宝慶寺前~稗田越え~稗田の里公園~龍双の滝

11月の9日は我が嫁さんの誕生日でした(恐怖のさそり座の女です。で、プレゼントは今回、マイメロちゃんのぬいぐるみを渡しておきました。けっこう大きくてニコニコになってる嫁さんはすっかりよい歳だけど、こういう無邪気なところは良いなあ
ここのところ、キティちゃんが続いたけど、今回は大きいことは良いことだということで、大きさ勝負で上げたけどこれだけ喜ぶとこっちまでうれしくなりますねえ。子供の頃には人形やおもちゃを貰っていた娘は、大概アニメおたくの商品で喜んでますが、母がこういうのを貰って喜んでると、羨ましそうにしています。まあ、今回は選んだのは娘との共同行為でしたから(いつもは僕だけ)。。。 文句は言えないので
で、人形の写真を撮って置こうと思ったら、嫁さんがしっかり自分のタンスにしまいこんで隠したから、今回は画像なしで申し訳ありません

さて、プレゼントをもらってご機嫌の嫁さんと久しぶりにドライブに。。。
最初、鳥越の新蕎麦祭りに行こうと思ったんですが、たまたまTVの番組にその模様が結構盛況みたい。
それを観た嫁さんが人が多いみたいだから、ドライブだけにしようとのたまいまして、急きょ予定変更で紅葉は早いかなと思いつつ、大野の宝慶寺に行こうということに。。。蕎麦食べたかったなあ(ちょっと心残り
ちょうど、この時、goさんが、新蕎麦祭りを堪能してたんですよね。後でブログを読んで、ちょっと後悔と羨ましさが。。。。

宝慶寺(ほうきょうじ)は曹洞宗の永平寺派の日本曹洞第二道場と云われていますが、実際には座禅を突き詰めることで独立的な道場の寺として知られています。宝慶寺の開山は弘長元年(1261年)寂円(じゃくえん)禅師によって開かれたものです。

寂円は南宋・洛陽の生まれです。日本曹洞宗開祖の道元が南宋に留学した際に、慶徳寺の天童如浄に師事して印可を受けています。同じく同時期に如浄に師示していたのが寂円でした。3年間の留学を終えた道元が帰国後も、寂円は如浄が亡くなるまで師事を続けますが、翌年、如浄が逝去して師を失った寂円は同門ながら尊敬した道元を慕って訪日してきました。その後は興聖寺から永平寺と道元と行動を共にしています。
永平寺に入ってからも道元や日本での一番弟子・懐奘(えじょう)に師事する形で行動を共にしています。
道元の死後、数年は懐奘を補佐しましたが、永平寺の大伽藍化や大乗的な思想に違和感を感じて(元々、如浄や道元と同じく禅の追及探究に関心が強かったようです。)永平寺を出て、更に山奥に分け入りました。その後18年間、山上で座禅を続けたと云われます。その間に地元領主に慕われ、伽藍や堂塔の寄進や保護を受け「宝慶寺」を建立しました。その後も禅の追及と後進を育て92年の生涯を異国の地で閉じています。
永平寺との関係は良好を保ったようで、禅を探究する修行僧を永平寺から受け入れています。如浄・道元に対する尊宗心は終生変わらなかったようで、宝慶寺の名は如浄が道元に印可を与えた際の問答を記載した「宝慶記」から来たもののようですから。

先に書いたように永平寺から受け入れた弟子には、永平寺5代目貫主・義雲總持寺開山・瑩山もいます。
義雲は衰退しかけていた永平寺の改革を行い、内部機構と宗教儀礼を大きく建て直して、現在の永平寺派に繋げた中興の祖です。また瑩山は總持寺を開山し多くの有能な弟子を育て、現在の曹洞宗の基盤を築いた人物として、開祖の道元と並べられる太祖と呼ばれています。
特に義雲は寂円の師事を受けて、この寺の後継にと師弟共に思っていたようですが、衰退をたどる永平寺の要請に後ろ髪を引かれながら永平寺の貫主になったそうで、師の墓所の側に自ら植えた杉が現在は大杉となって残っているそうです(義雲杉)。
つまり、この宝慶寺の寂円がいなければ、現在の曹洞宗の永平寺・總持寺の2大勢力はなかったと云われています。もっと言えば、現在の曹洞宗もなかったと云われています。

