花山神社 菩提町

小松市に岩山を中心にした遊仙峡と呼ばれる寺院庭園を巡ることができる那谷寺(なたでら)があります。北陸の寺院でも四季の景観は随一と云われています。

寺伝に依れば、開創は白山信仰により「越の大徳」と呼ばれた泰澄上人で、岩窟に千手観音を治めたのが始まりと云われ、当初は「自生山 岩屋寺」と名付けられており白山修験者の拠りどころとなっていました。
寛和2年(986年)花山法皇が行幸した際に、法皇が「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」といって、西国三十三カ所霊場の第一番・智山と第三十三番・汲山の一字ずつを取って「那谷寺」と命名し自ら中興の祖となったと云われています。

この那谷寺の東方の山を越えたところに菩提町という村落があります。ここには古くから花山法皇に関する伝承が伝わっています。なんと、法皇は晩年をここで過ごして亡くなったというものです。
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まずは花山法皇について・・・
第63代・冷泉天皇の第一皇子として生まれ、生後11か月で立太子、17歳で第65代天皇となっています。
一部乱心の質はありましたが、荘園整理令、貨幣流通の活性化など画期的な政策を行おうとしますが、わずか2年の在位で出家退位しています。これには藤原北家の藤原兼家の陰謀策略によると云われています。退位後は熊野・比叡山に修行し、摂津・中山寺(宝塚市)で伝説の宝印を探し出し、三十三霊場を巡って法力を得たと云われています。同じ摂津・東光山(三田市)に院政生活を送ったと云われています。41歳で花山院(現・京都御苑内)で逝去。芸術的センスがあり、退位後も多くの歌合を催しており拾遺和歌集を親選しています。

上記のような概要は人物事典や天皇家に触れた物には必ず書かれている内容です。
ここからは裏の人物像ですが、天才となんとかは紙一重と云われますが、この法皇はそれを地で行くような人物でした。
そもそも花山法皇の父親・冷泉天皇は精神的に異常者だったと云われています。奇行は数知れず、蹴鞠を始めると一日中蹴鞠を蹴り続け足を怪我して血を流しても止めない。番使小屋の屋根に上って座り込んで一日お降りてこない。あまりの奇行続きに心配した父親・村上天皇が叱責・指導を伝えると、天皇への上奏の書簡に男のアソコの絵をかいて渡す等々。。。
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そんな父親の血を引いたのか花山天皇も奇行や性向にちょっと異常な面がありました。女性に対しては俗にいう熱しやすく冷めやすい。。好きになると、周りも見えずに一気呵成にものにするんですが、しばらくするとポイ。。女性陣が聞いたら怒りそうですが、、皇太子から天皇になるための重要な儀式である即位の礼では待機所で見染めた女官に一目惚れ。。無理やり高御座(たかみくら)に引きずり込んでやっちゃったそうです。おかげで百官揃い踏みの即位式は大混乱。天皇の宣言も無し、百官への叙任も人任せに、、天皇史始まって以来の大不行跡を演じています。天皇一世一代の晴れ舞台に使う高御座は即位の礼や重要な神事にしか使わず、天皇の所在を示すものものです、つまり天皇以外は登れないという神聖なものです(ただし、鳥羽院政時代以降は摂政が介添えで登ったようです)。

ちなみに現在の高御座は大正天皇の即位の礼の為に作られたもので、現在は椅子が置かれていますが、江戸期以前は茵(しとね、高級座布団)でした。この高御座は昭和・今上両天皇も使用しています。通常は京都御所の紫宸殿に置かれており年2回公開されています。東京に遷都しましたが、大正・昭和天皇は京都御所紫宸殿で即位の礼を行っています。警備上の問題らしいですが、今上天皇が初の東京での即位の礼を行ったことになります。ついでに皇后も並ぶように同じような御座に入りますが、皇后のは御帳台(みちょうだい)と云います。

