尾﨑神社

黒門前緑地と同じ並びの西側にあるのが「尾﨑神社」
塀垣や社殿が朱色に塗られていて、古風で落ち着いた神社が多い金沢の中でも異色な神社です。
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寛永20年(1643年)、4代藩主・前田光高によって金沢城北の丸に建てられたものです。元々は金沢城内の北の丸は現在の尾﨑神社の裏面に当たる場所になります。
創建時は「東照三所大権現社・神護寺」と命名されていましたが、明治の神仏分離で現在の「尾﨑神社」となっています。明治8年(1875年)陸軍第七連隊が入場して金沢城が陸軍省用地になると、明治11年に現在地に移設遷座されています。
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東照大権現社の名の通り、幕府からの許可を取り徳川家康(東照権現)を祀ったもので、日光東照宮から分霊を受けてを創建したものです。当時の幕府の大工頭・木原木工允を棟梁として呼び、金沢の大工・宮大工が施工。もちろん、金箔・塗装など材料は金沢産が多く使われており、象嵌や金具などの飾り細工は京都・金沢の名人・職人が集められたと云われます。加賀工芸は国内でも特筆されるものですが、この神社建築が始まりと云っても過言ではありません。ちなみに金箔は金沢が昔から突出しており、本場の日光東照宮の金箔は金沢産です。
全国各地に東照宮はありますが、東照宮建築としては本殿と拝殿を分離させるなど最初期のものとされています。また、北の丸の発掘調査から石瓦が発掘され、他に建物があったことが確認されています。
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御存じのように、明治14年(1881年)陸軍金沢第七連隊の火の不始末で金沢城は三十間長屋、鶴丸倉庫、石川門を除き焼失しています。3年前に移転遷座して焼失を免れたこの尾﨑神社の社殿が金沢城関連の建築物としては最古の物に成るわけです。

現在、尾崎神社の祭神は、天照大神・東照大権現(徳川家康)・微妙院殿(前田利常)の三神です。

3代将軍・徳川家光は家康を異常なほどに尊敬していました。自分の父親・秀忠をさしおいて、「我は生まれながらの将軍で、我が父は東照神君である。」と終生言い続けています。ご存知の方も多いと思いますが、3代将軍に関しては多少のすったもんだがありました。よくあることですが、戦国期は長男は幼い頃から父母から離されて育てられることが多いものです。次男はその分、人質になるか父母の側に置かれることが多く情が傾きやすいものです。特に同母になるほどにお家騒動の傾向は顕著になります。織田信長・信行、伊達政宗・小次郎、その他にも枚挙にいとまがありません。家光と弟・忠長もまたそういう関係です。信長や政宗の場合は父親が味方でしたが、それでも悲劇的な結末になっています。
家光の場合は父母の愛情は弟に向けられており、江戸城内では家光派は僅かなものでした。それが家康の鶴の一声と行動で次期将軍に据えられたわけです。そりゃ、両親を恨むわけです。もちろん秀忠も馬鹿ではなく、家康の意向や思考を即座に受けて扱いを改めています。しかし、お江の方や忠長にとっては内心の反発もあり、家光自身の心に影を射すもので、最後は悲劇的な結果になっています。

如来寺の記事で書きましたが、家光自身の後継者問題がありました。と言うよりは側近が騒いだ感じですが、、、その際に、家光自身が後継者に考えた候補者が甥であり娘婿の前田光高夫妻でした。まあ、すぐに家光に子供が生まれ沙汰やみになりましたが。。。家光が光高に信頼を寄せていたように、光高も家光への親近感と忠誠心は高いものがありました。
光高が家光の尊敬する家康の権現社を城内に建てるというのは、二人の関係性からは自然な流れであり、幕府と加賀藩の協調体制の狙いも覗えたと思います。

しかし、隠居したとはいえ先代で後見役とも云える利常は、この権現社建設には反発があったようです。
まだまだ戦国の気風を残す利常としては、城内に権現社を置くということは完全に徳川家の傘下になることから、、、、「仮に徳川幕府が弱体化して倒れそうになった時、こんな物を城内に置いてお前はどうする気なんだ。これでは敵に成れないだろう。徳川と心中するつもりか?!」 光高にこう云ったと伝わります。
しかし、計画が走り出した後ですから、中止は尚更難しく、光高は権現社創建を強行します。
実際、幕藩期は、江戸・加賀の関係は多少の緊張感はありましたが、協調体制で過ごせたわけで加賀文化にも貢献したわけですが、幕末の加賀藩は衰退していく幕府にも朝廷にも態度をはっきりできず、せっかくの大藩であるのに表舞台には乗れず、新政府でも重要ポストに入れなかったですねえ。。。利常の言も幕末に当たってしまいました。

