律川 ~ 後鳥羽・順徳大原陵

大原と云えば、やはり観光のメインになるのが三千院ですが、観光の場合には大原駐車場から三千院道と呼ばれる参道、呂川伝いの茶屋・お土産屋さんが並ぶ道を行くのがオーソドックスなんですが、今回は律川伝いに登ることにしました。意外に知られていませんが、三千院や勝林院・実光院・法泉院などに行くならこの道が一番の近道なんですよ。そのかわり途中には茶屋もお土産屋もなにもありません。当然、すれ違う人も少なく大原の山里的な雰囲気を感じられます。
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大原(魚山)の地は、仏典に節をつけた仏教音楽の一つで声明の発祥の地と云われています。大原の声明は最澄が伝えた天台声明ですが、平安末期には来迎院・勝林院は大原流魚山声明の道場として知られていました。この声明は三種・五音・七声・十二律で構成されているそうですが、三種(呂曲・律曲・中曲)の呂曲と律曲の名からそれぞれに付けられたのが大原に流れる二つの川(呂川・律川)の名になっています。「ろれつが回らない」という言葉もここから来ています。

律川沿いの道は観光道ではないので、それほど整備されていませんが、その分静かで途中には大原・京野菜の栽培畑も見られます。また律川の流れで夏場でも癒されます。
登って行くと最初に出会う神社は「服部神社」・・・この神社がこの辺りの産土神で地元の人たちに親しまれていて、「ハットリさん」と親しまれていると案内板に書かれていました。そういえば、滋賀・京都・大阪では、お寺や神社を「・・・さん付け」で呼ぶのをよく聞きましたねえ。石川にも山代温泉の産土神の名も服部神社でした。なにか関係があるんでしょうか、、、
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律川伝いに細い道を更に進むと、実光院の土塀を左に朱色の橋(末明橋)に出ます。ここで二人は三千院の方に、、、僕はここでの目的地の後鳥羽・順徳大原陵に、、、(歴史好きの僕から謂れを聞くので、嫁さんはどうも古墳や墓所は苦手なんで。。特にここはね。。)
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後鳥羽上皇・順徳上皇の親子は鎌倉時代初期の承久の乱の首謀者として後鳥羽は隠岐、順徳は佐渡に流罪となり、その地で亡くなった親子です。順徳上皇に関しては相当前に簡単に書いたことがあります。(新潟ふるさと村
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平家一門が源氏に追われて西国に逃亡した際に、寿永2年(1183年)後白河法皇は息子の後鳥羽を神器なしで天皇にして院政を復活し、源頼朝に東国支配の許可を与えてます。
ここで2年間とはいえ天皇が二人存在するという異常事態が発生します。南北朝では天皇が北朝・南朝でそれぞれが天皇位を建てて相争って相克の時代でしたが、この時は異常とはいってもそれほど重要視はされていません。そもそも1183年当時は安徳5歳・後鳥羽3歳の幼児ですし、なんといっても最高権力者・後白河法皇がおり、実権はこの人が握っていたということがあります。

中学・高校の日本史を教えられたとき、貴族政治という時代背景が解り難く、しかも天皇がコロコロ変わり、藤原氏の摂関政治と荘園制度、上皇・法皇といった天皇を辞めた人が表に現れて更に複雑になり、とどめに武士が台頭して、ますます複雑になります。この天皇・藤原氏・上皇法皇・武士が特に複雑に絡んだのが平安末期の出来事です。ここで嫌気がさして日本史が嫌いになってしまう人がほとんどだと思います。

現代では天皇は連綿と続く日本の象徴で特別な存在だと教えられています。
明治以降でも建前上は四民平等で、その上に人神を超えた存在としての象徴として天皇が存在します。つまり奈良時代以前、明治以降の日本人にとっては、天皇は専制君主であり、昭和以降は象徴として特別絶対唯一な存在なわけです。
この天皇という存在感が無くなったり、薄くなったのが摂関政治でありその後の院政であり幕府政治なわけです。当時の人でも混乱状態で、現代人にとったら訳が分からないと敬遠したくなる時代です。

この訳の解らない。そもそもの始まりは京都に都を持ってきた桓武天皇に始まります。この時代までは天皇を絶対権力者として藤原氏をはじめとする群臣が補佐する形態でした。桓武天皇は蝦夷討伐などにより、国内統一が安定した時点で暴挙に出ます。ここで国家の軍事力を放棄してしまうわけです。もちろん検非違使という簡単な軍備を持った都警察兼総務処理機構はありましたが、国家軍隊と死刑制度をなくしてしまったわけです。現代でさえも他国との関係で軍備をなくすのは実質的に無理だし、尚更、混乱封建時代に死刑制度をなくするのは国内を混乱に火種を落とすようなものです。これは国家としての義務を放棄したことになります。それでは国としての朝廷に努める貴族の仕事は何といえば、花鳥風月、歌や蹴鞠が大事な仕事になっていたんです。これが王朝文化の実態でした。

