高瀬神社 越中一の宮 のひとつ

庄川・井波がある旧砺波郡には越中一の宮と称する「高瀬神社」があります。帰り道にここにも立ち寄ってきました。
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全国には○○一の宮と呼ばれる神社があります。
越中一の宮とか加賀一の宮など○○一の宮は律令制時代の国割による令制国の一番社格の高い神社を指すとされています。二番目が二の宮、三番目が三の宮となるのが基本です。あるいは国府と共にある総社と呼ばれる神社を指すという人もいます。国ではなく神社名で白山一の宮とか立山一の宮などは、白山神社や立山神社などの序列を示す別種のものになります。

日本の律令制度は、日本史の授業では聖徳太子・天智・天武が手掛け、持統以降で完成、奈良時代からの荘園発生で破綻して武士の時代にはまるで消滅したように習わなくなります。ところが意外かもしれませんが、律令制は朝廷があることで連綿と続いていて、明治初期まで実は続いていたんです。律令制の基本は隋・唐の政治理念で「王土王民(臣)」「一君万民」、簡単に言えば天皇一人の前に国土と国民は服属し、天皇は万民に平等に仕置と報酬(日本では土地が主体)を分け与え、万民は平等に奉仕と税を天皇に捧げるという考え方です。
この理念を進めるために、律という高度な刑法と令というその他の法律や条令を持ってするという考え方です。天皇という最高の場所に一旦すべてを集めて、平等に地方に配分するというのが律令制の大きな考え方です。
つまり中央集権ということですね。ただ勘違いされやすいのは、律令制の基本は天皇対国民一個人が理念の主体で、天皇対団体という考えではないということです。

これを実践するためには、到底、天皇という一個人で出来るものではなく補佐する官僚が必要になります。また国民一人一人の把握には、国の人民の台帳というべき戸籍が必要となります。
この把握のために地区を定めて、効率的に把握して行くために国・郡・里が定められたわけです。里が大きくなって出現したのが町・村というわけです。
そのために全国を68の国(多少の時代変遷はありますが、奈良時代にはある程度固定しています。一部、壱岐国、対馬国などの島国は嶋として国に数えないという場合もあります。)を定めて管理を容易にしようとしたわけです。これが令制国というわけです。この令制国は、弘仁14年(823年)に最後の加賀国が誕生以来、連綿と続いて江戸時代まで続いて明治の廃藩置県が行われるまで続いています。

蛇足ですが、律令制の考え方は天皇が律を抑えていて、令を代行機関の官僚(朝廷)が行っていたと云えるのですが、時代が変遷して天皇に替わって、摂関家や武家政権が律(行政・裁判権)と軍事権を持つようになるわけですが、基本的には摂政・関白や幕府は律令の中の組織で、実態はどうあれ天皇から権限を委ねられて政治を行うという体裁をとっていました。院政は天皇の権限低下に対抗して天皇+法皇で皇室権限を強化しようとしたもので少し意味合いが替わります。実際には行政・裁判権・軍事権が幕府に代行されたまま、天皇が口出しできない状態でしたが、後鳥羽上皇・後醍醐天皇の武力行使はこの律を実質的に我が手に取り返そうとしたものです。幕末の明治維新の建前の尊王思想も同じことで、大政奉還はそれが成功したと思えば早いかも。

前述のように飛鳥末期から江戸幕府までは、律を天皇に替わって、摂関や幕府が代行していたという建前でした。そのため令制国もそのまま変えずに使用したといえます。
律令が江戸時代まで続いたというのはこのことからです。律令では一切の縛りを天皇に加えないものですが、これが正式に終焉したのは帝国憲法という天皇および国を縛る憲法が出来たことで終焉したと云えます。
ただ中央集権という機能の面では、地方分権が叫ばれる現代も大なり小なり変わっていないと思われます。
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話が小難しくなりましたが、日本には古くから神社が多く存在してきました。
国の成立前から存在するものも多く存在するわけです。神社は地元に深く浸透しており、国よりも根ざしていると云っても過言ではありませんでした。このため、都から派遣される国司(国守)の一番最初の仕事は、当国の有力神社への参詣と奉納でした。これは国内の情勢・人心安定のためにも必要不可欠だったのです。
この国司が一番最初に参拝する有力で社格の高い神社を総社とし、平安末期から鎌倉期には一の宮と呼ぶようになっていました。続いて訪ねる神社が二の宮、三の宮になって行ったと云われています。ちなみにこの順位宮数の最多だったのが上野国でなんと九の宮までありました。上野の国司はこの九つの神社を参拝するために、国内の外周を就任早々にぐるっと一周していました。ただ、上野国は皇統領の国の一つで、皇室の皇子が国司となる習わしがあったので、権威付の意味も大きかったようです。