という具合に知識はあれど、まだ訪れたことがなかった宝慶寺、到着は夕方になりそうだけど、山奥だから紅葉も観られるだろうという安易な考えだったんですが、得てしてこういう時は失敗するんですよね
紅葉にはやはり早かったみたいだし、宝慶寺の入り口から横の道に登って行ったんですが、これが大きな間違い。宝慶寺の裏山に登ってしまったんですね。おかげで寂円が18年間座禅を組んだ座禅石(座禅巌)を観てしまいました。ところが、後で見ると写真が消えている。。。宝慶寺の屋根だけ見えましたねえ
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Uターンが出来ない細い山道ということもあり、まっすぐ車を進めることに
相変わらず引き返すという行為のできない僕。。またかという顔をする嫁さんを無視して、細く起伏のある林道をひたすら走ることに

後で地図を調べて解ったんですが、僕の走った道は稗田峠越えの旧林道であり、県道34号線だったようです。
稗田の辺りは古くから山深い所ですが、江戸時代は幕府領でこの道は幕府の巡察師が通った道だそうです。
起伏が激しく歩くにも大変な道ですが、幕末期に歴史の舞台にもなった道です。水戸の尊皇攘夷派の水戸天狗党が京都滞在中の徳川慶喜への攘夷嘆願に水戸から京都に向かう際に通った道として知られています。

元々、尊王思想は水戸藩から生まれてきたものとされています。水戸黄門で有名な徳川光圀が著した「大日本史」以降、水戸藩には尊王思想が定着する下地があり、幕末に至って徳川斉昭の家臣として重用された戸田忠太夫・藤田東湖によって纏められ尊皇攘夷思想に繋がって行きます。
戸田忠太夫・藤田東湖は安政地震で死去しましたが、東湖の薫陶を受けた武田耕雲斎が徳川斉昭の執政として尊皇攘夷論がまとめられ水戸藩は動いていきます、当然ながら保守派は粛清されていきます。
桜田門外・坂下門の変など水戸浪士が多く出てきますが、これは水戸の尊王攘夷派がいかに先鋭化していたかが伺われます。

ところが、徳川斉昭が急死すると佐幕・保守派が台頭。この両派の対立が長引きます。
更にややこしいのは江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が斉昭の第7男の実子ということ。現代では一橋家の慶喜の名が有名ですが、実際には慶喜は水戸家から出て、一橋家を相続していたということです。
この慶喜は将軍後継争いでは家茂に敗れ、安政の大獄時には謹慎処分を受けていましたが、桜田門外の変後は将軍後見職・京都での禁裏御守衛総督を歴任しています。この総督時代には兵が少ない慶喜は実家の水戸藩から兵を譲り受けます。この中に水戸の武田耕雲斎を含めた多くの尊皇派が主力を占めていました。この時点では、慶喜が尊皇派を利用した面もあり、京都では後々の嵐が吹き荒れた時とは違い、割合に友好的なものでした。竹田耕雲斎らは京都で長州など各藩との交流の中、尊王思想を主導教示していき、尊皇攘夷思想が西国に伝わって行きます。

その後、尊皇派が京都から水戸に戻ってみると、水戸藩内は保守派が勢力を伸ばしていました。尊皇派の斉昭が亡くなると、おのずと水戸藩は佐幕派に流れていきます。当然、それまでの尊皇派との対立は保守派優勢にに流れていきます。そのじり貧の打破を狙って「天狗党」を立ち上げたのが藤田東湖の息子・安藤帯刀で、帯刀に頼み込まれて首領となったのが武田耕雲斎。
京都では開港条件として攘夷を約束しながら、徳川幕府はその履行を延ばし延ばしにしていました。これに痺れを切らした水戸天狗党は、京都の慶喜に朝廷との約束履行を求めて兵800と共に、京都への進軍を実行します。日光に至って1400名に人数を増やします。ところが、兵糧調達に商家を脅迫したり襲ったりしたため、反乱軍のレッテルを張られてしまいます。この行為に対して幕府は中止命令を出し、後には追討軍の編成・各藩への阻止命令を出しています。

群馬高崎で追討軍との戦闘がありましたが、その後は中山道を進軍していきます。通過途中の各藩からは、正義を訴える彼らに同情的に観られたようで大きな混乱(松本藩との和田峠合戦がありました。)も少なく、美濃まで至っています。ところが天狗党軍に大きく立ちはだかったのが、福井藩と彦根藩でした。特に彦根藩は井伊家の藩主であり、桜田門外で殺された大老・井伊直弼は彦根藩主でした。井伊直弼を襲った犯人の主要メンバーは天狗党出身の水戸浪士であり、天狗党は許せる存在ではなかったわけです。

行き詰った天狗党軍はここで進軍経路を変更します。飛騨に北上して山岳越えで大野に抜けることにし、この時点では向背定かでない加賀藩領をかすめ、小浜経由を狙った経路を取りました。ただこの時期は11月末から12月で雪の積もった地帯であり、困難を極めたと云われています。その山岳地帯の最後の難所が僕の通った稗田峠越えの林道というわけです。