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そんな花山天皇が一人の女性に惚れ込んでしまったのが藤原忯子(ふじわらのしし、よしこ)藤原忯子花山天皇に入内して弘徽殿の女御と呼ばれた女性です。この女性にぞっこんで惚れ込んだ花山天皇は片時も側から離さず、めでたく忯子は懐妊します。天皇に子が出来ることは、政治上からみても重要で、しかも正妻とも云える女御ですから本当にめでたいことでした。もちろん花山天皇も大喜び。ここまでは素晴らしいことでした。
通常、入内した女性が妊娠すると実家に戻り出産準備・出産となるのですが、忯子に固執する花山天皇は実家に帰ることを許さず側に置き続けます。しかし忯子は悪阻がひどく、治まった後も女御としての無理が祟りやせ細って行きます。その間もいろいろあったんですが、みかねた父親の藤原為光(当時大納言、後太政大臣、後白河法皇が院政御所を置いた法住寺を創建したことで有名)が天皇を強引に説得して連れ帰りましたが、妊娠8か月で死んでしまいます。

自業自得ともいえるんですが、この忯子の死を聞いて花山天皇は嘆き悲しみ引き籠ってしまいます。そこを藤原兼家・道兼親子につけ込まれて出家させられます。落ち込んでいる天皇に彼女を供養するためにも、仏門に入って修行しよう。僕も付き合いますからと云って出家させて自分は逃げて、次代の天皇の後見に収まったというものです。この出家・天皇退位事件は大鏡・栄花物語で語られていますので知る人が多いと思います。
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しかし、忯子の後遺症はまだまだ続きます。藤原為光は娘と共にこの時期に妻を失っており先述の法住寺を建てたのですが、彼には娘が4人いました。長女は花山天皇の最側近の藤原義懐(ふじわらよしちか)に嫁いでいます。次女が問題の弘徽殿女御・忯子
四女がなんと忯子に生き写しだったのです。忯子が亡くなって10年後、花山法皇が熱を上げたのは、マア当然の成り行きかもしれません。で、為光の屋敷に通って四女に逢瀬を重ねて行きました。ところが同じ屋敷に住む三女の元に通っていた人物がいたわけです。それが藤原伊周(ふじわらこれちか、摂政関白内大臣)。伊周は自分の他に為光の屋敷に通っているのに気づき三女に通っていると邪推します。そして暴挙にでます。そがな者(荒くれ者)として有名だった弟・隆家(中納言)に命じて、通ってくる御車を襲撃させます。隆家は御車に対して矢を射こみ、従者2名を斬殺して首を持ち帰ります。その際に、御車内にも矢が射込まれ法皇の衣袖に刺さったと云われています。(長徳の変、相手が法皇と知っていたかは不明、二人は否定しています。)

源氏物語などを読めば、こういった争いや暴行はよくあったことで、多少おおめに見られていた行為でした。ただし、この場合は相手が悪かった。。。寄りにも寄って出家したとはいえ、元天上の君(天皇)に矢を射込み、袖とはいえ傷を与えてしまったんですから)
ただし、花山法皇の方も出家の身で女性通いをして、一方的にやられたので体裁が悪く、院に籠ってだんまりを決め込んでいたのですが人の口に角は建てられず都中に真相が伝わってしまったのです。
これによって、伊周は相当抵抗したようですが大宰府に、隆家は出雲に降格されて流罪となります。
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こちらも栄花物語に載っていますが、花山法皇の死後になりますが、法皇の唯一の皇女が惨殺死体で発見されるという事件が発生します。後日、犯人として僧侶が逮捕されましたが、藤原道雅(伊周の子、三十六歌仙・左京大夫)に依頼されたと自白します。結局、真相はうやむやになっています。。。

このような女性遍歴とは別に、発想もユニークでとことん探究しようとする性格だったようで、周りは気が気ではない状態と云われていました。特に親王時代からの最側近で共に出家した藤原義懐 ・惟成などの苦労や対処も大鏡・栄花物語に書かれています。ちなみに大鏡はお堅い歴史文書で、古文の典型みたいな書物で大学の入試問題に良く使用されています。栄花物語は作成時から女性向けに時代を優しく妖しい表現で解説しながら仮名で書かれたものです。日本初の女性向け歴史教育書と云われています。女性必見の古典です。

