多太神社

小松市街にありながら大きな本殿と参道を合わせ持ち、社域には大きな木々と三社の摂社を抱えているのが「多太神社」です。創建は当社縁起から武烈天皇5年(503年)。祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ、仁徳天皇、)。八幡三所大神(応神天皇、仁功皇后、比咩大神(宗像三女伸))他多数
元々は仁徳天皇(仁徳大皇)が主祭神だったようです。(多太の名は、出雲風土記の命名(みことな)の現れる地・多太郷から来ていると思われるため)つまり、古くから知られる延喜式内社になるわけです。式内社については、以前触れたことがあるので、こちらをどうぞ ⇒ 式内社(上柏野 楢本神社の欅)
平安初期に八幡宮を合祀して多太八幡宮と称していました。更に江戸期には能美郡の総社とされていました。この小松・能美では由緒ある神社の筆頭になります。
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延喜式内社として知られる神社ですが、その名を更に高めたのが斉藤実盛兜鎧が奉納されていることにあります。
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斉藤実盛に関しては以前に2記事をUPしています。是非お読みください。
             実盛塚・篠原古戦場        首洗池
斉藤実盛篠原の戦・首洗池は「源平盛衰記」「平家物語」の悲話となっています。また、実盛塚での遊行上人との出逢いと成仏は世阿弥によって物語となり、能、謡曲「実盛」・浄瑠璃「実盛物語」となって受け継がれています。

斉藤実盛は天永2年(1111年)越前国南井郷(現・鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、13歳で武蔵国長井庄(現・熊谷市妻沼(めぬま))の庄司・斎藤家に養子に入り「斉藤実盛」と名乗ります。
長井庄を継いだ後は、庄の経営・開墾・整備によって地盤を固めています。また東国武士として源義朝・義堅兄弟に仕えていました。その後、為義・義朝親子が対立、義朝が南関東を抑えると、為義の指示で義堅が北関東に進出し対立したため義堅に組していました。しかし、大蔵合戦で南関東を継いだ義平(義朝の長男)が北関東本拠の大蔵館を急襲、義堅を殺害、関東の地盤を固めます。

この大蔵館を急襲した際に、義堅と同居していた駒王丸(義堅の次男、当時2歳、後の源義仲)を保護して匿ったのが斉藤実盛でした。その後、実盛は信濃木曽の豪族・仲原兼遠に保護を頼み駒王丸を落ち延びさせています。仲原兼遠の庇護の元に成長した駒王丸源義仲となり、兼遠の子供たち(木曽義仲四天王(今井兼平・樋口兼光・楯親忠)、巴御前)を重臣として信濃・北陸と勢力を伸ばしていきます。

その後、斉藤実盛は源義朝・義平親子に仕え保元の乱や多くの戦で功を立てています。義朝から戦功として鍬形兜を贈られたのもこの間のことになります。
しかし、平治の乱においても義平と共に17騎で平重盛500を追い詰める奮戦を行っていますが、平重盛・頼盛の奮戦、平清盛の熊野からの帰還で、源氏は瓦解敗北します。義朝は逃亡後暗殺、義平は逃亡後捕縛処刑されています。斎藤実盛は辛くも長井庄まで落ち延びています。
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平家政権となった際、長井庄は平宗盛の所領となりましたが、源氏での戦功と行政手腕を認められ家人として所領を安堵されています。その後は所領の整備・平家家人として平家内で重用され地位を固めています。
この間に治承3年(1179年)妻沼聖天宮を建立しています。
ちなみに聖天宮は斉藤一族・実盛の子孫により整備されていましたが、江戸期に焼亡・再興されています。平成24年に本殿(聖天堂)が国宝指定されています。熊谷での斉藤実盛の人気は高く敬愛され、聖天宮にも実盛の髪や髭を染める姿の銅像があります。
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治承4年、富士川の戦いでは平維盛の後見役で出陣、水鳥の羽ばたきに混乱した平家軍の壊乱で敗退しています。この原因は兵力差に驕る維盛・側近に、実盛が東国武士の精強さを諭したために恐怖心を植え付けてしまったためと云われています。
寿永2年(1183年)、再び平維盛軍に参軍。平家軍は倶利伽羅合戦に敗退後、源義仲軍の追討戦を受けて根上の松で再度大敗、最終防衛線の加賀篠原の地で再度防衛戦を挑みますが敗退。

