吉崎御坊跡

義母と義兄が2泊3日の滞在で帰る日、白山ICまで送った後、嫁さんと二人でドライブすることに

二人が行ったのが吉崎御坊跡
長年、吉崎御坊の前は何度も通っておきながら、今まで一度も御坊跡地に立ったことがなかったんです。
あいにくの雨ふりでしたが、二人でそぞろ歩きをしてきました。

それにしても、我が家の嫁さんは雨女
家族や二人で出かけると必ず雨や雪が降ります。。ところがそこは晴れ男を自認する僕
車で走ってる間は雨雪が降っていますが、降りると雨雪がやむんですよ。うまくできてます。
ところが今回は車を停めても、降りても降りやまず。。
嫁さんが元気だったのか、僕が弱っていたのか。。
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吉崎御坊
は浄土真宗本願寺派の中興の祖・蓮如上人が北陸布教・教生拡大の拠点として創建したことで知られています。
元来、御坊というのは、坊さん(僧侶)や火葬従事者に対する尊称の意味と寺院に対する尊称もあります。もちろん、吉崎御坊の御坊は後者の意味になります。ただ、御坊制度は江戸期からの物で、その前はどう呼んでいたかははっきりしません。尾山御坊が金沢御堂と呼ばれたように吉崎御堂なのか、あるいは吉崎寺なのか吉崎道場かは僕の勉強不足かもしれませんが、良くわかりません。ですから、ここでは一般に流布されて、一般呼称となっている吉崎御坊として書かせて頂きます。識者には異論もあると思いますがご勘弁ください。
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真宗においては御坊は地域の政務・財務・諸寺の執行、寺院・惣道場・講のピラミッドの頂点的な管理を行っており、本山を本店とすると御坊は独立採算の支店という役割でした。明治以降の政教分離により御坊制度が廃され、宗派管理の地域内の寺院管理として金沢別院・金沢西別院の名のように別院制度となっています。つまり吉崎御坊も現在では正式な名は吉崎別院となっています。

現在の東別院の裏山に当たる吉崎山(御山)の山頂に吉崎御坊を創建したのが文明3年(1471年)でした。最初は草庵だったようですが、その後、宣伝・組織構成の天才・蓮如は御文や講・道場・惣道場の確立・奨励により瞬く間に教生を広げ、2.3年で伽藍を持ち、荒野だった吉崎に寺内町が構成されるまでに発展させたと云われています。しかし、文明6年の火災、7年に兵火に遭い伽藍焼失。伽藍再建の目途がつかず加賀の騒乱により加賀一向宗の先鋭化・朝倉氏との確執などで吉崎から退去、布教の本拠を河内に移しています。その後、永正3年(1506年)に越前侵攻を企てた加賀一向一揆軍を九頭竜川の合戦で破った朝倉宗滴軍によって、吉崎御坊は破壊され長く廃坊となってしまいます。
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そもそも蓮如がこの地にやってきたのは、一種の避難・逃亡に近いものがありました。

親鸞が開いた浄土真宗ですが、他宗との大きな違いは他力本願を唱え、下層民にまでというより一般民衆に対象を広げたということです。浄土真宗の寺院の本堂に入ると解るのですが、他宗と違うのは仏像(真宗では阿弥陀如来像)や須弥壇が置かれている内陣よりも、外から訪れた者が講話や念仏唱和する外陣が広くなっていることです。
また、それまでの多宗派とは違い、他力本願・称名念仏・悪人正機を詠い、特筆すべきは僧侶に肉食妻帯を認めたことです。明治30年頃以降、現代では僧侶の妻帯は当たり前で、どの宗派のお寺も子供が継ぐのは当たり前の風潮になっています。しかし、それ以前は僧侶の女犯・肉食は厳禁でした。現在でも僧侶の修行を厳しく仕切る上座部仏教(以前は小乗と云っていましたが、今は呼ばなくなっています。)の東南アジアの人が日本に来るとこの現状には驚嘆するそうです。
しかし、この血脈継承は親鸞の血を引いた本願寺派にみられるだけで、他宗派はもちろん真宗内部の他派にも見られませんでした。そもそも、僧侶は修行・勤行により昇華して菩薩を目指し、模範として民衆を教え導いたり、冠婚葬祭を執り行う存在として潔斎精進が求められるというのが、世間一般・宗教者共通の観方でした。あの全般に穏やかな江戸時代でも、女犯を犯した僧侶は破戒僧としてさらし者や破門になっています。

