西尾十二ヶ滝 ~ 松岡寺跡

小松市の東方の大倉岳高原スキー場に向かう国道416号線を走ると、西尾の里の入り口の県道167号線の手前、郷谷川の流れの途中に「十二ヶ滝」はあります。
小松市街を流れる梯川(かけはしがわ、下流では安宅川ともいいます。)がありますが、郷谷川はこの梯川の上流域の支流の一つになり、さらに上流で西俣川と三つに分かれ、鳥越と大倉岳に更に枝分かれしますが大日山・大倉岳山系を源にしています。
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大倉岳の麓には昭和46年(1971年)まで大規模鉱山の尾小屋鉱山があるように、この辺りには固い岩盤があちこちに存在します。西尾の里にも多くの奇岩や岩盤の滝が多くあります。町興しに西尾八景(十二ヶ滝.・象岩.・観音山・烏帽子岩・鱒留の滝.・鷹落山・大滝.・大倉岳)が制定されていますが、岩盤で構成されたものが多くあります。大滝と鷹落山以外は観て来ていますから、一部ですが。。。。残りは機会が在ったらまた。。(2012.09.01撮影)
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郷谷川は流れは緩やかですが水量が豊富な川です。明治以降に尾小屋の銅山からの廃水のために汚染問題がありましたが、長年の地元・小松市の努力で改善が施され、現在はまったくそういうことは感じさせない清い流れと田園・森林風景が豊かな世界になっています。
ちなみに閉山した尾小屋鉱山には鉱山博物館と尾小屋マインロードと呼ばれる鉱山通路を回れるようになっています。山奥深いですが、なかなか面白い場所です。

小松市街から尾小屋に向かう国道416号を進むと、加賀三カ寺の一つ・松岡寺の前身の庵があった松岡町を経由して、鳥越に山越えとなる県道167号線があります。その分岐点の手前の緩いカーブ地点に十二ヶ滝はあります。車で走ると気づきにくいですが、西尾の里の観光案内の大きな看板がありますから良い目印になると思います。
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先述したように郷谷川は流れは緩やかなのですが、夏場も豊富な水量があります。道路上からでは滝の姿は解り難いですが、緩い階段を下りると河川公園のようになっていますから滝つぼの間近まで近寄れます。
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十二ヶ滝は落差5メートルと、それ程の落差ではありませんが、滝幅が36メートルあり、郷谷川全体がここで流れ落ち、その滝筋が12の筋となって流れ落ちています。間近で観ると、なかなかの迫力がありますし、12の滝筋も美しい物があります。滝マニアの間ではミニナイアガラとも呼ばれているそうです。

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加賀地区には白山麓の ふくべの大滝綿が滝などの落差の大きい勇壮なものや、日本の滝100選の姥ヶ滝、二つの落滝を持つ荒谷の鶴が滝などの優美なものもあります。
県内の人にも意外にその名を知られていない十二ヶ滝ですが、個人的意見ですが自分の眼前に観た時、この滝は前述の滝に決して見劣りするとは思いません。僕のお気に入りの滝の一つです。
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今回は夏場で雨もしばらくない時期でした。でも十分な水量があります。
しかし雪解け時期や雨後の水量が多い時は更に勇壮さが増します。5月には滝の上に鯉のぼりが地元有志によって設置されて舞っています。

十二ヶ滝を少し行って県道167号を左折して牧町を過ぎ、1キロチョット行くと松岡町になります。
町とはなっていますが、贔屓目に見ても村もとい集落ですね。全部の家を合わせても10軒あるのかなあ。。
(失礼な発言でしたが、後で調べたら20軒60人あるそうです)
山間の、そんな小さな町ですが、ここには二つ程、有名なものがあります。

一つは町の名前の由来、加賀一向一揆の国を支配していた加賀三か寺の一つ松岡寺の始まりの地。
とはいっても松岡町の中でも東はずれの山裾に「松岡寺跡」の記念碑があるだけなんですけどね。
松岡寺の始まりは浄土真宗第八代法主・蓮如の三男・蓮綱(れんこう)が、加賀への布教のためにこの地に庵を建てたことから始まります。時期としては蓮如の越前下向と同じ時と云われています(文明3年(1471年))蓮綱20歳頃と云われています。
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越前下向の際に、蓮如は京都・近江を任せた長男の順如を除く同母の兄弟を北陸に同行させています。三人の兄弟たちは越中・加賀へと歩を進めています。
次男・蓮乗は蓮如の叔父・如乗のいる越中井波の瑞泉寺に入り、婿養子となります。その後、七男・蓮悟を養子として二俣本泉寺・若松本泉寺と加賀の足場を築いていきます。四男・蓮誓は蓮如越前下向の証人(人質)にされていましたが、そのまま蓮乗の元に入り越中の教勢強化を果たすと吉崎御堂に残り山田光教寺(現加賀市)を建立して加賀に牙城を築きます。