この撤退時に殿軍として残ったのが斉藤実盛でした。最後は単騎奮戦しましたが、手塚光盛によって討ち取られています。この時、斉藤実盛72歳、白髪、白髭を墨で染め、兜は源氏所縁の鍬形兜・錦の直垂・平家所縁の黄金造りの鎧という出で立ち。当時、錦の直垂は大将に許されるものですが、出陣前に最後の出陣と平宗盛の許可を受けていたようです。北陸・越前は実盛の生まれ故郷であり、篠原の地は河合一族の所領地でした。最後の合戦と覚悟を決め故郷での出陣に「故郷に錦を飾る」という中国の故事に倣ったと思われます。
光盛の名乗りにも自分の名を告げなかった為、その場では武将とも侍とも判別できず、首実検の際に面識のあった樋口兼光が「合戦では若い武者に侮られぬように、髪を染めるのだ」という実盛の言葉を思い出し、池で清めると髪が白くなり斉藤実盛と確認されました。これに驚いた源義仲斉藤実盛の悲劇の再会となってしまったのです。

源義仲は自身の恩人であった斉藤実盛の遺体を篠原の「実盛塚」に葬り、首を法皇が丘那谷寺の中間の原に葬っています。(首塚は昭和になって戦後、那谷寺の共同墓地に移されています。)
また、斉藤実盛の着用していた兜・鎧の肩袖・弓矢(義仲所用の鏑矢)多太神社に奉納して、供養と後の法要を頼んで京への侵攻の途についています。
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実盛の兜は、前述のように源義朝から拝領した物です。錣(しころ)の吹返しが若草色だったそうです。祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の神号が付けられています。鎧の肩袖は変色で解り難いものでした。
宝物館に展示されていますが、戦時の古い傷と多少修復が施されていますが美しさの片りんがあります。国重要文化財に指定されています。宝物館は事前予約を入れれば、いつでも観れるそうです。
以前見たことがあるんですが、画像が無いので。。。 多太神社のHPを観て下さい。

多太神社の参道沿いには鳥居から進むと右手に、やはり斉藤実盛関連の物が多く並びます。
斉藤実盛が髪を染めている姿の彫像も、右手に筆、左手に手鏡を持っています。傍らには兜のモニュメントも。
加賀市深田町(橋立漁港から1キロほど南の称名寺付近)に、斉藤実盛が髪を染めた際に持っていた鏡を沈めたと伝えられる鏡池という小さな池があります。年一度、8月頃に池の清掃作業があり、鏡の姿が観られるそうです。
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実盛塚で書きましたが、応永21年(1414年)時宗の第14世遊行上人太空がこの地で巡錫中、実盛の亡霊が現れ救いを求めたので上人が回向したらすぐに成仏したという話があります。この話は世阿弥に伝えられ、謡曲「実盛」として今日に伝わっています。
謡曲や歌舞伎では、一度現れて消えた後、夜半に池の畔に居た上人の側に立った実盛が、単騎残ったのは実は義仲と一騎打ちをしたかったが、それもかなわず手塚光盛と郎党に討ち取られた、無念を晴らす回向を頼んでいます。上人から念仏と「眞阿」の号を貰って成仏するとしています。
この出来事以来、時宗歴代・遊行上人は北陸巡錫の際には、実盛塚への回向と多太神社への参拝・兜への回向が恒例となっていました。(後に一代一度になっています)多太神社には20数枚の回向札が残されています。