光高が早逝したため、藩主は幼少の光高の子・綱紀となりましたが、後見として利常光高の幕府協調路線を踏襲して政務をとり、加賀文化の基礎を築きあげています。加賀藩において利常は最高の藩主として称えられ、この権現社にも家康と並んで祭神として据えられます。
祭神とされた利常はちょっと複雑な心境だったかも、自分が建設に反対した権現社にこともあろうに、家康と並べられたんですから。。そういえば、卯辰山の豊国社にも豊臣秀吉と並べられていますねえ。。
大坂の陣では利常は攻城軍として参加、戦闘もしていますから、つくづく自分の思いとは違う方向に、、、死後は思っても見ない相手と一緒に神様にされちゃってます。

尾崎神社の社殿は金沢市内でも江戸初期の建築を保ったもので、国重文指定を受けています。

中門     ・・・ 尾﨑神社の正門です。平唐門・本瓦型銅板葺。
           八本の支柱が支える大屋根には三つ葉葵が配されています。玄関になるため人に触れら             れることで支柱のはげが早いのが難点。
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拝殿・幣殿 ・・・ 扉や軒の装飾も緻密なものがあります。入母屋造 平入 向拝一間 本瓦型銅板葺
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唐門・透塀 ・・・ 本殿を守る囲いですが、正面からは本殿が綺麗に観られるようになっています。正対するよう           に拝さねばならないわけです。桟瓦葺。
           神社全体を囲う塀も同じ作りですが後年代の物です。
本殿     ・・・ 三間社流造 本瓦型銅板葺
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本殿の隣には、豊受稲荷社があります。当然、鳥居は朱塗りですが拝殿は重厚な瓦葺きの祠作り
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金沢市内でも数少ない江戸初期の建物なんですが、意外に観光客の訪れが少なく、市街にありながら深遠な雰囲気が感じられます。まあ、加賀藩の中の德川の神社ですから人気が薄いのかもしれませんね。。ただ加賀藩の工芸の元になる建築物ですから参考になるものです。是非立ち寄って観て下さい。

今年(H26)の話題ですが、まずは前年(H25)の12月、市街にある尾﨑神社に熊が侵入して塀を引掻いているのを神主が発見した事件がありました。熊はそのまま金沢城に逃走して大騒ぎになりました。
こんな市街地に熊が出たということで大騒ぎでしたが、約1週間の金沢城は立ち入り禁止で捜索されましたが、肝心の熊は糞だけ残して行方不明のままでした。どこから来たのか、どこへ消えたのか、しばらく話題になっていました。湯涌方面から犀川伝いに来て山に帰ったのでは?というのが専門家の予想だったんですが。。
みんなが熊のことを忘れかけた今年の9月、金沢城内を歩いていた作業員がお散歩中の熊さんとばったり。。そのまま行方不明に。。金沢城はもちろん立ち入り禁止。その後すぐに金沢城の監視カメラに熊が撮影されて、またまた大騒ぎ。。ふたたび大捕り物が始まって、結局、はちみつ入りの檻の罠に熊は捕獲されたんですが、どうも本丸近くの森に住んでいたようです。。もうビックリでした。よくもまあ長い間、観光客や作業員にも見つからなかったもんです。どうも、夜中と明け方しか活動していなかったようです。
前々回の記事で本丸の森は九萬坊(くまんぼう)の棲家だったと書きましたが、まさか熊ん坊が金沢城の城主だったとは。。。復元橋爪門の完成とかに湧く金沢城公園でしたが、金沢城の一番の話題だったかも

旅行日 2012.04.13






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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    なかなかな神社ですね  前田家は徳川家とも深い関係だったのですね
    なかなかやり手な前田家 生き残る道はこれしかなかったのでしょうね
    前田家が続いたからの残った加賀の工芸品だったのでしょうね?
    2014年12月16日 14:28
  • つとつと

    がにちゃんさん
    前田利常の奥さんは珠姫(徳川秀忠の娘、千姫の妹、家光の姉)、光高は二人の息子で奥さんは溶姫(水戸徳川頼房の娘、家光の養女)、その二人の間の子・綱紀の奥さんは摩須姫(保科正之(家光の異母弟)の娘)、二重三重の姻戚関係で公私に深い関係でした。協調体制を取ったからこそ武力より文化を重視した独自の文化が育ったようです。親子の意見が分かれた神社ですが、その後の方針方向が定まった神社でもありますね。
    2014年12月16日 15:12
  • 流布院

    そんな所にクマが住んでいたとは。
    それにしても誰も襲われなくてよかったですね。
    2014年12月16日 22:02
  • つとつと

    流布院さん
    そうなんですよ。まさか市街地の金沢城内に熊が棲みついてるなんて誰も考え付かないし、昼は多くの観光客の来ているし、近くの玉泉院丸では復元工事で多くの作業員や重機が入っていましたから、よくも見つからずにいたもんです。
    本当に誰も襲われなくてよかった^^人的被害が出なくてよかったあ^^
    2014年12月17日 02:41

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