ところが時代の変遷と共に、荘園や私有地が増え在国しない国司が増えて国府が消えたり、国政の中心地が移動したりで、それに左右され神社も興衰によって有力神社が変遷するようになると、総社も変わったり不明になったりします。また由緒書が不明になり本社がどこか解らなかったりで混乱が生じてきます。当然ですが、そうなると他の有力神社としては当国の一番とされる一の宮は自分だと主張するわけです。更には本社が無くなりそれを継ぐ論社が由緒から主張したりします。で、一の宮が複数存在する要因となってしまいます。

一例ですが加賀国の成立時には小松に国府が置かれていました。このため、総社は国府近くに在った石部神社(いそべじんじゃ)とされていました。ところが、白山社の神輿を繰り出して都に強訴した「涌泉寺事件(ゆうせんじ、安元事件)」によって小松国府が衰退すると石部神社も衰弱します。加賀藩政期に前田利常が小松に隠居した頃に一の宮が話題になり、由緒から石部神社を加賀一の宮にということになります。ところがこれに異議を唱えたのが、加賀最大規模で全国白山神社の総守りの白山比咩神社でした。このため今もって加賀一の宮は両社が並立しています。世間一般では加賀一の宮は白山比咩神社と思われていますが、実際には二社存在しています。また、下野国では我こそが本社と主張するのが、男体山を神体とする二荒山神社で、日光と宇都宮に分かれて下野一の宮として並立しています。
一応、僕の考えですが、一の宮は社格や由緒とは違い、その時代によって変わるものだと思っています。実質、その時代のトップが一の宮だと思います。一の宮会などという神社の集まりもあるそうですが、一種の人気・実力ランクのトップだと思います。まあ、一歩譲っても総社が一の宮かなあ。。でもこれが当てはまらなかったり総社が不明な所も多々。。

乱立や並立の一の宮がある国は15か国以上あります。もちろん、自ら名乗っている神社もあるんですが、歴史を紐解いてもはっきりしないものが多くあります。
その中でも本当に乱立と云った感じなのが阿波国(徳島県)と越中国(富山県)になります。一応、阿波国は一般には大麻比古(おおあさひこ)神社ですが、元々の一の宮・天石門別八倉比売神社(現在不明、身延山頂?)の論社の三神社が一の宮を主張しています。ですから阿波は実質は二社並立ともいえます。

ややこしいのが、今回の越中一の宮になるわけです。なんと越中にも同じく四つの一の宮が存在します。
阿波よりややこしいのは、この四つの神社が全て別系統の神社でそれなりの社殿と社格、人々の崇敬を受けているということです。しかも、どの神社もどっこいどっこいなんですよね。つまり、富山県人には申し訳ないですが、越中にはずば抜けた神社がなかったということに原因があるようです。しかも総社が不明なこともさらに拍車をかけています。

このサイトで書く以前に、ぐる旅で書いていたんですが、全国の一の宮を巡ってる人がいて、富山はややこしいけど、どれが本当の一の宮だと思う??と聞かれたことがあります。各神社は知っていたんですが、一の宮信奉者に対して一の宮は一種の総合ランキングでしょなどとは言えず、四社それぞれに規模、由来、社格順位、地元人気でそれぞれ違いがあって決定打がないけど、江戸期の加賀藩からの庇護と崇敬度合なら射水神社と答えた記憶があります。

越中の一の宮を主張する神社は・・・砺波市井波の高瀬神社、高岡市伏木町の気多神社、高岡市古城公園の射水神社、そして立山町の雄山神社

古代、越の国が分割されて越前・越中・越後国が出来ています。草創期は中世と違い、越前は現在の敦賀から以北の福井県と石川県を合わせた範囲、越中は現在の富山県と新潟の上越と中越の古志郡(刈羽郡、三島郡、見附も含む)・魚沼までの範囲、越後は中越北部と下越及び山形・福島の一部でした。7世紀末には、上中越は越後に編入され、替りに能登が越中に編入されています。この時点で、越中一の宮気多大社になっており、二の宮は射水神社になっていました。