こんな変わり者の花山ですが側近には優秀な人材が揃っていました。前述の藤原義懐・藤原惟成などの他、源雅信など改革的人材が揃っていました。更には陰陽師・阿倍晴明が仕えたのも花山天皇でした。ただ、急進的な改革は敵も多く、藤原摂関家の暗闘に巻き込まれたのも時代のあだ花になった原因かもしれません。
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長々とした人物紹介になってしまいましたが、この花山法皇の伝承は全国各地に存在するのですが、
この小松や加賀にも多くの伝承や訪れた地と呼ばれるものが点在しています。それも古くからの物が多く広範囲なのが特徴です。そもそも小松の名の由来にしても、花山法皇巡幸の際に梯川(かけはしがわ)の畔に花園と松を植えて別荘を建て、その跡地を住民が「園の小松原」と云い伝えたという伝承から来ています。(一応、別説もあって、平重盛(小松殿)の所領だったことから来ているというのもあります。)
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その中でも、根強く長く語り継がれてきたのが今回の菩提町になります。菩提町は山に囲まれた盆地にあるのですが、西の山を「院の山」、東の山並に「法皇が丘」、地名にも山門橋、御所帰、参上帰、祭田、若宮など皇宮に関連した名称が多いのが特徴です。山門橋を進んだ先のトンネル手前の地は親王時代の花山法皇に所縁があるそうです。
ついでですが、以前ご紹介した源平合戦で討ち死にした斉藤実盛首塚もこの菩提町の院の山と法皇が丘の中間点の田園にありました(昭和半ばに那谷寺共同墓地に移転)。

当地の伝承ですが花山法皇一行は、最後の余生をここで過ごしたと伝えています。那谷寺に西国霊場のすべてがあると語った通り、現在の院の山と呼ばれる山裾で余生を過ごしたそうです。向かいの法皇が丘の山を望みながら、死後はあの山の頂上に葬ってほしいと語っていたそうです。
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法皇が丘は標高102メートル。法皇が丘の山中に道路から250メートルほど進んだ所に宮跡と称する墓所遺跡があります。起伏のある山中を進んだ所に(一部倒木があったりしますが、道は進み易くなっています。)石積みの小山のようになっているのが宮跡と呼ばれる花山法皇の墓所になります。敷地面積としては案外狭く、こじんまりとした感じです。今回は木の葉に隠されて観難いですが、院の山から那谷寺の方を眺めよく見られます。
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近くに古い参道があるのですが、墓堂跡に向かえるようですが時間的に無理で断念していました。10月に改めて訪れたのですが、参道は草に覆われており断念。この辺りはマムシや熊も出没しますから、軽装では無理そうです。法皇が丘の山裾もまわって観ましたがやっぱりダメ。また機会があったらチャレンジしてみます。
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菩提町の住民が花山法皇を長く祀って来たのが花山神社です。門前の社伝を写真で撮りましたので興味のある方はUPして観て下さい。御神体の記述要旨を抜粋すると。。。

1.菩提村花山神社に奉安される御神体は四体の木像であり、皆僧形にて内一体は頭巾を冠しており、これ花山法皇様で、他の三体は侍臣、藤原實定、藤原義懐、藤原惟成ならずやと。
2.花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結びてその冥福を祈りたり、その子孫繁栄し、村を成すに至る。
3.菩提村の起源、法皇様の王柩を、法皇が丘に奉葬せる時、河原村より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。
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この神社の本当の本尊は僧形の四体の木像で、出家・天皇退位事件の際、花山法皇と共に出家して行を共にした藤原義懐、藤原惟成だと解ります。ただ、僕の勉強不足か藤原實定(藤原実定?)についてはどういう人物か不明です。知る人がいたら教えてほしいですね。。
菩提村も戸数や人口の盛衰はあったようですが、神社の場所も以前は山門橋を越えた先の大きな石碑があった場所から現在地に移したようですが、、、、連綿と長い期間、この神社を守って来たようです。
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明治の廃仏毀釈の際には僧形の本尊を守るために隠し、白山神社として神像を新たに造って調査官に申請したそうです。このため、明治期は白山神社の名称で本尊を祀りながら通していましたが、明治39年に皇宮関連の人物を祀るということで、村社格として神饌幣帛料供進指定社となっていました。更に昭和52年、花山神社として正式に名称を変更しています。
ちなみに近くの大寺院・那谷寺も神仏習合の寺院ですが、廃仏毀釈の嵐から免れた数少ない寺院の一つです。寺域内に一部神社を置いていますが、以前の姿を残したままの貴重な存在です。
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村社と云っても非常に整備拡張が行き届いていて、町の規模に比べると立派な参道や社殿を誇っています。
平成まで伝わった古い社殿も朽ちかけた雰囲気ですが、なかなか重厚な造りになっています。
現在の新しい社殿は平成7年に新築されたものだそうです。豊かな山の自然にある神社ですので、花が咲く時期に訪れると色々な花とも出会える場所です。
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花山法皇の伝承の真偽はともかくとして、長い年数を地元の人によって守られてきた伝承や歴史は、それなりの深い歴史を持っていることを再確認させてくれます。