結果として、水戸天狗党軍は敦賀まで進みましたが、ここで福井・鯖江の両藩の軍に抑えられ、通過を黙認した加賀藩に武装解除で投降します。加賀藩は同情的だったようで厚遇しましたが、幕府軍に引き渡された後は全員が粗末な鰊(にしん)倉に押し込まれました。不衛生な倉と厳寒の環境で20名以上が病死。
更に3か月後、幹部24名を含む半数近くの352名が斬首刑に処されています。要は武士としてではなく賊として扱われたということです。
処刑は敦賀市の気比の松原の近くで来迎寺という寺院境内の処刑地で行われ、全員がこの地に埋められたそうです。その後、来迎寺の地には松原神社が建てられ、武田耕雲斎を主祭神に処刑された352名に討死・病死の59名を合わせて411名を祭神として拝殿と墓標が建てられました。現在は道路を挟んだ地に拝殿や本殿が移されて独立した松原神社になっています。神社には天狗党の面々を押し込んだ鰊倉も移設されています。機会があれば拝観して、歴史に消えた水戸天狗党を忍んでみてください。

残り半数も遠島・追放処分に処されています。また、水戸では保守派により天狗党の係属のほとんどが処刑・殺害されています。
ただ、遠島処分のなかで100名余りは小浜藩の准藩士扱いで保護されており、大政奉還後に戻り、北越戦争後は、これらの人により保守派係属に対して報復の嵐が吹き荒れました。
明治政府は東京に首都を置いたこともあり、関東安定や国内の早急な安定のために各藩や旧幕臣を登用していますが、水戸藩からは高官登用がありませんでした。これは両派による悲惨な報復合戦により、有能な人材が残らなかったためと云われています。

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話が長くなってしまいましたが、この稗田の辺りは林道がありますが、ほとんど人家のない山の中という世界です。そんな山中に、昭和30年代まで人家9軒ほどの稗田村が存在しました。
古くからこの集落は存在していて、江戸期元禄時代の記録にも7戸24人の住民と記録が残っています。良質の木工製品を産出していたと伝わっています。元々は福井もしくは加賀山中から入植した木地師の末裔とも、南北朝期に逃亡した南朝方の末裔ともいう伝承もあります。
明治初頭に9戸43人の民家が、ただ時代と共に過疎化が進み昭和35年3戸17人、38年の豪雪により避難・救援退去で無人村となっています。

廃村となってしまった稗田村ですが、昭和50年代から村を離れた有志が私財を出し合って住民の作った句碑の建立や村内の地蔵尊を整備しています。現在も草刈りや清掃などが進められており、近くの広い敷地に水車小屋や12支の像を建立・整備して「「稗田の里公園」も作られています。小川と山林が織りなし、人工音が一切ない自然の郷愁が感じられます。
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そんな稗田村にある耳岩菩薩は地元でも有名な耳の病に効能があるという話。一枚岩に菩薩像を彫ったものです。
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(耳岩菩薩の案内板)
稗田川と村松川が合流するこの付近は、かつての稗田集落の跡である。
水のきれいなこの付近の谷川沿いには、水辺や山野に住む「ブヨ」が多く発生し、この虫が耳に入って耳の病を患う村人が多く困っていた。ある夜のこと、何人かの村人の夢枕に「白山神社の横の岩壁は、今は土砂に埋もれていて見えないが、耳の菩薩様である。すぐに土砂を取り除いてこの菩薩にお祈りすれば耳の病気は治る。」というお告げがあった。村人が早速土砂を取り除いてみると、耳の形をした岩壁が現れたので、洗い清めて祈願すると、村人の耳の病気はすぐに治った。それから、稗田には耳の病気になる者は一人もなかったという。
その話を伝え聞いて各地からお詣りがあり、遠くの人は代表を頼んで来た人も多く、参詣した人はみな耳の病気が治ったという霊験あらたかな菩薩様である。

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山里に小川ということもあって避暑地にはうってつけ、夏場に訪れて観るのが良いと思います。

