山ノ下寺院群② 実性院

前回ご紹介した山ノ下寺院群の一番南端に在るのが実性院になります。
この実性院大聖寺藩主の歴代の菩提寺になります。実性院は前の庭園に萩の花が咲くことでも知られています。9月初旬には白い花が咲き乱れて美しい姿を見せてくれます。
残念ながら訪れたのが10月で遅れてしまったので花は観られずでした。来年は9月にこちらに来る予定なんで、忘れずに寄るつもりです。今回は駆け足ということもありましたが、けっこう撮ったはずの画像が抜け落ちているんで、リベンジも含めて。。。。というわけで、画像は少ないですが、ご容赦ください。。
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寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常は隠居して相続分けの形で、次男・利次に富山10万石、三男・前田利治に7万石を分藩しています。加賀藩の東西を扼するもので支藩としての防衛拠点を造るのが主眼となっていました。前田利治は21歳と若く、隣の小松20万石には隠居領として父・利常が入っており、当初は利常が利治を後見指導する腹積もりだったようです。藩主が若く、菩提寺や墓所は当然ながら当初は存在しておらず準備もされていませんでした。
正保2年(1645年)に加賀藩主・前田光高が急死したため、3歳の綱紀の養育と後見に復帰していた前田利常が万治元年(1658年)に亡くなり小松は加賀藩領に復しましたが、その翌々年に大聖寺藩初代の前田利治が江戸屋敷で43歳の若さで亡くなっています。利治には出羽米沢藩上杉家から徳姫が正妻として入っていましたが子供がなく、異母弟・利明(22歳)が前年に養子となっており2代藩主を継いでいます。

当時の慣わしで江戸で亡くなった藩主は亡骸をそのまま当国まで運ぶことになっていました。菩提寺がない大聖寺藩では、利治の亡骸を大聖寺市街の北方の一本橋近く(現・大聖寺岡町)の霊光山・宗英寺で葬儀を行ない火葬にして仮安置しています(江戸から運ばれたのは遺骨という説もあります)。その跡地は現在も灰塚跡として存在します。その縁から利治の法名「実性院殿機雲宗用大居士」から金龍山・実性院と改めています。翌年の万治4年(1661年)に現在地に寺院を建立して移転し、改めて利治の墓所を造営しています。その後、大聖寺藩主菩提寺・墓所として初代から14代の藩主が祀られています。
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前身の宗英寺は寛永18年(1641年)前田利治の家臣・玉井市正が金沢で帰依していた通外祗徹大和尚を大聖寺に招き庵を結んだのが始まりで、正保元年(1644年)通外祗徹が亡くなった際に弟子の天柱響補を招いて寺院を開創しています。玉井市正の父親の法名から宗英寺と名付けた寺院でした。
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実性院は、市の広報によれば、木造平屋建、寄棟、桟瓦葺、正面千鳥破風、玄関屋根軒唐破風、桁行13間、建築面積493.3㎡。本堂は創建以来の物ですが何度も整備・修築を受けているようです。左右の庫裏・書院は江戸後期のものです。立派な山門が存在したのですが、昭和23年(1948年)の福井地震で崩壊して再建はされていません。

実性院は曹洞宗特有の回廊で建物が繋がれています。ただ、曹洞宗特有の派手な戒壇が観られず(見逃したかも。。)本尊の釈迦牟尼仏が目立つ感じです。また座禅堂十六羅漢堂に像が置かれている程度です。しかし泉水式の庭園を長い書院座敷・縁側廊下から眺められるようになっており、明暗の中に建物に陽が射しこむように演出されており、庭園が冴えて見えるように演出されています。奥書院は謁見の間になるそうですが、加賀藩のような派手さはなく質実剛健と云った感じです。
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御霊屋はそれ程大きくはありませんが、加賀藩では本尊などがある戒壇の裏に位牌所があるのですが、大聖寺藩では別棟として位牌堂を建てています。本堂奥から入れますが堂の奥一面に藩主や一族の位牌が並べられています。特に初代藩主・前田利治の位牌は大きく中央上段に安置されています。前田家は明治になって、仏教から神道に宗旨が変わっている為、実性院の位牌所の主役は藩政時代の人達になります。
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窓などは無く陽光が差し込まない為、襖に施された装飾画は保存状態が良好です。金箔地の上に描かれた孔雀画や雉画、梅図も格調高く幽玄さを引き出しています。
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加賀藩の前田家墓所と同じく、大聖寺藩も藩主の墓が一か所に集められています。
実性院の左手から御霊屋を右手に観ながら参道を登って行くのですが、下方には一族子女・重臣たちの墓地があり、山頂に藩主墓所があります。

