とは違い、堂上を許された貴族としての平氏であり文官として活躍しており、武家の一翼として見られがちな清盛を代表とする平家とは一線を画します。
政治的センスはあったようで、何度か左遷も味わっていますが、延暦寺強訴に対して単独交渉・打開を行っていますし、清盛の福原遷都への条件的反対など行動力と洞察力はあったようです。
検非違使庁長官時代の苛烈誅求な行動や一の谷での源氏の使者への辱めなど、激しい性格の一面もあったようです。
清盛没後の総領は平宗盛ですが、実質的な棟梁はこの時忠だったと云われています。

平家滅亡とされる壇ノ浦で捕らわれますが、三種の神器の一つ、神鏡を保持したということと、文官であるということもあって時忠の一族は死一等を減じられ流罪となっています。自身も嘆願したようです。

ただ流罪に関しては、決定後半年ほど執行が遅れています。理由はいくつか挙げられています。
これには源義経が絡んでいて、時忠の娘・蕨姫を室とすることと、義経が後白河法皇から受けた検非違使判官の教えを時忠から得ていたためとも言われています。時忠は平家政権下で長く検非違使庁の長官を努めていたからと云われています。ただこの人事が頼朝の義経排斥に繋がり、時忠・時実親子の在京と婚姻も義経の罪科に挙げられています。この時点で頼朝の命令により時忠の配流が実行されています。

義経と頼朝の反目は政治的には頼朝の勝利で、頼朝追討の院宣を得て再起を期した伊予行きも難破して多くの部下を失った大物浦漂着で義経の運命は決まったと云えます。
この伊予行きの際に、時忠の長男・時実が同行していましたが漂着した際に逮捕され、上総に流罪となっています。
時忠にはもう一人二男に時家がいましたが、清盛・時忠による後白河の院政停止を強行した治承三年の変(1179年)の際に院に加担したとして上総に流罪とされていました(ちなみにこれは濡れ衣だったと云われています。)
ちなみにこの兄弟は対照的な生き方をします。二人は異母妹が後鳥羽天皇の典侍になって財産返還を受けたことから罪を許されています。
時実は都に戻り後鳥羽天皇に仕え従三位まで昇進しています。反鎌倉派の方針を採ったと云われています。ただ承久の変の数年前に亡くなっています。
時家は配流先の上総の豪族・上総広常に婿入りし、源氏挙兵後は源頼朝に仕えていました。
平氏滅亡後は頼朝のブレーンとして幕府開設に尽力しました。鎌倉幕府では官位が一番高く、内外の尊敬を受けたと云われます。時忠が死罪でなく、流罪で留まったのは頼朝が時家に遠慮したことも一因と云われています。

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肝心の平時忠が流罪になった地が能登の大谷(現在の珠洲市大谷町則貞)。
輪島から海岸に近い大谷中学校を国道249号沿いに山側に入って、大谷トンネルの手前を降りた谷底の地です。降りて観ると解りますが、山深い谷底には何もない場所です。都の生活に慣れ切っていた時忠にとっては、あまりに違う環境で望郷の念が募る一方だったようです。墓所への道に時忠の作と云われる歌碑がいくつか立っていますが、ほとんどが「こんなところは嫌だ、都に帰りたい><」そういった内容ばかりです。
谷底の生活とはいえ、ある程度の自由は効いたようで、諸所への小旅行や生活の便宜は国主から丁重に扱われたという記録があります。
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時忠は望郷の念が強いままこの地で亡くなっています。享年62歳。
ただ死亡の年がハッキリせず、文治5年2月(1189年)・建久3年(1192年)・元久元年(1204)4月の三説があります。これは時忠の生年が明確になっていないためです。享年が解るのは鎌倉幕府の記録書きともいえる「吾妻鏡」に、時忠の死を聞いた源頼朝が年齢を近臣に確認した際に、近臣が62歳だったと答えたと載っている為です。

実姉の時子(平清盛の妻)が1126年生まれで2歳下(1128年生まれ)という叔父の記録。時忠の昇官の際の記録年齢からの逆算で1130年生まれ。もう一つが則貞家に残る伝承文書(鎌倉幕府への死亡報告後も配所に隠れ住んだというもの)。どの記録も一理あるのですが、、、やはり不明状態

先に書いたように、流人だった時忠は多少の制限はあったものの、割合に自由が効いており、地元の側女をめとり、2男1女の子供をもうけたと云われています。
ちなみに能登の豪農として栄え、現在も続いている上・下時国家は、二男の時国の血筋だと云われています。
また娘は時忠と都時代に親しく内大臣まで進んだ、名家として知られ明治天皇の生母・中山慶子を出した中山家の家祖・中山忠親(水鏡の作者と云われています。)の後妻に入っています。