さらに池田町に向かって、細い林道を走って行くと、美しい滝に出会えます。
日本の滝百選の中で、福井で選定された唯一の滝です。 「龍双ヶ滝(りゅうそうがたき)」
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滝の落差は約60メートル。滝口から二股になって落ちる分岐瀑と呼ばれるタイプです。
落差のの割に激しさを感じさせる滝ではありませんが、岩は肌をなめるように流れ落ちるので、水の流れや飛沫が美しい女性的な滝です。
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名前の由来は昔この辺りにいた修行僧の名から来たというものと、以前あったと云われる滝つぼに住む龍がこの滝の流れを遡って天に向かったというもの。
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写真は日暮になったため暗くて申し訳ありません。
流れがきつくない為、滝のすぐ側まで近寄ることが出来ます。下から見上げると滝口から落ちる水流や飛沫・しずくがスローモーションのように感じられる滝でした。
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正直、滝の名前は知っていましたが、始めて観ました。道を間違えたけど、こんな出会いもあるんですねえ。
滝と云えば、勇壮で男性的なイメージがあるのですが、そんな先入観を改めてくれるような滝でした。
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滝は支流の部下川から稗田川に流れ落ちてくるのですが、滝から下流は部下川に変わります。滝から5.600メートル降ると、甌穴が多く存在し川が流れ込み渦を巻く姿は、なかなかのものがあります。
県道34号線(松ケ谷宝慶寺大野線)は自然豊かな緑と水の路線でした。できれば新緑の季節、明るい時間帯に再訪したいと思います。
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旅行日 2013.11.09

稗田の里


龍双の滝




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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    あけましておめでとうございます
    新年早々寝込んでいて 今日復活 初パソコンです
    カキコありがとう 素敵な滝ですね ちょっと間違って回り道 それも素敵な出会いの始まり 私だったら間違ったことに感謝しそうです
    2014年01月06日 16:24
  • 家ニスタ

    こんばんは。
    僕の地元の天狗党の逸話をご紹介いただき、ありがとうございます。
    以前敦賀に行ったときに、鰊倉を見たことがありますが、こんなところに押し込められていたのか、とショックを受けました。
    水戸は維新の先駆け的な役割を果たしていながら、肝心なときには人材がいなくなり、薩長に功をうばわれてしまいますよね。
    2014年01月06日 22:40
  • go

    つとつとさん、明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願いします。
    11月9日は奥さまのお誕生日でしたか、つとつとさんは奥さまのお誕生日には忘れづにプレゼントをしているのですね、感心です、我が家も以前には嫁さんに誕生プレゼントをしていましたが、最近では孫の誕生日にはケーキを用意してプレゼントもしますが、嫁さんの誕生日には何も無しになってしまいました。
    私は11月9日の好天に誘われて、新そば祭りに行って来ました、つとうとさんは新そば祭りに行くつもりが予定を変更して大野の宝慶寺に変えたようですね。
    宝慶寺に入るつもりが県道の34号線の池田町へ通じる閑道に入ったようですね。
    記事を読ませていただくと宝慶寺は歴史がふるいお寺ですね、曹洞宗の永平寺を開山した道元が南宋に留学した時に同じ師に学んだ、寂円が道元を頼って来日して永平寺の近くに宝慶寺を開山したと云う事ですが、歴史をひもとくと興味が湧きます。
    道を間違えて予定にない龍双ヶ滝や廃村の碑田の耳岩菩薩などを巡る事が出来てそれはそれでドライブの成果があったようですね、紅葉には少し早かったようですが、このコースを紅葉が盛んな頃に巡ったら奇麗でしょうね。
    2014年01月08日 17:58
  • つとつと

    がにちゃんさん
    お身体大丈夫ですか。綺麗な滝でしたよ。新緑の水量が多い時に見ると綺麗だと思いますよ^^
    宝慶寺も永平寺と並ぶ歴史のあるお寺です。次回は是非行ってみたいと思います。

    家ニスタさん
    松原神社に行かれたことがあるんですか、厳冬の3ヵ月間あの粗末で小さな小屋に下帯一枚で押し込められて居たと思うと胸が詰まりますし、武田耕雲斎などの幹部の首は水戸に送られたそうですが、あの下に300人以上が斬られて放り込まれたと思うと、更に胸が痛みます。ただ、現代に至って水戸市と敦賀市が姉妹協定を結んだそうです。それはホッとする話題の一つです。
    明治期になっての水戸の惨状は幾つか聞いていますが、有為の人材を失ったのは大きい損失でした。

    goさん
    毎年、習慣的に贈っているんで、忘れると大事ですから、、マア、迷惑のかけ通しのお詫びの意味も含まれてますから――;
    新そば祭りもちょうど天気も良くて、盛況だったみたいで行きたかったんですが、嫁さんに拒否されちゃいました。
    目的とはちょっと違っちゃいましたが、龍双の滝はよかったですよ。時間的に日暮れ時だったのですぐ辺りが暗くなっちゃいましたが、新緑の水量の多い時に行くときっと綺麗だと思います。そうそう、石川県人には馴染が薄いんですが、池田町は緑や渓谷の町で、日本有数の葛類でつくった「かずら橋」があります。冬は通行禁止だそうですが、お奨めのスポットですよ^^
    2014年01月11日 15:08

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