加賀藩の前田家墓所を観たことがある人には解ると思いますが、野田山の墓所は初代の前田利家を始め正室の墓は入口に鳥居を置き、円墳や方墳を思わせる土饅頭の形態になっています。加賀藩政期には墓所には墓を包むように建物や遥拝所、墓塔があったのですが、前述のように宗旨替えによって仏式の建物や遥拝所、墓の上の墓塔を撤去して現在の形になったと云われています。現在の加賀藩主の子孫も同じ墓所に葬るので形態を神式に変えざる負えなかったようです。
同じ墓所内でも、寺院が管理している豪姫の墓や村井長頼の墓は五輪塔になっているのが良い例です。また、高岡の前田利長墓所にも墓塔があり、野田山に墓塔がないのは明治の宗旨替えがやはり大きかったようです。
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大聖寺藩主の墓所も、加賀藩の野田山墓所と同じく一か所に集められています。この形態は前田家特有のもので大名家でも特筆ものです。
野田山と大きく違うのは、墓の形態が変わった形ですが五輪塔を模している所です。土台部を石垣作りにして、その上に五輪塔を載せた形になっています。これは江沼神社の拝殿・神殿と同じ造りです。
五輪塔は仏教のストゥーバや五重塔が変形したとも云われていますが、日本特有の物だとも云われています。
この五段で宇宙を表していて、上から空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)となっています。
仏式のまま残る大聖寺藩主墓所は、江戸期のままの形状をそのまま残しており、貴重な存在と云えます。
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墓所内でも最大の墓が初代・前田利治で入口から奥の北西角に位置しています。
後方に正室・徳姫があり、下手に利治死後に殉死した三人の家臣が同じ形で建てられています。この墓所内で歴代藩主、正室の墓以外の者はこの三人になります。一応名前・年齢・殉死場所を挙げると、中川久兵衛(35歳、全昌寺)・小沢三郎兵衛(49歳、信州寛慶寺)小栗権三郎(22歳、久法寺)。この三人は利治配下の四天王として草創期を助けた人物です。ちなみに、四天王の一人で殉死をせず、藩政を2代・利明に繋いだ青山新右衛門の墓は墓所への最後の階段参道の途中にあります。殉死はこれ以降は禁止されています。
前述のように歴代藩主を表側に、その真後ろに正室の墓が置かれていますが、初代を除いて藩主墓と正室墓の形状と大きさは同じくらいになっていて興味深いものがあります。

さて、禅昌寺のブログでポロッと書いてしまい、歴史に鋭い家ニスタさんに興味を持たれてしまいましたので、補記ということで。。。「駄目藩主が多い大聖寺藩主の中でも、、金沢の本藩は、外様最大の大名でありながら、維新まで家を永らえたのですから、優秀な藩主ばかりだったと思うのですが、本藩と支藩でもやっぱり違うのですね」。。もちろん、全員とは言いませんが。。順番に歴代藩主を紹介して行くと。。

