小松城址

小松城は江戸時代を通じて加賀の国に金沢城の支城として存続していた城です。
御存じのように江戸時代は一国一城令によって、加賀藩は金沢城を本城として、小松城も廃城になっていたのですが、加賀藩三代藩主・前田利常の隠居城として幕府から特別許可が下りて再興したものです。
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小松城の最初の築城は通説では、天正4年(1576年)一向一揆衆の有力武将・若林長門守によるものとされています。ただ、明智軍記や小松軍記の記述にある朝倉義景・明智光秀の問答や記述からはそれ以前に小松の名が出ており、明智光秀が朝倉氏に係ったのは1560年代とされていますから、それ以前から小松に城もしくは砦、寺(北陸の本願寺の寺は城郭を兼ねた造りが多かったですから)があったと思われます。

ちなみに若林長門守は、越前朝倉氏が滅亡して(天正元年)織田軍の勢力圏になった後、土一揆の蜂起で一向宗の再占領になった天正2年に本願寺から越前・加賀に派遣された人物です。雑賀衆の一門と云われています。その後、織田信長の越前再侵攻(天正3年)にも前線に出ており、その後は小松城、鶴来の舟岡城の主将として転戦、最後は鳥越城に入るなど抵抗戦を主導した人物の一人です。
鳥越城攻略にに手間取った柴田勝家の謀略によって、松任城で鳥越城首脳が騙し討ちで殺害された際に命を落としています。なお、松任城で討たれた首脳や武将の内、数名の首が安土に送られ晒されていますが、若林長門守はその内の1名です。
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前田利常が再興する以前の小松城に関しては、詳しい図面や様子を記したものがないため詳しいことは解っていませんが、梯川(かけはしがわ)の流れを引き入れて沼地を作り土台がしっかりした天守台や小松高校グラウンドを城郭にしていたようです。
加賀を柴田勝家の攻略によって織田家に編入の後、羽柴秀吉の時代には丹羽家の領分でしたが、丹羽長秀の死後、約10年程は能美を治めた長秀の旧臣・村上義清(勝頼)が入城し、村上氏転封後に松任に小松を加増された丹羽長重が本城として入城しています。ただ、村上氏の所領は6万8千石と大きくはなく、丹羽長重の統治も2年と短く、それ以前の丹羽家が加賀の権利を得た期間も短いため、一向一揆時代の城の規模と変わらないと思われます。
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関ヶ原戦時、丹羽長重は西軍に属し、小松城に東軍の前田軍2万5千の包囲攻撃を耐え、更には浅井畷の戦いで大きな戦術的勝利をあげますが、再度出撃の前田軍に降伏開城しています。この開城和睦交渉で人質の交換が行われ、前田家から丹羽家に出されたのが、後にこの城を改修する前田利常(当時8歳)でした。
東軍勝利により丹羽長重は改易(3年後に古渡1万石で復帰)となり、小松城は加賀藩預かりとなります。小松城には城代として前田長種が入っています。この前田長種は前田利長の高岡守山城代となっていた人物で、後の加賀藩八家老の一家・前田対馬守家の始祖となっています。

前田長種の父・前田長定(与十郎)は名古屋市中川区(旧海東郡)にある速念寺に墓所がありますが、この寺が前田城址で前田家の発祥の地と云われています。前田与十郎家(当主は代々・与十郎を継いでいます)は海東郡の土豪で前田城を本拠に荒子城・下之一色城(蟹江城も勢力圏と云われています。)を支城としていました。(現在は前田利家の生誕地として荒子城が有名で前田家発祥地とされますが、正式には前田城が前田家の発祥地と云えます。また別説ですが、利家は前田城で生まれ、父・利昌と共に分家して荒子城に移ったとも云われています。
前田長定は北陸で活躍した前田利家とは別に、本貫の地と云える海東郡を治めていましたが、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦で、蟹江城を奪い秀吉側に寝返り、織田信雄・徳川家康連合軍に蟹江城を攻められ落城戦死しています。この際に一族皆殺しに遭っています。この戦の際に下之一色城に居た前田長種は降伏開城して加賀の前田利家を頼って家臣となっています。
前田利家にとって長種は所領を失い、自分の家臣になったとはいえ、本家筋に当たるわけですから厚遇し、長女・幸姫長種に嫁がせています。その後、長種は守山城城代となっていますが、後に前田利家が名護屋城遠征の際に寿福院(千代保)に手を付けて産ませた利常を引き取り養育しています。これには利家の正室・芳春院(於松)の嫉妬と危害を怖れたためと云われています。実際、利常は日陰の子として育てられ、父・利家との対面も兄・利長の援助によるもので利家の死の前年6歳の時であり、実母・寿福院と義母・芳春院の中は険悪で生涯言葉を交わさず、二人の対立に利常は悩んだと云われています。

