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zoom RSS 二万七千石用水 大水門 〜 庄川合口堤堰(ダム)

<<   作成日時 : 2015/10/27 09:50   >>

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鯉恋の宮を降りて河岸に出ると庄川の河岸に出られます。
庄川の本流と用水路に囲まれて細長い島のようになっています。その島を散策するように遊歩道が配されていて散策が楽しめます。というわけで、この細長い島や河岸を巡るのが舟戸公園と云います。
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けっこう起伏があり長い距離がありますから、鯉恋の宮から降りた厄除け鯉の放流地で、ウッドプラザをもう一度見たいという二人と分かれて、まずは上流側の「二万七千石の堰」に向かって歩きます。
島の部分はけっこう起伏があるんですが、河岸には平坦な遊歩道もあります。でも、せっかく来たんだから、島の起伏のあるコースで歩いてみました。
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歩きながら、けっこうシャッターを切ったはずなんですが、画像データが残っていませんでした
チョット少ないですが。。。。お許しを。。。そうそう、遊歩道沿いには桜並木や古くからある江戸桜の大木があり桜の名所にもなっているそうです。
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庄川は先にも書いたようにエメラルドグリーンに輝いて見える河川です。
なぜグリーンなのかは詳しくは知りませんが、河岸に迫る山林の緑が太陽光線によって映り込むとか、きれいな川や海に当たる赤い光は吸収され波長の長い緑や青の光が人の目に映るそうです。特に水底が深い場合に多いそうです。更に植物性プランクトンが多いと青の光が吸収され、葉緑素が反応して緑の光だけが強く残って見えると聞いたことがあります。
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もちろん川の水の成分もあるんでしょうが、緑の川は綺麗な川の証明なんだそうです。
庄川峡と呼ばれる程の緑の川は、いろいろな要素が重なったようですが、御母衣ダム・小牧ダムや庄川合口ダムによって作られたダム湖というかダム川という深さも大きいようです。特に天気の良い時の輝きは格別なものがあります。
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庄川が観光地として人気が出たのが、小牧ダムの工事によってダム湖が出来た頃が第一次黄金期ですが、鉄道が無くなってからは大きく衰退したそうです。戦後、写真誌に原風景として紹介され、新日本紀行で紹介されてからは観光地として復活したそうです。小牧ダムに遊覧船が運航して湖上を巡ったり、秘境の温泉と呼ばれ船でないといけない大牧温泉などで人気を博しています。たしか僕は小学生の時に遊覧船で大牧温泉に修学旅行に行った記憶があります。
ただ、近年は県外にいると、知る人ぞ知るで、年配は別にして、あまり名前を知る人が少ないように感じます。富山の観光地としては五指の上位に入ると思うんですが。。。

ダムによる水量調整によって現在は静かな水面ですが、ダムが出来る以前は急流で流木作業も行われていました。また砺波平野を潤す用水路の取込も古くから行われていました。
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この舟戸公園の上流側の先端部にも昔の取込口がありますが、これが庄川左岸における最上流部の取水口になります。この取水口は大水門と呼ばれる堰を通して、二万七千石用水路へと流れていました。まあ実際にはこの取水口とは別に各用水に取水口があったようですが。。
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大水門二万七千石の堰と呼ばれていました。現在の堰は水かさが高くなった為、水門が観えませんが、全7門、全福員12.7mになります。現在の堰は明治31年(1898年)に大改修を施したもので昭和15年(1940年)まで使われていたものです。

二万七千石用水は庄川の最上流部の用水で、新用水が始まりと云われ鎌倉時代中期に開設されたと云われています。その後、山見八ヶ用水(やまみはっかようすい)が造られ室町・戦国期は砺波平野(扇状地)の山岳部に水を供給していました。しかし扇状地には用水路がなく、数々の水争いや闘争の記述が残されています。

