如来寺① 前田光高と天徳院墓所

義母・義兄がやってきた翌日。みんなで観光しようとなったんですが、別段行きたい場所を決めていなかったというご返事。
2.3日前の北國新聞の記事に如来寺の牡丹が満開だというのを観た嫁さんが、満開の牡丹が観たいというご要望。嫁さんは頭の中で満開の牡丹のお花畑を連想していたようですが。
何度か如来寺には立ち寄ったことのある僕は内心で思っていたこと、如来寺にそんな大きな花の敷地があったかなあというくらい。。まあ、嫁さんのリクエストだし、いざとなれば近くの珠姫の寺・天徳院もあるし、牡丹と聞いて喜ぶ義母もいましたから。(一部画像はH25.12.14の物があります。)
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ただ予測通りと云いますか、牡丹の花畑はそれほど大きいものではなく、これから徐々に広げていくという感じでした。でも牡丹が花開いて美しい姿を見せていました。
この牡丹はへ平成18年(2006年)に住職の古希祝として、縁故の人達から贈られたものだそうです。昨年、更に40本を新たに植えて数を増やしたそうです。
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如来寺は小立野台地の一角、金沢商業高校に向かう道の入り口にあります。
この寺の近くには前述の加賀前田家三代当主・前田利常の正室・珠姫の菩提寺・天徳院。利常の生母・寿福院(千代保(ちよぼ))の位牌寺.・経王寺などがあります。如来寺も利常の長男・光高の正室・清泰院(大姫)の位牌所となっています。清泰院の位牌所になって以降、この寺院は前田家に嫁いだりした徳川家関連の女性の位牌所になっています。
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前田光高利常の長男で、加賀前田本家の4代当主になります。
利常は息子が5人おり、正室・珠姫の実子となる長男・光高を加賀本藩・前田本家当主、二男・利次を富山藩、三男・利治を大聖寺藩に独立分藩しています。ちなみに四男は早世。五男・利明は継室の子ですが、三男・利治の養子として大聖寺藩2代になっています。利常の弟の利孝の上野・七日市藩を含め、幕末まで続く前田四藩体制がここから始まっています。

光高は30歳で急死したことと、光高の死後も父の利常が健在だったこともあり、業績や評価が詳細にはされていませんが、利常にとっては自慢の息子であり、加賀百万石の基礎を築いた利常への大きな助力と基盤整備に大きな働きを示したと云われています。幕府との関係も利長・利常時代とは違い良好な関係を築き始めていました。
ちなみにこれに関しては、自分と境遇が似ていた保科正之(徳川秀忠の実子、会津松平藩祖)を師として交流させたことが要因となったと云われています。もちろん珠姫の実子で徳川秀忠は外祖父になり徳川への親近感も大きかったと思われます。徳川家康を祀った尾崎神社を金沢城内に創建したのは光高の時代です。
徳川幕府に対する対処に父子の意見が対立することもあったようですが、基本路線は光高の融和路線で進めています。

ちなみに光高の息子・綱紀(五代当主)は3歳で五代当主となりましたが保科正之は薫陶の教育を利常からの依頼され承諾しています。その後、約70年間の長きに当主として加賀前田家の全盛時代を創り上げています。

現在、光高の墓所は野田山の前田家墓所にあります。歴代藩主(特に父・利常、子・綱紀)の墓に比べ規模が小さく貧弱なため、統治期間が短いためとか業績が少ないためとか、勘違いする人が多いようです。
実は光高の墓所は昭和27年(1952年)に改葬されて築かれたものです。
光高の墓所は実母の珠姫の菩提寺・天徳院の境内にありました。

利常にとって最愛の妻・珠姫は特別な存在であり、二人の間は切っても切れない存在同志だったわけです。もちろん徳川家に対する手前もあったでしょうが、その菩提寺は広壮緻密な造りでしたが、急死した最愛の息子・光高を母親の側に眠らせてやりたいという父親としての親心が大きかったと思われます。
その後、珠姫の墓所は五十周忌を期に野田山に改葬され、利常の墓所の斜め向かいにあります。その規模は歴代藩主に劣らない規模があり、若くして亡くなった珠姫の存在は前田家の中で大きな存在だったと思われます。