叛乱や有事の時はどうしたかと云えば、将軍を任命して後は、どう戦おうがお任せ。。。将軍は一人で出発して、途中で兵士を募集して軍を編成したわけです。有事にしても一例として平安期に対馬にに唐の兵隊が浸出した記録があります。その際に一村の住民を皆殺しにされたのですが、対馬の領主が独力でこれを撃退したのです。これに対して朝廷は褒めるどころか、何故報告なしに(実際には何度も大宰府や朝廷に救援要請を出していましたが、政府高官が握りつぶしていました)戦闘をしたのかと詰問したと云います。結局御咎めなしでしたが、もちろん褒賞や恩賞はなしです。
死刑にしても桓武時代に先の蝦夷討伐で恭順降服してきた阿弖流為(あてるい)を処刑した例外があるだけで(そもそも桓武は蝦夷は人じゃないと思っていたみたいです)、結局、平安時代は公式な死刑は、保元の乱で源為義を子の義朝に・平忠正を甥の清盛に処刑させていますが、なんとそれまで死刑は300年以上執行されていなかったわけです。朝廷(後白河天皇)は自分で命じながら親殺しのレッテルを源義朝に貼って冷遇しています。これが平治の乱の遠因になっています。

黒澤映画の羅生門を観た人は覚えていると思いますが、朽ち果てた羅生門(正式には羅城門といいます)の周りは荒れ果てて、盗賊などの巣窟になっており荒涼としたものになっていました。羅城門は朱雀大路の南端にあり都の正門に当たる場所です。元々、平安京遷都まもなく9世紀初頭大風で倒壊したのですが、その際には立て直されています。ところが一世紀後、風雨で破損した際に、朝廷は修理は計画していましたが予算がなく放置する結果になり、前述のような状態になってしまいました。100年前に出来たことが出来ない、、しかも金がない><
平安時代、都の中に鬼が出没したとされています。更には羅城門には鬼が住みかとしていたと云われています。当時の鬼たちは、人外の者つまり盗賊・夜盗・反政府勢力を指したものだと云われています。そのようなものが都の玄関ともいえる正門に巣食っていたのです。その鬼たちを排除しようにも軍隊がいないのですから、更にたまたま捕まえても処刑無しですから、遠島もしくは都所払いくらい、どうしょうもなかったわけです。

8世紀中までは律令制度がそれなりに機能して国庫は潤っていました。ところが、荘園制度によって土地所有権が出来ると、国の物だった土地が個人の物になって行ったのです。更に荘園は納税義務なしですから、全体としたら生産量は上がっていましたが、国への納税は変わらないどころか減ってしまったわけです。増えた分は、藤原氏を筆頭にした貴族階級・寺社に入ったわけです。国の長たる天皇家もこの風潮の中で天皇領と呼ばれる荘園を経営していました。
国の管轄外の土地が増えると荘園領主は自前の防衛をしなければなりません。また、自分は都にいるわけですから、土地を守ってくれる国の軍隊はないのですから、地方の領地の維持管理は各地方の実力者を自分の配下に組み入れて任せることになります。この地方実力者は自前の軍隊を編成して行きます。それが武士というわけです。
平安中後期になると地方実力者や子弟が都の荘園領主の元に来て、土地管理の権限維持や官位、あわよくば国守・郡守・長官などを求めてやってきます。その中から台頭してくるものが現れ、代表選手が伊勢平氏・平清盛であり河内源氏の源義朝などです。

国の方では、荘園を大きく獲得して最大の実力者になった藤原氏が、天皇を中心にした婚姻関係によって天皇の外父・外祖父となり摂政・関白として国権を牛耳って行きます。藤原道長(966~1028年)の時代がその絶頂期と云えます。ところが、この摂関政治の要点は荘園の収入(実際、藤原氏の当主の分限は国家予算の数十倍だったと云われています。)はもちろんですが、天皇・皇太子はもちろん可能性のある親王に自分の娘を宛がわなければなりません。不測の事態で予想外の天皇の出現もあるわけです。そんなにたくさんの娘が持てれば問題ないですがそうは簡単に行きません。
そして、宇多天皇(第59代)以来、171年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が登場します。それが後三条天皇です。後三条は23年間の東宮生活の末に天皇になったのですが、その間に関白・藤原頼通(平等院の建立者)とは犬猿の仲で、相当の嫌がらせもあり、藤原氏への恨みが多かったようです。
この後三条が行った画期的なことは、設立・新設の荘園の書類不備は例外なしに荘園を認めないという荘園整理令です。
それまでにも整理令は出されても、執行者が藤原氏ですから効果がなかったのですが、天皇自身が行ったことに意味がありました。これにより藤原氏の権力は衰退に向かいます。後三条天皇の施政は、天皇の死で4年と短いものでしたがその意味は大きいものでした。