加賀藩政期に入って石高向上のための開墾がなされ、古い川跡を利用して多くの用水路も開削開設されています。藩政初期には野尻口用水岩屋口用水が存在していました。この二つの用水が旧の二万石用水と云われており、前述の新用水が千石、山見八ヶ用水が六千石で、合わせた合計で二万七千石用水と呼ばれていました。ちなみに、ここでいう石高は江高のことで、灌漑用水で産する耕作地での石高のことです。
寛文3年(1663年)、上流部の二万七千石用水の対岸に芹谷用水・三合用水が開削され、その後も下流に多くの用水路が開削され庄川東岸(右岸)も開墾が進んで行きます。

そもそも庄川の本流も太古の律令時代には、この辺りから野尻川(雄神川・射水川)と呼ばれ福光の北の津沢で小矢部川に合流していました。現在とはまるっきり違い、北西へ急角度に曲がって流れていたことになります。その後も、何度も洪水を繰り返して本流は中村川、荒俣川と東へと移動し、前田家が加賀、砺波、高岡に移った頃には千保川が本流になっていました。

ところが天正13年(1585年)に天正大地震が発生。この地震は中部・北陸・東海・近畿・阿波と広範囲に甚大な被害を及ぼしたもので、広範囲の被害としては史上最大の複合地震とも云われています。城関係に絞っても、飛騨の帰雲城が山津波で内ヶ島氏一族が城ごと消滅し、美濃の大垣城が全壊焼失、尾張では清州城の液状化、蟹江城壊滅、近江の長浜城も全壊し山内一豊の娘が圧死しています。その他にも建物倒壊・地形変化や若狭湾、伊勢湾では津波も記録されています。
越中でも木舟城が陥没全壊して、前田利家の弟・前田秀継夫妻が圧死しています。

庄川はこの地震で千保川が埋まって、弁財天島の手前で二股に分かれ、中田川という現在の庄川の本流が新しく発生しています。更にその後、洪水で溢れた千保川も元の流れとなっています。しかし、庄川はその後も洪水を繰り返して、その度に千保川中田川が本流としてたびたび入れ替わっていました。前田利長が高岡に入って町を整備しましたが、高岡はこの千保川中田川に挟まれた場所で、庄川の洪水によってたびたび被害を受けたようです。

承応2年(1653年)、三代藩主・前田利常は弁財天島付近に土手を築き、中田川を掘り下げて支流の柳瀬川の水を引き入れて本流を中田川にすることに着手します。千保川流域民や地元民の反対を押し切った施策でした。以前にも書いたことがありますが、前田利常は兄の前田利長への思慕は尋常ならざるものがありました。
この施策も第一の理由は利長の菩提寺・瑞龍寺利長の墓所を柳瀬川の洪水から守るためのものでした。
この工事は50年以上の歳月と巨額の費用と人員が投入されています。この工事によって現在の庄川の本流中田川に確定したわけです。ちなみに、弁財天島の工事はその後も続けられ、幕末まで大工事が繰り返されています。
この難工事と用水路の充実で、砺波地域の石高は27万石となり、加賀藩100万石の四分の一以上をこの地区で占めていたことになります。

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大正期に計画が立てられ数々のトラブルや争議を経て昭和5年(1930年)に完成した小牧ダムに続いて、昭和14年(1939年)に庄川合口ダム(舟戸ダム)が完成しています。この庄川合口ダム庄川本流では最下流のダムになりますが、水力発電以外に用水路の導水口としての役割を果たしています。
前述のとおり庄川上流部の用水路は六か所ありますが、各用水路ごとに取水口があるために本流が定まらず、当然取水の水量が定まらず水不足をたびたび起こしていました。明治政府も問題解消に先の二万七千石の堰に一本化しようとして指示等を行っていますが、水利を主張する各組合の反発にあい、結局果たせずにいました。

