寂光院

久しぶりに家族がそろった完全休養日。なにがしか用事が入って一日まるごと三人が朝から夜まで揃うのは久しぶり。。ここのところ、だいぶストレスを溜めていたので、そろそろ発散しないとやばくなってきたお父さん。。
前日、遠出のドライブをすると宣言朝早く出ると云ったのに予想通り寝坊が一人発生で、出発は9時前になっちゃいました。。相変わらず、あっちで休憩、こっちで眺望と下道をゆっくり(嫁さん曰くそれでも早い
懐かしい朽木渓谷を抜けまして、やって来たのが大原・草生の里
画像

今は昔、18.9年程前になりますが、前職の転勤で松任から滋賀県の守山(仕事先は栗東・草津・守山の境)に引っ越したんです。急遽の転勤だったため、事前の下調べなしで地理も何も解らずに引っ越したんですが、住んでみれば、約1時間強あれば京都・滋賀・三重・奈良・岐阜と下道でも行ける好位置だったんですね。
しかも昔から行きたいと思っていた大原の地も琵琶湖大橋・途中峠越えで約30分当時、平家物語や源平盛衰記に凝っていた僕。平家物語の最終話の地は是非行きたかった地だったんです。
滋賀だけでも歴史好きを自称する僕にとっては、猫にマタタビ、いくら時間があっても足りないくらい。
全く知らない土地で不安な顔の嫁さんと小1の一学期夏休み明けの転校でドキドキの娘をよそに、転勤は毎回不安だけど内心ニッコリだった僕

家族に関しては、滋賀の引越は逆に良い方向に運んでくれました。引越で入居したアパートのお隣さんは、なんと大分からだったんですが、同じ時期に引っ越した家族。なんとその家の娘さんが娘と同学年、すっかり初日から仲良しに、しかも小学校は学年の半分が転勤族で転校生慣れですんなり入りこめて、娘にとってはとても良かったみたい(娘曰く今でも滋賀・守山が一番楽しかったと云ってます。)。更に重度の喘息持ちだった嫁さんも、滋賀の空気があったのか、ピタリと発作を起こさなくなりました。石川の病院で云われたんですが、南滋賀は適度な湿度と風など喘息には良い土地で直るかもと云われてたんですが、ほんとに治まって嫁さんも僕も大喜び

ところが世の中、そうは何でもうまく行くものではありません
肝心な自分の仕事は大苦戦。。前職は服飾の店舗販売・管理だったんですが、覚悟はしていたんですが、とにかく大苦戦 約2年ほど、まともに休めぬ程に店舗を立て直さねばなりませんでした。。おかげで、歴史好き・地理好きの僕にとって、まるでお預けを喰った状態

なんとか目途がついて、やっと仕事も落ち着いて休みも取れるようになって、あっちこっちを観て、寂光院にも転勤前に行こうかと思っていたのですが、果たせなかったんですが、いつでも行けると楽観していたら、大事件が発生
大原の寂光院が火事で焼失してしまったんです。しかも放火というとんでもない出来事。黒こげになった重文指定の本尊の新聞写真がデカデカ。。。茫然自失。。。今でもその新聞記事・写真は覚えています。憎き放火犯(結局捕まらず迷宮入り)、貴重な文化財を燃やすとは許せない。しばらく、がっくりしてました
その後、寂光院は平成17年(2005年)に再建されて今にその姿を取り戻したんですが、結局その時には石川に戻っていましたから、僕の望みは果たせずに滋賀での3年半程の生活が終了していました。その後も何度か大原の道は通りましたが寂光院には寄れずじまい。大きな心残りだったんですよ。
画像
画像

そして長い間の念願だった寂光院をついに訪れることが出来たんです。
あいにくと天気は雨になったり曇ったり、更には太陽が顔を出したりと目まぐるしかったんですが、そこは晴れ男の僕の神通力、寂光院近くの駐車場から車を降りた時には見事に雨は止んでおりました。
車を停めた駐車場の側には、小さな滝「落合の滝」がありました。草生川の支流の焼杉谷川と西田谷川が合流する場所にある滝です。側に建礼門院の歌の木札が。。 「ころころと小石流るる谷川の、かじかなくなる落合の滝」
画像
画像