藤原氏はこれによって衰退したとはいえ権力的にはまだまだ力を持っていましたが、こうなると皇権復活を狙う人物が現れます。それが次の天皇となった白河天皇です。
天皇を譲位すると、上皇・法皇として政権を摂政関白に渡さず自身が二元政治の頂点に立ったわけです。摂政関白はあくまで天皇の補佐であり、上皇に係る権限はなかったのを利用したわけです。天皇は、儀礼の執行者で、あくまで上皇の一段階になってしまったわけです。白河法皇はその後の天皇四代の上に「治天の君」として43年間もの長きに君臨し、その間に藤原氏の権威は落ちて行ったわけです。
その後、鳥羽・後白河・後鳥羽と院政の主は移って行きますが、もちろん三人共に天皇退位後に実権を握っています。ちなみに、上皇は天皇を辞めたり譲った人の位で、法皇は上皇が出家した者と思ってもらえばわかりやすいかも。更にこの上皇・法皇の中で院政を行った人物を特別に「治天の君」と呼んでいました。

武士階級から台頭した平清盛は宮中での権力を強め太政大臣にまで登り詰めましたが、その手法は藤原氏にとって変わるだけの手法でした。武士階級が望んだのは土地の確保と自分たちの地位と自治権を認めてくれる武家政権でした。決してこれまでと同じものは望んでいませんでした。清盛の手法はこれを裏切ったもので、武士が貴族になるのは許されるものではなく、支持は源氏へと移って行きます。
平家滅亡後、源頼朝は鎌倉に本拠を置いたまま動かず、武士政権の地盤を固めて行き、後白河に地頭の設置許可をとって実質的な幕府体制を整えていきます。頼朝が鎌倉幕府を設立した年は幾つかの説がありますが、幕府政治を認めつつも権限の執行者と云える将軍職を与えることを拒否し続けた後白河が亡くなり、頼朝が将軍職を得た1192年が実質的な完成年と云えると思います。しかし、この時点ではまだまだ朝廷の力は大きく、2元政治の様相になっていました。

横道に逸れてしまいましたが、後白河法皇を継いだ後鳥羽上皇は才気煥発で才能に恵まれた人物でした。芸術面では「日本屈指の歌聖」と呼ばれ多くの歌論書を残しています。また、蹴鞠・書画・音楽にも深く通じており、歴代天皇家屈指の王朝文化人と云えました。また、天皇家の象徴紋章と云える菊花紋は後鳥羽上皇が自分の紋として使用したのが始まりと云われています。
また宮廷人らしくない面では刀剣にも造詣が深く、自ら鍛冶場に入って刀剣を作製したと云われています、有名な菊一文字がこれに当たります。更に騎馬や刀術にも積極的だったと云われ、自ら部下を引き連れ夜盗・山賊退治にも出ていました。性格も直情型だったそうです。当然ながら才気があって直情型性格から現状の二元政治には不満を持っていました。
しかし、時代の流れは武士階級を無視できないものになっており、この辺を読めずに天皇親政を目指したのが後鳥羽の破滅につながります。つまり、後白河のような臨機応変な政治力には恵まれていなかったようです。
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鎌倉幕府が成立したとはいえ、鎌倉幕府も将軍職に就いた頼朝がまもなく急死(落馬による後遺症?)。
跡継ぎの頼家は北条氏などの御家人との協調がとれず幽閉暗殺となり、三代目の実朝には継嗣がいないという実状で、実質的に安定していませんでした。
ここで後鳥羽にとっては絶好の機会が訪れます。源氏政権継続の危機をを憂いた北条時子・義時は後鳥羽の皇子を宮将軍とする要請を後鳥羽に出していたのです。ここで後鳥羽に政治能力があれば、皇族将軍を朝廷から派遣することは、朝廷が幕府の上位にあることを示すことが出来たからです。また、皇族が将軍として武士階級の統率も可能だったと思われるからです。ところが、この時点で後鳥羽の方針は実朝取り込みにあり決断を先送りしており実朝暗殺によって自分の方針が崩れると、一気に武力による倒幕に奔ってしまいます。