時宗については以前に福井の称名寺で書いていますが、明治維新後の急速な時宗の衰退により、加賀には金沢寺町の玉泉寺のみになっています。このため、遊行上人の回向は昭和31年の71代遊行上人を最後に滞っていました。平成17年(2005年)5月、時宗総本山・遊行寺(清浄光寺)から74代遊行上人を迎え、盛大な法要回向が行われています。
この事例にちなんで毎年5月中旬の日曜日「遊行祭」が開催されています。
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ここまでは哀しくも美談的なお話ですが、怨霊、亡霊信仰的なものもあります。サネモリ虫もその一つです。
サネモリ虫とはウンカのことです。全てというわけではありませんが、何種類かのウンカには稲の害虫がいます。稲作社会の日本では、古くからウンカが害虫ということは知られており、ウンカの大量発生はそれだけ怖れられていたわけです。
ウンカが、なぜサネモリ虫と呼ばれたと云えば、やはり名前の通り、斉藤実盛から来ています。
手塚光盛との一騎打ちの時、実盛の馬が稲に足を滑らせ切株につまづいて、体勢を崩したところ光盛に突かれ、組打ちになってしまったという話が伝わっています。討ち取られた実盛は「あの稲さえなければ。。。。」と怨みを残したと云われ、その怨みがサネモリ虫になったというものです。
加賀地方では虫送りとして火祭りが盛んに行われています。この虫送りの火祭りは害虫退治と豊作を祈るものですが、害虫退治はサネモリ虫にルーツがあると云われています。他県にもこの虫送りは多くみられますが、藁の人型を作り、その物ずばりサネモリ送りと呼んでいるものもあるそうです。
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元禄2年(1689年)7月、奥の細道の途上、松尾芭蕉がこの神社に訪れ、実盛の兜を拝観しています。
当時の兜は現在の修復された姿ではなく、合戦の傷や色褪せも激しかったようです。
自身の墓が近江の義仲寺の義仲の墓の側にあるように、芭蕉は熱烈な義仲ファンでした。義仲実盛の係りを知り、いわくのを観て感動して句を残しています。

むざんやな 甲の下の きりぎりす  芭蕉

この句は、奥の細道でも名作と云われるものですが、実は最初は字多で「あなむざんやな~~」で始まっていたそうです。奥の細道の段階で変えられたそうです。本来、平家物語などは「あなむざん」。。なぜ「あな」を外したかは不明。。個人的には「やな」を外した方が良かったんじゃないのと思うのは、素人考えでしょうか。。
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同行した弟子の曽良(河合曽良)、金沢で入門し同行した北枝(ほくし、立花北枝)も句を残しています。

幾秋か 甲にきえぬ 鬢の霜   曽良
くさずりの うら珍しや 秋の風  北枝

この松尾芭蕉の句を記念して、毎年7月下旬、「かぶとまつり」が催されています。こちらは参道に屋台が並ぶ大掛かりなものです。
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ちなみに、奥の細道の同行者・曽良は有名ですが、北枝はあまり知られていません。
北枝は、小松生まれで、金沢在住の研ぎ師を兄・牧童と共に営んでいました。兄弟で金沢に訪れた芭蕉に入門しています。金沢を旅立つ芭蕉曽良一行と別れ難く、生まれ故郷・小松までと同行しています。しかし、その後も山中温泉までついて行きます。山中で曽良が体調を崩し、伊勢長島に先立ちしたため、越前丸岡まで同行を続けています。丸岡で芭蕉に帰郷を促されるまでついていたそうです。
芭蕉との旅路で教えられた「山中問答」の著作、義仲寺での三回忌の「喪の名残」、金沢の草分け的俳人・金子楚常の「卯辰集」の増補編纂など加賀芭蕉一門の中核として活躍しますが、俳壇の世界での栄達は望んでいなかったようです。庶民風景や風雅の中で過ごすことを優先したようです。
自宅が全焼した際に作った「焼にけり されども花は ちりすまし」は、芭蕉が絶賛した作品です。