蓮綱が加賀の地に入った際は、越前・越中のように事前の伝手があったわけではないため、最初は山間の松岡(それまでは古屋と呼ばれていたのを改名したそうです。)に庵を設けたようです。この地には白山麓の鳥越に繋がる裏街道があり、このことが後の一向宗最強の山内衆の帰依を受けることになります。
蓮如の吉崎御坊退去(1476年)の際に同行して関西に向かっていますが、5年後に加賀に戻り松岡からひと山越えた波佐谷(はさたに)松岡寺を創建して加賀の本拠とし、蓮誓・蓮悟と連携して加賀守護・富樫氏と対立姿勢を取ります。長享2年(1488年)に高尾城に富樫政親を敗死させて、加賀三か寺協同体制の加賀支配権を握りました。これに関しては、本願寺の蓮如・実如(5男・第九代法主)は幕府の手前もあって非難の手紙を送っていますが、スポンサーの管領・細川政元に手を回し、幕府の討伐軍を取り消させ、三か寺協同体制を黙認しています。
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永正3年(1506年)、三か寺の一向宗軍は細川政元からの依頼と越前本覚寺などの救援依頼を受けて越前朝倉氏に侵攻しますが(九頭竜川合戦)、朝倉宗滴を主将の朝倉軍に敗れ、吉崎御堂を奪われ破却されます。
この責任を取って、蓮綱松岡寺を息子・蓮慶に譲り、松岡の地に引退生活を送ったと云われます。
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証如(実如の孫・第10代法主)が法主を継ぐと、まだ年若い(15歳)法主の後見として蓮淳(蓮如六男)が政務を代行します。蓮淳は本願寺の法主体制を強化する方針であり、独立志向の強い加賀三か寺の松岡寺(蓮慶)・若松本泉寺(蓮悟)・山田光教寺(顕誓(蓮誓の長男)との間は険悪なものになり、これが享禄4年(1531年)大小一揆となり加賀国内の抗争になります。結果として本願寺が勝利して、加賀は本願寺直接統治となりました。
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三か寺は兵火によって焼け破却の憂き目を見ています。
松岡寺住職の蓮綱・蓮慶・実慶の三代は、白山麓の山内衆の本拠・二曲に幽閉されますが、高齢(82歳)の蓮綱は幽閉先で病死、脱走を図った蓮慶・実慶親子は発見された際に自害したと云われています。
一旦、廃絶してしまった松岡寺ですが、実慶の長男・顕慶が能登に流れて松波(現珠洲市)の空き寺に入り、前田家の許可を受けて堂宇を建立しています。顕慶の跡、長男・次男が相次いで住職となり元和15年(1615年)、本願寺の許可と許しを受けて松岡寺の名を復活して現代に至っています。破却後、再興に至るには84年の歳月が流れていました。

実は松岡町のさらに鳥越方向に奥に行くと隣町に池城町という地があります。ここは田んぼと畑しかないというより、家が二軒人口3人しかないところですが、蓮綱が松岡に庵を作った前には、ここに逗留したと云われています。

松岡寺跡の石碑のある場所は山裾にあるんですが、自然豊かなために猪さんや熊さんも現れるそうです。帰りには蛇さんが道を横切って行きました。。。。石碑のある山裾の道を歩いていたら、こんなものを観てしまいました。。
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猪や熊の捕獲用の罠です。畑地が多いですから、その対策のようです。なんだろうと檻に入って捕まらないように気をつけてください。






そうそう、もう一つ有名なもの。
この松岡町には大きな枝垂桜があります。別名「智恵子桜」と呼ばれています。
昭和28年(1953年)、松岡町からブラジルの日系人に花嫁として嫁いだ村中智恵子(当時17歳)に思いを寄せた従兄弟(故人)が植えたものだそうです。樹齢60年、樹高17メートル、幹回2.3メートル、見事な花を毎年見せてくれています。
桜を植えて世話をしていた住人が亡くなり、一時期荒れ果てた状態になりましたが、ボランティアやファンクラブによって再生されたものです。平成20年に日本樹木医会による「健康優良樹」に選定されています。これは石川県内では初の選定だったそうです。

僕はこの桜の存在は長らく知らなかったんですが、3.4年前にNHKのニュースで知りました。ブラジルから智恵子さん本人が観に来られたというものでした。当人は何度か里帰りはしていましたが、この桜の花を間近で観たのはその時が初めてだったそうです。映像の桜はとても見事なものでした。

咲いているのを観たいと思いつつ、まだ果たせずにいます。来春見られたらUPします。たぶん。。。。


旅行日 2014.09.11

十二ヶ滝


松岡寺跡