後鳥羽には天皇位についた皇子が二人いました。
第一皇子・土御門上皇・・・性格穏健であまり自己主張もしなかったと云われます。しかし、承久の変には反対で後鳥羽・順徳にも反対・自粛を説いたとされています。変後の処分でも幕府は土御門には処罰対象外としていました。しかし、父・弟が流罪で自分だけは無処分は許されぬと、自身から流罪を要請し土佐・阿波に流されています。幕府が後鳥羽院系の皇子の天皇位を避けた御堀河・四条の跡には土御門の第2皇子・後嵯峨天皇がついています。
第三皇子・順徳上皇・・・才気煥発・才能も父譲りで父親の期待を一身に受けていました。宮廷の故実をまとめた「金秘抄」を著して、以降の宮廷行事・定めを確立したされています。
変直前に天皇位を息子の仲恭天皇(九条廃帝)に譲り、上皇として首謀者の一人となって積極的に参加しています。

結果からいうとこの武力討幕は大失敗に終わります。わずか2か月で終了しています。
東国及び幕府への倒幕院宣よりも先に幕府への急報が着いたために、更にそれを受けた幕府首脳の迅速な対応が大きく影響しています。特に事前に倒幕の内示を受けていた三浦党などの機先を封じ、逆に味方の勢力に出来たのが大きかったと思います。逆に皇軍は期待したほど兵が集まらず対応も後手を踏んでいます。
更に一度は出陣した後鳥羽も瀬田で敗れたのちは御所に閉じこもっています。最後の抵抗地として篭ろうとする皇軍をも締め出しています。天才型の自信過剰と粘りのなさが悪い方に出てしまったようです。

幕府の戦後処理は苛烈を極め、先述の三上皇の流刑を皮切りに、後鳥羽の子息は僧籍として寺社に入っている者を除き遠国流罪、主要側近の6貴族は実朝の正室の実家の兄・坊門忠信が流罪以外は全員処刑死、皇軍についた武士は全員処刑死、もしくは領地没収となっています。
膨大な上皇・法皇領は相続を許しましたが管理は幕府に、更に西国武士の領地没収は3000以上に上り支配地が大幅に広がりました。更に朝廷監視の六波羅探題を設置して、天皇位・院政の人事権も握ります。
また、実朝死後に摂関家からだったのを改めて正式に宮将軍派遣にも切れ変えています。
この変によって、わずかに優位性を保っていた朝廷勢力が没落し、一気に武家勢力の幕府が進捗して行きます。

土佐に流された土御門上皇はその後は阿波に移されて9年の配所生活で亡くなっています。しかし、国司によって宮殿を設営され子女も何人か残しています。またこの人の皇統が現在の天皇家に繋がっています。

それに比べ、悲惨だったのは隠岐の島に流された後鳥羽上皇は19年の配所生活後死去(60歳)、順徳上皇は佐渡島に流され21年の配所生活で死去(46歳)。このふたりは配流後も悲憤の心を持ったまま亡くなっています。
配流後の後鳥羽院の歌・・・「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
                 「命あれば 茅が軒端の月も みつ知らぬは 人の行くすえの空」
亡くなる2年前には、「万一だけど、私が死んだ後、妄執を持ったまま魔物になってしまったら禍をなす。。。だからちゃんと供養しなさいよ」という置文まで残しています。
順徳に至っては、軽い病で倒れた際に「還京の望みがない。これ以上の存命は無益」だとして断食。最後には焼けた石を頭に乗せて亡くなったと云われています。
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二人は亡くなった地で荼毘に付され後鳥羽は隠岐海士町陵。順徳は佐渡真野陵に置かれていました。
この悲憤と京への帰還の願いを持ったまま亡くなった後鳥羽院の死後、天候不順・飢饉が起こり、祟りを恐れたのが宮廷や幕府でした。後鳥羽・土御門・順徳の慰霊の宮や神社を京や鎌倉に建てています。また大原の地に法華堂を建立して遺骨を安置することも承認しています。
大原は今日から鬼門の方角であり、天台声明の地であり、皇位継承に敗れた惟喬親王、安徳天皇の母・建礼門院などが平穏を求めた隠居地としたことからと思われます。
しかし3年後、今度は順徳院が亡くなる直前、四条天皇が事故死します。これによって後鳥羽系を廃そうとして幕府がせっかく立てた御堀河の血筋が絶えてしまいます。実際には子供だった四条天皇(2歳即位・12歳薨去)が、悪戯で石を渡り廊下にまいたのですが、誤って自分が滑って転倒しちゃったというもの)。しかし、この不吉な出来事は後鳥羽・順徳の祟りだと巷間に流れてしまいます。
このため、順徳院の遺骨も京に戻され、大原の後鳥羽院法華堂の側に円墳を造って埋葬されたとも、法華堂内に安置されたとも言われています。