ここで、お詫びと訂正。。
以前、書いた記事で「能生白山神社」の中で、多太神社松尾芭蕉を祭神にした「松尾神社」があると書きました。芭蕉の句碑の側にあるんで、神社の横に地元俳人の顕彰碑もあったし、ずっとそう思い込んでいました。。ところがある人に教えられまして。。松尾神社芭蕉とは全く関係ないんだよ。あの神社はお酒の神様を祭っているんだよ。と、教えられました。。大きな間違いでした。申し訳ありませんでした。。不勉強でした
改めて教えてもらった松尾神社に関して・・・元は出雲の佐香神社(別名・松尾神社)の久斯神(くすのかみ)が始まりだとされています。(少彦名神の別名とも云われているそうです。)
この神を松尾明神として織田信長が安土城内に祀っていたのを、前田利家が譲り受けて金沢城内に置いたのが加賀の松尾神社の始まりだそうです。5代藩主・前田綱紀が領国内酒造商の守護神として祀るべ しと定めて、卯辰山麓に遷座させたそうです。この酒造の神様・松尾神社が加賀領内に広まって行ったそうです。多太神社にある松尾神社もその一つなんだそうです。ですから松尾芭蕉とは全く関係ないそうです。僕と同じように考えてお参りする人が多いそうですが、俳句の御利益はないそうです。
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松尾神社の横にあるのは地元の俳人・町原木隹(まちはらぼくすい)の句碑・顕彰碑。
地元の芦俳句会を主宰して、人望を集めたそうです。
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多太神社には合祀されている神社が他にもあります。こちらは「福之宮稲荷神社」。
福之宮稲荷神社の由来書によれば、元は三日市(不動島から大領交差点の辺り)にあったそうで、現在も福乃宮町の名が残っています。当時、地元の崇敬の深い神社で奉納相撲も行われていたそうです。また、本堂前は土手になって桜・紅葉の名所になっており、子供歌舞伎の山車で有名な御旅祭りのあとに多くの市民がここでお弁当(あと弁当)を広げて寛いだそうです。また、近くに遊郭があり多くの遊女が参拝することでも知られていたようです。更に、悪魔を祓い福を招く逸話が多かったそうで地元では「福のさん」と呼ばれていたそうです。
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最後に多太神社に車で訪れる際には福之宮側から入って、神社の拝殿・本殿横の広い広場に駐車できます。
この神社は大木がない市街地にあるのですが、松などの大木が多く数少ない森になっています。おかげで市街地を飛びまわる鳥たちの棲家で営巣地になっています。神殿側の隅に駐車すると、爆弾攻撃を受けてとんでもないことになります。なるべくなら、色の濃い車は広場の真ん中に停めた方が良いと思います。経験者は語る。。。。車が真っ白になった僕
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旅行日 2013.04.22



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この記事へのコメント

  • go

    つとつとさん  
    おはようございます、多太神社の記事はつとつとさんに先を越されました、実は私も実盛の兜を収めた神社と芭蕉の句碑が見たくて21日の水曜日に行って来ました、首洗い池と篠原古戦場の実盛塚も見てきました。
    つちつとさんが歴史的な細かな記事を書いて下さったので、私の方は歴史的にも細かな部分もわからないので、大まかな説明記事を近日にアップします。
    よろしく!
    2015年01月24日 08:44
  • がにちゃん

    松尾神社は京都の嵐山に こちらは松尾大社ですが ここもお酒の神様です
    同じ神社なのでしょうか  
    小松は北陸方面に行ってもついつい通過してしまっていました
    新幹線が完成したら時間も短縮 もう少しいろいろ周れるようになりそうです
    2015年01月24日 16:20
  • つとつと

    goさん
    あはは、またまた重なっちゃいましたか??記事の方楽しみにしています^^;
    昔から平家物語や源平盛衰記が好きで倶利伽羅や小松は興味津々で読んでいました。しかも、熊谷に伯母がいるんで斉藤実盛の話をよく聞いていたんですよ^^
    伯母いわく町のメインは熊谷直実だけど斉藤実盛の方が好きって人が多いそうですです。深田町の鏡池はいつも行こうと思いながら通り過ぎちゃってます。そこも8月の池掃除の陽に行ってみたいんですが、毎回叶えられずにいます。goさんも狙ってみてください^^

    がにちゃんさん
    松尾大社も昔は松尾神社と呼べれていたので同じお仲間だと思うんですが、主祭神が違うんですよねえ。。でも松尾神と呼ぶんで同じだと思うんですけど。。
    新幹線が出来ると相当の時間短縮になりそうですねえ。でも米原経由か湖西経由かでまだ揉めているそうです。車人間の僕はどちらでも良いけど、小松は駅付近に名所や食事処が多いから、意外な穴場になりそうに思います。小松は金沢に比べると地味だけど、独自文化があってけっこう魅力的な町ですよ^^僕は金沢より好きですもん^^/
    2015年01月24日 18:57

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