そもそも開祖・親鸞にしても妻帯を認めていましたが、本人は法脈継承や教団形成、ましてや血脈継承など考えておらず、そもそも新興宗教という考えはなく師・法然から学んだ浄土宗を突き詰め、実践することしか考えていませんでした。また世間一般・宗教界の僧侶への観方も前述の通りであり、特に血脈による継承が認められているのは天皇家くらいで、特に宗教のリーダー継承は、天皇家からの僧籍降下を除けば、優秀な弟子へと受け継ぐ法脈継承が主流になっていました。

そんな風潮の中、蓮如が生まれた頃は、異端ともいえる本願寺派は真宗内部でも埋もれた形になっており、関東での親鸞門下が起こした仏光寺派・専修寺派の陰で、天台宗・比叡山の末寺として存続するだけの存在でした。八代法主・蓮如は宣伝販促・組織構築の大天才でどん底から、中世における真宗王国・石山本願寺、加賀・越前の一向一揆国の形成、現代においても最多の宗徒数を誇る東西本願寺の基礎を創り上げています。北陸の本願寺派の寺院には親鸞を祀る御影堂や本堂に左右対称に真影を並べるところが多くあります。浄土真宗本願寺・中興の祖と呼ばれる由縁です。
蓮如に関しては、法主就任前のことを一度このブログで書いたことがあるので、興味のある人はこちらをどうぞ ⇒ 二俣本泉寺

七代法主・実父・存如が亡くなり、跡を継いで法主となった蓮如でしたが、宗旨に対して延暦寺から禁令、仏敵指定を受けて大谷本願寺は焼討・破却されており、延暦寺と敵対関係にあった三井寺の保護は受けましたが、近江堅田を放浪することになります。その後、延暦寺とは和解しましたが、長男・教如の貢献や堅田本誓寺の協力により僅かに教生を復活したものの、仲の良かった専修寺と寺院移籍問題でいざこざになるなど境遇的には不遇をかこっていました。
そんな蓮如に大きな転機を与えたのが法相宗・興福寺別当・大乗院門主・経覚(きょうかく)でした。経覚は蓮如の若き頃(蓮如が得度した17歳ころ)、弟子として蓮如を受け入れて修学させており生涯の師弟関係を結んでいました。経覚は蓮如の父・存如と従兄弟関係にあったと云われ親しい付き合いであり、存如の死去時には他宗ながら弔問使を贈り、他宗である大谷本願寺に自身で赴いたと云われています。また蓮如を自身の弟子であり我が子のように終生扱ったとも言われています。その経覚が不遇に在った蓮如に依頼・推薦したのが越前吉崎への赴任でした。

福井県の北、石川との県境近くに北潟湖という大きな湖がありますが、その東方に細呂木(湖岸の菖蒲園で有名な北潟荘からあわら市役所のあるあたり)という地名がありますが、この辺りは当時は河口庄細呂木郷と呼ばれており、現在も春日社があるように興福寺大乗院の荘園となっていました。
この頃、越前では台頭してきた朝倉孝景(朝倉七代目・守護朝倉家初代)によって、守護代・甲斐氏との抗争が激化していました(この時点では朝倉は斯波氏の被官でしたが、将軍・足利義政、管領・細川勝元から守護権限の密命を勝ち取っていました。)。
これにより朝倉・甲斐双方は越前制覇の為に抗争となり、土地確保の押領が始まっていました。その魔の手は河口庄にも迫っており、これを憂いた経覚が才覚に秀でた蓮如に期待したものです。また蓮如にとっても吉崎周辺は真宗門徒や浄土宗門徒が多く、布教活動がしやすいと説いたと経覚の日記に書かれています。
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河口庄には本願寺の末寺になっていた和田本覚寺(当時は現在の福井市和田にありました。)の蓮光が代官として入っていましたが、蓮如に協力して北潟湖の対岸に当たる吉崎の地に御坊を作り、周辺布教と共に奥羽からの信者も集め、数年で寺内町を構成する拠点を造り上げています。もちろん朝倉・甲斐とのいざこざはありましたが、師の経覚への年貢も滞りなく送られていたそうです。ただ残念なことは蓮如が吉崎に赴任した2年後に経覚は亡くなっています。ここまでの蓮如の成長記録や本願寺の動向は経覚の日記(経覚私要鈔)によって、詳細が伝わっています。

