瓶割坂③ 雨宝院

前回の神明宮の境内を遊び場にしていた室生犀星が幼少・少年期を過ごしたのが「雨宝院」です。正式名は「千日山 雨宝院」。真言宗の寺院です。
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創建は天平7年(737年)。北陸の寺社仏閣・神社には必ずといって良いくらい顔や名前が出てくる泰澄上人。この雨宝院も縁起によれば、泰澄が大日如来を本尊として秘法道場として精舎を建てたのが始まりとされています。
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中世になって神仏習合が主流になると、大日如来=天照大神となって天照の十六歳像が本尊に加えられています。現在もこの像は本堂内に安置されており、院内を見学すると観られます。
同じ天照大神を信奉する神明宮とは親交が深かったと云われ、室生犀星が境内を遊び場に出来たのも寺院と神社の親交が深かったためではないかと云われています。
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長い年月に荒廃衰退していたようですが、安土桃山期の文禄2年(1593年)、大和出身の修験僧・雄勢が伊勢神宮での千日参籠・修業を修めてこの地に来訪、再興を果たして現在に至っているそうです。

雄勢は参籠末期に天啓を受けてこの地にやって来たそうですが、その際に金毘羅十一面観音、三種の神器、白狐二匹を供奉して来たと云われ、現在にも伝えられ本堂内に安置されています。
現在でも千日回峰や千日参籠の達成はニュースになるほどの快挙ですが、当時は尚更に成就者には尊敬と崇敬が集められていました。雄勢も地元から「千日和尚」と呼ばれ尊敬と崇敬を集めたようです。雨宝院の山号もこの千日和尚から来ているそうですが、雨宝院のある千日町もこの名から来ているそうです。

ちなみに、金毘羅(こんぴら)と云えば、四国の金刀比羅宮や港町に多い金刀羅社や琴平社によって、海洋や航海の守り神と一般に認識されていますが、犀川河畔とはいえ内陸部の金沢に金毘羅とは意味や根拠ははっきりしていないそうです。

元々、金毘羅はヒンズー教のクンビーラや仏教の十二神将の筆頭・宮毘羅(くびら)から来ていると云われています。クンビーラは水運の守り神・水上の乗り物(船?)と云われているので水運や海運・航海の神になったんだと思います。仏教の宮毘羅は薬師如来の守護神・夜叉王(鬼神)としての要素が強く前面に出ています。この二つが別々や合体したように伝わったようで、更には山岳信仰と修験道が結びついて生まれた神仏習合神が金毘羅大権現と云われています。
神仏習合では本地仏の考えがありますが、金毘羅大権現は上記のような流れで諸説が多く存在して、弥勒菩薩、毘沙門天、不動明王、十一面観音など多くの仏に擬えています。雨宝院の本尊は修験道からの十一面観音が採用されていたようです。白山信仰の流れを汲むはずの雨宝院が、白山ではお馴染みの十一面観音=白山妙理権現とは異なるのが興味深いです。
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横道に逸れてしまいましたが、この雨宝院に幼少期から少年期を過ごしたのが室生犀星でした。その生い立ちは決して綺麗で幸せなものではなかったものでした。犀星自身が自分をモデルに「幼年時代」などに状況が記されています。

明治22年(1889年)、加賀藩の元足軽組頭・小畠吉種と小間使・ハルの間に誕生したものです。生誕時、小畠吉種は60を越す隠居生活でした。早い話が御隠居様が若い女中に手を出して産ませた子どもということです。
しかし、多聞を憚る子供であったため、雨宝院の住職・室生真乗の内縁の妻・赤井ハツの私生児として引き取られ、赤井照道として戸籍登録されています。雨宝院の寺域に入ると解りますが、地蔵尊や本堂を含む寺院と住居は別になっており、当時もこの形態だったようで、赤井家と寺院・室生家は隣家のようになっていました。

ちなみに照道が生まれ育った千日町は当時、雨宝院のある辺りが表千日町、現在の白菊町を含む西側は裏千日町と呼ばれていました。照道(犀星)の生誕地は雨宝院から西に100m程行った室生犀星記念館がある場所になります。実家の訪問はハツや小畠家からは禁止されていたようですが、時折隠れて逢いに行ってもいたようです。

赤井ハツは照道以外にも男子1名(義兄・真道)女子2名(義姉妹)を養子として各家から養育費を貰っていたといいますが、その目的や行為についてはとやかく言われていますが、明治期の僧侶の結婚は禁忌となっており、閉鎖的な加賀では後家さんや内縁の妻への世間の風当たりは強いものがありました。とにかく犀星の本や研究本はあまり読んでいない僕としては、知識不足でとやかくは書けないので後日に譲ります。

ただ私生児であることは世間にも知られており、陰口や同年代からのいじめに遭っていたようです。
しかし、それに反発するように、照道少年は野町尋常小学校に入る頃には、悪童として同学年以上にも怖れられ、教師にも眼をつけられるようになっていました。
7歳の時、養父となった真乗には特に気に入られていたようです。僧籍には入らない約束で室生真乗の養嗣子となって室生姓となって室生照道となっています。赤井ハツの養子の内で室生姓になったのは照道だけでした。現住職いわく当人には僧職にしない約束はしましたが、内心は寺院の跡継ぎにと期待を持っていたようです。

