吉崎別院

前回、ご御紹介したように、江戸期に入って本願寺の分裂を受けて所有管理問題が起こりますが、延宝5年(1677年)に判決が降り、御山(吉崎山)は東西共有地となりました。御山(みやま)の麓は東西に分かれ、吉崎惣道場(東)と興宗寺系列の山下道場(西)が東西並立の現在の元となる形になりました。
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その後、宝暦元年(1751年)に山下道場を直轄にしていた西本願寺が西念寺(現・吉崎寺)として移転させ本堂を創建して「福井西御坊」と改め、東本願寺は翌年、惣道場から改称した願慶寺となった隣に本堂を創建して「吉崎御坊願慶寺」と呼称されます。
明治に入り御坊制度が廃され別院制度になると、西御坊は「吉崎別院」、東御坊は「願慶寺」を分離独立して「吉崎別院」を創設しました。両者で吉崎別院を造ってしまったわけで、これではややこしいので、西別院・東別院と呼び分けているわけです。近年になって吉崎御坊内で一番古い歴史と格式を持つ願慶寺から多くの古文書が発見され、蓮如退去から現在までの不明の歴史が徐々に解明されて来ています。
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ちなみに願慶寺から御山に向かう参道は古地図にもあり、吉崎御坊の創建当時からも参道だったようです。狭い道で登り続け、最後は虎口のような曲りから御坊の広場に出られます。
願慶寺には多くの遺物や資料が観られます(拝観・聴講料500円)が、気さくで豊富な知識を持った住職のお話は面白くて解り易く、庶民的なもので笑いが絶えないものです。立ち寄った際には見学がてらは聴講してみてください。500円以上の価値はあると思います。ただし、表にデカデカと書かれた「嫁脅しの肉づき面」は期待しないように、、、、これはここだけじゃなく、東別院、吉崎寺など他にもあります。能や狂言で有名だけど、あくまでお話を広げる道具だったと思うと住職も言っています。面としては願慶寺の物は厳つい鬼面、東別院、吉崎寺の物は能でよく観られる幽玄な幽霊面です。

西別院、吉崎寺、東別院、願慶寺などが現在の吉崎御坊を語る寺院ですが、国道沿い吉崎寺の側に蓮如上人記念館がありますが、こちらは平成10年に出来たものでお東騒動で分派した東山上花山本願寺派系列の本願寺文化興隆財団が運営しているそうです。浄土真宗は東西だけでなく、十派一絡げ(十把一絡げをもじったもの)と云われるように多くの宗派が存在します。しかし、教義としては微妙な違いだけで大きな相違もありません。浄土真宗に属する門徒でも、自分の家が東西なのか別なのか、つまり檀家となっている自分の寺がどこに属するのか知らない人が多いはずです。というわけで、変な色眼鏡なしで観たり聞いたりした方が正解だと思います。

一部、画像が消えたので、あまり多くないですが、残っている画像で申し訳ありません。携帯画像なんですが古くなったせいでしょうか、保存したはずが残っていない頻度が増えてきました、ぶつぶつ言う僕に嫁さんがついに匙を投げて買い替えることに、帰り道で二人の携帯を買い換えました。ついにスマフォデビューだけど、今もって使いこなせない。。

吉崎御坊の駐車場に車を停めると観光客の9割方が潜る西別院の念力門
天正19年(1591年)、天下統一の翌年に民政安定に乗り出した豊臣秀吉が本願寺に寄進したものです。元治元年(1864年)の蛤御門の変の時の兵火から西本願寺を守ったということから「火消し門」とも呼ばれています。昭和24年(1949年)に西本願寺から下付されたものです。その際、信徒100余名によって16台の荷車で運ばれたそうです。
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西別院・表門 建立から約170年だそうです。ちょうど修繕中で資材が置かれていました。檜皮葺の重厚な屋根が特徴です。
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西別院・本堂 十一間四面・総欅・紫宸殿造 寛政九年(1797年)に再建されたものです。
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西別院・鐘楼・梵鐘 中宗堂(蓮如堂)と本堂をつなぐ通路の途中を登る山肌にあります。
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東別院・山門 山門から本堂に長い石段が続きます。蓮如忌の前日4/22夜に到着する蓮如の御影(ごえい)の入った輿はこの門を通っ石段を登り、東別院の本堂に運び込まれます。
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東別院・本堂 延亨4年(1747年)に再建されたもので、来迎壁・柱と須弥壇を持つ後門方式は越前国内の先駆け的存在だそうです。来迎柱は素の欅材ですが、50年後に再建された西別院の本堂は金箔押しで装飾されています。本願寺の仏堂の変遷が二つの本堂を比較すると良く解ります。外から見ると大きく観えませんが中に入るとその広さと豪華さに驚かされます。
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東別院・太鼓楼 建立は本堂と同じ年と云われています。土台が石垣作りで入母屋造りの上に太鼓楼を乗せたように出来ています。城郭の天守閣のように観え、東別院のを引き立てる存在です。一階は売店と展示場になっています。売店のおばあちゃんも話が弾む優しい存在です。ちなみにこの太鼓楼は釘類を一切使用せずに建てられているそうです。
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我が夫婦が訪れた日は、観光客も少なく静かに見学や散策が出来ましたが、吉崎が一年で一番賑わうのが「蓮如忌」(4/23~5/2)の期間です。江戸期から数えて今年で341回(旧蓮如忌・蓮如祭りを加えると500回以上)を数えるそうですが、吉崎の蓮如忌「蓮如上人御影道中」から始まり終わります。東本願寺で4/17に御下向式が行われ、京都から蓮如所縁の地を巡りながら吉崎までの240キロの道程を、蓮如上人の御影を供奉人が随行して歩みます。4/22夜、吉崎別院に到着。10日間の御忌法要を経て、来た時と同じように蓮如所縁の地を巡りながら280キロを歩んで5/9東本願寺に戻り阿弥陀堂での御帰山式をもって終了となります。