ちなみに和田本覚寺は親鸞の弟子・和田信性によって創建されたもので和田道場とも呼ばれていました。
元々は専修寺派(真宗高田派)に属していましたが、蓮如の父・存如の時代に本願寺派に転属しています。越前御坊成立後は越前超勝寺と共に本願寺の有力寺社になっていました。しかし、九頭竜川の合戦で一向一揆軍が破れ吉崎御坊が廃亡した際に超勝寺と共に加賀に逃れ(現在の小松市・本覚寺)、その後は越前門徒のまとめ役になっています。ただ、小松の在地門徒と越前門徒の確執があり、大一揆・小一揆の乱の要因を作ったことで知られます。朝倉氏と和睦後は永平寺町に戻り「和田山本覚寺」となり、小松の本坊も残されて「本覚寺」となっています。この小松の本覚寺の山号が福井市のシンボルともいえる足羽山になります。機会があればまた記事にしたいと思います。
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吉崎御坊と寺内町があった吉崎の地は、細呂木の関を過ぎた旧北陸街道の要所であり、北潟湖に三方を囲まれた地であり加賀・福井双方からの交通路は隘路でなかなかの要害の地でした。
しかし、朝倉孝景の兵乱や失火が続きそのたびに再建されましたが、加賀の三か寺の先鋭・急進化が進み蓮如の度重なる説得にも混乱は進んで行くこととなり、これ以上の平穏な布教活動をあきらめ吉崎御坊からの蓮如退去となってしまいます。これには長男・順如が大きな強権を発動し、蓮如も従ったと云われています。
蓮如が吉崎御坊に滞在したのは文明3年(1471年)7月~文明7年(1475年)8月と約4年間ですが、この間に先鋭化したものの北陸での真宗王国の基盤が出来、本願寺の勢力が勃興し大きな実力を持ったことを示しています。
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それにしても加賀の真宗門徒の先鋭化に関してですが、蓮如が平和的説得を行ったとされていますが、これは後年の作為に思われます。
そもそも加賀において富樫政親と幸千代の兄弟が加賀守護職を争った際に、幸千代側に専修寺派(真宗高田派)が組したことで、対立関係にあった本願寺派は蓮如の指示で政親の支援依頼を受けて政親側につき幸千代を廃亡・追放しています。そもそも、加賀真宗門徒を戦闘的にしたのは蓮如自身なのです。
この加賀の戦闘集団が蓮如の元に団結して行く姿を見た富樫政親は恐れを抱き、加賀真宗門徒の弱小化・弾圧に乗り出します。当然ながら、加賀門徒は政親を一国支配の守護職にしてやったという自負があり、わけのわからない領主より生き仏ともいえる蓮如に仕えるとなりますから、抵抗するのは当たり前です。
これに対して吉崎御坊NO2の立場にあり、蓮如の代筆や指令を代行できる下間蓮崇が独断で一揆を扇動したとなっていますが、蓮崇の指示書と云える御文に蓮如の直筆書見がつくなど、どうみても蓮如の意向が反映していたと思われます。蓮崇は蓮如退去後、しばらくして破門されていますが完全なトカゲのしっぽ切りの印象がぬぐえません(蓮如は24年後の死の数日前、直接に蓮崇を許していますが、蓮崇もまた蓮如の死去三日後に亡くなっています。)結局、加賀宗徒の過激化により蓮如退去となったわけですが、これは正直いって蓮如のやり逃げと見えてしまいます。
蓮如が吉崎を去る際に残した歌があります。 「よもすがらたたく船ばた吉崎の鹿島つづきの山ぞ恋しき」
鹿島は同じ大聖寺川河口と北潟湖に囲まれた吉崎からすぐ近くにある地続きの「鹿島の森」と呼ばれる小島のことです。北陸では珍しい手つかずの温暖常緑樹の森でアカテガニの産卵場所としても知られています。
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蓮如が去り蓮崇が破門を受けて後は、吉崎御坊の管理は和田本覚寺に任されていますが、越前国内は不安定であまり干渉はされなかったようです。
その間に、畿内では文明15年(1483年)に山科本願寺が創建、蓮如はこの山科本願寺で6年後に隠居して法主を五男・実如に譲っています。本来ならば実質的な法嗣であり、蓮如の留守を守り畿内門徒の統率・幕府交渉など大きな実績・見識実力もあった長男・順如が継ぐはずでしたが、残念ながら山科本願寺完成の年に41歳で早逝し、本来の法嗣であり異母弟の・実如が継いでいます。しかしこの承継は順当なもので大きな反対はありませんでしたが、順如の同母弟で実如の兄となる加賀三固寺の本泉寺・蓮乗(後に実如の同母弟・七男・蓮悟が後継)、松岡寺・蓮綱、山田光教寺・蓮誓とはしこりを残した形になり、大小一揆(享禄の錯乱)に繋がってしまいます。もし順如が後20年生きていれば、真宗の混乱はなかったかもしれません。
更に明応5年(1496年)石山御坊(後の石山本願寺)が完成しこちらに本拠を移しています。しかし明応8年(1499年)蓮如は波乱の人生を閉じます。死期に際して石山から山科に戻っており廟所も山科にあります。