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時忠の墓所は大谷峠の谷間にある時忠の配所屋敷跡の側の斜面にあります。
10数基の五輪塔が整然と並んでいますが、一番背の高いものが時忠の墓になります。その他の五輪塔は時忠から続く長男・時康一族の物になります。栄耀栄華を極め。検非違使時代は果断苛烈な処断を行い、平関白とか悪判官などと呼ばれた人物にしては寂しいものです。平家物語の諸行無常の一節をそのまま連想させるようです。
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この墓所を長く伝えて保存・整備してきたのが則貞家を含む大谷十二家と呼ばれる人たちです。
大谷十二家は時忠が配流された際に随身した従者や家来の末裔と称する人たちです。一部には時忠の末裔を称する家もあります。
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則貞家は時忠の前記の能登における長男・時康からなるとされています。
この地の地名が姓名になっていますが、時国家もそうなのですが鎌倉幕府からの監視の目を逃れるために、改姓したと両家は主張しています。また前出の12家も名を姓にした家が多いのが特徴です。
豪農として家名が大きくなった時国家は県内外にも名を知られていますが、則貞家の存在を知るのは一部の歴史通くらいですが、則貞家が古来からこの墓所と屋敷を守り続けてきたことは間違いないことです。
ただ学術調査では、屋敷跡は鎌倉初期と確認されましたが、墓所は室町期の物とみられているそうです。ただ偽物とも本物とも断定できず、県の史跡認定を受けています。

しかし総領が前代の地を受け継ぎ、二男が外に分家するのはよくあることですし、先祖の地を守る保守的な本家よりも、外に新天地を求めた分家が名実・規模ともに本家を凌駕して本総家を名乗ることは、これまたよくあることです。また物品の保存や伝承に関しても富裕さで変わるのも事実です。
とにかく両家の伝承には多少の食い違いが多く存在するのも事実で、真偽真贋については不明のままです。
個人的心情としては則貞家の主張の方が、面白いとは思っていますし土地柄も合いますから。。。。

国道から直接降りる道もありますが山林を迂回する道もあり、途中に時忠が作ったとされる和歌を記した標識が立っており、一つ一つを観ながら歩く事が出来るようになっています。途中には椎茸栽培の灌木も見られます。
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白漆喰に平家の家紋・揚羽蝶をを施した則貞家の横には、京都の有名俳人・山口誓子の書になる平時忠の歌碑もあります。 「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」
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追記 時忠の配流先の場所は特定されておらず、この場所は、則貞家の伝承では幕府への虚偽の時忠死亡報告の後に、この地に時忠が居を定めたとなっています。ただ場所・位置的にも配流の地・隠れ里にはふさわしいのは確かです。また時忠が住んだ頃には大きな寺院が近くにあったようです。

追記 これは当地の地方伝承ですが、奥州への逃避行中に源義経と妻の蕨姫が時忠に会うために、大谷の地に来たとされています。その後、義経には須須神社の蝉折れの笛の伝承などがありますが、蕨姫の消息はそれ以降不明です。
この伝承に付随して、別の異説伝承の一つなんですが、義経が立ち寄った際には時忠と向後の打ち合わせを行い、時忠が虚偽の死亡報告を行い隠れ住み、北陸の親義経・親義仲・落人平家勢力復活に励むことと奥州との連合の画策、奥州失陥後の北陸移動を約定したというものです。
それが更に話が飛躍して、奥州藤原氏敗北後に、国衡・忠衡兄弟は能登に逃れたというものです。時国は国衡が名を変えた物だというものです。

平家物語や源平に興味のある人には、一度くらい訪れて観ても良い場所の一つです。

旅行日 2012.08.11




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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
NHK 清盛 結構好きで 見てました このブログ読んで 時忠の人物像が変わりました  
がにちゃん
2013/09/17 23:52
がにちゃんさん
僕も結構好きで八割以上は観ましたよ。こんなに観たのは久しぶり^^
江が創作のし過ぎでがっくりしてたんで、ただ今回はマニアックすぎたかもしれませんね、、、おたく系の人が作ったみたいでしたね^^;
あんまり人間関係が複雑すぎて、最初観ていた嫁さんに俳優の名前で説明しても「わからん」で終わっちゃいましたTT
つとつと
2013/09/18 16:07
「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠ですね。こちらで亡くなられたのですね。先日下関赤間神宮を訪問しました。その流れで拝見しました。赤間神宮には岡山で発見されたという安徳天皇とともに沈んだとされる八咫鏡があるそうです。なかなか伝承は面白いですね。こちらの平家一門の墓と比べると時忠一門の墓は立派だと思います。敗者とは言え生き残ったからでしょうね。交渉力があったのでしょうね…。
tor
2017/10/21 21:49
torさん
平時忠が配流されて、亡くなったのは奥能登の大谷の地というのは間違いないのですが、この場所が最重要候補地になっています。訪れると驚くほどの谷底の地になります。墓石については学術調査で後年の室町期のものと確認されていて則貞家が建てた物だと云われています。側にある邸跡は鎌倉初期と確認されています。
時忠の次男が、頼朝のブレーンでしたから、後白河法皇やその筋からの要請があったようです。
石川には源平双方の旧跡や伝承が多く残っているんですよ^^平時忠の子孫としては時国家が有名ですが、赤間神宮から分祀した安徳天皇の霊社が下時国家にあります。 石川県内には源平双方の伝承が多いんですよ。
つとつと
2017/10/22 20:28

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