明応8年(1499年)、陰暦3月25日に蓮如上人は85歳で示寂。この翌年から吉崎では真宗門徒によって25日講が組織され、3/25に蓮如の法要を吉崎で行っており、元禄時代(1688~)には「吉崎祭り」として七日間の法要・祭事として各地から人が集まり賑わっていました。享保7年(1722年)から「蓮如上人御影道中」が始まると、全国各地からの参詣者が増えて賑わっていきます。最初の頃、御影の滞在は吉崎祭りに合わせ7日間となっていましたが、参詣者の余りの多さに東本願寺の裁可で現在と同じ10日間になり現在に至っています。
参詣者が増えた一番の理由としては、蓮如の御影が東本願寺に管理されている為、通常は拝められないのですが、一年の中でこの吉崎滞在中の間だけお眼に掛かれるというのが要因となっていました。
現在の吉崎の地は平素は静かな自然の中に(福井石川の県境を跨いで住宅地)ありますが、静かと云うよりも閑散とした雰囲気があります。しかし、蓮如忌の期間は全国から参詣者が住民の数十倍が集まり賑わっています。

ちなみにこの蓮如の御影ですが、元々寺宝として本願寺に伝えられていたものですが、慶長18年(1613年)東本願寺12世・教如から石山合戦の功労として吉崎惣道場に下賜されたものです。(翌年、教如は亡くなっていますから、一種の形見分けの意味合いがあったようです。)
享保6年(1721年)吉崎惣道場が寺格として「吉崎御坊願慶寺」と昇格した時点で、今度は改めて願慶寺から東本願寺に上納したという経緯があります。
長年の蓮如忌や吉崎祭りでの御影拝観の要望が強く、翌年から「蓮如上人御影道中」として吉崎に下向するという法行事となって現代に続いています。

「蓮如上人御影道中」の間(4/17~5/9)、東本願寺本山(真宗本廟)では蓮如上人はご旅行中ということになります。それじゃ、蓮如忌法要はと心配する人がいるかもしれませんが、東本願寺では旧暦日付のまま3/24.25に忌日法要を行っています。ちなみに西本願寺は陰暦を陽暦に読み替えた5/13.14。蓮如の亡くなった山科別院廟所は4/13.14に行われています。

旅行日 2014.05.05







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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    本願寺さんも今もいろいろありますねぇ  
    スマートフォンデビュー おめでとうございます(パチパチ)
    使いこなせば楽しいようですね がんばって下さい ちなみに私は未だにガラケーです
    2014年07月20日 20:48
  • 流布院

    スマートフォンですか、羨ましいような羨ましくないような・・・なんちゃって
    それがあるだけで大抵のことはできてしまい、慣れてしまうと今度は無いと困るようになるかもしれないですね。
    でもそうなった時は使いこなせているということでしょう
    2014年07月20日 21:52
  • つとつと

    がにちゃんさん
    僕の家も真宗で、子供の頃祖父や母に聞いたら、「???たぶん、東かな。。」でした^^;でも、仏壇は東使用ですから、たぶん東かなくらいの知識です。
    ホントはガラケーにしたかったんですよ^^;でも仕事でカメラ使用が多いから、画素数で選ぶとそうなっちゃいましたが、使えない機能が多くてわけわからないし、テンパって3回も投げちゃった。。
    2014年07月21日 17:28
  • つとつと

    流布院さん
    携帯は「もしもし」「タスクリスト」「カメラ」を仕事に使うだけなんで、たまにCEメール使うくらい。。。ただ、画素数を落とすわけにいかなかったんですまふぉにするしかなかったんですよ><
    当分慣れそうもないですね。。。嫁さんの方は娘が玩具にしてて、いろんなアプリが入ったみたいです。初日にはいつの間にか機内モードで戻すのに大苦戦しました。
    2014年07月21日 17:36

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