初代・利治(としはる)・・・加賀藩三代藩主・前田利常の三男。大聖寺藩開祖。利常は息子たちへの素養教育には厳しく当り、後見した5代藩主・綱紀を含め後継には名君と呼ばれた人材が揃っていました。利治も素養・実行力共に強く、隣の小松に父が居たことも大きかったと云えます。
江沼は橋立などの漁港も抱えていましたが、山間地が多く7万石という石高は妥当な石高ですが大きく伸びるものでもありませんでした。第一課題は経済力の強化でした。山間地が多いことから鉱山開発に乗り出し、九谷鉱山の金鉱銀鉱の産出に成功しています。この九谷鉱山の開発中に良質陶土が発見されて、利治自身茶人として知られていることから、茶碗や皿に造詣が深く古九谷に繋がって行きます。肥前有田に錬金師・後藤才次郎(後の古九谷の祖)を派遣修学させたのも利治になります。
また大聖寺の中心地は大聖寺川、熊坂川が入り組んでおり、氾濫にも悩まされる地でした。利治は土木工事を計画実施しています。しかし、前述のとおり、43歳の働き盛りに江戸屋敷で病死。道半ばの事業のほとんどが2代・利明に託されています。

2代・利明(としあきら)・・・加賀藩三代藩主・前田利常の五男。同じく、利常の薫陶を受けて育っています。兄が残した事業のほとんどを引き受けて完成に導いています。用水路の完成・新田開発の他にも産業の創出など富国政策に腐心しています。現在の加賀紙や工芸などの伝統工芸の多くは利明の事業を発祥にするものがほとんどです。大聖寺では一番の名君と云われています。

前記二人の藩主の治世は半世紀ほどになりますが、この二人の兄弟によって、幕末・明治まで存続した大聖寺藩が生き残った基盤が造り上げられたと云えます。
しかし、三代以降はこの基盤に胡坐をかいた形で、英明な藩主が出そうになっても若死で、加賀藩からの養子が多く続いています。、、、、その後は実質の石高も経済も衰退はすれど、伸びることはなく幕末まで続いています。

3代・利直(としなお)・・・利明の長男。能力はあったようで5代将軍綱吉には大きな信頼を受けて、外様小藩主としては異例で譜代扱いの厚遇を受け、江戸城奥詰の要職についています。
反面、江戸詰が長期に渡り藩政は家臣任せとなり、新旧派閥の家臣の軋轢が激化し抗争に発展しています。
結局、この内部抗争は本藩の加賀藩の裁定と介入で収拾しましたが、これ以降は藩の決定事項はいちいち本藩に頼る体質が出来上がってしまいました。更に、後継として分藩した利昌が将軍法会で刺殺事件を起こし、廃藩切腹という混乱で失意のまま亡くなっています。

4代・利章(としあきら)・・・加賀藩5代藩主・綱紀の五男。男子のなかった利直の養子となっていました。俗にいう完璧な放蕩息子で、江戸から遊郭に入れあげて浮名を流しています。実父の綱紀からも何度も諫言されていますが云うことを聞かずに終わっています。当然、藩政もほったらかしで財政を逼迫させ、更に幕府からの江戸城修復工事の命を受けて財政を瀕死状態にし、凶作による藩内全域の農民が蜂起した正中の一揆を招いています。この正中一揆には一揆側に全面妥協と本藩の援助で切り抜けています。

5代・利道(としみち)・・・利章の長男。大聖寺藩史で一番長い治世33年ですが目立った功績は無く、逆に幕府からの東海道の普請工事に失敗して、やり直し工事をさせられて財政を逼迫させています。更に領内で災害が頻発、財政悪化を助長しています。長い治世ですが、改善策もなく無為に終わっています。

6代・利精(としあき)・・・利道の次男。4代利章は放蕩息子でしたが、滅茶苦茶なのがこの人物。遊郭通いで女狂い。無頼で徒党を組んで市中を暴れて廻る。諫言する家臣団・本藩も無視。この為、本藩によって無理やり監禁され、病気として強制隠居させられています。