蓮如退去後、加賀越前門徒ですが、加賀は前述の三固寺共闘体制、越前は本覚寺・超勝寺の共同体制でした。長享2年(1488年)加賀では真宗門徒によって守護・富樫政親が高尾城で自刃に追い込まれ、実質的に真宗門徒(三固寺体制)が支配する国となります。その余勢をかって、加賀真宗軍団は越前門徒と結んで越前侵入を図ります。永正3年(1506年)侵入してきた一揆軍に立ちはだかったのが朝倉宗滴軍で、九頭竜川の合戦で一揆軍を撃退します。朝倉宗滴軍は前述のとおり、そのまま吉崎に進軍して吉崎御坊を破壊破却します。越前での本拠地を失った越前門徒は加賀へと敗走しています。吉崎御坊は廃坊し、その後、一世紀100年の期間、歴史から姿を消すことになります。

高村光雲作の蓮如上人像、台座7メートル、人物像5メートル、昭和9年(1934年)完成
同時期に高村光雲が顧問となった10メートルを超す蓮如銅像が山科の東西別院の中間地点にもありましたが、戦時供出によって撤去され台座のみになっています。吉崎の銅像は同じく供出命令がありましたが、住民による反対運動で供出を免れた経緯があります。
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北陸真宗門徒にとっては蓮如という人物は生き仏とも尊称された人物で、真宗内では親鸞以上に人気のある人物です。その所縁の地である吉崎御坊と山科本願寺跡・本山は一生のうちに訪れたいと願う門徒は数多くいます。松任(現・白山市)の俳人・加賀の千代女もその一人で、念願の60歳での吉崎御坊への蓮如忌詣での際に多くの句を残しています。
加賀の千代女 「すみれ草の句碑」 うつむいた処(とこ)が壹(うてな)や菫(すみれ)草
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本願寺門徒と織田信長が長く戦った石山合戦以降(元亀元年(1570年)~天正8年(1580年))、講和とはいえ敗戦を喫した本願寺内では紀伊・鷺森に引き籠った11代法主・顕如の穏健派と徹底抗戦を主張した教如(顕如の長男・12代)の急進派のしこりは、その後の信長・秀吉・家康の政治的介入や懐柔にもなかなか収まらず、ついに慶長8年(1603年)、東西本願寺に分かれてしまいます。
当然のことながら、親鸞・蓮如などの所縁を主張する事は同じ本願寺ですから、特に本願寺を発展・確定させた蓮如上人の所縁の地は管理所有権の係争問題になって行き、時の政権を巻き込んだものになって行きます。
特に、蓮如の廟所と吉崎御坊の御山は長い懸案事項になっていました。現在、この2か所は東西共有地として、協同で維持管理しています。

山科本願寺跡の蓮如上人廟所に関しては、明治15年(1882年)に内務省が土地を買い上げて、東西共有地として払下げるという手法をとって現在に至っています。
また、吉崎御坊の御山に関しては麓にあった惣道場(現・願慶寺)と在地門徒によって維持管理されていましたが、東西分裂後惣道場は東に所属しました。東本願寺が御山に御坊を再建しようと幕府に申請したところ、西本願寺門徒から異議申し込みがなされ、幕府寺社奉行に訴訟として双方から持ち込まれました。
延宝5年(1677年)、寺社奉行から判決が出て御山は東西共有となり、蓮如の吉崎建設に関わった興宗寺(現福井市松本)門徒の大家彦左衛門(教聞坊)が構えていた山下道場を西本願寺が支配し、東西の惣道場・山下道場が共同管理となって行きました。その後、山下道場に西御坊が完成。山下道場は西念寺となり現在地に移り、明治以降は吉崎寺と改称して続いています。惣道場は願慶寺となり、隣に東御坊が完成して両御坊となり、現在の形になっています。この経緯に関しては平成元年に、願慶寺から大量の古文書が発見され、再発見・再確認され現在も解読・研究が続けられているそうです。