草生川の清流に沿って小道を登って行くと右手に寂光院の入り口があります。山肌にあり多くの木々に囲まれて静寂で静かな雰囲気です。緑の垣根の長い石段を登って趣のある山門を潜ると寂光院の境内になります。
画像
画像
画像
寂光院は山号・清香山、寺号・玉泉寺と云い、元は玉泉寺の支院だったようですが、現在は天台宗の尼寺院です。寺伝に依れば、推古2年(594年)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建したものと云われています。創建時には太子の乳母・玉照姫(恵善尼(えぜんに))が初代住職として入ったそうです。その後、宮中・高級家門の子女が住職として入ったと云われていますが、平安末期までの社伝が壊滅して詳細が解らず、二代目を阿波内侍、三代目を建礼門院徳子として、現代に伝えています。現院主は32世になります。
画像

初代・恵善尼(えぜんに)は、敏達13年(584年)善信尼(ぜんしんに)の出家に伴い、弟子として、禅蔵尼(ぜんぞうに)と共に出家した日本初の尼僧の一人です。敏達期は日本書紀に依れば蘇我・物部が崇仏・廃仏で対立した時代で廃仏派の敏達天皇の後ろ盾で物部氏が台頭、翌年にはこの三人の尼僧は物部守屋によって法衣を奪われ全裸で群集の前で鞭打たれたという苦難も経験しています。蘇我馬子の病気平癒の願いで勅許で正式な尼僧の地位を得ます。崇峻元年(588年)、百済に渡り正式な戒律の教えを学び受戒して翌々年帰国し桜井寺(明日香村?)に入っています。
聖徳太子は敏達3年(574年)に生まれ推古30年(622年)に亡くなっていますから、年代的に聖徳太子の乳母というのは合います。しかし、書記には父親・錦織壺(にしごりのつぼ)、俗名・石女となっています。
ところが聖徳太子の墓所のある叡福寺の向かいに、西方院という尼寺があるのですが、こちらも前出の三人の尼僧によって建てられたと伝えられています。しかし、こちらでは父親・物部守屋、俗名・玉照となっています。
蘇我馬子の正室は守屋の妹ですから関係性は決して無理ではないとも思われます。書記と叡福寺関連・蘇我・物部関連には矛盾や相違が多いのですが、こういう部分に時々現れてきて興味深い物があります。
ちなみに書記と西方院の残り二人の尼僧は、 善信尼:父親・司馬達等(しばたつと)、俗名・嶋⇔父親・蘇我馬子、俗名・月益 禅蔵尼:父親・漢人夜菩(あやひとのやぼ)、俗名・豊女⇔父親・小野妹子、俗名・日益

二代・阿波内侍(あわのないじ、あわのないしのすけ?)は、平家物語くらいしか資料がなく良く解らない女性ですが、高階通憲(たかしなのみちのり、後の藤原信西(ふじわらのしんぜい))の娘と云われ、若くして宮中に入り崇徳天皇の寵愛を受けたと云われています。崇徳死後に出家して、そのまま女官として建礼門院(平徳子)に使えたと云われています。父親・信西が殺された平治の乱後か壇ノ浦の送還後か時期は不明ですが寂光院に入り、建礼門院に仕え、最後も看取ったと云われています。平家物語の最後のクライマックスの大原御幸では語り部的存在になっています。

島田髪に縫紋様の手拭をかぶり、藍染の着物に御所染の帯、前垂れ、白い甲掛け、足に脚絆,二本鼻緒の草鞋。この大原女のスタイルは、この女性が柴刈りなどに行く格好をモデルにしたと云われています。
今回は写真は撮っていませんが、寂光院の入り口前の通りを少し奥に進み、左に入った場所に墓所があり、建礼門院に一緒に仕えた大納言佐局・治部卿局・右京大夫・小侍従局と共に墓標があります

三代・建礼門院(けんれいもんいん、平徳子)は、寂光院はこの女性の寺と云うほど平家物語で有名になっています。壇ノ浦で入水しますが、源氏軍にとらえられ、洛東の吉田僧坊に出家して入りますが、地震により吉田僧坊が被害を受け、大原の地に隠遁の決意と共に移り住んだと云われています。
大原の名産品とされる「紫葉漬」は、里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物に感動した建礼門院が命名したと伝えられています。
画像