7代・利物(としたね)・・・利道の三男。強制隠居の利精の子供が幼いために、急遽、藩主に。政治正常化に努めますが、天明の飢饉に遭遇。更に藩財政悪化。治世6年の29歳で若死。

8代・利考(としやす)・・・利精の長男。父親とは正反対の秀才で、藩内の綱紀粛正、質素倹約での財政建て直し、文武の奨励、藩政の建て直しを目指しそれなりの実績を残しつつありました。大聖寺藩では初代以来の名君とされています。治世8年、27歳の若死。

9代・利之(としこれ)・・・利物の三男。8代が建て直しかけた大聖寺藩を台無しにした人物。文芸や芸術に才はありましたが、実務には疎いタイプ。当時の大聖寺藩の7万石は表高を裏高が下回り赤字状態でした。
当時、幕府では10万石以上で城持ちとして、格式や扱いが大きく変わっていました。これは座る位置や控えの間も違うわけです。気位の高い利之はこれが我慢ならず、本藩を通じて10万石に石高を高直しをしました。この時から大聖寺10万石となったわけです。
ちなみに、+3万の内訳はまだ開発もしていない新田の石高1万石、加賀藩からの援助米2万石(元々援助していたものを表に出しただけ)。加賀藩の援助は徐々に滞り、いつしか金300両だけになっていました。完璧な粉飾決算ですね。これだけでも大聖寺藩の実態が透けて見えます。
ところが表高を10万石にしても実収入が増えるわけではありません。確かに城持ち扱いとして格式の扱いは高くなりましたが、逆に幕府からの軍役負担や普請事業が増え財政逼迫をもたらしてしまったわけです。

10代・利極(としなか)・・・利之の次男。治世1年半で若死。27歳。

11代・利平(としひら)・・・利之の六男。財政逼迫を憂いて、倹約政策を進めています。10万石を元の7万石に申請して、藩邸の売却を計画しましたが、対面重視の本藩の反対で挫折。27歳で若死。

12代・利義(としのり)・・・加賀藩13代藩主・前田斉泰の三男。治世6年、23歳で若死。

13代・利行(としみち)・・・加賀藩13代藩主・前田斉泰の五男。子のない利義の養子に入りましたが、利義の死から2か月後に急死。20歳。この死は幕府・将軍の御目見え前で本来なら断絶廃藩の対象になります。この為、加賀藩主・斉泰は利行の死を隠して2か月前に藩主に就任したことにして七男・利鬯(としか)を養子として名代にして御目見え報告させています。その3か月後、大聖寺藩の参勤交代の出府の道途中で利行が病死したことにして、利鬯を末期養子として後継にしています。つまり、死んだまま藩主となり治世半年という架空事実を作ったわけです。

14代・利鬯(としか)・・・大聖寺藩最後の藩主。幕末は佐幕派として活動して天狗党の乱、禁門の変に係っています。特に天狗党が投降した際に、藩内に収容しており、「投降した者には尊王も攘夷も関係ない」として、扱いは丁重だったとされています。しかしこの厚遇が関東兵・彦根藩の反感を買って捕虜送還を強要され、敦賀に投降者を移されています。最後まで佐幕方針でしたが、伏見の戦いで幕軍が敗れると官軍に従い、北越戦争に参軍しています。その時に、資金調達のために偽銀作りをしており(パトロン事件)、その跡が大聖寺城の登り口にあります。
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ながながと歴代当主を書き並べましたが、初代・二代を除いて大聖寺藩は財政に苦しんだ藩政でした。大藩の支藩として気位が高く、本藩に頼り切る傾向が目立ちます。初代・二代が手掛けた殖産も大きく発展できず、江戸期を通じて実質の収入は増えていません。特に9代以降には財政を加賀藩に頼る傾向が強く、加賀藩の意向に逆らえず、藩の事項は全てお伺いを立てるという体たらくでした。また後半は藩主の若死にが多く、加賀藩から養子が続いて独自性を失う局面が強まっています。
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悪口が過ぎてしまいましたが功績もあります。その第一が九谷焼です。初代・利治が陶土を発見し、利治死後に有田から戻った後藤才次郎が創始した九谷焼(古九谷)は、利明の後援もあって芸術的な色絵磁器として人気を博しましたが、素地の色が暗く傷が入りやすい欠点があり藩の財政難で50年ほどで姿を消しています。それから約100年後の文化年間、吉田屋伝右衛門吉田屋窯を開きましたが、やはり資金難と彼の死で7年で終窯しています(再興九谷)。しかし、この吉田屋窯の挑戦は無駄ではなく、大聖寺藩が正式に乗り出した宮本屋窯・松山窯・九谷本窯から現代の九谷焼の発展に繋がっています。
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旅行日 2015.11.03