養老2年(718年)に能登が独立しますが、天平13年(741年)に再編入され、天平宝宇元年(757年)に改めて能登国は越中国から独立分離しています。能登一の宮の独立がどちらの年かは不明ですが、天平20年(748年)に越中国司・大伴家持が気多大社を参拝していますから、正式に気多大社が能登総社(一の宮)になったのは天平宝宇年だと思われます。
気多大社が去った越中では一の宮が空位になったのですが、通常なら二の宮の射水神社が昇格するのですが、実際射水神社一の宮を名乗ろうとしています。ところが、越中国府があった伏木(現在の勝興寺境内)に、能登一の宮として独立した元越中一の宮の気多大社が国府の領域に分霊した気多神社を建立して越中一の宮を改めて主張したわけです。当初はこの二社が争っていたんです。ところが話が更にややこしくなったのは、伏木に在った越中国府が平安末期の一時期ですが礪波に移った時期があって、高瀬神社が総社となり、手を挙げて一の宮を僭称します。越中国府が改めて伏木に戻った後も、三社は越中一の宮は自分だという主張は引っ込めませんでした。
ただ、この三社の内で突出した存在があれば解り易いのですが、どれもソコソコの規模と社格を有していました。

越中は南北朝から戦国末期まで激戦区で突出した国守や大名がおらず分裂状態が続いたのが、尚更ややこしい物に拍車をかけてしまいます。また、越中には何と言っても山岳神を祀る立山信仰が根強くあります。南北朝以降にはこの立山信仰の中心となる立山山頂の峰本社、中宮祈願殿(前中宮寺)、前立社壇(前立山寺)の三社からなる雄山神社が台頭し、南北朝以降の文献に「越中一の宮・雄山神社」が散見されます。神社所縁が詳しく書かれた「神道集」などがこれに当たります。現代も立山登山や黒部観光が人気を博していますが、本来立山に登るというのは立山神に参拝するものとされていて、別種の確立された信仰になっていました。初詣や御来光を求める人出も、射水・高瀬に迫る15万以上の人を集めています。

一の宮ファンのバイブルにもなっている江戸時代の紀行文・神道文「諸国一宮巡詣記」というのがあります。これは江戸時代の神道家・橘三喜の著書なんですが、何と23年をかけて全国の一の宮を巡って書かれたものです。
この中では「砺波にも一の宮があるらしいけど解らなかった。。なので、射水と気多を観ました。で、立山の一の宮の雄山にも詣でました」となっています。このことから、雄山神社は立山神社の総守を表す一の宮という主張があります。しかし、立山信仰というのは越中を代表するし、その存在感は他を凌駕するものがあります。
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とはいえ、越中一の宮をネットで検索するとほとんどが「高瀬神社」で出てきます。県外の人には越中一の宮と云えば高瀬神社という印象が強いみたいです。

高瀬神社は社伝によれば、鎮座ははっきりしませんが、景行天皇11年(82年)とも云われています。景行天皇はヤマトタケルの父親になる人物ですから太古から存在したと推測されています。しかし、付近には縄文・弥生の遺跡が少なく、奈良・平安期の東大寺領跡と思われる高瀬遺跡、皇室領が存在していますから、鎮座は早くても飛鳥時代だと思われます。
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奈良・平安期の朝廷は射水神社と同等として扱っており、同年同日に同じ社格で上げられています。高瀬神社の名前は古くからあり延喜式にも載っていますが、以前紹介した日本の正式な国史と云われる六国史にも登場しています。まあ、ほとんどが位階のことばかりですが・・・
平安末期には正一位とされ、越中国内では射水神社と共に最高位の社格になります。国府が礪波に置かれた際が最盛期で、歓学院が300坊も置かれたと云われています。