建礼門院徳子は平清盛の長女(藤原兼雅室が年上、実際には次女?)として生まれ、承安元年(1171年)17歳で高倉天皇に女御として入内、3か月で中宮として立后されています。ちなみにその時、天皇は元服したての11歳。6年後に二人の間に言仁親王(ことひと、安徳天皇)が誕生しています。
2年後、天皇が譲位して安徳天皇が3歳で即位し徳子は国母となります。高倉天皇は上皇として院政を開始しますが1年後に病死。3か月後には父・清盛も病死。立て続けの不幸が襲います。
寿永2年(1183年)、源義仲による倶利伽羅合戦・篠原の合戦と立て続けに平維盛が大敗、京への侵入を許す事態に、平家一門・安徳天皇・三種の神器と共に西国に退避します。この間に平家軍は追討軍の義仲を中国・四国地方で撃退・巻き返しを図っています。
院政を復活した後白河が神器なしで後鳥羽天皇を即位させ、平家追討の院宣を出しています。このため、二人の天皇が併立したことになります。合戦の天才・源義経の登場により、粟田口で義仲戦死、一の谷・屋島で平家軍を破り、瞬く間に壇ノ浦の海戦で、平家を滅亡させます。この際に神器の剣を失ったことが、頼朝・義経の決定的な不和に繋がります。
この壇ノ浦で安徳天皇をはじめ平家一門の多くが海中に沈んだのですが、この際に平家当主・平宗盛、平時忠などと共に徳子も救出され、京へと護送されています。この後、宗盛は斬首、時忠は流罪となりましたが、徳子は皇族として無罪となり本人の希望で仏門に入ったそうです。
画像
画像

平家物語のクライマックスは建礼門院が大原に隠棲し念仏三昧の日々を過ごす中、訪ねてきた後白河法皇との会話(大原御幸)、そして示寂までを描いたものです。作者は鎌倉末期南北朝期の覚一法師と云われていますが、この覚一は足利尊氏の従兄弟にあたり、太平記の中でも重要な登場人物になっています。この覚一本によって、平家物語の中で、「灌頂巻(建礼門院の大原退去から死を描いたもの)」はクローズアップされ建礼門院の悲哀が広まり、人気を高めたとされています。
昨昨年の大河ドラマ「平清盛」のラストで、海底の宮殿内で平家一門が勢揃いしている情景で華やかさを締めくくっていました。低視聴率に苦しんだドラマを華やかに終わらせたかったのかもしれませんが。。。実はこれも建礼門院と後白河の会話に出てくるものです。
壇ノ浦で死にきれず、明石まで護送されてきた際に建礼門院が見た夢の模様で、彼女が仏門に入って我が子・安徳天皇、平家一門の成仏を願って過ごそうと決めたきっかけになったものでした。海底での華やかな情景は、実は皆が成仏できずに夢幻の中に彷徨い続けていることを表しており、畜生道(海畜道)に落ちてしまった平家一門を救いたいというものでした。
画像
画像

平清盛との暗闘・軋轢の末、権謀術策の限りを尽くし平家を滅亡させた後白河法皇でしたが、他面では今様(今でいう大衆歌謡曲)に凝って喉をつぶしたり、今様を聞くために一般人だけでなく河原者までを殿中に呼ぶほどの横紙破りの人物でした。そして最愛の者には偏執的とも云えるくらい優しく尽くし見守るタイプでもありました。一歩間違えると危ない部類の人間かも。。
そんな後白河が生涯の中で一番愛した女性が建春門院(平滋子)でした。彼女を愛した後白河は御幸・行幸にも彼女を同行したと云われています。御幸・行幸に后や女御を同伴するのは前例にないもので、近代になるまで事例はありませんでした。
公家・僧侶・女房衆の日記や物語の中では行跡や人となりを汚すような文面が多い平家一門の中で、唯一と云っても良いくらいに、賛辞・賞賛ばかりが際立つ女性です。悪口と云えば無類の酒豪だったというぐらい。
後白河・清盛という当時の両巨頭であり性格も激しい二人に対しても、公正中立な立場で自己の意見を述べ、納得従わせるすべを持っていたと云われます。滋子は二人の緩衝材的存在で彼女が生きた間は後白河・清盛の多少の軋轢も双方で抑え込まれていました。彼女は34歳と若くして亡くなっています。
そのような建春門院滋子が残した唯一の子供が高倉天皇であり、代母として着裳の儀を手ずから行ったのも滋子でした。後白河自身も代父として徳子を猶子として二人で大内裏に送り出しています。つまり、形の上ではあるけれど、後白河と滋子の間の娘ともいえる存在でした。実際、滋子の徳子に対する扱いは息子の嫁というより娘に接するようだったと云われています。
大原での徳子との再会と会話は後白河に特別な感情と感慨があったのは確かだったでしょう。
画像
画像