大原の法華堂は仁治元年(1240年)、後鳥羽院の女院、順徳院の母・修明門院(藤原重子)と順徳院の弟・尊快親王(寛成、天台座主・梨本宮座主)によって建てられたものでした。部材も後鳥羽所縁の離宮(現・水無瀬神宮)にあった木材を使ったと伝わっています。
江戸時代になって享保年間(1716年~)に類焼を受けて焼亡します。その後、しばらく荒廃したままになりましたが、安永7年(1778年)に現在の法華堂が位置を西にずらして再建されます。しかし、なかなか趣のある建物です。内部は非公開で本尊は普賢菩薩があり、聖徳太子の幼少像が飾られているそうです。
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しかし、このために本来の位置が解らなくなってしまいました。後鳥羽上皇の遺骨もどうなったか解らず、当然資料のない順徳上皇も行方不明。。。
明治になって、宮内庁が例によって場所を比定して大原陵を整備しています。しかし比定資料がないので、どうやって比定したかは不明です。
整備が新しいせいか陵の前の参道は木木にと玉砂利で美しい姿になっています。一応、正面から向かって右にある十三重の塔が後鳥羽院で、左方の順徳天皇の門柱斜め後方に木に隠れていますが、順徳院の円墳があります。もちろん明治になってからの作成です。確かなのは後鳥羽・順徳親子がこの墓域のどこかに眠っているのは確かです。
一応、立派なお墓を造って貰ってるんだから祟らないでねとお願いして手を合わせてきました。
それにしても宮内庁が管轄すると正式な比定調査も出来ないし、美しい法華堂も非公開というのが辛いですね。
法華堂の特別公開はないんですかね~~~


などと、不敬なことや文句などを考えていたら、二人が陵前の道路まで迎えに来てました。ニコニコとこっちこっちと云われてついて行くと、三千院門前の御土産屋さんに二人で入って行くじゃないですか。。
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なんとこの日で閉店してしまうそうです。全品半額@@; せっかくの門前店なのにもったいない@@;
しかし、我が家のお二人はこの店で、これもいいなあ^^あっ、これも可愛い^^などと離れる様子無し
仕方がないのでお隣のお店のソフト買って舐め舐め、縁台に座って待ってました。。。それにしても長かった。。一時間はいたんじゃないの。。。おかげで良い客寄せで、二人を見た観光客の人がまたまたぞろぞろご入店。。
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結局、あれだけ見ときながら便せん二冊と模様番傘を買っただけで、お父さんお待たせ~~(あ== こんなに長いと知ってたら、他のお寺や滝でも見て来てたのに。。) というわけで、帰りも律川伝いに畑や緑を愛でつつ駐車場に戻って大原終了^^
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旅行日 2014.08.31




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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    お買いもの・・・いいじゃありませんか 女にとってお店見るのも観光の内 あの楽しみなんですもの  便箋と番傘 それだけ買えば十分ですわぁ(^_-)
    つとつとさんもご家族も超満足の旅でしたね \(◎o◎)/!
    2014年09月24日 11:43
  • つとつと

    がにちゃんさん
    娘が大きくなって歳を重ねるごとに、二人は仲良くなってるような気がします。
    ついでにショッピング時間が長くなってるような^^;なのになぜが最終決定確認を僕に持ってくるんですよ^^こっちと云って自分と意見が合うと買うんですよ^^;
    この後に、竜王のアウトレットも寄ったんですが、もっと長かったあ^^;
    完全に僕はくたばって、車でヘタってました^^;
    2014年09月24日 18:58
  • がにちゃん

    女の子とお母さん 息子しかいなかった私にはうらやましい光景です
    孫は女の子 期待したりして(^_-)  
    2014年09月30日 16:41
  • つとつと

    がにちゃんさん
    我が家は男は僕だけですから、嫁さんが二人いるみたいな感じ^^;
    2対1で絶対勝てそうにありません。。昔は僕の味方だったんだけどなあ^^;
    そうそう、お孫さんがくっつてきますよ^^
    負けないように体力温存しておいてくださいね^^/
    2014年10月02日 18:55

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