旅行日 2014.06.06  2014.10.11

花山神社

法皇の宮跡

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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    殿上人も生臭い争いが絶えなかったのですね 愛する女性とはいえ、今ならストーカー並みですよ(^_^;) 
    2014年10月19日 17:03
  • つとつと

    がにちゃんさん
    加賀には所縁の伝承が最も多い天皇なので、いろいろ調べたことがあるんですが、まあ、困った人物だったみたいです。そのかわり、出家後の集中力と執念は凄かったみたいです。良い方向に向くと素晴らしいんですが、、、、(苦笑)
    源氏物語・栄花物語はまじまじ読むと、とんでもない出来事や女性へのアプローチが書かれてますから、びっくらこ^^;
    2014年10月19日 23:46
  • go

    こんにちは、花山上皇は相当の変わり者だったようですね、特に女性関係には異常というべきでしょうか、2年の在位期間を過ぎて出家退位してからも女性との関係の話が取りざたされているようですから。
    源氏物語や、この時代の歴史を語る上で女性抜きでは語れないようですね。(いつの時代でもといった方が良いかも) 正式な記録では京都御所の花山院で41歳で逝去された事のなっているのに、小松の菩提町に花山上皇がこの地を訪れてこの地で逝去された伝説が残っていて、地名や神社に上皇のゆかりの名前が残っているんですから、歴史のロマンを感じますね。
    2014年10月20日 12:31
  • つとつと

    goさん
    花山法皇は偏執的な性格があったようで、女性でも芸術でも気の向くままにのめり込んだようです。それだから西国三十三ヶ寺や法力を得たとも云われるんでしょうが。。平安期は基本的に通い夫でしたから、いろんなトラブルがあったようです。

    小松には多くの伝承がありますし、加賀の勅使や山代・山中にも法皇の伝承が多く残されています。これだけ多いとやっぱり何か謂れがあるんだろうと思います。
    それが歴史のロマンですかねえ~~
    2014年10月20日 13:58
  • 猫太郎

    この記事とほぼ同様の花山上皇伝承、花山神社が四国の高知県須崎市に存在します。不思議ですね。
    2019年11月11日 03:15
  • つとつと

    猫太郎さん
    コメントありがとうございます。
    高知にも同じ伝承があるんですか@@知らなかったです。
    花山天皇は西国三十三カ所の創始者とされていて、近畿圏に花山天皇の事蹟地や生活地、没地などが多く残されていますが、四国にまであるとは思いませんでした。真実は解りませんが、安倍晴明も仕えた天皇で悲劇の退位・出家で知られますが、それ以上に宝力を会得したとか西国三十三カ所の開基など、旅の噂や水関係、宝力的な伝承の多い天皇です。この為、花山院の領地(荘園)には行幸や生活地としての伝承が多く残っているようです。
    古代から有名人の墓所を伝えることは多いのですが、多い人になると全国に20以上は候補地が存在します。不思議に墓所がないのは義経くらいじゃないでしょうか。。古代から中世にかけて一番の有名人は天皇になります。その中で全国を行幸したとされるのが花山天皇。放浪したとされるのが南朝の長慶天皇が双璧です。長慶天皇に関しては北陸では富山の安居寺に墓所の古墳が伝えられています。他にも全国に20数か所に墓所があるそうです。
    法力を持って全国を回った天皇、南朝衰退の中放浪した天皇、、共に伝説の人と化しています。所縁の地としては長く語り継いでいるんでしょうね。
    2019年11月11日 21:33

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