11歳で高等小学校に進んだ照道の周辺には大きな出来事が起きます。実父の小畠吉種が老衰で死去。越中から来た親族によって実母・ハルは退職追放で行方不明となり、その後は生涯逢うことはなかったそうです。
更に照道がなついていた義姉・貞は再嫁して離れ離れとなります。
これだけの精神的ダメージでは学業専心など無理で、長町高等小学校(4年制)を3年時早々で退学しています。照道13歳の時でした。

裁判所勤め(雇員)だった義兄・真道(5歳年上)の尽力により、裁判所の給仕として登用されています。近年になって裁判所の照道の履歴書が2通発見されたそうで、雨宝院にも掲示されていました。登用時から退職までの職務、給金・賞与が書かれています。明治35年5月(1902年、13歳)~明治42年9月のものです。つまり照道は金沢地方裁判所に7年4か月努めていたことになります。
当時の金沢地方裁判所の職制は傭人(給仕、延丁、小使)⇒雇員(事務員)⇒官吏(書記、判任官)⇒判事となっていました。照道は最下級の給仕で初任月給2円50銭(現在価値約5万円)、退職時(20歳)は雇員で9円を貰っていたようです。ちなみに義兄は大正12年に書記まで勤めて退職しています。
明治41年(19歳時)、転勤で金石出張所に赴任して家を離れています。下宿先は銭谷五兵衛所縁の海月寺の一室でした。この裁判所勤めによって、上司から俳句を進められ才能を開花させ、短い金石時代には小説にも手を進めています。

裁判所勤めで上司からの勧めで俳句を始め、北国俳壇へ投稿などでその名を高め、17歳から犀星の名を使い始めています。ちなみに犀星の名の由来ですが、当時、北国文壇で人気を博していた漢詩人・国府犀東に対抗して名乗ったものです。犀東は新聞記者はしながら知識を拡げ、漢詩や歴史書など北国文壇の花形となっていた人物です。犀川の東部に対する西と云ったものです。駆け出しの照道としては志を高く持つ目標としたのかもしれません。この時、照道、照文、犀星と使い分けて北国俳壇に投稿も行っています。とにかく名前を売ろうというものでした。

ちなみに国府犀東はその後、内務省の官僚に転身、博識とも云える漢詩・歴史の知識を持って内閣府、宮内省、文部省において地方改良運動に始まって、歴史・文献・漢詩の素養を買われ文化面の担い手でした。神社の社格決定、文化財選定、明治天皇の大喪の礼、大正・昭和天皇の即位の礼にも関わり、大正・昭和の元号選定の審議員にも名を連ねています。歴史書や詩集も多く出しています。
犀東は対岸に当る竪町の庶民・左官職の子供として生まれ、旧加賀藩士の国府家に養子に入っています。外交的な性格で同じ竪町小学校の上級生だった泉鏡花、徳田秋声、小倉正恒、井上友一、清水澄、藤岡作太郎といった錚々たる人達に恵まれ才能を開花させています。自分とは正反対の性格や環境の犀東に、嫉妬と対抗心を燃やしたようです。

裁判所を辞めた犀星は上京を繰り返しますが、最初は全く売れず飛ばずで苦労しますが、北原白秋に認められた辺りから詩人としての地位を固めて行きます。大正7年(1918年、29歳)の時の「愛の詩集」「抒情小曲集」によって、詩人の地位を固めています。翌年には「幼年時代」「性に眼覚める頃」「或る少女の死まで」を発表して作家としても地歩を固めています。

上京後の1.2年を除き、地元にはほとんど足を向けていませんでしたが、大正12年の大震災で金沢に帰郷。
天徳院の寺領に間借りして、天徳院の庭園作庭を昭和7年まで行っています。この間に養母だったハツもなくなっています。また、この天徳院の作庭には実家とも云える小畠貞一(小畠家の義兄の子、犀星の甥?)が深く係わっています。
犀星が東京に戻った以降、犀星が金沢の地を踏むことはありませんでしたが、小畠家や雨宝院にはことごとに手紙が送られていました。故郷は遠きにありて。。。そのものの後年でした。。長く東京や軽井沢で過ごした室生犀星ですが、故郷を遠くから見つめる心情を察した家族により、墓所は金沢の野田山墓地にあります。

犀星の詩や小説は、自分の生い立ちが深く反映しています。血のつながらない家族、行方が分からない母、、、多くのトラウマを抱えていました。それが故郷から離れながら故郷を思い、我が強い割には家族を愛情深く見つめる姿になったようです。
犀星程に極端な生い立ちではありませんが、違った形で少しは解る生い立ちと出来るだけ故郷を離れたく、学生時代から40代まで地元を避けていた僕は、、、、、けして、育った土地が嫌いなわけではなく、逆に好きで自慢したいくらい、、、それでも、自分の存在感やその他もろもろの葛藤、、、あまりに解りすぎて、室生犀星の作品は一部を除き避けていました。歳を経て地元近くに戻った今は、改めて犀星本を読み直してみようかとも思っています。