この問題を解消するために造られたのが庄川合口ダムでした。実際、このダムの完成によって庄川上流部の用水路の取水口が一本化され導水の効率化に繋がり水不足の頻度が大きく減ったことになります。更に貯水化した庄川の現在の景観が出来上がったともいえます。このダムの農業用水の灌漑面積は1万2千ヘクタールに及び、富山県内の農業地の2割をカバーしています。
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庄川合口ダムは小牧ダムと同じ重力式コンクリートダムになります。
堤高18.5mと高さはそれほどでもありませんが、堤頂長は103.3mと長く、洪水時の掃出し口のラジアルゲートが10門と左右両端に排砂用ゲートがあり計12門のゲートがあります。また魚類保護のための階段式の魚道が設けられています。
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高さが低く長いために堤防や堰に観え優美な姿をしていますが、れっきとしたダムになります。
平成16年に小牧ダムと共に「我国屈指の大扇状地を潤し,穀倉地帯の近代化を支える。」「国土の歴史的景観に寄与しているもの」という理由で国登録有形文化財にダムとしては初めて登録されています。
この文化財指定での登録名称は「庄川合口堰堤(しょうがわごうぐちえんてい)」と、なっています。
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ダムの天端を歩けるようになっていますので庄川の貯水が間近に観られますし、対岸に渡ることもできます。
下流域は川留めがなく、また違った景観があります。。四季によって全く違った景観で、歩くと良さがよく解る散策路です。。右岸は砂利道で、訪れた時は、盛りを過ぎた彼岸花が咲いていました。。

2015.09.26

旧二万七千石用水 大水門


                         庄川合口ダム



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たまたま、仕事で国道304号線から富山との県境まで行く用事がありまして、時間もあるので南砺市から湯涌経由で戻ることに。。あいにくの小雨模様の天気でしたが、山裾からの砺波平野の緑が綺麗に観られました。もうしばらくすると紅葉の季節になるんでしょうね。 南砺市から山越えになる湯涌線に入ると、早くも所々で紅葉しかけた木々の葉が観られるようになっていました。この湯涌線にも色々と見どころはあるんですが、通り道にもなっている久しぶりのダムをご紹介しましょう。 ...続きを見る
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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
ぶらぶらお散歩に良いですね 景色もきれい  加賀藩は本当に後世に残る工事をたくさんされていますね 前田家のすごさを感じます
がにちゃん
2015/10/27 21:58
きれいだなぁ〜! 本当に「エメラルドグリーン」です!(「天然のバスクリン」状態? あれれ?「この色」をみて 「バスクリンの色」を決めたのかも?)
まだこもよ
2015/10/28 13:18
エメラルドグリーンの川、神秘的ですね。
僕は以前行ったカリブ海が、深いブルーなのにおどろきました。
あちらは砂の色のためみたいですね。
サンゴ礁がくだけた砂は白く、深いブルーの色を生み出しているようです。
ところで、庄川ちかくを走っていた鉄道って、なんですか?
家ニスタ
2015/10/28 22:44
がにちゃんさん
前田家の初期の統治は民衆の統制と支持を得ることが一番でした。なにせ、加賀、越中共に過激な真宗教徒が根付いていましたから、特にこの砺波・井波には瑞泉寺という北陸真宗発祥の地みたいな所ですから。。加賀藩草創期の利長・利常の努力は大いに評価できると思います。
つとつと
2015/10/29 08:33
まだこもよさん
(笑)確かにバスクリン状態^^
この上流にある小牧ダムから遊覧船があるんですが、その遊覧船でないと行けない大牧温泉という秘境の温泉があります。ちゃんと旅館があるんですけどね。バスクリンの川を掻き分けて船旅も良いですよ。
つとつと
2015/10/29 08:39
家ニスタさん
海外や沖縄のブルーは眼に痛いほどの碧さですから、海底の色が更に青さを増すんですねえ。。
庄川沿いに走っていた鉄道は、元々は小牧ダム建設のための資材運送鉄道だったんです。昭和6年(1931年)ダム完成後に観光鉄道として代替営業したんです。ただし客車は無許可営業だったようです。加越鉄道との協力で昭和13年まで営業していたそうです。ただ戦時悪化で廃線になったそうです。電化はされてなかったんで車両は蒸気もあったみたいですが気動車で、長く北陸地方鉄道の富山・宇奈月間や加越線を走ってました。
そうそう、僕の故郷の七尾線も気動車が主体で、福井の越美線もそうだし、北陸人の年配者は今でも鉄道を走るのは電車とか列車とは呼ばずに、ひっくるめて汽車と呼んでますよ^^;
つとつと
2015/10/29 09:33

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