利常は人質後は小松城主として在城しており、その間は非公式に長種が守山・小松の城代を兼ねたようです。、5年後、兄・利長の隠居により後継に指名され間もなく金沢に移っています。長種はその後、一国一城令が発布され廃城となる10年間を小松城代として過ごしています。この小松から金沢に戻った翌年幸姫が亡くなっています。二人の菩提寺は金沢市寺町の曹洞宗・玉龍寺にあります。
人質の際も、丹羽長重には人質というよりは実子と同じ扱いを受けており、隠居後に小松城を居城としたのは、丹羽長重との係わりと養父母と云える長種夫妻が10年を小松に過ごしていたことが大きな要因と云えると思われます。
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元和の一国一城令による廃城から20年以上の寛永16年(1639年)、利常が光高に当主の座を譲り、幕府に対して隠居届と共に小松の隠居城再建の申請がなされ、紆余曲折はありましたが幕府からの許可が下り、利常小松城の再建を図るとともに隠居して小松に移り住みます。
加賀藩としては、越前に対する防衛拠点としての城郭の整備、小松の街並み・商工業の発展による藩財政の強化を狙ったと思われます。実際、これによって越前に対して分藩の大聖寺藩の大聖寺城、小松城と要害を併せ持った二つの防御地点が構成されたことになります。隠居とはいえ、独立した形になった利常は移住と共に急ピッチで小松城の改修と城下町の整備に手を着けます。これが現在の小松市の基盤になったと云えます。

幕府にしても大藩の加賀藩に戦国気風が強く反幕行為が目立つ利常よりも親幕府派の光高に藩主になって貰う方が良いと判断したようです。また、利常隠居により子息相続の富山藩10万石・大聖寺藩7万石の分立、また利常が隠居による実質的な独立による隠居料20万石の分立、これらによって加賀藩が分離するというメリットが大きかったようです。加賀藩本家の所領は光高が藩主の時代は約84万石と江戸期を通じて、規模が最も縮小した時代でもありました。
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梯川小松城の北東にある小松天満宮と薩島神社を両岸にし西にまっすぐ流れ、木場潟から流れる前川と合流して安宅を河口にして日本海に流れ込んでいます。小松城北西からの梯川は明治末から大正にかけて、水路を掘ったのを皮切りに昭和・平成に河川改修を施して出来たものです。
しかし、江戸時代から昭和までは小松城のある地点で直角に蛇行していました。当時の梯川小松城の北を流れいきなり直角に西側を沿うように流れていました。つまり北と西の外堀の効果を持っていました。現在市内を流れる古川が昔の梯川の流れで末広競技場の横を流れ末広緑地を流れ前川に合流していました。
この梯川の形作った直角地帯を利用して構築されていたのが小松城でした。この場所は当時は湖沼地帯で本丸地帯を除き大きな沼地になっていたようです。
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前述のように加賀藩以前の小松城の詳細は沼地や湿地帯にあったとしか解っていません。
前田利常が再建した際に梯川の湖沼部分に水を引き入れ、本丸・を水掘で囲み、周囲を二ノ丸、枇杷島、中土居、霞島の四つの島郭で囲み、更に水掘を挟んで六つの郭島(牧島、竹島、薩島、三の丸他)で囲み、計12の島を石橋や木橋で連結し、浮き城として大修築を施していました。ちなみに利常が生活した屋敷は霞島にありました。現在の小松大谷幼稚園の辺りのようです。また、城代・定番の屋敷は、牧島の時代もありましたが、主には竹島に置かれていました。こちらは現在の小松市役所の辺りです。
また梯川は今も昔も氾濫が多いため、護岸・防衛対策として各郭島には盛り土・石垣や土塀が施されていました。現在は本丸中土居の間に名残が見られます。
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小松城の大改修は一朝一夕で完成したものではなく、前田利常が在城した19年間で改修拡張を施したと云われています。利常移城の1.2年の図面には本丸横の小松高校グラウンドが二の丸、校舎部分が三の丸というものが存在するそうです。完成時、現在の芦城公園が三の丸となり、小松高校校舎が二の丸、グラウンドは本丸の一部となっており、大手門も最初は小松高校入口から三の丸の入口へと変更されていったようです。
同じように東側の薩島も後年の拡張だと思われます。完成時の小松城域は金沢城の約二倍(56万㎡)の規模を誇っていました。
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現在の小松城址で、城跡の痕跡が観られるのは天守台の石垣のみになります。
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10間四方の大きさで精巧に積まれた石垣で、直線的に加工した石材をブロック状に積み上げる方式で「切込ハギ」という技法が採用されているそうです。近寄ってみるときっちりと石材が隙なく積まれているのが解ります。特に四隅の造りは芸術品です。
また角度も垂直に近い造りで、石垣技術が最高レベルに達した時期に作られており、石垣造が芸術レベルにまで昇華したものです。石垣の素材も3割が戸室石、7割が小松産鵜川石が使われており、戸室石の青・赤、鵜川石の白が配色されています。3種の石で彩色の妙を演出したようです。天守台には寄棟造・柿葺屋根の二層三階の座敷付櫓があったそうです。この造りの櫓は国内でも唯一の物だったそうです。
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ちなみに以前の記事で書いていますが、利常が建てた小松城天守台小松天満宮・妙立寺(忍者寺)・金沢城天守台址高岡城天守台址は同じ直線上にあったことが、近年確認されています。