戦国期はこの辺りは、一向宗の勢力圏の真っ只中で大きく衰退、多くの神職が近くの雄神神社に移り、大きく荒廃していたと云われます。藩政期になって、民政の安定のために加賀藩の援助と寄進があり大きく立ち直り、明治には県社となり射水神社の格下になりますが、地元の強い要望で国幣小社に昇格しています。現在は別表神社として射水・雄山神社と同等に扱われ、初詣では県内では射水神社と争う20万以上の参拝客であふれかえっています。

主祭神は大国主命(大己貴)、配神は天活玉命(いくたまのみこと)・五十猛命(いたけるのみこと、いそたける)になります。
この三神を祀る神社は前述の気多神社と同じになります。越の国では出雲系の大国主を祀る神社が多く存在します。神社の社伝では「御祭神(大国主)が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、、、、」と、なっています。
天活玉命は大和系の神様で生玉とも書かれ、高皇産霊神(たかむすび、タカギ)の四男で、天孫降臨の一人になります。人の命を活かす神として、医術などの神とされています。
五十猛命はスサノオの息子で林業・植物の神とされています。知勇兼備の神で性格が優しく、開運・厄払いの神とも云われ、神社では配神ですが、この神社の御利益とされるものは五十猛命のものばかりになり、ここでは一番の信心を受けています。
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北の方から神社に向かったのですが、神社に向かう道にはコンクリート造りの大鳥居があります。昭和60年(1985年)に、ゴールドウィンの創業者・西田東作が寄進したものです。ゴールドウィンはスポーツウェア・スポーツ用品の大手ですが、西礪波の津沢(現・小矢部市津沢)のメリヤス製造から始まった会社で、現在本社は東京ですが本店は小矢部にあります。鳥居の中に大祓詞が収められているそうで、潜る人の穢れを払ってくれるそうです。車で潜ったけどOKですかね。
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本殿は流造、神殿は入母屋造りの重厚なものですが、戦後の昭和22年(1947年)に建立され、昭和62年(1987年)前方にせり出す参拝の屋根のような向拝殿が増築されています。
この戦後の建立には曰くがありまして、昭和17年に国費で旧本殿を移して数年計画で新本殿の建築が進められていました。しかし、戦費悪化で基礎工事のままでストップしたまま戦後を迎えましたが、GHQから国費が取り消されてしまいました。しかし、各地の砺波出身者などの寄進によって社殿が建立されたものです。
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本殿横に功霊殿という戦死者や功労者の御霊社がありますが、こちらが旧本殿になります。
天保7年(1836年)に建てられたもので、流麗な井波建築の造りと彫刻が施されており、南砺市の文化財に指定されています。
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境内に入るとひときわ目立つのが手水舎です。通常の神社に比べその大きさが目立ちます。昭和45年に伊勢神宮から下付された物で伊勢神宮では禊場(みそぎば)として使われていたものです。手水石は新潟の只見川上流から採れた自然石を使用しているそうです。
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高瀬神社の社域は越中一の宮を称するように大きな社域を誇ります。熱心な地元出身者などの寄進に支えられ、大木の名木、北陸に多く観られる豊穣を祈願して行われる相撲の土俵さざれ石、献茶祭が行われる茶筅塚などが散在しています。

少し残念なのは、結婚式場やパーティ会場も行う、社務所兼会館がコンクリート造りで神主の住む官舎もモダン鉄筋コンクリート造りで立派過ぎ。。和風の荘厳さを損ないそうで違和感がありすぎることですかね。。でも、家族のイベントや家屋にはお金を惜しまない富山では致し方ないかも
家屋と云えば、この砺波には田園の中に、単独で家屋が建つ散居村が多くあるところです。単独で散らばって建つため防風の為の大木や土蔵が家屋と共にあり特徴的な造りです。
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まあ、たった一日であっちこっちと引きずり回された嫁さんと娘には、お礼かたがた、新しくオープンしたアウトレットパーク北陸小矢部に寄り道。。雪国初のアウトレットということで、雪対策で全館屋内店舗になっていました。まあ見事に全館をぐるっと歩かされました。嫌いじゃないけど、キャッキャッ言いながら店内に入って出て来ない二人を、ラフ(バタバタ)な格好でベンチや通路で待つおじさん独りは非常に目立つこと請け合い。。通り過ぎるお洒落に頑張る女性陣に好奇な眼でジロッと見られ、だんだん体が縮こまっちゃった僕^^; メンズは定番がほとんどでつまんないし。。のんびり観れない僕^^;
このアウトレットには観覧車もあるんですが、高い所が大好きな僕としては是非乗りたかったんですが、高所恐怖症の二人には全面拒否
当分、乗れそうにないなあ。。一人じゃ寂しいし。。ハア~~~(溜息)