光高の墓所は幕末に至るまで天徳院寺域内に存在していました。
昭和27年に現在の小立野小学校の建設予定地が決定された際
その予定地に光高9代・重靖11代嗣子・斉敬の墳墓、子女墓が存在していました。
このため、三人を野田山墓所に改葬、子女墓は不明ですが天徳院墓地や前田家所縁の寺院に改葬されたようです。その際に測量・調査が行われたようですが、近年になって改めて外掘の一部の発掘調査が行われています。

重靖・斉敬の墓所は前面に堀を設けており、野田山の前田家墓所と似た形式です。ところが光高の墓所は50メートル四方に堀が設けられており、しかも外面だけでなく墓側にも石玉垣が組まれた重厚なものでした。規模としては現在のプールを中心にバックネット・ダイヤモンドに及ぶ範囲になります。
高岡市にある二代当主・前田利長の墓所の内郭と同じ造りになっていたようです。

利長は利常の長兄になりますが、腹違いの兄でした。利常を利家に会せて正式に一族の扱いに服させ、更には自分の養子として教育・扶養し、前田家の当主にまでしてくれた人物です。その恩義から墓所は創建当時は現在の3倍以上の規模で1万坪(33000㎡)と日本の戦国武将中、最大の墓所の規模・様式を誇っていました。
その利長の墓所には規模は及びませんが、内郭部の堀の造りが酷似していたことは、利常にとって大事な息子であり前田家にとっても重要な存在だったとも予測されます。と、ここまでは公的資料から一般に流布されているものです。

ここからは個人的な見解と異説が一部はいります。
光高の急死は、江戸屋敷において老中・酒井忠勝を招いての宴の真っ最中に突然倒れたものです。
ちなみに光高は豪壮強力の持ち主として知られていましたが、武士としては珍しく完全なる下戸で酒は全く飲めない人でした。そういう人物がいきなり倒れて死んでしまったのです。このため当時から毒殺説まで流れていました。

同席の酒井忠勝は、三代将軍・徳川家光に仕え、老中を経て、土井利勝と共に幕府初となる大老まで登り詰め、3000石の徳川家臣団から小浜12万3500石の大名になった人物です。家光に我が右手と云われた人物です。ちなみに左手は知恵伊豆と呼ばれた松平信綱です。しかし、自分の屋敷ならともかく前田屋敷で犯人になるというのはちょっと難しいと思います。また性格も直情径行型で毒殺のような婉曲手法は取れない人物です。

光高は家光との親交が深く、家光の衆道の相手にもなったと噂されています。家光は将軍職について以降もこの衆道好きが高じて奥向きはほったらかしで継嗣が出来ず、大奥の春日局や幕府重臣の間で大問題になっていました。後嗣問題に関しては、うるさく感じていた家光が、母方の叔父甥の関係であった光高夫妻(妻の大姫は水戸の德川頼房の四女・家光の養女)を養子として迎え後継にしたい希望を出したため、幕府方から打診が加賀藩に来ていたという記述があります。まあその後、家光が女性に目覚め、嫡男(家綱)が誕生したことから沙汰止みになっています。
光高も家光との関係から前田家よりも徳川家に親近感を持っていたように見られます。

このため、前田家内部では親徳川派(光高)と反徳川派(利常)に二分されていたようです。と、なれば、もし毒殺とならば疑わしいのは当然ながら反徳川派が疑われます。戦国気風を残す利常には反骨な面が強く、幕府との軋轢もしばしば起こしており、鼻毛を伸ばして暢気者を演じたという笑い話もありますが、加賀藩では寛永の危機と呼ばれる重大事を引き起こし光高と共に弁明に江戸へ急遽下向もしています。
寛永16年(1639年)利常が47歳の若さで隠居したのは光高(23歳)の成長と共に親徳川派の勢力が強まったためと云われています。
しかし隠居したとはいえ20万石の隠居料を持つ大名格で、前当主の発言力は強く、金沢の整備など大きな発言力を有していましたし、おとなしくしていられるような利常でもなかったようです。光高の極端な親徳川路線は利常の加賀藩自立路線とは相容れなかったようで、意見の対立が何度も繰り返されていたようです。
ただ利常が直接指示したのか、利常派のメンバーが先走ったのかは不明ですし確証もあるわけではありません。ただ光高の急死には人為的作為があったように思われます。