寂光院の前にある泉水(汀の池)の横に枝葉のない松の幹があります。もともと樹高13メートルを誇る古木だったのですが、平成12年(2000年)、寂光院の火災の際に類焼し、手は尽くされたようですが4年後に枯死にしてしまったものです。現在は枝を切り防腐処理を施されて残されているものです。
画像
画像

この松は平家物語の中で「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」 「中嶋の松にかかれる藤波の うら紫のさける色」と描かれたもので、寂光院の中で「大原御幸」を伝える物としては汀の池・桜と並ぶ物でした。古くから「姫小松」と呼ばれ、寂光院のシンボル的存在でした。

焼失前の寂光院本堂は、内陣と柱に飛鳥・藤原様式を残し、外陣及び建物は淀君の発願により豊臣秀頼が再建改修を施した桃山様式の建物でした。秀頼以降も徳川家の手によって改修の手が加えられ、後世に伝わって来たものでした。
焼失後は、5年の歳月をかけて焼失部材の研究に始まり、古式通りに再現、再建されたものです。
総桧造り・木杮葺きの屋根、正面三間・奥行き三間の正方形、宮大工・技術者・前住職の執念が感じられます。
画像
画像
画像
本堂内にあった重文指定の木造地蔵菩薩立像(1229年製作)と阿波内侍・建礼門院の坐像があったのですが、
本堂焼失時に地蔵菩薩立像は黒焦げとなったのですが重文指定は外されず残され、また体内に納められていた内蔵品(3000体以上の地蔵菩薩像や経典・願文・刀剣・笛・古銭・その他の箱が20点以上)は無事でした。現在は建礼門院の庵所の奥の高台にある収蔵庫に厳重に保管されています。また収蔵品の一部は宝物館で展示公開されています。なお、宝物館には安徳天皇・建礼門院が壇ノ浦で座乗した御座船の残骸と伝わる木片など興味深い展示物があります。

現在の本堂内には美術院国宝修理所で旧本尊を忠実に模倣し、新造時を再現した装飾を施されています。
2.546メートルの大きさに真っ白な肌と煌びやかな装飾の華やかさ、厳かさを通り越して威厳を感じ、長く見つめるのが不遜に思えるほどの出来です。
通常、仏像と云えば長い期間を過ごしてきたため地肌の物や金むくが多いのですが、忠実な彩色の仏像にお目に懸かることが少ないので貴重な体験になりました。寂光院に訪れた際は、本堂内の御本尊は見逃してはいけない菩薩像です。

焼失前の阿波内侍・建礼門院の坐像は二人の書簡や関係書類で作られた張子作りでした。内側の一番新しい書簡が室町期の物で、室町時代以降の製作と確認されていたものでした。しかし、火災には耐えられず焼失していました。現在本堂にあるものは以前の坐像を忠実に模写して桧で木造として造られたものです。二人の優しくも凛とした姿が再現されています。本堂内や宝物館は撮影禁止で画像はありません。

寂光院には池を配した庭園が見所です。先に紹介した本堂前の汀の池・桜・姫小松の庭園以外にも。。。

画像
画像
画像
四方正面の池・・・本堂の東側にある池で背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設けています。 池の四方は回遊出来るように小径があり、本堂や書院など四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されているそうです。
画像
画像
画像
画像
画像

孤雲(茶室)・・・京都御所で行われた昭和天皇の即位の礼に使われた部材で作られた茶室です。昭和6年(1931年)献茶式を開き茶室開きを行ったものだそうです。
「孤雲」の銘は、建礼門院の元を訪れた後白河が、粗末な庵所の障子に貼られた色紙に
笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」      大江定基歌
思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」建礼門院歌
を見つけて、後白河一行がみな涙にむせんだという平家物語の大原御幸のなかの一節にちなんだそうです。