旅行日 2015.09.26

高瀬神社

                          小矢部アウトレット

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この記事へのコメント

  • まだこもよ

    私も「高所恐怖症」です! (前に・・・観覧車乗って・・・手に汗をかきまくりで・・・子供たちに笑われました!)
    2015年11月09日 17:13
  • がにちゃん

    写真  突然 時代がワープしたのかと・・・
    一宮 凄いと思うものから これが・・・と思うものまで土地によっていろいろありますね  気多神社はいきました 立派な神社でしたね
    2015年11月09日 17:58
  • つとつと

    まだこもよさん
    観覧車はおじさん1人では寂しいし恥ずかしくて難しいですねえ^^;
    僕は高い所はけっこう平気で好きなんですよ。真下を観れば、誰でも怖いでしょうが、遠くを見ると綺麗ですよ^^
    2015年11月10日 14:14
  • つとつと

    伏木の気多神社観られたんですか、あそこと勝興寺の境内に越中国府があったそうです。そうなんですよ、一宮もいろいろあるんですが、これがというのも結構ありますねえ^^;
    がにちゃんさんの山城の一宮は上下賀茂神社でやはり並立ですが、賀茂神社で統一してるそうです。面白いですねえ^^
    2015年11月10日 14:30
  • 家ニスタ

    一の宮が4つもあるとはすごいですね。
    たしかに一の宮の制定過程にも、あいまいなものがあるでしょうから、“自称”一の宮が入りこむ余地もありますよね。
    しかし一の宮を絶対視している人に、「一種の人気ランキング」とは言いづらいですよね。
    2015年11月10日 22:40
  • つとつと

    家ニスタさん
    一の宮は公的な呼び名ではないそうですが、神社の近くの地名には所縁の名が多く散見されますから、やはり影響力は大きかったようです。
    でも、これだけ多いと本当は?と思う人も出てくると思うんですよ。
    グル旅の時の方も信奉者の一人で、全国の一宮巡りで9割廻っていたんですが、さすがにそんな失礼なことは言えませんでした。でも、そのかたも越中は高瀬神社と思って富山を訪れて、帰って調べたらまだ3社あると知って驚いてました。あげくにしいてあげれば射水だと僕に云われ、また富山行かねばと嘆いてました。四国で勤めの間に廻ってるそうだからタイヘンーー;でも、明治以降の新一の宮(北海道、樺太、台湾)もまわるって言ってましたから凄いですねえ。
    2015年11月11日 09:37
  • go

    こんにちは、一宮と言えば現在の県にあたる国に一つと思っていましたが、地方政権の衰退により、一つの国と思っている地方がある時代には実質二つの国に分かれていた時代にそういった複数の一の宮が生まれたり、混乱に乗じて、我こそは一の宮と唱える神社が出来た様ですね。
    加賀の国の一の宮は白山さんと思っていたら小松の石部神社も一の宮の時代があったんですね、初めて知りました。
    越中の国は複数の一の宮が存在し、しかもずば抜けた格上の神社が存在しないとなると、なおややこしくなりますね。
    2015年11月12日 17:04
  • つとつと

    goさん
    加賀では、10人いたら9.9人がそう思ってると思いますが、石部神社も一の宮で、加賀一の宮は二つ存在するそうです。ちなみに二の宮は大聖寺の菅生石部神社ですから、石部神社としては負けられないみたいです。
    越中もずば抜けた物がないと云っても四社ともけっこう大きな社殿を構えていて、興味深いです。僕は雄山神社の峯本社がまだ未訪で、ぜひ一度訪れたいと思っています。中宮祈願殿、前立社壇は元々は寺院ですから、一番肝心なのを観ていないんですよ^^
    2015年11月12日 18:42

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  • Excerpt: 前回紹介した大聖寺関所から東に向かうと、菅生交差点で三叉路になります。南に向かうと加賀温泉郷の山中温泉や山代温泉への街道だった国道364号線になり、北に向かうと北国街道の本道となる県道145号線になり..
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