光高と並んで墓所を造成されていた二人ですが。。
まずは9代・前田重靖に関して・・・
6代当主・前田吉徳は加賀騒動の当事者として知られますが、その跡を継いだ歴代当主が軒並み当主就任後わずかで10.20前半の若さで亡くなっています。なんと吉徳の5人の息子が7~11代当主を繋いでいる異常事態が続いています。加賀藩主・前田家当主に就任・死去するということは、幕府・全国武将への挨拶・お披露目、葬儀など支出が尋常なものではなく、まして兄弟相続は幕府への許可申請に手間と費用がこれまた尋常ではなく、藩財政のひっ迫をもたらすものでした。
その早世した吉徳の息子たちの中でも9代・重靖は金沢生まれですが、加賀騒動により廃嫡・排籍された利和の替りに13歳で加賀藩江戸屋敷に移され、先代の急死により15歳で藩主・当主を継いでいます。在位3か月後、帰国の途上に発病(はしかと云われています。)し、金沢に到着後すぐに亡くなっています。在位4か月半は当主在位最短記録。結局、加賀藩家臣団・民衆へのお披露目もなく無念の死を遂げています。

次に11代・治脩(はるなが)の嗣子・斉敬(なりたか)・・・
6代吉徳は艶福家で数多くの側室を抱え十男九女の子供を残していました。10人もいた男の子は二人が生まれてすぐに夭逝していますが、残りは全員が元服しています。
ところが前述のように7代当主となった長男・宗辰が当主2年で死去したのを皮切りに、跡継ぎを残さぬ状態で亡くなるという(弟を養子にして相続)ことが続き、5人連続の兄弟相続という異常事態が続きます。そして8人の最後の一人として11代当主になったのが治脩でした。(10代重教は財政再建の失敗に加え天明の飢饉で財政破たんの責任をとり、弟に11代を譲位)
治脩の養嗣子になったのが重教の長男・斉敬でした。斉敬は江戸屋敷に住み将軍から偏諱を受け、加賀藩主就任の許可を受け、治脩の隠居と共に藩主当主への就任となる寸前に突然死しています。
弟の斉広が改めて養嗣子として入り直して当主を継承しています。

話は逸れますが、10 - 2 - 5 = 3 残りの三人についてですが、これまた天徳院と因縁があります。
加賀騒動において主犯とされたのが、吉徳が経済官僚として抜擢した大槻伝蔵と吉徳の側室・貞(真如院)でした。近年に至って、二人の無罪と不義密通もなかったことが証明されてきましたが、当時の巷間では完全なる悪者扱いでした。真如院は吉徳が一番寵愛した女性で、二人の間には四男・利和六男・八十五郎の他、女子3名の5人の子供をもうけています。
しかし、吉徳死後に起きた加賀騒動の主犯として大槻伝蔵は失脚し五箇山に流罪となり自害、江戸屋敷毒置事件の教唆犯として真如院は金谷御殿(現・尾山神社境内)の縮所(しまりしょ、流罪人などの配所の上等な物と思ってもらえると解りやすいかも)に幽閉・縊死。当時8代・重煕の養嗣子となっていた利和は廃嫡されて小立野上野村(現在の牛坂八幡近辺か?)に幽閉・10年後に病死。八十五郎は前田八家の一つ村井家に養子縁組が決まっていましたが、破棄されて金谷御殿・家臣邸宅に幽閉・13年後に病死。
真如院は如来寺のお隣りの経王寺に葬られましたが、利和・八十五郎は共に天徳院に葬られました。江戸期以降、前田家ではこの二人は不義の子として前田家から除籍、法要も営まれていませんでしたが、昭和・しかも戦後になってから無実として、吉徳の実子として復権、野田山に改葬されています。