寂光院の参道の手前に石畳と石段が一直線に伸びた道があります。
これが建礼門院の墓所に続く道です。寂光院にはこの日も多くの人が訪れていましたが、こちらは別敷地になっているせいか、あまり人が訪れていないようです。正式な名称は「建礼門院大原西陵」。
画像
画像
画像
江戸期までは寂光院の境内内でしたが、明治になって墓所だけが宮内庁管轄になって、寺院とは切り離された形になっています。正直云って管轄の問題としても、宮廷から離れ仏門に入って念仏の世界に入った建礼門院を、今度は寂光院という仏門から切り離し、宮廷関係に引き戻すような扱いはどうかと思います。
画像
画像
画像
建礼門院の墓所は出家した関係からだと思いますが、墓域の中に鳥居を置きなかに墓標の五輪塔が置かれています。皇室関係では珍しい仏教式御陵の形態です。
通常は墓域の外に鳥居を置き、古墳形式や土饅頭型の土盛りが主流です。このことからも宮廷のしがらみから離れ彼女が仏門に励み、仏の世界で亡くなったことが解ります。

草生の地でも小高い丘に建つ墓は、栄耀栄華の10代・20代前半までと、親しい者を失い続けた20代後半、そして夫の高倉天皇・我が子の安徳天皇・そして平家一門の菩提と成仏を願い、唱え続けた30歳以降の生涯。
天国と地獄を見たような前半生と一人孤独の中で仏教世界に身を沈めた後半生。
その後半生そのままに、一人孤独のままにあるように見えて、物悲しい印象を感じてしまいました。
できれば、あの世の楽園で夫・子ども・一門と出会い、楽しい生活を過ごしてほしいと願います。
旅行日 2014.08.31

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 14

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

  • go

    つとつとさん、お若い時の転勤で奥様は転地療法で病が良くなったり、お嬢様は良き友人が出来て心配されたような事も無かったようですが、かんじんのご主人様は仕事の事で大変御苦労をなさったようですね、そんな思い出も過ぎた今考えたら懐かしい思い出になって人生の肥やしになっていることでしょう。
    その時に見ることが出来なかった寂光院をご家族で訪れてじっくりと見る事が出来て
    感無量でしょうね、寂光院にまつわる歴史の事などが記事に詳しく書かれていて感心する次第です、一読しても私の頭にはすぐに入ってくれませんがまた読み返してみます。

    2014年09月17日 17:08
  • つとつと

    goさん
    向うでの苦労は肥やしになったか、ただの挫折だったかは別ですが、滅多にない体験もたくさんして来ました。滋賀・京都・大阪・奈良は古い歴史のせいで、掘れば何か出てくる地。。道路拡張で駐車場の調査で柱付住居が出て、5か月も駐車場が狭まって入口が無くなって、横の臨時入口になったり、こちらではありえない経験もしました^^;たしかに、振り返れば笑い話です^m^本当はもっと長く住みたかったなあ。。
    本当に念願の場所だったんですよ。ちょっと想像が膨らみ過ぎていましたが、やはり感激の場所でした^^新しくなった本尊は本当に威厳・迫力がありました。本尊に繋がる虹色の紐をしっかり握らせて娘にお参りさせてきました。
    2014年09月18日 18:39
  • がにちゃん

    流石に歴史好き 見ていられる所が違いますね  隅から隅まで・・・
    家族そろっての寂光院  良かったですね
    焼ける前の寂光院を知っているものには、あまりに新しすぎて建築当時はちょっぴりさびしかったです 年数を重ねて 趣も出てきたように思います
    11月に入れば紅葉が始まり また違った景色が楽しめます
    次回はつとつとさんのこの記事をじっくり読み返して 行く事にします
    新しい見方が出来るかも

    2014年09月18日 22:29
  • つとつと

    がにちゃんさん
    以前の寂光院は写真でしか見ていないので、新築の寂光院との違いは良く解りませんでしたが、念願の場所という方が僕には嬉しかったです。とはいえ、周りの阿弥陀寺とかは時間の関係で寄れなかったんで次回のお楽しみに取っておきます^^
    ついでに登ったことのなかった律川伝いに三千院の方にも登って来まいました。川の流れが綺麗で秋の紅葉が合いそうでした^^
    2014年09月20日 08:23

この記事へのトラックバック

  • 浮御堂
  • Excerpt: 大原から途中峠越えで懐かしの滋賀県に。。守山市の国道477号線沿いに住んでいたので、琵琶湖大橋に来るとホッとする部分があります。琵琶湖大橋交差点にスーパーいずみやとヤマダ電機のある場所に当時はびわ湖タ..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2014-09-30 10:29

最近のコメント