日本最高の建築美と庭園美と云われる桂離宮の作製のスポンサーとなった前田利常が、自分の隠居城として粋を凝らした「小松の浮き城」、名城とされた城内にも泉水・茶亭・屋敷や銘木が配されていました。江戸期を通じ加賀藩八家老が交代で城代・城番を努めて200年以上を維持していましたが、明治5年廃城となり建物は払下げもしくは取り壊され、堀も造成の名のもとに埋め立てられ、銘木は伐採され、前述のように天守台の石垣のみが残されています。この姿を空の上から利常さんは怒っていますよ。きっと。。
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次回予定の芦城公園で書こうと思っていましたが一言。
明治維新後の新政府政策は極端なものが多く、神仏習合の分離、廃藩置県に伴う廃城令、他にも文明開化という名に踊っての本邦文化の破壊、天皇陵の無理な選定・改修・官制盗掘・破壊・発掘研究の禁止、、、、、日本古来の文化・歴史・遺構・財物の多くが明治初期に失われています。歴史系のスポット紹介の多い僕のブログは、この問題に良くぶち当たりがっくりすることが多いのです。
この小松城もその犠牲の一つです。幕末に一部の老朽化で取り壊しはありましたが、明治になって三の丸に懲役場(現・金沢刑務所)が置かれ、懲役作業業務が小松城の取り壊しが主務で、想像以上に作業が進んだ経緯があります。。残っていれば国宝級・名勝級だったんですが。。

旅行日 2013.04.06



この記事へのコメント

  • がにちゃん

    綺麗な石組みですね   切込ハギ とゆう工法なのですか 私はあまり見かけたことがありません  凄くきれいです
    2015年01月07日 21:13
  • 家ニスタ

    小松城は以前行ったことがあるのですが、天守台だけがぽつりと残っていて寂しげでした。
    平地の城はえてして残りが悪いものですが、人為的な破壊には本当にがっかりしますね。
    残っていれば国宝級、という城は全国に多いですよね。
    明治期の日本は先進国とはいえなかったから、史跡を守ろうという意識がなかったのも、無理はないのかもしれませんが・・・。
    2015年01月07日 23:06
  • つとつと

    がにちゃんさん
    石を事前に削って接合面を揃えてから積み上げるのが切込ハギの特徴なんです。江戸城とか名古屋城などに観られるみたい。手間と人員が必要なので経費の面で江戸期の幕府・御三家でないと難しかったようです。通常は大きな石の隙間や後ろに小石を埋めて繋いでいるそうです。小松城は更に3種類の石を幾何学的に配置しているので、相当の手間がかかっています。
    2015年01月08日 12:47
  • つとつと

    文化財保護の感覚は当時も多少はあったようですが、政策が優先していますから。。
    日本は木造建築が主体なので、天災に脆いのですが、廃城令や廃仏毀釈の人為的な破壊は辛いですね。後のための詳細な図面や画像が残されていないのも悲しい現実で、全国にある模擬天守が多いのもこのためで、混乱に拍車をかけています。
    2015年01月08日 13:07

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