ちょっと余計な事を書きましたが、犀星は生い立ちの裏返しでしょうか。。家族というものを非常に大事にした人物です。奥さんや娘さんを思う気持ちは詩や小説にも表れています。雨宝院や記念館に残る遺品や所縁の品には、家族を思うものや金沢に繋がる物も多く観られます。

雨宝院には室生犀星の所縁の品が多く展示されています。
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雨宝院の庭は昭和初期の洪水により、大きく削られており、幼年時代に書かれていたような河原の面影はありませんが、犀星在宅時から残る杏の木などは残り、窓外の風景は応時に思いを誘われます。。
杏の木は、小説「杏っ子」にも登場しています。
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室生犀星と云えば、壁にかかる似顔絵が知られていますが、この似顔絵は昭和の文芸・都会派映画に数多く出演した池部良の描いたものです。池部良は「昭和残侠伝」など重厚でニヒルな役もこなしていました。俳優協会の理事長を長く務める傍ら、多くのエッセイも残しています。
意外に知られていませんが、母方の祖父は書家の大家、父は洋画家であり風俗漫画家・池部鈞(ひとし)、母の兄には洋画家・漫画家の岡本一平、一平の息子は芸術家・岡本太郎と芸術家系がずらり。。やはり才能ですねえ。。
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今回訪れた際には長時間にわたって、ご住職に室生犀星の所縁の品や雨宝院の本堂内の説明を戴きました。
明るい人柄で、素敵な笑顔のご住職でした。本当に感謝いたします。

玄関はとても入り難そうな感じですが、中に入って文学者としての室生犀星の原点と、神仏習合色の強い本堂内は必見です。

旅行日 2015.04.29




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この記事へのコメント

  • メミコ

    金沢と犀星はきりはなせないのですね
    犀星のドラマティックな人生は 哀しさも大きいですが それでも生き抜いていく強さも感じます
    池辺さんの話題が懐かしく思えました ユーモアあふれるスマートな紳士でいらっしゃいましたね
    2015年05月26日 11:11
  • イータン

    こんばんは~

    いや~ いつもながら、つとつとさんのブログには重みがありますね~

    何処へどう繋がっていくのか、興味津々読みふけりました。
    「室生犀星」の人生感慨深いものがありますね。
    人は誰しも幼少期も想い出がこころの奥深くに刻まれているのですね。
    2015年05月26日 20:23
  • がにちゃん

    立派なお地蔵様ですね 
    池部良 へぇ~~~です  昔のイケメン俳優さんくらいにしか認識が無かった
    室生犀星 山あり谷ありの人生 その経験が作品を生んでいるのでしょうね
    2015年05月27日 17:40
  • つとつと

    メミコさん
    本当に金沢では室生犀星の名は三文豪の中でも一番周知されていると思います。
    三人ともいうか、他の金沢・石川出身の作家にはとんでもない経歴が多いみたいです。三文豪+みたいに評される島田清次郎もその代表みたい。。島田は室生犀星の雨宝院近くの西茶屋街で育っています。観光では東茶屋に人気が集中していますが、西茶屋も捨てがたいですよ。
    池部さんはどんな役もこなせましたが、知的な面が醸されていました。トーク番組とかで見かけたり、エッセイを読んでもウィットが効いた語りが魅力でした。

    イータンさん
    恥ずかしい分で、あっち飛びこっち飛びで、まとまりがなくて読みづらいでしょう^^;
    人は誰しも、幼少期の思い出に明暗を抱えていると思うんですよ。それが生き方や表現に現れてくるんでしょうね。雨宝院に残る手紙類は読むと、日々の愚痴がつらつらと語られています^^たぶん、伝えられる生活やつきあい方は外弁慶みたいで、愚痴を言えるのはやはり雨宝院だったようです。それにしても分は大きい字なんですが、あて名は女文字のようにちんまりしています。娘さんの方がおおらかな文字ですねえ
    2015年05月27日 17:58
  • つとつと

    がにちゃんさん
    本当は堂内の写真も撮りたかったんですが、住職さんがつきっきりでご説明して下さったんで、院内の写真は撮れませんでした。そうそう住職さんは関西出身で、昔はサラリーマンだったそうです。
    真言宗寺院なので、小さい寺院ですが祭壇は素晴らしく芸術的です。金沢に来られた時は立ち寄って観て下さい。けっこう解り易い場所です。
    数年前に亡くなったんですが、晩年はエッセイの方がファンが多かったですが、芸能界の俳優関係で長年一番偉かった理事長さんだそうです。高倉健さんや里見浩太郎さんなんかは終生頭が上がらない相手だったみたい。

    室生犀星の生涯も山あり谷あり、その明暗が確かに糧になっていたんでしょうね。
    2015年05月27日 18:15

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