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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    綺麗に残っていますね  見ごたえあるのでしょうね
    九谷焼 素敵です
    質実剛健 見栄を張ってはいけません(笑)
    2015年12月02日 17:05
  • つとつと

    御霊屋は初めて入ったんですが、襖絵は間近で観ると美しかったです。
    実性院はやはり9月初旬がベストです。お寺巡りのスタートにもってこいの所で、機会があったら、ぜひ立ち寄って観て下さい。どのお寺も特徴があって面白いですよ。
    旧大聖寺川では遊覧できる舟にも乗れるし、時間がゆっくり動いているように感じられます^^ 
    九谷焼の発祥の町ですから、加賀温泉、大聖寺、能美・小松は九谷の町と云っても過言じゃありません。窯によって全く違う色彩も九谷の特徴です^^
    2015年12月02日 18:45
  • 家ニスタ

    五輪塔は日本独自のものなのですか?
    たしかに、インドや東南アジアのストゥーパとは、だいぶ形が違っていますね。
    2015年12月03日 22:25
  • つとつと

    家ニスタさん
    インドや東南アジアのストゥーパは日本では経典の入れ物になった感じですが、言葉は板卒塔婆になったみたいです。中国・韓国までは仏舎利の器や信仰の対象ですが、日本では慰霊の対象に変形してます。神仏習合でどんどん変形したのが日本の仏教の特徴みたいですから
    2015年12月04日 00:35
  • まだこもよ

    「この焼き物 綺麗だなぁ〜」と思っても TVの「鑑定団」で 見てもらうと「偽物」もしくは「価値が低い」だったりする事がありますね! 「焼き物(骨董品の?)」は 素人には わかりません!
    2015年12月04日 13:30
  • つとつと

    まだこもよさん
    (笑)よっぽどの研究家でないかぎり、本物か偽物かなんて解るわけないじゃないですか。専門家でも間違うときは間違いますから^^;
    焼き物は、観ていいなあ~~と思ったものが、髙かろうが安かろうが、良い物はいい物だと思いますよ。
    九谷焼は作者によって、彩色や表現がまるっきり違うのが良い所、買うには高すぎますが、観るには良いですよ、、、大聖寺・寺井・小松には展示場も多いから機会があったら鑑賞して観て下さい。
    2015年12月04日 22:32
  • minoc

    位牌堂薄前襖絵に思わず見入りました。
    やはり、光琳、宗達系統の蒔絵となるのでしょうか。

    資金調達のために偽銀作りをしていた跡などは、乱世の時代を感じさせます。
    2015年12月07日 12:58
  • つとつと

    minocさん
    コメントありがとうございます。
    御霊屋の襖絵は宗達の流れのようです。作者ははっきりしないんですが、、
    宗達は後半生がハッキリしないんですが、墓所も京都と金沢にあります。金沢の高円寺の墓と台帳が正しければ、利治の死の20年前に宗達は亡くなっています。そうすると弟子筋となりますし、前進の宗英寺の移築なら年代的に合うのですが。。
    孔雀や雉の眼の鋭さは宗達の関係するのは間違いないようです。
    2015年12月08日 11:01

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