蛇足ですが、興宗寺には江戸初期に活躍した浮世絵師の源流と云われる岩佐又兵衛勝以の墓があります。元々は興宗寺移転前の旧境内だった近くの宝永小学校にあったものを移設したものです。
先月、放映されていた大河ドラマ「軍師官兵衛」で桐谷美鈴演じる荒木村重の正室・だしの処刑の際、女中に抱かれ脱出し処刑場で涙の別れをした村重とだしの忘れ形見の赤子の男の子が、実はこの岩佐又兵衛です。又兵衛は石山本願寺に保護され成人までを過ごします。だしの旧姓と思われますが、母方の姓を名乗り織田信雄の近習を経て浪人、京都で画人としての活動を始めます。
40歳の時、本願寺執事をしていた興宗寺住職に推挙され、越前松平藩の絵師として福井に移り20年を過ごします。60歳で徳川家光の長女・千代姫(尾張徳川家2代・光友の正室)の婚礼調度製作者の一員として幕府に招かれます。
10年程前に徳川美術館で千代姫の婚礼調度が公開展示されましたが、たまたま観る機会に恵まれました。絵画はありませんでしたが、蒔絵や漆調度の華やかさ、貝合わせの貝の装飾は目を惹くものがありました。千代姫の婚礼調度はその華やかさと精緻さで国宝指定を受けています。
その後は江戸で絵師として活躍し多くの作品を残しています。京都時代の「「洛中洛外図屏風(舟木本)」福井時代の「豊国祭礼図屏風」「金谷屏風」「山中常盤物語絵巻」、江戸時代の「三十六歌仙図額」他、重文指定・重文級の作品を多く残しています。
73歳で江戸で亡くなりますが、遺言で福井の興宗寺に埋葬されています。昭和62年(1987年)に墓の移転の際に「荒木」の名が入った越前焼の壺が出て、話題になったのを覚えています。

旅行日 2014.05.05




この記事へのコメント

  • がにちゃん

    ついこの間まで京都新聞の小説は「親鸞」の話でした
    この分を読んで、こんな事も有ったのかと・・・
    興味深く読ませていただきました
    2014年07月13日 21:02
  • 流布院

    私もここの前は何度か通ったことがあります。
    この間北潟湖畔花菖蒲園へ行った時も、やはり通り過ぎただけでした。

    少しくらいは知っていましたが、はやり相当歴史のある所だったのですね。
    2014年07月13日 21:57
  • 家ニスタ

    真宗の寺というと、城郭化したものが多いですが、吉崎御坊も城郭のようなつくりをしているんでしょうか。
    もし土塁や空堀のような遺構が残っているのなら、行ってみたいですね。
    2014年07月13日 22:19
  • つとつと

    がにちゃんさん
    こちらでも、その完結編が県内2紙と富山・福井が同時掲載でした。県内で買える別会社の新聞が同じものを掲載するのは、さすが真宗王国。全国でも36紙に掲載されたそうです。福井・石川・富山は宗教のキイスポットや寺院が多いんで回るだけでも面白いです。
    2014年07月14日 20:55
  • つとつと

    流布院さん
    吉崎は北陸の真宗門徒には聖地的存在なんですよ^^西も東もありません^^;
    普段は閑散とした場所なんですが、4/23~5/2は蓮如忌で、参詣客が物凄いんですよ^^普段秘帳の京都東本願寺の蓮如真影が7泊8日の徒歩巡行でここに来て開帳されるんです。しかも、東西別院で^^

    家ニスタさん
    吉崎御坊の御山は三方を湖に囲まれた天然の要害、西御坊から願慶寺を経由する参道は石垣の中を通るみたいだし、御山の参道も曲輪を登るようになっています。土塁は一部ですが、西御坊の鐘楼や蓮如の娘の墓や蓮光坊の墓に利用されて解り難いかも^^
    ただ、御坊時代の跡地の区画をそのまま利用していますから、城郭そのものに見えますよ^^建物も天守閣みたいな太鼓楼や鐘楼も見所です。
    そうそう、西御坊入口の念力門は、豊臣秀吉が本願寺に寄進したもので、蛤御門の変の兵火からも免れたものだそうで、昭和24年に荷車で移設したものだそうです。観る価値はありますよ^^/
    2014年07月14日 22:09
  • イータン

    つとつとさん こんばんは~
    随分 お勉強なさっているんですね~
    記事を読みながら もう~それだけで脱帽です。

    高村光雲作の蓮如上人像 撤去命令 よほどの物資不足だったのですね 銅は貴重な存在とされたのでしょう。

    女 男 出かける度に駆け引きが楽しみですね(笑)
    2014年07月16日 22:16
  • つとつと

    歴史系は好きだし、しかも地元で真宗ですから子供の頃から親しんでるというのもありますから、、、でも東西とか難しい教義はカヤの外です^^;
    戦時中の銅像供出は物資不足とはいえ、こんなことをして勝てるわけないですね。
    貴重な遺産が多く消えています。北陸は銅像生産のほとんどを占める高岡があることと、蓮如というヒーローで信仰上の対象ですから、激しい抵抗があったようです。歴史からも一向一揆はその点で恐れられていましたから。。
    2014年07月17日 09:56

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