残りの一人は九男・利実。前述の11代・治脩の異母兄になります。江戸期の武家社会では嫡男が家を継ぎ、その他の兄弟は部屋住み(要は嫡男のスペア)か他家の養子もしくは寺に出されるのがほとんどでした。さすがに九・十男ともなると相続に関係することはないと思われていました。
事実、利実は藩臣・大音厚固の嗣子として養子に出されます。母親の智仙院が大音厚固に降嫁したことからこうなったようです。更に治脩は越中伏木の勝興寺に出され得度(出家の儀式を受けること、僧侶になるということ)を受けています。
ところがまさかまさかで藩主が次々に死去、更に加賀騒動で二人が廃嫡幽閉、ついに七男・重教(八男は夭逝)が家督を継ぐ緊急事態、二人を現姓復帰・還俗させたわけです。ところが養嗣子となった利実はしばらくして病死。墓所は母親と同じ宝円寺に葬られています。吉徳の息子で最後に残って坊さんにまでなった治脩が重教の養嗣子となり11代を継ぐことになります。その後も嗣子の若死は11代以降にも続きます。
6代・吉徳以降、相次ぐ藩主の短期交代は藩内派閥を作る原因となり、財政逼迫と共に政治が混とんとしています。これといって傑出した藩主も出現せず幕末まで加賀藩を存続させただけという体たらくになってしまいました。ハッキリ言って吉徳の血筋は呪われているんじゃないのと云いたくなりますが、僕が思うくらいですから当事者となる加賀藩・前田家はもっと深刻に思い煩ったと思われます。何かに祟られていると感じ、対応することは自然と思われます。

長々と書きましたが、天徳院東側墓所に並んだ光高・重靖・斉敬の三人に共通するのは、
本来は野田山に葬られるべき人物・有資格者であること。更に若く死んだこと・・・光高29歳 重靖17歳 斉敬17歳
病死となっていますが不審死とも取れること、これから本人が活躍しようとした矢先に亡くなっていること、
本人としては無念や未練を残す死に方ということです。
更に同敷地に葬られた利和・八十五郎、加賀騒動において無実の罪で陥れられ幽閉死という、無念を通り越して怨霊になって祟ってもおかしくない存在です。
こう考えると、天徳院の東側墓所は、無念を残した者たちの鎮魂の地だったとも考えられます。

当時天徳院の、この墓所は正面玄関からは入れず、天徳院からは回廊を迂回して行くようになっていました。
現在もその造りの片りんは残されています。残されている西側墓所にも迷路のような回廊を通って行かなければならないですが、当時は西側墓所の実母・珠姫の墓所前を通って行かねばなりませんでした

また天徳院の建物が隠すようになっていますが、天徳院裏の天徳幼稚園の前の住宅道路は、当時は如来寺を起点にして光高の墓所に向かう参道になっていた道です。
もし先に書いたように鎮魂の地ということなら、今回紹介する如来寺は鎮魂と霊の慰めと監視の寺ということになります。このために光高正室・大姫の位牌所を置いたのではないかと思われます。

ちなみに如来寺は清泰院が亡くなった明暦2年(1656年)に卯辰山麓から移されたものですが、享保3年(1718年)の大火で焼け落ち、そのままになっていました。再建したのは文化10年(1813年)、12代当主・前田斉広によってです。ちなみに斉広は前出の天徳院に葬られていた斉敬の弟になります。大混乱の藩主・当主の相続において兄の急死によるというを経験しています。
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長い論文みたいなブログになってしまいました。次回は如来寺の境内・本堂をUPします。

旅行日 2014.05.04




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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    ボタン 綺麗ですね これだけ咲いていればルンルンですよ
    前田家の墓所 なぁるほど・・・と読ませてもらいました
    京都の大徳寺に芳春院さんの塔頭があります
    綺麗でりっぱな建物です
    2014年06月12日 17:10
  • つとつと

    それほど大きなものではなかったんですよ^^;
    一番期待していた嫁さんが一番最初には慣れちゃいましたから。。でも本堂が開放されてて、内陣まで見れましたから良かったです。
    大徳寺の芳春院(まつ)が建てた寺院ですね。そちらにも芳春院をはじめ、前田利家以下5代の墓も分骨されているそうです。そうそう、能登太守を退き京都で撫柳をかこっていた利政と亡くなる2年前の松と再会したのもそちらだそうです。
    2014年06月15日 12:05

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